国名 オランダ王国
英語 Kingdom of the Netherlands
首都 アムステルダム
独立年 -
主要言語 オランダ語
面積 (千Km2) 42
人口 (百万人) 16.9
通貨単位 ユーロ
宗教 キリスト教(カトリック24.4%、プロテスタント15.8%)、イスラム教(4.9%)、無宗教(53.8%)
主要産業 石油精製、化学、電気、食品加工、天然ガス



歴史
BC6世紀 ネーデルラント北部にゲルマン人、南部にケルト人(ベルガエ族 Belgae)が居住。
BC57年 南部がジュリアス・シーザーに征服されてローマ領に。
734年 フランク王国の支配下に。
870年 フランク王国の分裂に伴い、東フランクに編入。
1050年 イングランドから羊毛を輸入して加工。毛織物工業が繁栄。
1433年 ブルゴーニュ公国の支配下に。
1477年 ハプスブルク家の支配下に。
1556年 スペイン・ハブスブルク家のフェリべ2世の支配下に。
1568年 オランダ独立戦争。(~1648年)
1579年 北部7州、ユトレヒト同盟結成。南部10州は脱落。
1581年 ネーデルラント連邦共和国(1581~1793年)。南部10州(南ネーデルラント)は、スペインの支配下。
1602年 東インド会社設立
1609年 スペインと休戦条約。事実上の独立達成。
1618年 三十年戦争
1648年 ウェストファリア条約。ネーデルラント連邦共和国の独立正式承認
1652~1654年 第1次イギリス~オランダ戦争
1665~1667年 第2次イギリス~オランダ戦争。ニューネーデルラントが奪われる
1667~1668年 南ネーデルラント継承戦争
1672年 オランダ侵略戦争
1688年 名誉革命。ウイリアム3世がイギリス王となり、妻メアリ2世と共同統治。ネーデルラント連邦共和国はイギリスと同君連合。(~1702年)
1701年 スペイン継承戦争。
1714年 ラシュタット条約。南ネーデルラントはオーストリアの支配下に。
1793年 フランスに占領されネーデルラント連邦共和国消滅
1795年 フランス軍がこの地域を占領してバタヴィア共和国を建国。
1799年 オランダ東インド会社解散
1806年 ナポレオンによってバタヴィア共和国は廃され、ホラント王国が成立。弟ルイを国王とする。
1810年 フランスの侵攻により、ホラント王国が併合される
1815年 ウィーン会議で、フランス領ネーデルラントが、南ネーデルラント(オーストリア領ネーデルラント)を獲得。
立憲君主制のネーデルラント連合王国となる。(1815~1830年)
1815年 ウィーン会議で、ケープ植民地、セイロン島をイギリスに割譲。
1830年 ベルギーが独立し、ネーデルラント連合王国は、オランダ王国に改称。
1914年 第一次世界界大戦 オランダ中立
1939年 第二次世界界大戦 ドイツに占領される
1945年 国際連合加盟
1948年 西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)加盟
1949年 北大西洋条約機構(NATO)加盟




キンデルダイク(Kinderdijk)

ロッテルダムから約25Km、南ホラント州 ニーウ・レッケルラント自治体内の地区。

キンデルダイクの土地は、川の水面上昇や地盤沈下を防ぐため、風車による排水システムが、1740年代から使用されている。

国土の 1/4 程度が海面よりも低いオランダでは、排水整備が生活に欠かすことができない重要なインフラとなっているのである。

19基のずらりと風車が並ぶ壮観な光景は圧巻。1997年、ユネスコの世界遺産に登録された。















古代のネーデルラントは、ガリア・ベルギカ地方(Gallia Belgica)とよばれ、古代ローマのガリア属州の一部であった。
民族的にはケルト人とゲルマン人が混在する領域であり、住民はベルガエ人(Belgae)とよばれていた。

1世紀のガリア属州の再編成によって、ネーデルラントは、ライン川を境に南北に分断され、南側は、ゲルマン人と対峙するローマの前線基地の任を負わされた。

476年、ローマ帝国の滅亡後、ネーデルラントは、メロヴィング朝フランク王国の中心地となり、8世紀までのカロリング朝においても中心的領域であった。
カール大帝の死後、フランク王国が3分割されると、ネーデルラントは東フランク王国に編入された。


