国名 オーストリア共和国                     
英語 Republic of Austria  
首都 ウィーン  
独立年 -  
主要言語 独語  
面積 (千Km2) 84  
人口 (百万人) 8.5  
通貨単位 ユーロ  
宗教 カトリック63.1%  
  プロテスタント3.55%   
  イスラム6.8%   
主要産業 機械、金属加工、観光  
     
     
ハルシュタット(Hallstatt)

オーストリア中北部、ザルツカンマーグート地方の町。ザルツブルクの南東約 50km、ハルシュタット湖畔に位置する。
BC 1100年からBC 450年にかけて栄えた鉄器文化、ハルシュタット文化の中心地として知られる。

また、BC 6世紀から塩坑(岩塩採鉱坑)の町として栄え、町名も「塩の町」に由来。
同地方のダハシュタインとともに 1997年、世界遺産の文化遺産に登録された。
 
         
         

地理

領土は東西に細長く、西部はアルプス山地に、東部はドナウ川流域低地
に属するが、ほぼ4分の3は山地である。

土地利用では、森林が約3分の1、山岳部の不毛地約8分の1、残りが農牧地である。
農牧地のうちでは、牧草地および山地牧場が過半を占める。


就業構造では、鉱工業、商業・サービス業の比率が高い。

鉱業は岩塩、銅、鉄などの資源に恵まれ、古くから盛んであるが、工業生産の増大に
伴い原料を外国に依存するようになった。

工業では鉄鋼業、織物業などの近代工業のほか、伝統的な手工芸にも特色がある。

またインスブルック周辺のチロル地方やウィーンなど世界的な観光地を有する。

内陸水運や鉄道、電力事業、鉄・非鉄金属の鉱山や製錬所、
主要な機械工業などは国営である。
  





歴史

オーストリアの歴史は、神聖ローマ帝国の成立をもってその起源とする。

現在のオーストリアの地域が、その当時すでにこの帝国に包含され、その後の帝国の
支配がハプスブルグ家に受け継がれ、その中心がウィーンに置かれたからである。


現在の西ヨーロッパの主要部分を統合したフランク王カール(カール大帝)は、
800年に、法王レオ3世による戴冠を受けてローマ皇帝の称号を得た。

だがこの時点で、カール大帝の王国は「フランク王国」のままであった。

カール大帝の死後、この王国は領土分割をめぐって争いが起こり、870年に三分割された。

そのうち東フランク王国では、936年にオットー1世が国王に選出された。
955年、オットー1世は、東方から攻め込んできたマジャール人の撃退に成功する。



962年、法王ヨハネス12世がオットー1世に、古代ローマ帝国の継承者として戴冠した。
ここに神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire 962~1806年)が誕生した。

神聖ローマ帝国はローマ法王に支持された皇帝を認めた国家、あるいは地域である。

ローマ教会と法王の守護者である皇帝は最高権威を法王と二分し、皇帝の権威は
教会を通じて西ヨーロッパ全体に及ぶこととなったのである。



976年、神聖ローマ帝国皇帝オットー2世により、バーベンベルク家(House of Babenberg)のレオポルト1世
(在位:976-994)が、マジャール人(ハンガリー人)に対する辺境伯領オストマルク(Ostmark)に封ぜられる。

1155年、ハインリヒ2世 (在位:1141-1156)が、ウィーンに居城を構える。
以後ウィーンはオーストリアの首都となった。

バーベンベルク家(オストマルク辺境伯)
  名前 在位
1   レオポルト1世 976-994年 バーベンベルク家始祖
2   ハインリヒ1世 994-1018年
3   アーダルベルト 1018-1055年
4   エルンスト 1055-1075年
5   レオポルト2世 1075-1095年
6   レオポルト3世 1095-1136年
7   レオポルト4世 1136-1141年
8   ハインリヒ2世 1141-1156年 1155年、メルク(Melk)からウィーンに遷都






1156年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世により、ハインリヒ2世が公爵に昇格。
オストマルクはオーストリア公国となった。

その後、バーベンベルク家の領土は繁栄を続け、レオポルト6世(在位:1198-1230)の時代に最盛期を迎える。
1246年、フリードリヒ2世(在位:1230-1246)がハンガリーとの戦いで戦死したことにより、バーベンベルク家は断絶。

バーベンベルク家(オーストリア公国)
  名前 在位
1   ハインリヒ2世 1156-1177年 辺境伯から公国に昇格
2   レオポルト5世 1177-1194年
3   フリードリヒ1世 1194-1198年
4   レオポルト6世 1198-1230年
5   フリードリヒ2世 1230-1246年



