国名 ポーランド共和国
英語 Republic of Poland
首都 ワルシャワ
独立年 -
主要言語 ポーランド語
面積 (千Km2) 322
人口 (百万人) 38.5
通貨単位 ズロチ
宗教 カトリック (人口の約88%)
主要産業 食品、金属、自動車、電機電子機器、コークス・石油精製
地理
中央ヨーロッパ東部、バルト海に面する国。
北東はロシアとリトアニアに、東はベラルーシとウクライナに、
南はチェコとスロバキアに、西はドイツに接する。
平均標高 173m、国土総面積の約 70%が標高 200m以下で、
500mをこすのは総面積のわずか3%である。

マズリ、ポモージェの二つの湖沼地帯からなる北部低地から、
南に向かって少しずつ高くなり、スデティ山脈、カルパート山脈
にいたる。
最高点はカルパート山脈西部の高タトリ山地にある
ゲルラホフスキーシュチート (2655m) 。

国土のほぼ中央部をウィスワ川が、東端をオドラ川 が、
それぞれ多数の支流を伴って流れ、バルト海に注ぐ。
気候は全般に大陸性気候で、年平均気温は南西部低地で8℃、
北東部で6℃。年平均降水量は約 600mmで、山地では
800~1200mm、中央低地では約 450mm。

国土の約4分の1を広葉樹、針葉樹の混合林が占め、
シカ、クマ、キツネなどが生息する。
第1次世界大戦後、一時は絶滅を伝えられたヨーロッパバイソンも
保護区外でみられる。
鉱物資源は南部が豊富で、上シロンスクの石炭を中心に、
硫黄、鉄、亜鉛、鉛、銅などを産するほか、南東部では油田、
天然ガス田の開発が進んでいる。

国土の約半分が耕地化され、ジャガイモ、サトウダイコン、ライムギ、
コムギ、オオムギなどの栽培、ブタの飼育が行なわれるが、
農業は国内総生産の7分の1強を占めるにすぎない。
工業は 1990年代初めから国営企業の民営化が推進され、
国内総生産の3分の1強を占める。

鉄鋼、化学、繊維、製紙、電機、造船などがその中心。
主要輸出品は石炭、銅、硫黄、船舶で、貿易相手国をソビエト連邦
からヨーロッパ連合 EU諸国に転換するなど、多角化をはかっている。








































歴史
600年 西スラブ人が、ポーランド地方に移住
966年 ポーランド公国ピアスト朝 (Piast dynasty 966~1370年) の成立。カトリックを受容
1025年 ポーランド王国 (1025~1386年) の成立
1386年 リトアニア・ポーランド王国 (1386~1795年) の成立
1386年 ヤゲウォ朝 (Jagiellonian dynasty 1386~1572年)の成立
1410年 タンネンベルクの戦い。ドイツ騎士団を臣下へ。
1569年 ポーランド・リトアニア共和国(第一共和国)(1569~1795年) の成立
1572年 ヤゲウォ朝断絶
1572年 選挙王政(1572~1791年)の実施
1772年 第1次ポーランド分割(露、普、墺)
1793年 第2次ポーランド分割(露、普)
1795年 第3次分割によりポーランド国家消滅(露、普、墺)
1807年 ティルジット条約でワルシャワ大公国(1807~1813年)の成立
1815年 ポーランド立憲王国(1815~1867年)の成立。ロシア皇帝が王を兼ねる事実上のロシア領に。
1830年 ポーランド反乱(11月蜂起、ワルシャワ蜂起)
1848年 ボズナニ蜂起
1863年 ポーランド反乱(1月蜂起)
1918年 ポーランド共和国(第二共和国)(1918~1939年)の成立。ポーランド回廊、ダンツィヒを獲得
1920年 ソビエト~ポーランド戦争
1939年 ドイツ、ダンツィヒ返還。ポーランド回廊要求。
1939年 ドイツ、ポーランド侵攻。第二次世界大戦。ソ連もポーランド侵攻。ポーランド分割。
1941年 独ソ戦争。ドイツ、ポーランド占領
1945年7月 国民統一政府の樹立
1952年 ポーランド人民共和国(1952~1989年)の成立
1956年 ポーランド反政府反ソ暴動(ボズナニ暴動)ゴムルカ
1970年 ポーランド反政府運動。ゴムルカ失脚。ギエレク政権。
1980年 ポーランド自主管理労組「連帯」ワレサ
1989年2月 「連帯」は合法化。6月の選挙で「連帯」勝利
1989年9月 非社会主義政権の成立
1989年12月 憲法改正。非社会主義化。ポーランド共和国(第三共和国)(1989年~) の成立
1990年 ワレサ大統領
1999年3月 NATO加盟
2004年5月 EU加盟


