国名 クロアチア共和国
英語 Republic of Croatia
首都 ザグレブ
独立年 1991年
主要言語 クロアチア語
面積 (千Km2) 57
人口 (百万人) 4.3
通貨単位 クーナ
宗教 カトリック、セルビア正教等
主要産業 輸送機械(船舶)、化学製品、繊維
 地理
北はスロベニアとハンガリー、東はセルビア、南はボスニア・ヘルツェゴビナに接し、
西はアドリア海に臨む。
住民はおもにクロアチア人で、カトリック教徒が多く、公用語はクロアチア語 、
文字はローマ文字を用いる。

地形は大部分が山地であるが、ドナウ川 、サヴァ川の流域には肥沃な平野と丘陵が
広がっている。

産業は農林業がおもで、コムギなどの穀類、ブドウ、オリーブなどを産し、ウシの
飼育や、漁業も行なわれる。コタル山地、スラボニア地方などでは林業が盛ん。

工業はザグレブを中心に発展。主要都市はザグレブ、スプリット、リエカ、オシエク、
プーラなど。ドゥブロブニクは観光保養地として知られる。
 
歴史
7世紀頃 バルカン半島北部、パンノニアとダルマティアに定住。
925年 トミスラブ(Tomislav)がクロアチア王国建国
1102年  ハンガリーの支配下に。 
1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (1929年、ユーゴスラビア王国と改称) の一部へ
1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの傀儡国 「クロアチア独立国」 を樹立。
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国の一つとして発足。
1963年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
1991年 ユーゴスラビアから分離独立。 (1992年、ECによる独立承認)
2009年 NATO加盟
2013年 EU加盟













プリトヴィッチェ湖群国立公園(Plitvice Lakes National Park)
クロアチアの首都ザグレブの南 110kmにある国立公園。
面積 192k㎡。プリトヴィッチェ川が 16の湖と 92の小滝を形成しながらコラナ川に合流する雄大で珍しい景観を特徴とする。

中生代白亜紀の石灰岩地域であるため、高濃度の炭酸カルシウムが石灰華をつくり、川をせき止めたことにより生み出された自然の芸術作品とたたえられる。
湖面の輝きと森の緑の美しさはもとより、クマやオオカミをはじめノロジカ、オオライチョウなど貴重な野生動物や豊富な鳥類の生息地としても有名である。
1979年世界遺産の自然遺産として登録。




7世紀頃、クロアチア人は、バルカン半島北部、サヴァ川中流域のパンノニアと、アドリア海沿岸のダルマティアに定住。
8世紀、フランク王国の支配を受け、ローマ・カトリックを受容した。

925年、クロアチア人の族長トミスラブ(Tomislav)が「クロアチア王」を宣言し、パンノニア地方を統一し「クロアチア王国」を建国した。
11世紀、ダルマティア地方を併合して、クロアチア王国は最盛期となった。

しかし、1102年にはハンガリー王国の、1527年にはオーストリア・ハプスブルグ家の支配下に入り、オスマン帝国のバルカン半島への侵入に対する防波堤の役割を担うこととなる。

1408年にはアドリア海に面したダルマティア地方をベネチア共和国と争って敗れ、内陸部が分断された。
ダルマティアは、1815年のウィーン会議でオーストリア帝国領になるまでベネチア領として繁栄した。

1867年、オーストリアとハンガリー間のアウスグライヒ(和議)で、オーストリア・ハンガリー帝国が成立すると、クロアチアはハンガリーの一部としてハンガリー政府の支配下に入った。

第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊、1918年、南スラブ人の統一国家として「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が成立。
(1929年からユーゴスラビア王国に改称)

クロアチアはその一部を構成することとなった。
しかし、セルビア人が新国家の国王になると、クロアチアは反セルビアと地方分権を掲げて中央政府に反発した。(クロアチア問題)

1941年4月、ナチス・ドイツをはじめとする枢軸国軍がユーゴスラビアに侵攻し、分割・占領した。
この過程で、ドイツの傀儡国家である「クロアチア独立国」が建国され、その領域はクロアチアの領域にボスニア・ヘルツェゴビナの全土を加えた部分となった。