バーベンベルク家の断絶後、ボヘミア王オタカル2世(Ottokar II)は、バーベンベルク家との政略結婚により、
バーベンベルク領を手に入れ、広大な領地を支配した。

1273年、ハプスブルグ家のルドルフ1世が、ドイツ国王(神聖ローマ皇帝)に選ばれると、
マルヒフェルトの戦い(Battle on the Marchfeld)でボヘミア王オタカルを破り、バーベンベルク全土を獲得した。




1254年、神聖ローマ皇帝コンラート4世(在位:1250-1254)が没し、ホーエンシュタウフェン家(Hohenstaufen)が
断絶すると皇帝が存在しない大空位時代(1254-1273)が訪れた。

当時、ボヘミア王は最大の力を持つようになっていたが、他の選帝侯はボヘミア王国の力がこれ以上強大になることを嫌い、
スイスの小さな諸侯ハプスブルグ家のルドルフ1世(Rudolf I)を神聖ローマ帝国皇帝に選んだのである。

神聖ローマ帝国においては、皇帝の選出は有力諸侯の選挙で決まっており、ザクセン公やボヘミア王をはじめとする
「7選帝侯」という7人の諸侯の手にゆだねられるようになっていた。





ハプスブルグ家は、これ以降、神聖ローマ帝国皇帝位を独占する一方、結婚政策で領土を拡大。

1519年、ハプスブルグ家のスペイン国王カール5世(カルロス1世)が神聖ローマ皇帝を
兼位したため、領土はスペインまで広がった。


その後、神聖ローマ皇帝の地位を継承したオーストリア系ハプスブルク家は、
帝国内で激しく対立する旧教徒(カトリック)と新教徒(プロテスタント)の対応に悩まされる。
 
1618年、カトリックとプロテスタントの対立は頂点に達して、プラハで三十年戦争(1618-1657年)が勃発。


1619年に皇帝に即位したフェルディナント2世は、カトリックの総帥としてプロテスタントを徹底的に弾圧した。
 
親戚にあたるスペインの援軍を加えたハプスブルク家の軍隊はボヘミアのプロテスタント勢力を一掃。
続いて、三十年戦争に介入してきたデンマークやスウェーデンなどの外国勢力にも勝利する。


しかし、最終段階でフランス軍が介入したためにプロテスタント勢力が勢いを盛り返してしまい、
1648年に不利な条件でウェストファリア条約を締結。

この条約によって、神聖ローマ帝国は実質的にドイツ全土を支配する権力としての地位を失い、
ハプスブルク家はオーストリアとその西方を領有することになった。

ウェストファリア条約(Peace of Westphalia 1648年)

三十年戦争はオーストリア、スペインなどカトリック諸国の敗北によって終わった。

三十年戦争の講和条約。

① 戦勝国フランスは、アルザス・ロレーヌ地方(ライン川左岸)の領土を獲得
② 戦勝国スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。

③ スイスとオランダが独立し、神聖ローマ帝国から離脱。
④ ドイツの約300の諸侯が独立。神聖ローマ帝国の実質的解体。

⑤ プロテスタントまたカルヴァン派の信仰が認められた。

フランスとスウェーデンは領土拡大に成功し、神聖ローマ帝国は、帝国内の領邦に
主権が認められたことにより、300に及ぶ領邦国家の分立が確定した。

また皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場に立たされたため、
帝国全体への影響力は低下した。
 

1683年、レオポルト1世の治世にウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲される。
ウィーンは陥落寸前まで追い詰められたが、ポーランド王ヤン・ソビエスキが率いる援軍によって防衛に成功。

これを機に反撃に転じたハプスブルク家の軍勢は、名将プリンツ・オイゲンの指揮のもとで勝利を重ね、
ハンガリーからトルコ軍を追い払った。




1700年、スペイン王カルロス2世(Charles II)が病死して、跡取りがなくスペイン・ハプスブルグ家は断絶した。

するとフランス王ルイ14世は、自分の孫のフィリップがスペインのハプスブルク家の血すじを引いている
という理由でスペイン王にしようと考えた。

そうなると将来は、フランスとスペイン両国が合体するかもしれない。

フランスの勢力があまりにも大きくなりすぎるのを警戒したイングランドら3国は同盟を結び、
フィリップの王位継承に反対した。その結果、1701年、スペイン継承戦争が起こった。

スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1713年)

スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対オーストリア、イングランド、オランダ間で行われた戦争。

1700年スペイン王カルロス2世の死により、スペイン・ハプスブルク家が断絶。
新王にルイ14世の孫フィリップ(フェリペ5世)が即位すると、イングランド・オーストリア・オランダは
フランス・ブルボン家の拡張に反対して同盟し、フランス・スペインに宣戦布告した。



13年もの戦いの末、この戦争は1713年のユトレヒト条約(Treaty of Utrecht)でようやく終結。
この条約で、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にする事を列国に認めさせることができた。

ただし、将来にわたってフランスとスペインが合体しないという条件付きだった。


オーストリアは、ルイ14世の孫のスペイン王即位を認める見返りに、南ネーデルラント(後のベルギー)
とハンガリーを獲得し、ハプスブルク家の領土は最大に膨れ上がった。



1740年、神聖ローマ皇帝カール6世が死去したとき、男子の後継ぎがいなかったため、
ハプスブルク家の家督はカール6世の娘マリア・テレジアが相続した。

マリア・テレジア(Maria Theresa 1717~1780年)

カール6世(神聖ローマ皇帝)の娘でハプスブルク家の家督を相続したハプスブルク帝国の女帝。
フランツ1世(神聖ローマ皇帝)の皇后として、夫と共同統治を行った。(在位:1745~1765年)

また、ハンガリー女王(在位:1740~1780年)、ボヘミア王冠領女王(在位:1740~1741年、
1743~1780年)も兼務した。マリー・アントワネットの母としても知られる。
 


しかし、周辺諸国は彼女の即位を認めず、7年に及ぶオーストリア継承戦争が勃発する。
この戦争で、ハプスブルク家はプロイセン王国のフリードリヒ2世にシュレジエンを占領される。

オーストリア継承戦争の終結後、マリア・テレジアはシュレジエンの奪回に執念を燃やす。

オーストリア継承戦争(War of the Austrian Succession 1740~1748年)

オーストリアの王位継承をめぐって起きた国際戦争。

マリア・テレジアの即位をめぐりプロイセン・フランス・スペインなどが開戦、
オーストリアはイギリスと結び対抗。

アーヘンの和約(Treaty of Aix-la-Chapelle)で終結。
オーストリアはマリア・テレジアの王位継承を認められたが、シュレジエンをプロイセンに与えた
ほか領土の一部を失った。



プロイセンの強力な軍隊に対抗するために国家の改革に乗り出し、家柄にこだわらない優秀な人材登用をはじめ、
義務教育制度の導入や医療制度の改善、税制の見直しなどを実施した。
 
さらに、外交面では三十年戦争やスペイン継承戦争で干戈を交えたフランスと同盟を結ぶことに成功。

こうして万全の体制を整えたマリア・テレジアは1756年に勃発した七年戦争でプロイセンを滅亡寸前まで追い込み、
周辺諸国にオーストリアの実力を認めさせた。

七年戦争(Seven Years' War 1756~1763年)

プロイセンのフリードリヒ大王とオーストリアのマリア・テレジアとの間で、
シュレジエンの領有をめぐって始まった戦争。

フランス、ロシアがオーストリア側、イギリスがプロイセン側についた。

オーストリアはマリア・テレジアの息子ヨーゼフ (のちの2世) を父帝フランツ1世の死後、
神聖ローマ皇帝として認めるという約束だけを得、プロイセンのシュレジエン領有を
確認して戦争は終った。この戦争の結果、プロイセンはヨーロッパ列強と認められた。

また海外植民地(インド・カナダ)で、イギリスがフランスを破り、
英国経済の世界的優位が確立した。
 


マリア・テレジアの改革は彼女の息子たち(ヨーゼフ2世とレオポルト2世)
にも受け継がれ、オーストリアは近代国家へと生まれ変わった。



1789年、フランス革命が勃発すると、ヨーロッパ諸国は危機感を抱いた。
フランスの革命政権が王制の否定に至ったことを意味するからである。

革命思想の波及を恐れた諸国は、同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指した。

1792年、オーストリア・プロイセン同盟軍とフランス革命軍との戦争が勃発。

この戦争はフランス革命軍が勝利し、1797年10月17日のカンポ・フォルミオの和約(Treaty of Campo Formio)
で、オーストリア領南ネーデルラントを含むライン左岸地方がフランスに譲渡された。