マルボルク城(Malbork)
マルボルクは、ポーランド北部、ポモルスキェ県の工業都市。
グダニスク南東約 40km、ウィスワ川支流のノガト川沿いに位置する。
マルボルク城は、ドイツ騎士団がバルト海沿岸地方征服の拠点として、1274年に建設したもの。

ドイツ騎士団が敗れた後にはポーランド王国の所有する城として城の増築が行われた。
第二次世界大戦の末期、ロシア軍とドイツ軍の戦闘により激しく破壊されたが、ポーランド市民の手で修復され現在の姿に復元された。
1997年、ヨーロッパ最大の煉瓦造りの城として、世界遺産の文化遺産に登録された。




600年、西スラブ系ポーランド人が、ポーランド地方に定住し、ポーランドを建国。
966年、ピアスト家の当主ミェシュコ1世(Mieszko I 935~992)が部族を取りまとめ、ポーランド公(在位963~992)として、ポーランド公国ピアスト朝を創始した。

1025年、ボレスワフ1世(Bolesław I 966~1025)の時に、ローマ法王ヨハネス19世によってポーランド公国は王国として認知されてポーランド王国となり、国境を確定した。

その後、ドイツ騎士団などが行った東方植民や1241年のモンゴルによるレグニツァの戦い(Battle of Legnica)で敗北したために、一時衰退した。
それでも、14世紀のカジミェシュ3世(Casimir III the Great 在位1333~1370年)は貴族の力を抑え、ユダヤ人を保護して経済も向上させ、ポーランド初の大学であるヤゲウォ大学を設立している。

彼の娘がポーランド女王になり、ドイツ騎士団に対抗するために、リトアニア大公国のヤゲウォと結婚して1386年にリトアニア・ポーランド王国が誕生した。
こうして成立したのがヤゲウォ朝(Jagiellonian dynasty 1386~1572年)で、1410年にタンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg)でドイツ騎士団軍を破り、臣下とすることに成功している。

1569年には単一国家としてのポーランド・リトアニア共和国が成立。
これにより両国は、共通の君主と二院制議会を有し、共同で外交政策を決定することになった。

君主の存在にもかかわらず「共和国」と呼ばれるのは、総人口の約 8 パーセントを占めた貴族身分シュラフタ(Szlachta)の力が強かったためである。
シュラフタは二院制議会で国王を選挙で選び、議会を通じて国政を主導する立場にあった。

だが1572年にヤゲウォ朝が断絶すると、その後周辺諸国の干渉に加え、オスマン帝国の侵攻も受けて、王権は弱体化していく一方だった。
17世紀後半の第2次ウィーン包囲でポーランドはオスマン帝国を撃退するものの、18世紀になるとさらに貴族どうしの争いが激しくなった。

これに乗じて1772年にロシア(エカチェリーナ2世)・プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(マリア・テレジア・ヨーゼフ2世)による第1回ポーランド分割が行われ、ポーランドは領土の一部を3国に奪われた。
ヨーロッパでフランス革命が起こると、そのすきにロシア・プロイセンの2国によって1793年に第2回ポーランド分割が行われ、さらに領土は縮小した。

この間にアメリカ独立戦争で義勇軍として参加していたコシューシコ(Kosciuszko)は(ワシントンの副官でもあった)、第2回の分割後に帰国し、クラクフ(Krakow)で蜂起してその分割に抵抗した。
しかしロシア・プロイセン軍に敗北し、1795年のプロイセン・ロシア・オーストリアの3国による第3回ポーランド分割によってポーランド王国は消滅した。
(ちなみにこれによってポーランド・リトアニア共和国も解体した) 
                  
