国名 ポーランド共和国          
英語 Republic of Poland  
首都 ワルシャワ  
独立年 -  
主要言語 ポーランド語  
面積 (千Km2) 322  
人口 (百万人) 38.5  
通貨単位 ズロチ  
宗教 カトリック (人口の約88%)  
主要産業 食品、金属、自動車、電子機器  
コークス・石油精製  
         

マルボルク城(Malbork)

マルボルクは、ポーランド北部、ポモルスキェ県の工業都市。グダニスク南東約 40km、ヴィスワ川支流のノガト川沿いに位置する。
マルボルク城は、ドイツ騎士団がバルト海沿岸地方征服の拠点として、1274年に建設したもの。

ドイツ騎士団が敗れた後にはポーランド王国の所有する城として城の増築が行われた。
第二次世界大戦の末期、ロシア軍とドイツ軍の戦闘により激しく破壊されたが、ポーランド市民の手で修復され現在の姿に復元された。

1997年、ヨーロッパ最大の煉瓦造りの城として、世界遺産の文化遺産に登録された。






地理

北東はロシアとリトアニアに、東はベラルーシとウクライナに、南はチェコとスロバキアに、西はドイツに接する。

平均標高 173m、国土総面積の約 70%が標高 200m以下で、500mをこすのは総面積のわずか3%である。

マズリ、ポモジェの二つの湖沼地帯からなる北部低地から、南に向かって高くなり、カルパティア山脈にいたる。
最高点はカルパティア山脈西部にあるゲルラホウスキー峰 (2655m) 。

国土のほぼ中央部をヴィスワ川が、東端をオドラ川 が、それぞれ多数の支流を伴って流れ、バルト海に注ぐ。
気候は全般に大陸性気候で、年平均気温は南西部低地で8℃、北東部で6℃。

国土の約4分の1を広葉樹、針葉樹の混合林が占め、シカ、クマ、キツネなどが生息する。
第1次世界大戦後、一時は絶滅を伝えられたヨーロッパバイソンも保護区外でみられる。


鉱物資源は南部が豊富で、カトヴィツェの石炭を中心に、硫黄、鉄、亜鉛、鉛、銅などを産するほか、南東部では油田、天然ガス田の開発が進んでいる。

国土の約半分が耕地化され、ジャガイモ、サトウダイコン、ライムギ、コムギ、オオムギなどの栽培、ブタの飼育が行なわれるが、
農業は国内総生産の7分の1強を占めるにすぎない。

工業は 1990年代初めから国営企業の民営化が推進され、国内総生産の3分の1強を占める。
鉄鋼、化学、繊維、製紙、電機、造船などがその中心。

主要輸出品は石炭、銅、硫黄、船舶で、貿易相手国をソビエト連邦からヨーロッパ連合 EU諸国に転換するなど、多角化をはかっている。











歴史

ポーランドの国名の由来は、スラブ語のポーレ(Pole 平原)であり、
ポーランドは平原の土地(Poland)を意味する。

だが、自然の障壁のない平坦な国土のゆえに、周辺の大国から侵略されやすく、
苦難の歴史を歩むことにつながったといえる。


バルト海に面したポーランド平原は、375年、ゲルマン人が西方へ移動すると、
西スラブ人と呼ばれるスラブ人の部族が居住するようになった。

彼らは、スラブ語を話し、草原地帯での素朴な農耕生活を送っていた。


966年、ピアスト家の当主ミェシュコ1世(Mieszko I 935~992)が部族を取りまとめ、
ポーランド公(在位963~992)として、ポーランド公国ピアスト朝を創始した。


1025年、ボレスワフ1世(Boleslaw I 966~1025)の時に、ローマ法王ヨハネス19世によって
ポーランド公国は王国として認知されポーランド王国となり、国境を確定した。

1364年、カジミェシュ3世(Casimir III the Great 在位1333~1370年)の時には、
国内の経済も向上し、ポーランド最古の大学であるヤゲウォ大学を設立している。


だが当時のポーランドは、ドイツ騎士団の侵入に悩まされていた。

ドイツ騎士団は、かつて十字軍に参加した修道士たちの武装集団であった。
彼らは、聖地エルサレム巡礼者の保護を目的として結成され、十字軍の中核として活躍。

ドイツ騎士団は引き続き、バルト海沿岸へ向かった。

リトアニアをはじめとするバルト海諸民族は多神教的な信仰を持っていた。
そのため、異教徒を改宗させる使命を帯びたドイツ騎士団の恰好の標的となった。


バルト海諸民族は、ドイツ騎士団の攻撃と戦かったが、次々と征服され、
彼らの土地はドイツ騎士団領に組み込まれていった。


バルト海への出口をふさぐ格好でドイツ人の国家が成立したことは、ポーランドと
その東隣のリトアニアの将来にとって、重大な意味を持つことになった。



1386年、ドイツ騎士団の脅威に対抗するため、ポーランドはリトアニアと国家連合を結成、
リトアニア・ポーランド連合王国を成立させた。

1410年、タンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg)でリトアニア・ポーランド連合王国は
ドイツ騎士団を破り、バルト海諸民族を解放することに成功した。



