国名 オーストリア共和国
英語 Republic of Austria
首都 ウィーン
独立年 -
主要言語 独語
面積 (千Km2) 84
人口 (百万人) 8.5
通貨単位 ユーロ
宗教 カトリック約63.1%、プロテスタント約3.55%、イスラム約6.8%
主要産業 機械、金属加工、観光
 地理  
領土は東西に細長く、西部はアルプス山地に、東部はドナウ川流域低地に属するが、
ほぼ4分の3は山地である。

土地利用では、森林が約3分の1、山岳部の不毛地約8分の1、残りが農牧地である。
農牧地のうちでは、牧草地および山地牧場が過半を占める。

就業構造では、鉱工業、商業・サービス業の比率が高い。
鉱業は岩塩、銅、鉄などの資源に恵まれ、古くから盛んであるが、工業生産の増大に
伴い原料を外国に依存するようになった。

工業では鉄鋼業、織物業などの近代工業のほか、伝統的な手工芸にも特色がある。
またチロル地方やウィーンなど世界的な観光地を有し、観光産業も重要。

内陸水運や鉄道、電力事業、鉄・非鉄金属の鉱山や製錬所、主要な機械工業
などは国営である。













ハルシュタット(Hallstatt)
オーストリア中北部、ザルツカンマーグート地方の町。
ザルツブルクの南東約 50km、ハルシュタット湖畔に位置する。
BC 1100年からBC 450年にかけて栄えた鉄器文化、ハルシュタット文化の中心地として知られる。

また、BC 6世紀から塩坑(岩塩採鉱坑)の町として栄え、町名も「塩の町」に由来。
同地方のダハシュタインとともに 1997年、世界遺産の文化遺産に登録された。

歴史
375年 フン族の東進、ゲルマン民族の大移動開始
486年 クロービス、フランク王国を建国。(メロヴィング朝)
751年 小ピピン即位。カロリング朝成立
768年 カール大帝即位
800年 カール大帝、ローマで戴冠
843年 ヴェルダン条約、フランク王国3分割。(仏・伊・独の基)
870年 メルセン条約、ロートリンゲンの東半分が東フランク王国領となる
911年 東フランク王国でカロリング王朝断絶
962年 オットー1世、ローマ皇帝として戴冠。(神聖ローマ帝国成立 -1806)
973年 オットー2世即位(-983)
976年 バーベンベルク家のレオポルト1世が辺境伯領オストマルクに封ぜられる
1155年 ハインリヒ2世が、ウィーンに居城を構える
1156年 ハインリヒ2世が公爵に昇格。オストマルクはオーストリア公国(1156-1457年)となる
1457年 オーストリア大公国成立(1457-1804年)
1246年 フリードリヒ2世が戦死。バーベンベルク家断絶
1273年 ハプスブルグ家のルドルフ1世が、ドイツ国王(神聖ローマ皇帝)に選ばれる
1278年 マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカルを破り、オーストリア全土を獲得
1254年 大空位時代(1254-1273)
1519年 ハプスブルグ家のスペイン国王カール5世(カルロス1世)が神聖ローマ皇帝を兼位
1618年  三十年戦争(1618-1657年) 
1683年  オスマン帝国のウィーン包囲 
1701年  スペイン継承戦争 
1740年  オーストリア継承戦争 
1756年  七年戦争 
1804年  オーストリア帝国成立(1804-1867年)
1866年 プロイセン-オーストリア戦争で敗北
1867年 オーストリア・ハンガリー帝国成立(1867-1918年)
1914年 第一次世界大戦。サラエボ事件。セルビアに宣戦布告
1918年 敗戦によりハプスブルク家崩壊
ハンガリー、チェコスロバキアがそれぞれ独立、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアにも土地を割譲
1918年  オーストリア共和国成立(第一共和国)(1918-1938年)
1919年  サンジェルマン条約調印(オーストリア・ハンガリー帝国解体)
1938年 ナチス・ドイツに併合される
1945年 第二次世界大戦後、米ソ英仏に分割占領される
1955年 国家条約により、独立の中立国として主権を回復
1955年  オーストリア共和国成立(第二共和国)(1955年-)



976年、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世により、バーベンベルク家(House of Babenberg)のレオポルト1世(在位:976-994)が、マジャール族(ハンガリー人)に対する辺境伯領オストマルク(Ostmark)に封ぜられる。

1155年、ハインリヒ2世 (在位:1141-1156)が、ウィーンに居城を構える。
以後ウィーンはオーストリアの首都となった。

1156年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世により、ハインリヒ2世が公爵に昇格。
オストマルクはオーストリア公国となった。

その後、バーベンベルク家の領土は繁栄を続け、レオポルト6世(在位:1198-1230)の時代に最盛期を迎える。
1246年、フリードリヒ2世(在位:1230-1246)がハンガリーとの戦いで戦死したことにより、バーベンベルク家は断絶。

バーベンベルク家の断絶後、ボヘミア王オタカル2世(Ottokar II)は、バーベンベルク家との政略結婚により、バーベンベルク領を手に入れ、広大な領地を支配した。

1273年、ハプスブルグ家のルドルフ1世が、ドイツ国王(神聖ローマ皇帝)に選ばれると、マルヒフェルトの戦い(Battle on the Marchfeld)でボヘミア王オタカルを破り、バーベンベルク全土を獲得した。

神聖ローマ帝国においては、皇帝の選出は有力諸侯の選挙で決まっており、「7選帝侯」という7人の諸侯の手にゆだねられるようになっていた。

1254年、神聖ローマ皇帝コンラート4世(在位:1250-1254)が没し、ホーエンシュタウフェン家(Hohenstaufen)が断絶すると皇帝が存在しない大空位時代(1254-1273)が訪れた。

