国名 チェコ共和国
英語 Czech Republic
首都 プラハ
独立年 1993年
主要言語 チェコ語
面積 (千Km2) 79
人口 (百万人) 10.5
通貨単位 チェコ・コルナ
宗教 カトリック10.3%、無信仰34.3%
主要産業 機械工業(自動車を含む)、化学工業、観光業
 地理  
ヨーロッパ中部、ドイツの東、スロバキアの西に位置する内陸国。
西のボヘミア地方と、東のモラヴィア地方からなり、国土の大半が
低山に囲まれた盆地。

気候は大陸性気候と海洋性気候の混合で、海洋性気候の特徴は
東部へ向かうほど弱まる。
年平均気温は西端のヘプで7℃、南東部のブルノで9℃。
年間降水量はボヘミア盆地で 450mm、最多月は7月、最少月は2月。

分離独立したスロバキアに比べ高度に工業化が進んでおり、
エンジニアリングが最大の産業。
次いで食品、エレクトロニクス、化学等の産業が有力。
1990年代初めに実施された経済改革が奏効してめざましい経済成長と
低失業率を実現し、西側諸国の一員として認められた。



















歴史
9世紀前半  スラブ人がモラヴィア王国建設
10世紀  アジア系のマジャール人が侵入、モラヴィア王国滅亡
 東のスロバキアは、マジャール人建国のハンガリーの支配下にいる。
 西のチェコは、西スラヴ人のチェック人がベーメン(ボヘミア)王国を建設。
1618年  べーメン(ボヘミア)反乱。三十年戦争はじまる。
1648年  ウェストファリア条約。ベーメンはハブスブルク家の支配下に。
1919年  サン・ジェルマン条約。べーメンはチェコとして独立。
 スロバキアと合併してチェコスロバキア共和国成立。
1938年  ミュンヘン会談。ズデーテン地方はドイツへ割譲。
1939年  ドイツによってチェコスロバキアは解体。
1945年  チェコスロバキア共和国復活
1960年  チェコスロバキア社会主義共和国
1968年  チェコスロバキア民主化運動(プラハの春)
1989年  東欧革命(ビロード革命)社会主義政権崩壊
1993年  チェコとスロバキア合併解消


チェスキー・クルムロフ(Cesky Krumlov)
チェコ南部、チェスケーブジェヨビツェの南西約 20kmにある町。
ブルタバ川がS字形に蛇行して島のように残された台地の上の旧市街と、その北側対岸に 13世紀後半に建てられたチェスキー・クルムロフ城およびラトラン地区からなる。

14~16世紀にこの地を治めた封建貴族の保護と振興策によって手工業と商業で栄えた町には、後期ゴシック様式とルネサンス様式の建物が残る。
城を中心とした地域は 1992年、世界遺産の文化遺産に登録。




チェコスロバキアは、1993年に西のチェコと東のスロバキアに分離した。
チェコスロバキアの首都であったプラハがあるのは西のチェコで、このチェコの西・中部はかつてボヘミアと呼ばれ、ドイツ語ではベーメンと呼ばれた。

この地にはゲルマン民族移動の後に西スラヴ人のチェック(チェコ)人やスロバキア人などが定住したが、6世紀頃にモンゴル系遊牧民族のアヴァール人が進出している。
アヴァール人は8世紀末にフランク王国のカール大帝に撃退され、スラヴ人と同化していった。

9世紀前半にスラヴ人はこの地にモラヴィア王国を建設した。
この国はマケドニアの修道士キュリロス(Kyrillos)がギリシア正教の布教に訪れていて、その布教のためにギリシア文字をもとにつくったのがグラゴル文字である。
彼のつくったグラゴル文字はキリル文字となって、現在のロシアや東欧で使われている文字の原型になった。

10世紀にアジア系のマジャール人が侵入して、モラヴィア王国は滅亡した。
そして東のスロバキアはマジャール人の建国したハンガリーに支配され、西のチェコは西スラヴ人のチェック人がベーメン(ボヘミア)王国を建設した。

ベ-メン王国は11世紀には神聖ローマ帝国の一部となったために、カトリックが普及した。
そしてベーメン王国は、1356年の金印勅書では選帝侯の一つとなっているが、この勅書を発布したルクセンブルク家のカール4世は、べーメン王でもあった。
カール4世はベーメン王力レル1世として首都プラハにプラハ大学を創始している。

