国名 ボスニア・ヘルツェゴビナ
英語 Bosnia and Herzegovina
首都 サラエボ
独立年 1992年
主要言語 ボスニア語、セルビア語、クロアチア語
面積 (千Km2) 51
人口 (百万人) 3.9
通貨単位 兌換マルク
宗教 イスラム教、セルビア正教、カトリック
主要産業 木材業、鉱業、繊維業
歴史
7世紀 スラブ人定住
11世紀 ボスニア王国建国
1463年 オスマン帝国によるボスニア征服
1878年  ベルリン会議により、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下に 
1908年 青年トルコ革命後、オーストリア・ハンガリー帝国に併合される
1914年  サラエボ事件 
1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の一部に
1929年  ユーゴスラビア王国に改称 
1943年  ユーゴスラビア連邦人民共和国が建国
1963年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称 
  ティトー大統領による民族分権と非同盟中立政策 
1980年  ティトー大統領死去 
1990年  ミロシェヴィッチ(セルビア社会主義共和国大統領)が 
  セルビア人による民族統一主義を主張 
1992年1月  セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国 
  (新ユーゴスラビア連邦)結成 
1992年3月 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国として独立宣言
1992年4月 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
  新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。 
1995年12月 デイトン和平合意
  ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・セルビア人共和国連合成立
 地理
バルカン半島の北西に位置し、北部のボスニア地方と南部の
ヘルツェゴビナ地方からなる。
山地が大部分で、気候は内陸性。

住民は約 45%がイスラム系ムスリム人 、約 30%がセルビア人、
約15%がクロアチア人で、ほかに少数のアルバニア人、トルコ人、
ユダヤ人などを含む。
主産業は農業、林業および鉱業。
主要都市はサラエボのほか、パニャ・ルーカ、、モスタルなど。



















モスタル(Mostar)
モスタル(「古い橋」の意)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部のヘルツェゴビナ地方の行政中心地。ネレトバ川の下流に臨む。
オスマン帝国占領当時の 1566年に、木の吊橋が石のアーチ橋にかけ替えられた。
1878~1918年のオーストリア・ハンガリー帝国支配時代にはセルビア人による愛国運動の中心地となった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では激しい戦闘が繰り広げられ、町の象徴だった石橋も破壊された。
2004年、石橋が修復・再建され、2005年、橋とその周辺地区が世界遺産の文化遺産に登録された。




BC10世紀頃から、インド・ヨーロッパ語族のイリュリア人(Illyrians)が、バルカン半島北西部のイリュリアに居住していたが、BC3世紀にローマの支配に属した。

その後、ローマ人によってこの地方はイリュリクム(Illyricum)と呼ばれるようになった。

6~9年にはローマに対して反乱を起したが、ティベリウスによって制圧された。

ローマ帝国全盛期にはイリュリクムも繁栄。
ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス帝ら多くのローマ皇帝はイリュリア系であった。

6~7世紀に南スラブ人がバルカンに南下してボスニアの地に定住。
11世紀後半になると、ボスニアはバン(首長)の支配下の元に、ボスニア中部を統一してボスニア王国を建国した。

ボスニア王国は14世紀にヘルツェゴヴィナ地方を併合して最盛期となり、一時はセルビア王国に代わってこの地方の最大勢力となった。

しかし、1463年以後ボスニアはオスマン帝国の支配下に入り、ヘルツェゴビナも、1482年、同じくオスマン帝国の属州となった。

17世紀末以降はオーストリアがしだいに進出、オスマン帝国との長い争いの後、1908年、ボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国に併合。

これが遠因となって、1914年、サラエボでセルビア人学生によるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件)が生じ、第一次世界大戦に発展した。

1918年、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡すると 「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人王国」 が建国された。
ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (1929年ユーゴスラビア王国と改称) の一部となった。


1943年、第二次大戦時、ナチスドイツに対する抵抗組織、パルチザンのリーダーであった、ティトーによって「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が設立。

ユーゴスラビア連邦人民共和国は、社会主義体制をとりながら、ソビエトとは距離を置き地域ごとに共和国となっており、それぞれに大統領がいた。
(ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国)

1963年、ティトーが終身大統領に就任すると「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と改称。
ティトーは、ユーゴスラビア全体を統括、米ソ冷戦の中ではどちらにも属さない第三国という立場を貫いた。


バルカン半島では古来、多くの民族や宗教が混在していた。
そのため、地域内の紛争が絶えずに起こり、第一次大戦の発端もこの地域で起こった。

第二次大戦後、ユーゴスラビアはティトー大統領による民族主義の取り締まりによって国内の平和を維持していた。
しかし、1980年、ティトー大統領が後継者を定めずに死去すると、ユーゴを構成する各共和国は自由化や独立を主張し始めた。

