国名 モンテネグロ
英語 Montenegro
首都 ポドゴリツァ
独立年 2006年
主要言語 モンテネグロ語、セルビア語
面積 (千Km2) 14
人口 (百万人) 0.6
通貨単位 ユーロ
宗教 キリスト教(正教)、イスラム教等
主要産業 観光業、製造業(アルミニウム、鉄鋼)、農業
 地理
南西部はアドリア海、北西部はボスニア・ヘルツェゴビナ、
北東部はセルビア、南東部はアルバニアに接する。
ディナルアルプスの南端を含む南西部は不毛な石灰岩の
高原地帯で、ゼータ渓谷を除き耕作不能。
東部は草原に恵まれている。

住民はモンテネグロ人が大部分で、ほかにムスリム (スラブ人のイスラム教徒) 、
セルビア人、クロアチア人など。おもにセルビア語が話され、キリル文字が用いられる。
セルビア正教徒のほかイスラム教徒もいる。

旧ユーゴスラビア時代から経済発展が最も遅れた共和国の一つ。
農牧業中心で、コムギ、トウモロコシ、ジャガイモを栽培し、
ヤギ、ヒツジなどの移牧が行なわれる。水力発電が開発され、鉄、鉄鋼、
非鉄金属工業も推進されている。
ボーキサイト、石油を産出する。
主要都市は 1918年まで首都であった古都ツェティニェなど。 




歴史
7世紀 モンテネグロ人等スラブ系民族がバルカン半島に定住。
11世紀 セルビア王国の一部となる。
1389年 コソボの戦いでセルビアがオスマン帝国に敗退後、この山岳地域の住民は実質的に独立状態を維持。
1516年 ツェティニェ家による神政政治が確立。
1878年 露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約、ベルリン条約でオスマン帝国からの完全な独立を承認される。
1910年 公国から王国となる(1916年に王政廃止)。
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 第一次世界大戦後、セルビアに編入され、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の一部となる。
1929年 ユーゴスラビア王国に改称
1941年 第二次世界大戦中、ドイツ、イタリアに占領される。
1945年 ティトーを首班とするユーゴスラビア連邦人民共和国(6共和国で構成)の1共和国となる。
1963年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
ティトー大統領による民族分権と非同盟中立政策。
1980年 ティトー大統領死去。集団指導体制発足
1990年 ミロシェヴィッチ(セルビア社会主義共和国大統領)がセルビア人による民族統一主義を主張
アルバニア系住民による暴動発生。
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年1月 民族紛争とユーゴ解体の中で、セルビア共和国とともにユーゴスラビア連邦共和国を建国。
1992年3月 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
1992年4月 新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)
1995年12月 デイトン和平合意。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・セルビア人共和国連合成立
1999年 コソボ紛争で、セルビアの行動を非難し、アルバニア難民の受け入れに努める。
2003年2月 「セルビア・モンテネグロ」に国名変更。
2006年6月 「モンテネグロ共和国」として独立を宣言。
2007年10月 新憲法を制定し、正式な国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言。
(アメリカ、EU諸国が独立を認め、日本も国家として承認)


スカルペロ聖母島(Gospa od skrpjela)
コトル湾にある町ペラスト(Perast)の岩礁に建設された青いドームをもつ聖母マリア教会。
15世紀、漁船が岩礁にぶつかり大破。
漁師は一命を取り留め、ここで聖母マリアの聖画を釣り上げる。

救命の感謝の意を込め、その岩礁に小島をつくり、その聖画を安置するための教会を建てた。
その後、船乗り達は困難に出遭うと、この聖母の奇蹟の力に助けを求めたという。
教会内部は、ぺラスト(Perast)の画家トリポ・ココリャが描いたキリストと聖母の生涯をテーマとする絵画で飾られている。



7世紀頃、バルカン半島に南下したスラブ系モンテネグロ人は、10世紀に現在のモンテネグロ中部にドュクリャ公国(Duklja)を建国した。
ドュクリャ公国は、11世紀に中世セルビア王国に編入された。

1389年にセルビアがコソボの戦いでオスマン帝国に敗れたのちも、オスマン帝国に朝貢を続けながら、国家を存続した。
1516年以後は、ツェティニェ家によるセルビア正教の主教 (ブラディカ Vladika) が政治権力を手中にし、モンテネグロ特有の神政政治が行なわれた。

1852年、ツェティニェ家が主教から世俗的な公へと転化したため、モンテネグロ公国が成立。
これを契機として宗主国オスマン帝国と武力衝突に発展。

モンテネグロはロシア帝国に支援を仰ぎ、やがて露土戦争が勃発。1878年、露土戦争後のベルリン条約で独立国として承認された。
1910年、公国からモンテネグロ王国となる。(1916年に王政廃止)

1912年、第一次バルカン戦争ではセルビアと協力してオスマン帝国と戦い、第一次世界大戦中はセルビアを援助してオーストリア・ハンガリー帝国軍と戦った。
1918年、南スラブの統一国家セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に統合。 (1929年以後、ユーゴスラビア王国と改称)

第二次世界大戦期、山岳地のモンテネグロは、ドイツをはじめとする枢軸軍に抵抗するパルチザン戦争の主要な舞台となった。
パルチザンが勝利を収め、1945年11月には、ティトーを首班とするユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)が成立。

モンテネグロ人が民族として承認され、モンテネグロは構成6共和国のうち最小の共和国となった。
1963年ユーゴスラビア社会主義連邦共和国のもとでモンテネグロ社会主義共和国と改称。

1980年のティトーの死去後、1980年代の「経済危機」と共和国への昇格を求めるコソボのアルバニア人分離独立問題が長期化。
セルビアでは連邦制の強化を求める動きが顕著になり、民族主義の高まりを背景にして、ミロシェビッチが指導者として登場した。