このため、ライン左岸の領土を失った帝国内の諸侯の不満が高まった。

時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、今後選挙によって再び皇帝の地位を獲得することは困難と判断、
1804年5月、ナポレオンが皇帝になると、それへの対応として同年8月、ハプスブルク家の所領を
皇帝領として統合し、自らオーストリア皇帝フランツ1世と名乗った。

これによりオーストリア帝国が成立、神聖ローマ帝国は、事実上消滅した。
(名目上の消滅は二年後になる)


1815年、オーストリア外相メッテルニヒ(Metternich)の主導により、ウィーン会議が開催され、
ナポレオンに占領されたヨーロッパの領土を再編成することになった。

このウィーン会議の議決により、オーストリア帝国を盟主として、旧神聖ローマ帝国を構成していた
39の主権国家と自由都市が連合し、ドイツ連邦(German Confederation)を結成することになった。

これによって、ドイツにおけるオーストリアの主導権は、一応確保されることになった。




ウィーン会議によって成立したいわゆる「ウィーン体制」は、ロシア、オーストリア、プロイセン
を中心に、革命や自由主義運動、民族運動を抑え込む役割を果たすものとされた。

だが、こうした保守主義はフランスの7月革命(1830年7月)やポーランドの蜂起(1830年11月)
などによって事実上機能しなくなっていった。

1848年3月、ウィーンで3月革命が勃発、保守反動の中心人物メッテルニヒは亡命を余儀なくされた。

とりわけ、ハンガリーの独立運動に手を焼いたオーストリア皇帝ヨーゼフ1世は、独立運動を
懐柔するために、形式的にハンガリーの独立を認めることにした。

その結果、1867年「オーストリア=ハンガリー二重帝国」という妥協的な国家体制が成立することになる。


だが、これに先立ち、オーストリアの支配権が弱体化したと見たプロイセンは、ドイツ連邦からの脱退を宣言、
これに対してオーストリアがプロイセンに宣戦布告し、普墺戦争(Austro-Prussian War 1866年)が勃発した。

その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく国家が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。

この戦争は、ビスマルクの外交手腕によってプロイセンが大勝。これによってドイツ連邦は崩壊、
ドイツ統一はオーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった。


その後プロイセンは、フランスとの普仏戦争に勝利、ドイツを統一し、1871年「ドイツ帝国」を成立させた。

普仏戦争(Franco-Prussian War 1870~1871年)

ドイツの統一をめざすプロイセンと、隣国に強大な統一国家の出現を恐れるフランスとの間に行われた戦争。

フランス側にとっては、ナポレオン3世の対外膨張策がメキシコ遠征の失敗以来破綻をきたしており、
その威信回復のためにも戦争を必要とした。

一方、プロイセン側にとっては、普墺戦争の勝利でドイツ統一の実現に大きく前進したが、
それを嫌うフランスの領土干渉に対し、これを排除する必要があった。

この戦争はプロイセンが勝利し、1871年、敗戦国フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が行われ、
「ドイツ帝国」(German Empire 1871~1918年)が誕生した。



ドイツの統一の後、二重帝国は西方への影響力を失い、今後はドナウ川南方のバルカン半島への
影響力を確保することが重要な課題となった。

その当時、同じくバルカン半島への勢力拡大を目指すロシアは、オスマン帝国との衝突が
避けられない状況となっていた。

二重帝国は、あらかじめロシアと秘密協定を結び、中立的立場をとる見返りに、ボスニアと
ヘルツェゴビナを確保するという同意を取り付けた。

1878年、露土戦争が勃発、この戦争はロシアの圧倒的勝利に終わった。
同年、ベルリン会議において、二重帝国は、ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権を獲得した。

1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合が公式に発表されると、複雑な民族構成をもつ
同地方では、セルビア人を中心とする民族的抵抗運動が組織されていった。



1914年6月28日、オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、ボスニア・
ヘルツェゴビナの中心地サラエボで、セルビア人に射殺されるという事件が発生。

1914年7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告、この戦争は第一次世界大戦に発展した。
だがこの世界大戦は、オーストリア二重帝国の敗戦と解体をもたらすことになった。



1918年、敗戦により、ハプスブルク家は崩壊し、その700年に及ぶ歴史に幕が降ろされた。

またハンガリー、チェコスロバキアがそれぞれ独立、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビア
にも土地を割譲し、オーストリアは、戦前の4分の1の小共和国となった。


