国名 ドイツ連邦共和国
英語 Federal Republic of Germany
首都 ベルリン
独立年 -
主要言語 独語
面積 (千Km2) 357
人口 (百万人) 80.9
通貨単位 ユーロ
宗教 キリスト教(カトリック2、546万人、プロテスタント2、483万人)、
ユダヤ教(11万人)(2012年、連邦統計庁)、イスラム教(400万人)
主要産業 自動車、機械、化学・製薬、電子、食品、建設、光学、
医療技術、環境技術、精密機械等





歴史
375年 フン族の東進、ゲルマン民族の大移動開始
486年 クロービス、フランク王国を建国。(メロヴィング朝)
751年 小ピピン即位。カロリング朝成立
768年 カール大帝即位
800年 カール大帝、ローマで戴冠
843年 ヴェルダン条約、フランク王国3分割。(仏・伊・独の基)
870年 メルセン条約、ロートリンゲンの東半分が東フランク王国領となる
911年 東フランク王国でカロリング王朝断絶
962年 オットー1世、ローマ皇帝として戴冠。(神聖ローマ帝国成立 -1806)
1077年 カノッサの屈辱。(皇帝の教皇への屈伏)
1096年 十字軍運動が開始
1199年 ドイツ騎士団がエルサレムで設立
1226年  ドイツ騎士団領(1226-1525年)の成立 
1410年 タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団敗北
1525年  プロイセン公国(1525-1618年)の成立 
1618年 ブランデンブルク・プロイセン公国(1618-1701年)の成立
1660年 ブランデンブルク・プロイセン公国、リトアニア・ポーランド王国から独立
1701年 プロイセン王国(1701-1871年)の成立。フリードリヒ1世が神聖ローマ皇帝から王の称号を承認される
1740-1748年 オーストリア継承戦争
1756-1763年 七年戦争。シュレジエン地方を獲得
1772年 第1次ポーランド分割。(プロイセン・オーストリア・ロシア)
1793年  第2次ポーランド分割。(プロイセン・ロシア)  
1795年  第3次分割。 (プロイセン・オーストリア・ロシア) リトアニア・ポーランド王国は消滅
1813年 ライプツィヒの戦い
プロイセン・ロシア・オーストリア・イギリス・スウェーデンの連合軍がナポレオンのフランス軍を破る
1814年 ウィーン条約。プロイセン王国はドイツ西部のライン地方(ラインラント)を獲得
1815年  ドイツ連邦の成立(1815-1866年) オーストリア帝国を盟主として発足
1862年 ビスマルクがプロイセン王国首相に就任
1866年 プロイセン・オーストリア(普墺)戦争。
1867年  北ドイツ連邦の成立(1867~1871) ドイツ連邦解体、プロイセンの覇権確立
1871年 ドイツ帝国(1871-1918年)成立
1914年 第一次世界大戦。ドイツ、対ロシア・対フランス宣戦
1917年 無制限潜水艦(Uボート)作戦宣言。アメリカの対ドイツ宣戦
1918年 ドイツ革命。ヴィルヘルム2世退位・亡命、ドイツ帝国崩壊
1918年 ドイツ降伏、第一次世界大戦終結。
1919年 ドイツ、アルザス・ロレーヌをフランスに返還。多額の賠償金を負う
1919年 ドイツ共和国(ワイマール)憲法制定。議会制民主主義共和国(ワイマール共和国 1919-1933年)成立
1939年 ナチス・ドイツ、プラハ占領。独ソ不可侵条約調印。ポーランド侵攻開始
1939年 イギリス、フランス、対ドイツ宣戦。(第二次世界大戦始まる -1945)
1945年 ドイツ無条件降伏。ドイツ東西に分裂。ドイツ連邦共和国(西ドイツ 1949-1990年)、ドイツ民主共和国(東ドイツ 1949-1990年)成立
1990年 東西ドイツ統一。ドイツ連邦共和国成立


ノイシュバンシュタイン城(Neuschwanstein)
ドイツ、バイエルン地方の岩山の頂に建つネオロマネスク様式の大理石造城郭。
19世紀、建築好きのルートヴィヒ2世が幻想趣味を駆使して建てたもので、C.ジャンク (舞台装置設計家) の案に基づき、建築家 E.リーデル、G.ドルマン、J.ホフマンらが 1869~1886年に建造した。
アメリカ・カリフォルニアにあるディズニーランドのシンデレラ城のモデルとして知られている。



フランク王国の分裂から生れた東フランク王国は、10世紀初頭以来ドイツ王国としての独立性をそなえ、ザクセン部族(Saxony)から出たオットー1世(Otto I)は、962年、法王からローマ皇帝の冠を受けて、初代の神聖ローマ皇帝となった。

帝国統合の手段としての教会支配政策がもとで、11世紀後半に皇帝と法王の衝突が起った。(叙任権闘争)