1980年代末には、連邦制の強化か、あるいは緩い国家連合への移行かをめぐり、セルビアとスロベニアが対立し、旧ユーゴは解体へと向かう。
旧ユーゴが解体していく過程においても、モンテネグロはセルビアとともに連邦維持の立場を貫いた。

1991年6月スロベニア、クロアチアが独立を宣言し、ユーゴ紛争(ユーゴスラビア内戦)が始まった。
1992年1月には、両国がEC(ヨーロッパ共同体)諸国の承認を受けたことから、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が実質的に解体。
スロベニア、クロアチア、そしてマケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言した。

同1992年4月、モンテネグロはセルビアとともに、旧ユーゴを継承するユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア)を建国した。
1995年にボスニア内戦が終息したが、新ユーゴでは、ミロシェビッチが実権を握り続けた。

新ユーゴは国際復帰を果たせず、経済不振が継続したため、モンテネグロは自立傾向を強めた。
また、ミロシェビッチ政権がコソボ紛争(1998~1999年)をめぐり、国際社会と対立し、1999年3月に新ユーゴはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍の空爆を受けた。

この結果、モンテネグロの自立化傾向は強まった。
2000年9月、経済制裁が続く最悪の経済状態のもとで行われた大統領選でミロシェビッチは敗北。
10月の「民衆革命」により、13年に及ぶミロシェビッチ政権は崩壊し、セルビア野党連合(DOS)のコシュトゥニツァが新大統領となった。

モンテネグロの自立化要求を受けて、2003年2月、連邦議会において新ユーゴを連合国家として再編するための憲法的憲章が採択された。

これに伴い、国名がそれまでの「ユーゴスラビア連邦共和国」から「セルビア・モンテネグロ」に変更された。
ユーゴスラビアという名称は完全に消滅した。

その後も、ユーロを通貨とし、経済・法律などの体制もセルビア共和国と異なるモンテネグロ共和国では、独立傾向が強まった。
2006年5月21日に行われた独立の是非を問う国民投票で、独立賛成票が55%を超えた。

この結果を受けて、独立賛成案が議会で可決され、同年6月3日、人口65万人のモンテネグロは独立を宣言した。
すぐに国際的承認を受けることができ、同年6月28日に国連に加盟。

2007年10月に新憲法を制定し、正式な国名をモンテネグロ共和国からモンテネグロに変更した。










ユーゴスラビア史

ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。
かつて第一次世界大戦後に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、1929年に改名してできた国である。

ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国で、現在は改名前の名の中心であったセルビア、スロベニア、クロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国に分離し、さらに2008年にはコソボがセルビアから独立している。

この六つの共和国に五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。

この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所で、4世紀のゲルマン人の大移動後、スラブ人がドナウ川を南下して広がっていく。
その中のスロベニアはフランク王国に服属してカトリックに改宗し、その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、15世紀にはハプスブルク家領となり、1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。

クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。
その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、11世紀末にハンガリー王国に支配され、同じくオーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。

一方で、ビザンツ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、12世紀にはセルビア王国を建国して、14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。
セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan)のときに最盛期を迎えるが、14世紀末にコソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。

そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、1875年にボス・ア・ヘルツェゴビナでオスマン帝国に対しての反乱が起こった。

これに対して、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こしてオスマン帝国が敗北すると、1878年のサン・ステファノ条約に続くべルリン条約で、セルビアとモンテネグロはルーマニアとともに独立が承認された。
さらにボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。

1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。

(青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年)
イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。
アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。
一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得)

1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロはブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。

(イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年)
北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。
イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された)

この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したマケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。

そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。

しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。
この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。
また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、議会を停止して専制政治を進めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。
これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。

そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。
ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。

ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。
父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。
そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。

1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。

この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが新ユーゴスラビアの大統領となると、アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。
これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、国連も介入することとなった。

2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。
2007年にはセルビアとモンテネグロが分離し、2008年にはコソボが独立宣言を行っている。

4世紀 ゲルマン人の大移動後、スラブ人南下
7世紀 南スラブ人(スラブ民族)、バルカン半島に定住完了
8世紀 スロベニア人、フランク王国の支配下に
9世紀 セルビア人、ビザンツ帝国の支配下に
10世紀 クロアチア人、フランク王国の支配下に
11世紀 クロアチア人、ハンガリー王国の支配下に
12世紀 セルビア人、セルビア王国を建国
1389年 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン・トルコ軍(オスマン帝国)に敗北
1496年 モンテネグロが屈し、南スラブ諸地域がオスマン帝国領となる
1875年 ボスニア・ヘルツェゴビナ反乱
1877年 ロシア-トルコ戦争
1878年 サン・ステファノ条約。ベルリン条約
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアとともに独立承認
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得
1908年 青年トルコ革命
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合。セルビアと対立
1912-1913年 第一・第二次バルカン戦争
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 オーストリアが降伏
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言
1919年 サン・ジェルマン条約正式承認
1929年 ユーゴスラビア王国と改称
1939年 第二次世界大戦
1941年 ドイツの侵攻 対 ティトーのパルチザン
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)成立
1948年 ユーゴ、コミンフォルムから追放
1961年 ベオグラードで第1回非同盟諸国会議開催
1963年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
1980年 チトー大統領死去。集団指導体制発足
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア連邦)結成
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。内戦
1997年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。NATOによるセルビア空爆
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2007年 セルビアとモンテネグロが分離
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言。(アメリカ、EU諸国が独立を認め、日本も国家として承認)