東フランク王国は力ロリングが断絶し、オットー1世によって神聖ローマ帝国となる中、ネーデルラントは海岸に沿っていたために、ノルマン人の侵入が激しかった。
そのため、ヴァイキングと呼ばれた人々に対抗するため各地で封建国家が誕生している。
さらに、海港と川という水運に恵まれたネーデルラントは経済的にも発展し、神聖ローマ帝国に属しながらも独立性の高い地域となる。

14世紀末、フランス王家にもつながるフランス東部のブルゴーニュ公国が、南ネーデルラントのフランドル伯領を婚姻によって獲得し、この地域を政治的に統一して支配することになった。

(ブルゴーニュ公国(Duchy of Burgundy 1384~1477年)
ヴァロワ朝ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公の支配領域。
支配領域は、ブルゴーニュ公領(現在のフランス東部)、ネーデルラント(現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク)
4代目のシャルル公(Charles the Bold 在位:1467~1477年)の死後、1477年にブルゴーニュ公領はフランス王領に編入され、ネーデルラントはシャルルの一人娘マリーがハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したことにより、ハプスブルク家に継承された)

そしてハブスブルク家のマクシミリアン1世がこのブルコーニュ公の娘と結婚した結果、ネーデルラントはハブスブルク家のものとなった。
マクシミリアンの孫の力ール5世は、母の家系から1516年にスペイン王となって、スペイン・ハブスブルク家を誕生させている。
力ール5世は、1519年に神聖ローマ皇帝となったが、この時代にマルティン・ルターによる宗教改革が起こった。

(力ール5世(Charles V)
ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519~1556年)
母がスペイン王女のため、1516年、スペイン王となった。
スペイン国王(在位:1516~1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる)


1555年のアウクスブルクの宗教和議でルター派を承認した翌年、カール5世(カルロス1世)は引退し、スペイン王位とともにネーデルラントを息子のフェリペ2世に与えた。
この結果、ネーデルラントはスペイン・ハブスブルク家のものとなった。

(フェリべ2世(Philip II )
スペイン王(在位:1556~1598年)
イングランド女王メアリー1世と結婚期間中共同統治者としてイングランド王フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。
また1580年からはフィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた)

ところが、ネーデルラントは力ルヴァン派の新教徒(ゴイセン)が多かった。
フェリペ2世はカトリックを強制して新教を弾圧し、ネーデルラントの支配を強化しようとした。
そのためにオラニエ公ウィレム1世(William I, Duke of Orange)を中心に、1568年にオランダ独立戦争が開始された。

カトリックの多かった南部10州は脱落するが(後のベルギー)、北部7州(これが今のオランダになる)は、1579年、ユトレヒト同盟を結成して、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)として独立を宣言した。

(ユトレヒト同盟(Union of Utrecht)
オランダ建国の元となった、1579年の対スペイン軍事同盟。
80年戦争中の1579年1月23日、ネーデルラント北部7州が、ユトレヒト州の首都ユトレヒトにて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印した。
この協定では、各州に自治権があることに合意し、また信仰の自由を原則とした)

オラニエ公ウィレム1世を初代オランダ総督として、以後もオラニエ家がこの総督位を世襲するなど、共和国であるが王政に近い政治体制だった。
また北部7州の中心州がホラント州で、これがオランダの語源となった。
1585年にフランドルのアントワープがスペイン軍に占領されたものの、1602年に東インド会社を設立した後の1609年にスペインとの12年の休戦条約を結んで、オランダは事実上の独立を達成している。

そして海洋国であったオランダは高い造船技術をもってパルト海での交易などで栄えた。
しかし、バルト海交易の中心地であったドイツで1618年に三十年戦争が起こると、オランダは、東インド会社・アジア・西インド会社を中心に大西洋地域での海外貿易に力を入れた。
(この西インド会社はブラジルに侵攻してブラジルの一部をポルトガルより獲得している)