叙任権闘争の趨勢を決める上で重要な役割を果たしたのは、ドイツ内における有力諸侯であった。
皇帝権強化による自らの権力低下を懸念した諸侯は、皇帝を牽制するためローマ法王の支持に回った。

こうして皇帝の地位が脅かされたハインリヒ4世(Henry IV)は、法王に対する謝罪を余儀なくされる(カノッサの屈辱)。
さらに1096年以降、十字軍運動が開始され、第一回十字軍の軍勢が聖地を奪ってエルサレム王国を建国し、ローマ法王の威光がますます高まった。

一方、バルト海沿岸のプロイセン地方(Prussia)は、先住民であるプロイセン人が住んでいた。
彼らは多神教的な信仰を持っていたため、12世紀以降、異教徒を改宗させる使命を帯びた「十字軍」の標的となった。

プロイセン人たちはその攻撃と戦ったが、結局はドイツ騎士団の支配下に入る。
ドイツ騎士団は、1199年、十字軍の時代にエルサレムで設立された騎士修道会(軍事力を備えたカトリック修道会)であった。

彼らは領地と大義名分を求めて「異教徒と戦う集団」となり、バルト海沿岸まで進出し、そこでプロイセンの先住民を征服する許可をローマ皇帝より得たのである。
1226年、ドイツ騎士団領(1226-1525年)の成立によって、キリスト教化が進められるとともに、プロイセン人たちも徐々にドイツ化していった。

ドイツ騎士団は、続いて異教国リトアニア・ポーランド王国との戦いに身を投じる。
ドイツ騎士団のプロイセン平定は、当時大国であったリトアニアとポーランドに大きな脅威を与え、両国はそれに対抗するため、1386年に合同し、リトアニア・ポーランド連合王国を結成していたのである。

1410年、タンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg)でドイツ騎士団は歴史的な敗北を喫した。
その後もドイツ騎士団は敗北を続け、西プロイセン地方はリトアニア・ポーランド王国の統治下に組み込まれる。
これによってドイツ騎士団領の領土は、東プロイセン地方のみとなった

1525年、リトアニア・ポーランド王ジグムント1世(Sigismund I)は、騎士団領をポーランド王国の保護下に置くと、騎士団総長で甥でもあるホーエンツォレルン家(House of Hohenzollern)出身のアルブレヒト(Albert)を臣従させ、彼を初代プロイセン公に任命した。

これによってドイツ騎士団領は消滅し、東プロイセン地方は「プロイセン公国」(Duchy of Prussia 1525-1618年)となった。

1618年、プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒ(Albert Frederik)が後継者無く没すると、プロイセンは同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯(Prince-elector of Brandenburg)ヨハン・ジギスムント(John Sigismund)が継承することになった。

これによって、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公(Duke of Prussia)を兼務する「ブランデンブルク・プロイセン公国」(Brandenburg-Prussia 1618-1701年)が成立した。
1660年、ブランデンブルク・プロイセン公国は、リトアニア・ポーランド王国から正式に独立したが、西プロイセン地方は依然としてリトアニア・ポーランドの統治下にあった。

(選帝侯(Prince-elector)とは、神聖ローマ皇帝の選挙権をもつ諸侯のこと。当時のドイツ語圏の諸侯すべてに皇帝を選挙する権利はなく、有力な大国の諸侯のみ選挙権を有していた)

1701年、スペイン継承戦争(1701-1714年)が始まると、ブランデンブルク・プロイセン公国は、皇帝側に立って参戦し、プロイセン公フリードリヒ1世(FrederikⅠ)は王号を認められ、「プロイセン王国」(Kingdom of Prussia 1701-1871年)が誕生した。

(スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1714年)
スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対オーストリア、イングランド、オランダ間で行われた戦争。
スペイン王カルロス2世が王位をルイ14世の孫、フィリップ(フェリペ5世)に遺して1700年に没すると、オーストリアら3国は同盟を結び、フィリップの王位継承に反対した)






フリードリヒ1世の死後、プロイセン王国は兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(Frederik WilliamⅠ)、大王フリードリヒ2世(FrederikⅡ)の時代に入る。
この両王の時代に宮廷費の削減、産業の振興が成し遂げられ、プロイセンは中欧における強国の地位に入り込むことができた。

大王フリードリヒ2世は、オーストリア継承戦争(1740-1748年)と七年戦争(1756-1763年)とに勝利することで、現在のポーランド南西部にあたるシュレジエン地方(Silesia)の大部分を獲得した。
彼は、軍制改革を行い、欧州最強といわれる軍を作り上げた。
また、彼自身が啓蒙専制(近代化による富国強兵)君主として産業の振興、自由政策等々を行い、国力を増強した。

