国名 ボスニア・ヘルツェゴビナ                     
英語 Bosnia and Herzegovina  
首都 サラエボ  
独立年 1992年  
主要言語 ボスニア語、セルビア語、クロアチア語  
面積 (千Km2) 51  
人口 (百万人) 3.9  
通貨単位 兌換マルク  
宗教 イスラム教、セルビア正教、カトリック  
主要産業 木材業、鉱業、繊維業    
         
         
モスタル(Mostar)

モスタル(「古い橋」の意)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のヘルツェゴビナ地方の行政中心地。ネレトバ川の下流に臨む。

オスマン帝国占領当時の 1566年に、木の吊橋が石のアーチ橋にかけ替えられた。
1878~1918年のオーストリア・ハンガリー帝国支配時代にはセルビア人による愛国運動の中心地となった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では激しい戦闘が繰り広げられ、町の象徴だった石橋も破壊された。
2004年、石橋が修復・再建され、2005年、橋とその周辺地区が世界遺産の文化遺産に登録された。
    



地理

バルカン半島の北西に位置し、北部のボスニア地方と
南部のヘルツェゴビナ地方からなる。

1992年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6共和国の一つであった。


北部のサヴァ川流域はパンノニア平原の一部で、大陸性気候であるが、
標高150メートル以下の低地は共和国のわずか8%にすぎない。

2000メートルを超える山地が多く、クロアチアとの境界に
ディナル・アルプス山脈がアドリア海に沿って走る。


南部は乾燥したカルスト台地で、ネレトバ川河口部は地中海性気候である。
国土の大部分が山岳森林地帯で、マツ、ブナ、カシを産する。



主産業は農業、林業。鉄鉱石(埋蔵量は旧ユーゴスラビア全土の85%)、
褐炭、ボーキサイト、マンガン、亜鉛などの地下資源も豊富。

住民は約 45%がイスラム系 (ムスリム) 、約 30%がセルビア人、約 15%がクロアチア人で、
ほかに少数のアルバニア人、トルコ人、ユダヤ人などを含む。

宗教はセルビア人はセルビア正教徒、クロアチア人はカトリック教徒が多い。
公用語はボスニア語 。

主要都市はサラエボのほか、バーニャ・ルカ、トゥズラ、モスタルなど。





歴史

4世紀にスラブ系ボスニア人がバルカン半島を南下、
7世紀にアドリア海沿岸ダルマティア中部に定住した。

1154年、ボスニア首長(Ban)ボリチ(Boric 在位1154~1163年)が、
ボスニア中北部を統一、ボスニア王国(1154~1463年)を建国。


1326年、ボスニア王国は南部のヘルツェゴビナ地方を併合して最盛期となった。
しかし、1463年以後、ボスニアはオスマン帝国の支配下に入り、ヘルツェゴビナも、
1483年、同じくオスマン帝国の属州となった。



17世紀末以降はオーストリアがしだいに進出、オスマン帝国との長い争いの後、
1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国に併合された。

これが遠因となって、1914年、サラエボでセルビア人学生による
オーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)が生じ、
第一次世界大戦に発展した。



1918年、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡すると
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」 が建国された。
ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国
(1929年ユーゴスラビア王国と改称) の一部となった。


1945年、第二次大戦後、ナチスドイツに対する抵抗組織(パルチザン)のリーダーであったティトーによって「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が成立。

ユーゴスラビア連邦人民共和国は、社会主義体制をとりながら、ソビエトとは距離を置き地域ごとに共和国となっており、それぞれに大統領がいた。

1963年、ティトーが終身大統領に就任すると「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と改称。
ティトーは、ユーゴスラビア全体を統括、米ソ冷戦の中ではどちらにも属さない第三国という立場を貫いた。


バルカン半島では古来、多くの民族や宗教が混在していた。
そのため、地域内の紛争が絶えずに起こり、第一次大戦の発端もこの地域で起こった。

第二次大戦後、ユーゴスラビアはティトー大統領による民族主義の取り締まりによって国内の平和を維持していた。
しかし、1980年、ティトー大統領が後継者を定めずに死去すると、ユーゴを構成する各共和国は自由化や独立を主張し始めた。