リトアニア・ポーランド連合王国は、その後も勝利を続け、1457年、ドイツ騎士団領を占領した。

1525年、リトアニア・ポーランド王ジグムント1世(Sigismund I)は、当時の騎士団長アルブレヒト
(Albert)にプルーセンの土地を封土として与え、彼を初代プロイセン公に任命した。

これによってドイツ騎士団は消滅し「プロイセン公国」(Duchy of Prussia)が成立。
このプロイセン公国は、やがてビスマルク(Bismarck)によってドイツ帝国へと発展することになる。


1569年には単一国家としてのポーランド・リトアニア共和国が成立。
ポーランドはリトアニアとともに、バルト海から黒海沿岸まで広がる中欧の大国となった。



1620年、領土拡大を狙うオスマン帝国がポーランド・リトアニア共和国に侵攻。(オスマン戦争)

1634年、最終的にポーランド・リトアニア共和国はオスマン帝国の撃退に成功したが、
14年間の長期にわたりオスマン帝国と戦い続けた結果、共和国内部は物質的に疲弊してしまった。



1648年、支配地のウクライナ地方で農民一揆が発生、この一揆はまもなく鎮圧されたが、
その後1654年、ロシアがウクライナ人の保護を口実としてポーランド・リトアニア共和国に侵攻。

1655年7月、リトアニアの首都ビリニュスはロシア軍によって破壊され炎上、数千人の市民が犠牲となった。

1667年1月、休戦条約が結ばれ、ポーランド・リトアニア共和国は、ドニエプル川のウクライナ左岸地方を
ロシアに割譲した。

この戦争で東ヨーロッパにおける覇権はロシアに移り、ロシアは帝国としての威容をととのえていった。


その後、ポーランド・リトアニア共和国は、1772年、1792年、1795年にロシア、オーストリア、
プロイセンの三国によって分割され、共和国は消滅し、ポーランドはヨーロッパの地図から姿を消した。



土地を失ったポーランド人たちは、傭兵や小作農に従事して糊口を凌ぎ、
祖国の復活に思いをはせる日々を送っていた。

1796年、ナポレオンのイタリア遠征に、ポーランド人たちは傭兵として従軍した。
ポーランド人は勇敢に戦い、ナポレオン軍は各地で勝利を重ねた。

このとき傭兵たちの間で歌われた「ポーランドいまだ滅びず」で始まる進軍の歌は、
現在のポーランド国歌となっている。


1807年、ナポレオン軍はプロイセンに勝利し、プロイセン領ポーランドの土地に
ワルシャワ公国(Duchy of Warsaw)が建国された。

祖国ポーランドは、ナポレオンによってワルシャワ公国として独立を回復し、
敗れたプロイセンは、エルベ川以西の領土を失ったうえ巨額の賠償金を課せられた。

ワルシャワ公国は、フランスの保護下にあったが、独自の軍隊を持ち、
ナポレオン法典を範とした近代的憲法を制定した。



数々の戦果を上げたナポレオンは、1812年、ロシア遠征を決行する。

多くのポーランド人たちは、ポーランドの主権を回復出来る人物は
ナポレオンしかいないと信じて期待した。

しかしロシア遠征に失敗したナポレオンが失脚すると、1815年のウィーン会議で
ワルシャワ公国は廃止され、ポーランド立憲王国(Congress Poland)が成立した。

だが国王はロシア皇帝が兼ねているため、実質的にはロシア領であった。

1830年、フランスの七月革命に刺激され、ワルシャワでポーランドの反乱(ワルシャワ蜂起)が起こった。
この反乱は翌年まで続いたが、ロシア軍によって鎮圧されてしまった。

ショパンが祖国の悲劇に憤激し「革命エチュード」を作曲したのがこの時である。



第一次世界大戦は、ロシア、オーストリア、そしてドイツに大きな混乱をもたらした。
専制君主国家ロシアとオーストリアは崩壊し、敗戦国ドイツは莫大な賠償金を負わされた。

このような国際情勢を巧みに利用し、ポーランドは1918年11月に独立を宣言。
1919年のパリ講和会議でポーランド共和国として正式に独立した。


だが二次世界大戦の勃発と同時にドイツ軍に占領された。
さらにその後、ソ連もポーランドに侵攻し、ドイツとソ連でポーランドは分割されてしまった。

1941年6月に独ソ戦争が開始されると、ドイツの勝利によりポーランドはすべてドイツの支配下に入った。
この支配下で多くのユダヤ系ポーランド人が、アウシュビッツなどの強制収容所に収監され殺害されている。