1990年、ユーゴの中心であったセルビアでは、大セルビア主義の主張を唱えるミロシェビッチの政権が誕生したことで、ユーゴを構成する他の共和国、特にクロアチア、スロベニアなどの独立気運がいっそう高まった。
1991年6月、まずクロアチア、スロベニアの両共和国が独立を宣言、続いてマケドニアも独立を宣言(1991.9)、ティトー時代の連邦体制が崩壊した。

するとユーゴ内で大胆な紛争が次々と勃発していった(ユーゴスラビア紛争)。
ティトー大統領による強いリーダシップによりまとまっていたユーゴスラビアは、大統領がいなくなった後、バルカン半島の火薬庫が爆発してしまったのである。

1992年、ECが、クロアチア、スロベニア、マケドニアにそれぞれの独立を承認したことで、ユーゴスラビアは同年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国から「ユーゴスラビア連邦共和国」へと改称することに決め、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナからなる連邦制をとった。

ところが直後にボスニア・ヘルツェゴビナも独立宣言をおこしたため(1992.3)、旧ユーゴの残存国セルビアとモンテネグロは「新ユーゴスラビア連邦」の成立を宣言後(1992.4)、同月ボスニア・ヘルツェゴビナ侵攻を行った。
(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)

国連などが調停に乗り出したが、効果的な対応ができず、内戦は長期化した。1995年12月ボスニア和平協定(デイトン和平合意)が成立。
クロアチア人・ムスリム人によるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人共和国との二つの政体からなる一つの国家ボスニア・ヘルツェゴビナを目指すこととなった。






     

ユーゴスラビア史

ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。
かつて第一次世界大戦後に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、1929年に改名してできた国である。

ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国で、現在は改名前の名の中心であったセルビア、スロベニア、クロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国に分離し、さらに2008年にはコソボがセルビアから独立している。

この六つの共和国に五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。

この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所で、4世紀のゲルマン人の大移動後、スラブ人がドナウ川を南下して広がっていく。
その中のスロベニアはフランク王国に服属してカトリックに改宗し、その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、15世紀にはハプスブルク家領となり、1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。

クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。
その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、11世紀末にハンガリー王国に支配され、同じくオーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。

一方で、ビザンツ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、12世紀にはセルビア王国を建国して、14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。
セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan)のときに最盛期を迎えるが、14世紀末にコソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。

そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、1875年にボス・ア・ヘルツェゴビナでオスマン帝国に対しての反乱が起こった。

これに対して、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こしてオスマン帝国が敗北すると、1878年のサン・ステファノ条約に続くべルリン条約で、セルビアとモンテネグロはルーマニアとともに独立が承認された。
さらにボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。

1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。

(青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年)
イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。
アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。
一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得)

1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロはブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。

(イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年)
北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。
イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された)

この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したマケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。

そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。

しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。
この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。
また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、議会を停止して専制政治を進めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。
これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。

そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。
ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。

ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。
父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。
そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。

1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。

この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが新ユーゴスラビアの大統領となると、アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。
これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、国連も介入することとなった。

2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。
2007年にはセルビアとモンテネグロが分離し、2008年にはコソボが独立宣言を行っている。

4世紀 ゲルマン人の大移動後、スラブ人南下
7世紀 南スラブ人(スラブ民族)、バルカン半島に定住完了
8世紀 スロベニア人、フランク王国の支配下に
9世紀 セルビア人、ビザンツ帝国の支配下に
10世紀 クロアチア人、フランク王国の支配下に
11世紀 クロアチア人、ハンガリー王国の支配下に
12世紀 セルビア人、セルビア王国を建国
1389年 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン・トルコ軍(オスマン帝国)に敗北
1496年 モンテネグロが屈し、南スラブ諸地域がオスマン帝国領となる
1875年 ボスニア・ヘルツェゴビナ反乱
1877年 ロシア-トルコ戦争
1878年 サン・ステファノ条約。ベルリン条約
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアとともに独立承認
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得
1908年 青年トルコ革命
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合。セルビアと対立
1912-1913年 第一・第二次バルカン戦争
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 オーストリアが降伏
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言
1919年 サン・ジェルマン条約正式承認
1929年 ユーゴスラビア王国と改称
1939年 第二次世界大戦
1941年 ドイツの侵攻 対 ティトーのパルチザン
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)成立
1948年 ユーゴ、コミンフォルムから追放
1961年 ベオグラードで第1回非同盟諸国会議開催
1963年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
1980年 ティトー大統領死去。集団指導体制発足
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア連邦)結成
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。内戦
1997年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。NATOによるセルビア空爆
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2007年 セルビアとモンテネグロが分離
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言。(アメリカ、EU諸国が独立を認め、日本も国家として承認)