1990年、ユーゴの中心であったセルビアでは、大セルビア主義の主張を唱えるミロシェビッチの政権が誕生したことで、
ユーゴを構成する他の共和国、特にクロアチア、スロベニアなどの独立気運がいっそう高まった。


1991年6月、まずクロアチア、スロベニアの両共和国が独立を宣言、
続いてマケドニアも独立を宣言(1991.9)、ティトー時代の連邦体制が崩壊した。

するとユーゴ内で大胆な紛争が次々と勃発していった。(ユーゴスラビア紛争)

ティトー大統領による強いリーダシップによりまとまっていたユーゴスラビアは、大統領がいなくなった後、
バルカン半島の火薬庫が爆発してしまったのである。

1992年、ECが、クロアチア、スロベニア、マケドニアにそれぞれの独立を承認したことで、ユーゴスラビアは同年、
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国から「ユーゴスラビア連邦共和国」へと改称することに決め、
セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナからなる連邦制をとった。

ところが直後にボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言をおこしたため(1992.3)、旧ユーゴの残存国セルビアと
モンテネグロは同月ボスニア・ヘルツェゴビナ侵攻を行った。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)

アメリカが調停に乗り出し、1995年12月ボスニア和平協定(デイトン和平合意)が成立。

ボスニア連邦とセルビア人共和国との二つの政体からなる一つの国家ボスニア・ヘルツェゴビナを目指すこととなった。


なお、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ北東部に位置するブルチコ行政区(Brcko District)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争後のデイトン和平合意の際に設立が決められた。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国(セルビア)の双方に属する自治行政区とされている。
紛争後、ブルチコ地区では欧州連合(EU)によって平和維持活動が行われている。
 



7世紀 スラブ系ボスニア人がバルカン半島に定住  
1154年 ボスニア王国建国(~1463)  
1463年 オスマン帝国によるボスニア征服  
1878年  ベルリン会議により、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下に   
1908年 青年トルコ革命後、オーストリア・ハンガリー帝国に併合される  
1914年  サラエボ事件   
1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の一部に  
1929年  ユーゴスラビア王国に改称   
1945年  ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立  
1963年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称   
  ティトー大統領による民族分権と非同盟中立政策   
1980年  ティトー大統領死去   
1990年  ミロシェヴィッチ(セルビア社会主義共和国大統領)が   
  セルビア人による民族統一主義を主張   
1992年  セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)創設   
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言  
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(新ユーゴがボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻)  
1995年 デイトン和平合意(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・セルビア人共和国連合成立) 
    







ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立

第二次世界大戦後、独自の社会主義政策を進めてきたユーゴスラビア連邦は、「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教」といわれ、
政治・民族・言語・宗教がからみあい、きわめて複雑な国だった。



   ユーゴスラビア連邦人民共和国(1945~1963年) 1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称した。(~1992年)



1991年以降、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが連邦から分離独立したあと、
セルビアとモンテネグロは、2003年、両国が共同して運営するセルビア・モンテネグロ国家連合を結成した。

しかしこの国家連合も2006年、モンテネグロが連邦から独立、さらに2008年、セルビア自治州であった
コソボが共和国として独立したことにより、ユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅した。


  




       


ユーゴスラビア史

ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。

第一次世界大戦後の1918年に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、
1929年に「ユーゴスラビア王国」と改称してできた国である。

ユーゴスラビア王国は、第二次大戦後の1945年「ユーゴスラビア連邦人民共和国」に改編され、
さらに1963年「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称された。

ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国であり、六つの共和国に
五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。


この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所である。

4世紀後半、ゲルマン人をはじめとするさまざまな民族の大移動が生じた。

375年、アジア系遊牧民族フン人(匈奴)の侵攻を受け、
彼らは西方への移動を余儀なくされたのである。

一方、バルカン半島方面に南下したのは南スラブ人である。
彼らはドナウ川下流域に達し、東ローマ帝国領内に集落をつくり定住した。

7世紀初頭、南スラブ人は以下の地域に定住を完了した。

バルカン半島北部サヴァ川上流域(スロベニア人)
バルカン半島中部モエシア地方(セルビア人)
アドリア海沿岸ダルマティア北部(クロアチア人)
アドリア海沿岸ダルマティア中部(ボスニア人)
アドリア海沿岸ダルマティア南部(モンテネグロ人)
バルカン半島中部ダルダニア地方(コソボ人)
バルカン半島南部北マケドニア地方(マケドニア人)