1945年2月のヤルタ会談で、米英は、ポーランドをソ連が治めることに同意した。
1945年5月、ドイツが降伏し大戦が終わると、ソ連によるポーランド支配がはじまった。

1956年、反ソ暴動が発生し、その後も、労働者の大きな暴動が頻発するようになる。

1980年、ワレサ(Walesa)の指導のもと、労働者の全国組織「連帯」が結成され、
自由を求める大きな社会勢力となった。

ソ連政府は、連帯の幹部を逮捕するなど厳しい弾圧を加えたが、この動きはかえって、
ポーランド人たちの民主化意識を高め、さらに結束する契機となった。


1986年、チェルノブイリ原発事故が発生、この事故でソ連の権威は失墜し、
その後のソ連崩壊の引き金となった。

1989年6月、ポーランド総選挙が行われ、連帯が圧勝、同年12月、憲法を改正し、
東欧初の非共産政権ポーランド共和国が成立した。

翌年1990年、連帯議長のワレサがポーランド大統領に就任、
ポーランドは、新たに発展の道を歩みはじめることになった。



400年 西スラブ人が、ポーランド地方に移住
966年 ポーランド公国ピアスト朝 (Piast dynasty 966~1370年) の成立。カトリックを受容
1025年 ポーランド王国 (1025~1386年) の成立
1386年 リトアニア・ポーランド王国 (1386~1569年) の成立
1386年 ヤゲウォ朝 (Jagiellonian dynasty 1386~1572年)の成立
1410年 タンネンベルクの戦い。ドイツ騎士団を臣下へ。
1569年 ポーランド・リトアニア共和国(第一共和国)(1569~1795年) の成立
1572年 ヤゲウォ朝断絶
1572年 選挙王政(1572~1791年)の実施
1772年 第1次ポーランド分割(露、普、墺)
1793年 第2次ポーランド分割(露、普)
1795年 第3次分割によりポーランド国家消滅(露、普、墺)
1807年 ティルジット条約でワルシャワ大公国(1807~1813年)の成立
1815年 ポーランド立憲王国(1815~1867年)の成立。ロシア皇帝が王を兼ねる事実上のロシア領に。
1830年 ポーランド反乱(11月蜂起、ワルシャワ蜂起)
1848年 ボズナニ蜂起
1863年 ポーランド反乱(1月蜂起)
1918年 ポーランド共和国(第二共和国)(1918~1939年)の成立。ポーランド回廊、ダンツィヒを獲得
1920年 ソビエト~ポーランド戦争
1939年 ドイツ、ダンツィヒ返還。ポーランド回廊要求。
1939年 ドイツ、ポーランド侵攻。第二次世界大戦。ソ連もポーランド侵攻。ポーランド分割。
1941年 独ソ戦争。ドイツ、ポーランド占領
1945年7月 国民統一政府の樹立
1952年 ポーランド人民共和国(1952~1989年)の成立
1956年 ポーランド反政府反ソ暴動(ボズナニ暴動)ゴムルカ
1970年 ポーランド反政府運動。ゴムルカ失脚。ギエレク政権。
1980年 ポーランド自主管理労組「連帯」ワレサ
1989年2月 「連帯」は合法化。6月の選挙で「連帯」勝利
1989年9月 非社会主義政権の成立
1989年12月 憲法改正。非社会主義化。ポーランド共和国(第三共和国)(1989年~) の成立
1990年 ワレサ大統領
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟








アウシュビッツ (Auschwitz)


ポーランド南部の都市クラクフ(Krakow)から車で1時間30分、
ナチスによるユダヤ人虐殺の現場、アウシュビッツ強制収容所がある。

ユダヤ人など約140万人がここで命を落とした。

現在、この強制収容所は博物館として公開されているが、二度と繰り返してはならない
戦争犯罪を象徴するものとして、1979年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。


そもそもユダヤ人という人種は存在しない。
ではナチスは、どうやってユダヤ人を見分けたのか。

まず戸籍を調べ、宗教がユダヤ教となっている者がまっさきにターゲットになった。

次にユダヤ人を定義する法律(ニュルンベルク法 1935年)を作った。
祖父母のうち3人以上がユダヤ教徒の場合、その者はユダヤ人、というものである。

このため本人の信仰とは関わりなくユダヤ人とされた人間が大勢いたのである。

(住所:Memorial and Museum Auschwitz II-Birkenau,Ofiar Faszyzmu 12 32-600 Brzezinka,Poland)