息子のジギスムントは、1411年に神聖ローマ皇帝となり、1414年にコンスタンツ公会議を開催して、教会大分裂(シスマ)を終了させた。
しかし、この公会議では、プラハ大学教授であったフスを異端として火刑にしたために、ブス派のベーメン(ボヘミア)(現在のチェコ)住民がフス戦争を起こしている。
この戦争は宗教だけでなく、チェック人のドイツ人支配に対する反抗でもあった。

1526年のモハーチの戦いでハンガリーがオスマン帝国に敗れると、ハブスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の弟であるフェルディナント(1世)が、ハンガリーの一部とべーメン王を継承している。
ベーメンでは宗教改革の後、フス派やルター派といったプロテスタントの勢力が強かった。
ここで、1617年、神聖ローマ皇帝マテイウスの弟のフェルディナント(2世)がべ-メン(ボヘミア)王となると、プロテスタントの多いベーメンは弾圧を受けた。
これに対して1618年にべーメン(ボヘミア)反乱が起こり、三十年戦争が始まった。

三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約でようやく終結したが、ベーメンはこれ以降、ハブスブルク家の支配が確定することになった。
1848年のフランスでの2月革命の影響でウィーン3月革命が起こると、6月にはプラハを中心にべーメン(ボヘミア・チェック人)民族運動が起こっている。
そして、パラツキーを議長とするオーストリア帝国のもとのスラヴ民族の自立をめざしたスラヴ民族会議が開かれている。
しかし諸国民の春とも呼ばれた民族運動は弾圧され失敗している。

オーストリアが第一次世界大戦に敗北すると、1919年のサン・ジェルマン条約によって正式にべーメンはチェコとして独立し、スロバキアと合併してチェコスロバキアとして独立を承認された。
マサリクを初代大統領とするチェコスロバキアは東欧第一の工業国(武器製造)となり、議会制民主主義が発展している。
しかし民族自決のもとにヨーロッパで成立した国々は、ソビエ卜政権となったロシアに対する反共防壁でもあった。

さらにドイツとオーストリアの合併を阻む形で形成されたチェコスロバキアには、その最西端にズデーテン地方というドイツ人が多く住む地域が割譲された。
1935年にマサリクにかわりベネシュが大統領となった頃、隣国ドイツで政権をにぎったナチスが、1938年にオーストリア併合を行った。
そして同年、ナチス・ドイツ、ヒトラーがズデーテン地方の割譲を要求してきた。

この要求に対して開かれたミュンヘン会談では、当事国であるチェコスロバキアの代表は出席を許されないまま、イギリス・フランスの宥和政策によってズデーテン地方はドイツへ割譲された。
翌年の1939年にドイツによってチェコスロバキアは解体され、ベネシユは亡命した。
しかも、西半分のべーメン(ボヘミア)・メーレン(モラヴィア)はドイツに併合され、東半分のスロバキアは保護国とされた。

第ニ次世界大戦が終わると、亡命していたベネシュが帰国してチェコスロバキア共和国は復活した。
しかし、マーシャル・プランの受け入れをめぐって1948年2月にチェコスロバキア・クーデタが起き、チェコで共産党政権が樹立されて、ベネシュは大統領を辞任している。
そして1960年には正式に社会主義国となって、国名もチェコスロバキア社会主義共和国と改称している。

ところが自由化の波が起こると、1968年にノヴォトニーにかわったドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、チェコスロバキアの民主化運動、「プラハの春」が起こった。
しかし、ソ連によるチェコスロバキアヘの軍事介入が行われ、ドプチェはソ連に連行されて「プラハの春」は終わった。

翌年にドプチェクにかわったフサークらは改革派を弾圧した。
これに対して1977年、政府によって基本的人権が損なわれていることを明らかにした憲章77を発表したハヴェルらは、反政府運動を続けた。
そして1989年11月にべルリンの壁が崩壊し、東欧革命(東欧社会主義圏の消滅)の一つとして、チェコスロバキアでもビロード革命と呼ばれる静かな革命よって共産党政権は崩壊した。

このとき、大統領に選出されたのがハウルで、非共産党の政権を成立させ、なんとドプチェクもここで連邦議長とて復権している。
1993年にチェコとスロバキアは平和な連邦解消を行って、それぞれチェコ共和国、スロバキア共和国となった。
チェコは1999年に、スロバキアは2004年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、2004年にはチェコ、スロバキアともに欧州連合(EU)に加盟している。