その後1938年、ドイツの独裁者ヒトラーの目論みにより、オーストリアは隣国ドイツに併合された。
ドイツの戦時体制に組み込まれ第二次世界大戦に参戦したが、敗戦。

1943年のモスクワ宣言によって併合は無効となり、1945年、オーストリアは
連合国軍(イギリス、アメリカ、フランス、ソ連)に分割占領された。

1955年、連合国軍とオーストリアの間でオーストリア国家条約が締結され、
オーストリア共和国として完全独立を果たした。同年、永世中立を宣言。



かつてはハプスブルク家の興隆により、神聖ローマ帝国の中核国家として、ロシア、
フランス、ドイツ、そしてイギリスと並ぶ五列強の一つであったオーストリア。

残されたものといえば、ハプスブルク家が支えた歴史と文化、そしてアルプスの山々に
代表される雄大な自然であった。


戦後、オーストリアは、経済復興とともに工業国として発展し、民主的な内政と
永世中立を背景とした外交によって、東西ヨーロッパの仲介役を果たしてきた。

また芸術と文化の都ウィーンは、ドナウ川を挟んだ対岸に国連都市も建設され、
国際都市として、また世界有数の観光都市として新たな発展の道を歩みはじめた。




375年 フン族の東進、ゲルマン民族の大移動開始
486年 クロービス、フランク王国を建国。(メロヴィング朝)
751年 小ピピン即位。カロリング朝成立
768年 カール大帝即位
800年 カール大帝、ローマで戴冠
843年 ヴェルダン条約、フランク王国3分割。(仏・伊・独の基)
870年 メルセン条約、ロートリンゲンの東半分が東フランク王国領となる
911年 東フランク王国でカロリング王朝断絶
962年 オットー1世、ローマ皇帝として戴冠。(神聖ローマ帝国成立 -1806)
973年 オットー2世即位(-983)
976年 バーベンベルク家のレオポルト1世が辺境伯領オストマルクに封ぜられる
1155年 ハインリヒ2世が、ウィーンに居城を構える
1156年 ハインリヒ2世が公爵に昇格。オストマルクはオーストリア公国(1156-1457年)となる
1457年 オーストリア大公国成立(1457-1804年)
1246年 フリードリヒ2世が戦死。バーベンベルク家断絶
1273年 ハプスブルグ家のルドルフ1世が、ドイツ国王(神聖ローマ皇帝)に選ばれる
1278年 マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカルを破り、オーストリア全土を獲得
1254年 大空位時代(1254-1273)
1519年 ハプスブルグ家のスペイン国王カール5世(カルロス1世)が神聖ローマ皇帝を兼位
1618年  三十年戦争(1618-1657年) 
1683年  オスマン帝国のウィーン包囲 
1701年  スペイン継承戦争 
1740年  オーストリア継承戦争 
1756年  七年戦争 
1804年  オーストリア帝国成立(1804-1867年)
1866年 プロイセン-オーストリア戦争で敗北
1867年 オーストリア・ハンガリー帝国成立(1867-1918年)
1914年 第一次世界大戦。サラエボ事件。セルビアに宣戦布告
1918年 敗戦によりハプスブルク家崩壊
ハンガリー、チェコスロバキアがそれぞれ独立、ポーランド、ルーマニア、ユーゴスラビアにも土地を割譲
1918年  オーストリア共和国成立(第一共和国)(1918-1938年)
1919年  サンジェルマン条約調印(オーストリア・ハンガリー帝国解体)
1938年 ナチス・ドイツに併合される
1945年 第二次世界大戦後、米ソ英仏に分割占領される
1955年 国家条約により、独立の中立国として主権を回復
1955年  オーストリア共和国成立(第二共和国)(1955年-)


       

 



シェーンブルン宮殿 (Schoenbrunn)



1693年、ハプスブルク家の離宮として建てられたシェーンブルン宮殿。

その後、女帝マリア・テレジアが現在の「マリア・テレジア・イエロー」
と呼ばれる上品なバロック様式に改築しました。

その娘マリー・アントワネットも14歳までここで過ごしています。


ちなみに現在、この宮殿の3階、4階は、賃貸住宅として貸し出しされています。
空いていれば一般人でも借りられるという。

家賃は、2LDKタイプで400ユーロ。日本円で約49,000円。

ウィーン市はこの家賃で、宮殿の修復、維持管理をしているという。


世界遺産の豪邸に住めるとあって、海外からも注目を集めています。

しかも地下鉄シェーンブルン駅から徒歩5分という便利な立地にあります。

ただ、庭が広すぎて、部屋から宮殿の門に辿りつくまでかなりの時間がかかりそう。

毎日、電車に乗り遅れないように早起きしなければなりませんね。(笑)