当時、ボヘミア王は最大の力を持つようになっていたが、他の選帝侯はボヘミア王国の力がこれ以上強大になることを嫌い、スイスの小さな諸侯ハプスブルグ家のルドルフ1世(Rudolf I)を神聖ローマ帝国皇帝に選んだのである。



ハプスブルグ家は、これ以降、神聖ローマ帝国皇帝位を独占する一方、結婚政策で領土を拡大。

1519年、ハプスブルグ家のスペイン国王カール5世(カルロス1世)が神聖ローマ皇帝を兼位したため、領土はスペインまで広がった。

カール5世から神聖ローマ皇帝の地位を継承したオーストリア系ハプスブルク家は、帝国内で激しく対立する旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の対応に悩まされる。
 
1618年、カトリックとプロテスタントの対立は頂点に達して、プラハで三十年戦争(1618-1657年)が勃発。

1619年に皇帝に即位したフェルディナント2世は、カトリックの総帥としてプロテスタントを徹底的に弾圧した。
 
親戚にあたるスペインの援軍を加えたハプスブルク家の軍隊はボヘミアのプロテスタント勢力を一掃。
続いて、三十年戦争に介入してきたデンマークやスウェーデンなどの外国勢力にも勝利する。

しかし、最終段階でフランス軍が介入したためにプロテスタント勢力が勢いを盛り返してしまい、1648年に不利な条件でウェストファリア条約を締結。

この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、ハプスブルク家はオーストリアとその西方を領有することになった。

1683年、レオポルト1世の治世にウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲される。
ウィーンは陥落寸前まで追い詰められたが、ポーランド王ヤン・ソビエスキが率いる援軍によって防衛に成功。

これを機に反撃に転じたハプスブルク家の軍勢は、名将プリンツ・オイゲンの指揮のもとで勝利を重ね、ハンガリーからトルコ軍を追い払う。







オーストリア系ハプスブルク家が勢いを盛り返す一方で、スペイン系ハプスブルク家は1700年に断絶してしまう。

その結果、スペインに属する広大な領土を巡って「スペイン継承戦争」が勃発した。

(スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1714年)
スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対オーストリア、イングランド、オランダ間で行われた戦争。
スペイン王カルロス2世が王位をルイ14世の孫、フィリップ(フェリペ5世)に遺して1700年に没すると、オーストリアら3国は同盟を結び、フィリップの王位継承に反対した)

レオポルト1世と彼の長男ヨーゼフ1世は、二男のカールを次期スペイン王に推し、ライバルのフランスはルイ14世の孫フィリップを次期スペイン王に推す。
 
イギリスやオランダを味方につけたハプスブルク家は優勢に戦いを進めたが、1711年、ヨーゼフ1世が後継者を残さないまま亡くなってしまう。

カールはオーストリア系ハプスブルク家を相続してカール6世を名乗ることになり、スペインの王冠はブルボン家の手に渡ってしまう。

スペインの相続には失敗したが、ネーデルラントやハンガリーの獲得など、レオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世の三代を通じてオーストリア系ハプスブルク家の領土は最大に膨れ上がった。

カール6世には男子の後継ぎがいなかったため、ハプスブルク家の家督はカール6世の娘マリア・テレジアが相続した。
しかし、周辺諸国は彼女の即位を認めず、7年に及ぶオーストリア継承戦争が勃発する。
この戦争で、ハプスブルク家はプロイセン王国のフリードリヒ2世にシュレジエンを占領される。

オーストリア継承戦争の終結後、マリア・テレジアはシュレジエンの奪回に執念を燃やす。
プロイセンの強力な軍隊に対抗するために国家の改革に乗り出し、家柄にこだわらない優秀な人材登用をはじめ、義務教育制度の導入や医療制度の改善、税制の見直しなどを実施した。
 
さらに、外交面では三十年戦争やスペイン継承戦争で干戈を交えたフランスと同盟を結ぶことに成功。
こうして万全の体制を整えたマリア・テレジアは1756年に勃発した七年戦争でプロイセンを滅亡寸前まで追い込み、周辺諸国にオーストリアの実力を認めさせた。



マリア・テレジアの改革は彼女の息子たち(ヨーゼフ2世とレオポルト2世)にも受け継がれ、オーストリアは近代国家へと生まれ変わった。


しかし、18世紀には、帝国内にプロイセンの台頭を許し、19世紀初頭、ナポレオンの圧迫下で、神聖ローマ帝国の帝位を放棄、オーストリア帝国を称することとなった。

ナポレオンの没落の際、ヨーロッパ外交の主導権を握ってウィーン会議を主催、保守的なウィーン体制を築いたが、1848年の3月革命以降、民族主義運動に揺さぶられた。

1866年のプロイセン-オーストリア戦争の敗戦後、1867年にハンガリーのアウスグライヒでオーストリア・ハンガリー帝国(二重帝国)に改組された。

その後、領内のスラブ民族問題に悩まされながら、バルカンへの進出を企て、第一次世界大戦を招来した。

1918年の敗戦で、ハプスブルク家は崩壊し、ハンガリー、チェコスロバキアがそれぞれ独立、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアにも土地を割譲し、戦前の4分の1の小共和国となった。

1938年、ナチス・ドイツに併合されたが、第二次世界大戦後、米ソ英仏の分割占領を経て、1955年、国家条約により、独立の中立国として主権を回復、現在に至っている。