アジアでは、香料貿易をポルトガルから奮って、ケープ植民地やジャワ島西部にパタヴィア(現ジャカルタ)を築いている。
インドでもセイロン島をポルトガルから奪い、1623年のモルッカ(マルク・香料)諸島のアンボイナ事件では、イギリスの勢力を東南アジアから撤退させている。

台湾にもゼーランディア(安平)城を築いて中国との貿易の拠点とし、日本では江戸幕府において、長崎での交易をヨーロッパで唯一認められている。
新大陸では、ニューネーデルラントをハドソン川下流域に形成し、1625年にはハドソン川のマンハッタン島にニューアムステルダムを建設している。
南米では砂糖プランテーションを経営し、大西洋三角貿易にも加わって、17世紀には世界経済の中心となり、覇権国家となった。

アムステルダムは商業と金融の中心都市として発展し、オランダは黄金期を迎えた。
1648年のウェストファリア条約でスイスとともにオランダの独立が国際的に承認されて、80年にわたるスペイン・ハブスブルク家との戦争は終結した。

しかしイギリスでクロムウェルの共和政府が出した航海法をきっかけに、1652~1654年に第1次イギリス~オランダ戦争(英蘭戦争)が起こり、1665~1667年の第2次イギリス~オランダ戦争ではニューネーデルラントが奪われ(1664年にイギリスが中心市ニューアムステルダムをニューヨークと改名)、1672~1674年の第3次イギリス~オランダ戦争でも敗北して、世界貿易の覇権をイギリスに奪われていくことになる。

本国でもフランスのルイ14世が1667年に南ネーデルラント継承戦争を起こし、オランダはこれを妨害したために1672年にオランダ侵略戦争を受けている。

(南ネーデルランド継承戦争(War of Devolution 1667~1668年)
フランスとスペイン間のネーデルラントの南部にあたるフランドル地方を巡る戦争。
現在のベルギー・ルクセンブルクに当たる南ネーデルラントは当時スペイン領であったが、1665年にスペイン王フェリペ4世の死後、ルイ14世は王妃マリー・テレーズがフェリペ4世の王女だったことから継承権を主張し、1667年5月に南ネーデルラントに侵攻した)

(オランダ侵略戦争(Franco-Dutch War 1672年)
ネーデルラント継承戦争でフランス王ルイ14世はスペイン領ネーデルラントに侵攻したが、オランダがイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結、フランスに圧力をかけたため領有に失敗した。
ルイ14世はこの時のオランダの行為を不快視し、オランダ侵略の意志を露わにした。
そのために三国同盟の切り崩しを図り、イングランドに接近した。

1670年にイングランド王チャールズ2世とルイ14世との間でドーヴァーの密約が成立。
1671年までに神聖ローマ帝国諸侯のほとんどと同盟・中立関係を結び、スウェーデンとも1672年に仏瑞同盟を締結してオランダを包囲した。
そして1672年3月にイングランドがオランダに宣戦布告して第三次英蘭戦争を始めるとフランスも4月に宣戦布告、係争中のオランダに侵攻した)

このフランスへの対抗もあって、オランダはイギリスと和睦して、当時の王政復古で王となっていたチャールズ2世の弟(後のジェームズ2世)の娘メアリが、オランダ総督オラニエ公ウィレムに嫁いでいる。
ウィレムは、1688年の名誉革命でウィリアム3世としてイギリス王となり、妻メアリ2世と共同統治を行ったために、イギリスとオランダは1702年までの問、同君連合となる。
しかしフランス革命が起こると、1793年にオランダはフランスに占領され、ネーデルラント連邦共和国は消滅している。

一部の亡命者によってパタヴィア共和国が成立したが、後にはフランスに併合された。
海外ではフランスによる本国支配と植民地経営の失敗もあり、1799年にはオランダ東インド会社は解散し、ケープ植民地やセイロン島などをイギリスによって一時占領されている。

しかし、ナポレオンが失脚した後のウィーン会議におけるウィーン議定書によってオランダは、南ネーデルラントを獲得してオランダ立憲王国となった。
ところが1830年のフランス7月革命の影響で、ブリュッセルで武装蜂起が起こり、南ネーデルラントはレオボルド1世を王に迎えて独立した。
(ベルギー独立)