南スラブ人のうち、スロベニア人はフランク王国に服属してカトリックに改宗し、
その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、
1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。

クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。

その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、1102年、ハンガリー王国に支配され、
1527年、オーストリア領に、1867年、オーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。

一方で、東ローマ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、1168年、中世セルビア王国を建国して、
14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。

中世セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan(在位1331~1355)のときに最盛期を迎えるが、
1389年、コソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。

そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、
1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こした。

この戦争でオスマン帝国が敗北すると、1878年のべルリン会議で、セルビアとモンテネグロは
ルーマニアとともに独立が承認された。

このベルリン会議では、ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。

1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、
オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、
パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。

青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年)

イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。
アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。
一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得。
 


1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロは
ブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。

イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年)

北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。
イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された。
 


この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したオスマン領マケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。




そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、
ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、
オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。

しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、
クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。

この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。

また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、
セルビア人主導の専制政治を進めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。

これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、
自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。





そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国
(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。

ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。

ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと
非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。

父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)
が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、
複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。

そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。

1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。

1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアと
モンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国
(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)

この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが
新ユーゴスラビアの大統領となると、
アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。(コソボ紛争)

これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、
国連も介入することとなった。

2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、
新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。

たが、2006年にモンテネグロが分離し、2008年にコソボが独立を宣言するに至り、
ユーゴスラビアという国家はその歴史に幕を閉じた。

4世紀 ゲルマン人の大移動後、南スラブ人がバルカン半島を南下
7世紀 南スラブ人、バルカン半島に定住完了
925年  クロアチア人、クロアチア王国を建国(~1102)
1000年 モンテネグロ人、ドゥクリャ公国を建国(~1185)
1102年 クロアチア王国滅亡。ハンガリーの支配下になる
1168年 セルビア人、中世セルビア王国を建国(~1459)
1185年 中世セルビア王国、モンテネグロのドゥクリャ公国を併合
1389年 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン帝国に敗北
1459年  セルビア、オスマン帝国の支配下になる
1460年  マケドニア、オスマン帝国の支配下になる
1463年  ボスニア、オスマン帝国の支配下になる
1804年 第一次セルビア蜂起(~1813)。失敗
1815年 第二次セルビア蜂起(~1817)。自治権を獲得
1817年  セルビア公国成立(~1882) 
1867年 スロベニア、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下になる
1877年 ロシア-トルコ戦争
1878年 サン・ステファノ条約。ベルリン会議
セルビア、モンテネグロの独立承認
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得
1882年  セルビア王国成立(~1918) 
1908年 青年トルコ革命
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合
1912年 第一バルカン戦争。オスマン帝国がバルカン同盟に敗れ、領土を割譲
1913年  第二次バルカン戦争。ブルガリアがバルカン同盟に破れ、領土の大半を割譲 
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」成立
1929年 ユーゴスラビア王国と改称
1939年 第二次世界大戦
1941年 ドイツのユーゴ占領(~1944)
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国成立
1945年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称 
1980年 チトー大統領死去。集団指導体制発足
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)創設
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
新ユーゴがボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ~1995)
1998年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。(コソボ紛争)
1999年  NATOによるセルビア空爆 
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2006年 モンテネグロが独立
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言







ヤイツェ(Jajce)


サラエボから車で2時間30分、中世ボスニア王国の首都ヤイツェ(Jajce)がある。

1463年、ボスニア王国はオスマン帝国に占領されるが、翌年にはハンガリーに奪取される。
オスマン帝国からはイスラム教を、ハンガリーからはカトリックを強制された。

多難な歴史を経て、イスラム教のモスク、カトリックの聖堂、そしてセルビア正教の教会が
立ち並ぶ宗教的多様性のある街となっていった。

街の周囲は標高2000mを超える山々に囲まれ、眼下にはプリヴァ滝(Pliva)が広がる。

水が流れ落ちる向こうに要塞都市がのぞく風景は、街のシンボルとなっている。

(住所:Jajce, Bosnia and Herzegovina)