これはクロアチア王国最大の版図とほぼ同じ領域であった。
ドイツ軍の撤退とともに、「クロアチア独立国」は瓦解、1945年5月にパルチザンによって解放された。

第二次世界大戦後の1945年、、ドイツ軍とのパルチザン闘争を指導したクロアチア人のティトーを中心に、社会主義国家であるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立。
(1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称)
クロアチアはボスニアを放棄して内陸部と海岸部(ダルマティア)を合わせて連邦を構成する一つの共和国となった。

多民族国家ユーゴスラビアは、ティトー(クロアチア人の父とスロベニア人の母の子)の巧みなバランス感覚とカリスマ性によって維持された。
しかし、1980年のティトー大統領の死後、各民族の不満と確執が噴出し民族主義が台頭、1980年代末の東欧の民主化とあいまって、ユーゴスラビア社会主義連邦の解体が急速に進んだ。

1991年、独立の可否を問う国民投票が実施され78%が賛成。これをうけて同年6月25日に連邦からの独立を宣言した。
(同日、スロべニアも独立を宣言)

これに対して人口の 12%を占めるセルビア人が反対し、内戦に突入した。(クロアチア紛争 )
ユーゴスラビア社会主義連邦軍はこれに介入、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも飛び火し、1995年の和平協定までに大きな犠牲を出した。









ユーゴスラビア史

ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。
かつて第一次世界大戦後に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、1929年に改名してできた国である。

ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国で、現在は改名前の名の中心であったセルビア、スロベニア、クロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国に分離し、さらに2008年にはコソボがセルビアから独立している。

この六つの共和国に五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。

この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所で、4世紀のゲルマン人の大移動後、スラブ人がドナウ川を南下して広がっていく。
その中のスロベニアはフランク王国に服属してカトリックに改宗し、その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、15世紀にはハプスブルク家領となり、1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。

クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。
その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、11世紀末にハンガリー王国に支配され、同じくオーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。

一方で、ビザンツ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、12世紀にはセルビア王国を建国して、14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。
セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan)のときに最盛期を迎えるが、14世紀末にコソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。

そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、1875年にボス・ア・ヘルツェゴビナでオスマン帝国に対しての反乱が起こった。

これに対して、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こしてオスマン帝国が敗北すると、1878年のサン・ステファノ条約に続くべルリン条約で、セルビアとモンテネグロはルーマニアとともに独立が承認された。
さらにボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。

1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。

(青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年)
イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。
アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。
一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得)

1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロはブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。

(イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年)
北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。
イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された)

この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したマケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。

そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。

しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。
この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。
また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、議会を停止して専制政治を進めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。
これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。

そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。
ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。

ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。
父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。
そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。

1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。

この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが新ユーゴスラビアの大統領となると、アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。
これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、国連も介入することとなった。

2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。
2007年にはセルビアとモンテネグロが分離し、2008年にはコソボが独立宣言を行っている。

4世紀 ゲルマン人の大移動後、スラブ人南下
7世紀 南スラブ人(スラブ民族)、バルカン半島に定住完了
8世紀 スロベニア人、フランク王国の支配下に
9世紀 セルビア人、ビザンツ帝国の支配下に
10世紀 クロアチア人、フランク王国の支配下に
11世紀 クロアチア人、ハンガリー王国の支配下に
12世紀 セルビア人、セルビア王国を建国
1389年 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン・トルコ軍(オスマン帝国)に敗北
1496年 モンテネグロが屈し、南スラブ諸地域がオスマン帝国領となる
1875年 ボスニア・ヘルツェゴビナ反乱
1877年 ロシア-トルコ戦争
1878年 サン・ステファノ条約。ベルリン条約
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアとともに独立承認
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得
1908年 青年トルコ革命
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合。セルビアと対立
1912-1913年 第一・第二次バルカン戦争
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 オーストリアが降伏
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言
1919年 サン・ジェルマン条約正式承認
1929年 ユーゴスラビア王国と改称
1939年 第二次世界大戦
1941年 ドイツの侵攻 対 ティトーのパルチザン
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)成立
1948年 ユーゴ、コミンフォルムから追放
1961年 ベオグラードで第1回非同盟諸国会議開催
1963年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
1980年 チトー大統領死去。集団指導体制発足
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア連邦)結成
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。内戦
1997年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。NATOによるセルビア空爆
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2007年 セルビアとモンテネグロが分離
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言。(アメリカ、EU諸国が独立を認め、日本も国家として承認)