1772年のプロイセン・オーストリア・ロシアの3国による第1次ポーランド分割によって西プロイセン地方を領有したことで、プロイセン王国は全プロイセン地方を統治することになった。

さらに1792年と1795年、第2次と第3次のポーランド分割によって、東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。
またこれにより、リトアニア・ポーランド連合王国は滅亡・消滅した。

フリードリヒ2世が没して後、19世紀に入ると、ナポレオン戦争で大敗し、国土の半分を割譲させられる危機に瀕するが、ナポレオンのロシア遠征が失敗し、またプロイセン軍若手(シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツら)の軍制改革やシュタイン(Stein)、ハルテンベルク(Hardenberg)の政治改革により国力を増したプロイセンはロシア・スウェーデン・オーストリア・イギリスと手を組みナポレオンをライプツィヒで破った。

ナポレオン戦争後、オーストリア宰相メッテルニヒ(Metternich)主導の勢力均衡政策により、ヨーロッパに新たな秩序が生まれ、プロイセンを含むドイツ諸国はオーストリアを盟主とするドイツ連邦に組み込まれた。

ドイツ連邦(German Confederation 1815-1866年)
旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体。
1815年のウィーン議定書に基づき、オーストリア帝国を盟主として発足、1866年の普墺戦争のプロイセン王国の勝利をもって解消された。

1814年、ウィーン条約によって、プロイセン王国は新たにドイツ西部のライン地方(Rhineland ラインラント)を獲得した。
この「飛び地」は19世紀に大きく工業化が進んだ地域で、これによってプロイセン王国の国力は更に高まった。

1862年、ビスマルク(Bismarck)がプロイセン王国首相に就任。参謀総長モルトケ、陸相ローンらと共にドイツ統一に乗り出す。
プロイセン王国は、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1864年)でシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をデンマークから奪い、その管理権を巡ってオーストリアと戦争するも(1866年)、これも下し、さらにスペイン王継承の問題でフランスと戦争し(1870-1871年)三たび勝利した。

1866年の普墺戦争に勝利したプロイセン王国は、オーストリアの主導するドイツ連邦を解体し、ドイツ関税同盟によってかねてから結びつきの強かったドイツ北部22邦諸邦と連合する連邦国家「北ドイツ連邦」(North German Confederation 1867~1871年)を成立させた。北ドイツ連邦の国家体制は、1871年のドイツ帝国の母体となり、その機構の大部分は引き継がれた。

普仏戦争の勝利によってプロイセンに主導のドイツ統一に対抗する国はなくなり、1871年、敗戦国フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が行われ、「ドイツ帝国」(German Empire 1871-1918年)が誕生した。
ドイツ帝国の成立によって、プロイセン王国はその構成要素の一部となった。

その後ドイツは皇帝ウィルヘルム2世(Wilhelm II)のもとで帝国主義政策に乗出して、イギリス、フランスなど先進植民地国家の敵対を招き、第一次世界大戦(1914-1918年)で屈辱的な講和を強いられた。
1918年のドイツ革命(German Revolution)によって帝政が崩壊すると、プロイセンはドイツ国(German Reich)を構成する「プロイセン自由州」(Free State of Prussia)となった。

1919年のヴェルサイユ条約によって西プロイセン地方が新生ポーランド共和国に割譲されると、東プロイセン地方は「飛び地」として孤立した。
この状態を解消しようと、1939年にナチス・ドイツはポーランドに宣戦し、第二次世界大戦を引き起こす。

一時はドイツが全プロイセン地方を統治下に置いたが、1945年の敗戦によって状況は一変した。
ドイツ系の住民はプロイセン地方から逃亡し、あるいは追放され、東プロイセンの北部はソヴィエト連邦に、それ以外のプロイセン地方はポーランドに併合された。

これによってドイツの一部としてのプロイセンは消滅する。
第二次世界大戦後、アメリカ、ソ連の冷戦が激化するなかで、1949年、ドイツは東西に分裂したが、1990年 10月、41年ぶりに統合された。





ドイツのライン、マイン、ネッカー、モーゼルなどの河谷は、比較的温暖なため、古くからのブドウ栽培地で、ワインの生産が盛ん。
そのほか各種の園芸農業もみられる。

農業は伝統的有畜農業が広く行なわれているが、北ドイツ低地と南ドイツのアルプス周辺では酪農、牧畜が中心となり、中部ドイツから南ドイツにいたる肥沃なレス地帯では、主としてムギ類、テンサイ、ジャガイモなどが生産される。

EUのなかでの競争力を高めるため、経営の合理化、大規模機械化が進む。
石炭、カリ塩、岩塩、鉄鉱など地下資源も豊富。
世界有数の工業国であり、ザールラント、ルール地方の重工業のほかに、ウォルフスブルクやシュツットガルトの自動車工業、ライン川沿岸の石油化学工業、ベルリンや南西ドイツの電気機器工業に特色がある。