リリアン・ハーヴェイ(Lilian Harvey)

生年月日 : 1906/01/19
出身地 : イギリス/ロンドン
没年 : 1968/07/27

ドイツ人の父とイギリス人の母の間に生まれたリリアンは、8歳の時に家族でドイツに移住。

16歳でウィーンのダンスカンパニーに入団し、ドイツの主要都市をはじめ、ブダペスト、プラハ、
ウィーンなどで公演を行った。

そこで映画監督のロバート・ランド(Robert Land)の目にとまり、1924年にデビュー作「呪い」に出演。
この映画の成功でリリアンは、その後数年にわたり、多くの映画で主役を演じることになった。

1931年、ヴィリー・フリッチとの共演で「会議は踊る」に出演。この作品は英語版・仏語版も作られた。
1933年から1935年にかけて、リリアンはアメリカに招かれ、4本のハリウッド映画に出演した。



1933年1月、ヒトラーが首相に就任する数週間前に、映画雑誌「ビューネ(Buhne)」の読者投票で、
映画女優首位は、ディートリヒでもグレタ・ガルボでもなく、イギリス生まれのリリアンだった。

ドイツ映画だけでなく、フランス、イギリス、そしてハリウッド映画にも出演したリリアンは、
ドイツで最も国際的なスターに近い存在だった。

1939年、第二次大戦が勃発すると、戦火を避けて母の祖国イギリスに渡り、大戦後の1953年、
デンマークの興行王ヴァレール・ラルセン(Valeur Larsen)と結婚、きっぱりと映画界を去った。



代表作品

      会議は踊る(The Congress Dances)1931年(独)

ナポレオン失脚後、諸国の代表が集まりウィーン会議が開かれる。

列席したロシア皇帝は、売り子の娘(リリアン)と知り合い、逢引きを楽しむ。
だがナポレオンのエルバ島脱出の報が伝えられ、皇帝はロシアに帰っていく。

メッテルニヒといえば、ナポレオンの下で、老練な外交手腕を発揮した策略家だが、
演じたコンラート・ファイトは、その権謀術数もかくやと思わせる程の名演だった。

(監督)エリック・シャレル(Erik Charell)
(出演)リリアン・ハーヴェイ(Lilian Harvey)
ヴィリー・フリッチ(Willy Fritsch)コンラート・ファイト(Conrad Veidt)
       

呪い(The Curse)1924年
パッション(Passion)1925年
チャスト・スザンネ(Chaste Susanne)1926年
愛のワルツ(Waltz of Love)1930年
ホクスポクス(Hocuspocus)1930年
給油所の三人(The Three from the Filling Station)1930年
テンポラリーウィドウ(The Temporary Widow)1930年
会議は踊る(The Congress Dances)1931年
踊る奥様(Two Hearts Beat as One)1932年
ブロンドの夢(A Blonde Dream)1932年
私と女王様(The Empress and I)1933年
妾の弱点(My Weakness)1933年
裏切る唇(My Lips Betray)1933年
生ける人形(I Am Suzanne)1933年
白鳥の舞ひ(Black Roses Tania Fedorovna)1935年
今宵も楽しく(Let's Live Tonight)1935年
七つ擲る(Seven Slaps)1937年
舞姫記(Fanny Elssler)1937年
カプリチオ(Capriccio)1938年