プロイセンがナポレオンに敗北すると、1807年のテイルジット条約でプロイセン領ポーランドにワルシャワ大公国が成立した。
しかし、ナポレオンの敗北後のウィーン会議で消滅し、1815年のウィーン議定書でポーランド立憲王国が成立した。

ロシア皇帝アレクサンドル1世が国王を兼ねる同君連合となったが、実質はロシア領となんら変わらなかった。
そのため、アレクサンドル1世にかわったニコライ1世の時代に、ロシアの支配からの脱却をめざして、1830年のフランス7月革命の影響でポーランド反乱(11月蜂起、ワルシャワ民族蜂起)が起こっている。

またポーランド分割でオーストリア領ポーランドとなった地域でも、1846年にポーランド独立運動(クラクフ蜂起 Krakow uprising)が起こっている。
そしてプロイセン領ポーランドとなった地域では、1848年のベルリン3月革命の影響で民族蜂起(ポズナニ蜂起 Poznan protests)が起こっている。
これらはいずれも失敗し、多くのポーランド人が亡命することとなった。

1853年のクリミア戦争の最中にロシアのニコライ1世が急死し、次のアレクサンドル2世が農奴解放令などの近代化改革を行うと、これに乗じて、1863年に民族蜂起を起こした(ポーランド反乱(1月蜂起))
しかし、この運動は鎮圧されて、ポーランドの自治権は剥奪された。
しかし第一次世界大戦が勃発し、1917年にロシア革命が起きてロマノフ朝が滅亡すると、ポーランドは1918年に独立を宣言し、1919年のパリ講和会議でポーランド共和国として独立した。

ポーランドは敗戦国ドイツから、ポズナニなどの領土に加え、ドイツを二分することになる「ポーランド回廊」を獲得した。
さらに、ダンツィヒ(Free City of Danzig)は国際連盟の管理地域として自由市ダンツィヒとなって、ポーランドがその使用権を認められた。

東ではソビエ卜政権となったロシアに対して、1920年にソビエ卜・ポーランド戦争を行っている。
このときの国家元首であったピウスッキは、1926年にクーデターを起こして独裁者となっている。
1939年にはドイツにダンツィヒの返還とポーランド回廊を要求され、この要求を拒否したが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだドイツが1939年9月にポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が開始された。

そして9月17日にソ連もポーランドに侵攻し、ドイツとソ連でポーランドは分割されてしまった。
1941年6月に独ソ戦争が開始されると、ドイツの勝利によりポーランドはすべてドイツの支配下に入った。

この支配下でユダヤ人は、アウシュビッツなどの強制収容所に収監され殺害されている(ホロコースト)。
1942年のスターリングラードの戦い以降、形成を逆転させたソ連によってポーランドは占領され、1945年に統一政府が成立して国際連合の原加盟国となる。
しかし、人民民主主義を称する社会主義国となり、1952年には社会主義憲法を制定してポーランド人民共和国となった。

1956年2月のスターリン批判では、ポーランド反政府反ソ暴動(ポズナニ暴動)が起きたが、ポーランドはゴムルカが自主路線を約束して、事態を収拾した。
しかしゴムルカは、1968年のチェコスロヴァキアの民主化運動(「プラハの春」)に対して、ソ連とともに軍事介入した(チェコ事件)ために人気を失い、1970年のポーランド反政府運動の結果、失脚してギエレクが就任している。
しかし、1980年に結成されたワレサを指導者とするポーランド自主管理労組「連帯」(Solidarity)はその勢力を伸ばし、ギエレク政権を倒した。

次のヤルゼルスキは戒厳令をしき、「連帯」を非合法化して弾圧した。しかし、1985年にソ連でゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を行うと、ポーランドでも民主化が始まった。
1989年2月に「連帯」は合法化され、6月の選挙では「連帯」が勝利をおさめた。

ヤルゼルスキが大統領となり、12月には憲法が改正されて非社会主義であるポーランド共和国となった。
1990年にはワレサが大統領となり、西ヨーロッパとの関係も順調で、1999年には北大西洋条約機構(NATO)に、2004年には欧州連合(EU)に加盟している。