このベルギーの独立に加え、ジャワ島のイスラム諸侯の反乱であるジャワ戦争によって財政難となったオランダは、ファン・デン・ボスが導入した強制栽培制度をジャワ島で行っている。
さらにスマトラ北西部のアチェー王国とのアチェ一戦争(1873~1912年)にも勝利したオランダは、現在のインドネシアにオランダ領東インドを成立させていく。

第一次世界大戦で中立を維持したオランダが、1920年に設立された国際連盟に参加すると、常設国際司法裁判所をハーグに設置された。
1921年のワシントン会議における9か国条約にも調印して、中国の領土保全・主権尊重・機会均等を約束し、1928年の不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)も翌年に調印している。
第ニ次世界大戦ではドイツに占領されたが、戦後のオランダは国際連合の原加盟国となり、国際司法裁判所がハーグに置かれている。

また、ベネルクス3国としてフランス・イギリスとともに西ヨーロッパ連合条約(ブリュツセル条約)を結び、反ソ軍事同盟の北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国となっている。
さらには、1951年のヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)におけるスタートのメンバーでもある。

ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)や、これらが統合された1967年のヨーロッパ共同体(EC)にも加盟し、ヨーロッパ連合(EU)を発足させたマーストリヒト条約はオランダで調印されている。


地理

ヨーロッパ北西部の国。ただし、行政府と議会などはハーグに、王宮はユトレヒト州のスーストダイクにある。
東はドイツ、南はベルギーに接し、西および北は北海に面し、国内は 12の州に分かれている。
ほかに、海外領土としてオランダ領アンティル諸島をもつ。

南東部のリンブルフ州に中生代の岩石からなる丘陵地帯 (323m) があるほかは、全体に低平で、国土の5分の2は海面より低く、多くの砂丘や堤防により海水の浸入を防いでいる。
南部および東部には、氷堆石丘や泥炭地を交えた砂質土の地帯がある。東部中央の氷堆石丘地帯は厚い森林で覆われているが、北東部の泥炭地帯では開発が進んで耕地や放牧地が多い。
南西部はライン川とマース川の沖積地で、沼沢地も多く、集落や耕地は自然堤防上に立地する。

北海沿岸部は、砂丘や堤防を連ねて干拓が進められている、いわゆるポルダー地帯である。
気候は海洋の影響を受けて温暖で、平均気温は冬でも氷点前後、夏は約 21℃であるが、天候はきわめて不安定で、晴天日数は年間約 25日にすぎない。
西ないし南西の風が卓越し、沿岸部では強風に見舞われることが多い。オランダは人口密度が高いことで知られるが、1950年代中頃からは人口の都市集中も激しく、都市人口率は 90%近くに達している。

ロッテルダム、ハーグ、ライデン、アムステルダム、ユトレヒトなどの都市を含む半環状の地帯は、酪農地帯を取り囲んで、人口、産業の集中の著しい一大都市圏を形成しており、「ラントスタット」と呼ばれている。
国土の 70%近くが農用地で、酪農と畜産、果樹とチューリップやクロッカスなどの園芸農業に特色がある。

工業化は、天然資源の産出がないため遅れたが、19世紀中頃から農産物加工、造船、織物、製紙などの伝統的工業の近代化に努め、さらに電気機器、機械などの部門が加わった。
20世紀に入り、リンブルフ炭田の開発により製鉄、金属工業が発達、さらに第二次世界大戦後は、石油精製、石油化学、航空機製造などの近代工業も著しく伸び、工業製品の輸出は多い。
オランダでは、内陸水路網の発達が顕著であるが、海運の面でも世界有数の船舶保有国である。

ロッテルダムやアムステルダムが水運業の中心で、特にロッテルダム港湾地区に建設されたユーロポールトは、北西ヨーロッパで最重要の港である。ヨーロッパ連合 EUの原加盟国。
ベルギー、ルクセンブルクとともにベネルックス3国と呼ばれる。