国名 ルーマニア
英語 Romania
首都 ブカレスト
独立年 -
主要言語 ルーマニア語、ハンガリー語
面積 (千Km2) 238
人口 (百万人) 19.9
通貨単位 レイ
宗教 ルーマニア正教、カトリック
主要産業 金属(鉄鋼、アルミ)、工業(機械機器、繊維)、鉱業(石油)、農業(小麦、トウモロコシ)
 地理
ウクライナ、モルドバ、ハンガリー、セルビア、ブルガリアと国境を接し、東は黒海に面する。
北部から南南東に延びるカルパティア山脈と、その末端から西に延びる南カルパティア山脈
(トランシルヴァニア・アルプス) とが大きな弧をなして国土の中央を通り、弧の外側には
ワラキア、モルドバの二大平野、さらにその東の黒海沿岸にはドブロジャ平野がある。

弧の内側にはトランシルヴァニア盆地があり、その西をかぎるビホール山地などの山地群の
西側には、なだらかな起伏をなすハンガリー大平原縁辺部がある。
大陸性気候で冬は寒く、夏は暑い。
平均気温は7月平野部で 22℃以上、1月山地で-9℃程度。







歴史
106年 トラヤヌス帝のとき、ダキアがローマの属州となる。
271年 ローマ軍撤退
10世紀 トランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィア3国成立
11世紀 トランシルヴァニアはハンガリー王国の一部となる
15世紀 ワラキア、モルダヴィアはオスマン帝国の宗主下に入る
1866年 トランシルヴァニアはオーストリア・ハンガリー帝国の一部となる
1877年 ワラキア、モルダヴィアは露土戦争に乗じて独立宣言
1878年 ルーマニア王国発足
1918年 第一次世界大戦で連合国として参戦。トランシルヴァニアを併合
1940年 第二次世界大戦。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦
1947年 王制を廃止し、人民共和国樹立
1989年 政変により共産党一党独裁を廃止し、国名をルーマニアに改称
2004年 NATO加盟
2007年 EU加盟


ブラン城(Bran Castle)
ルーマニア中央部の都市ブラショフの南西約30キロメートルにある古城。
1377年に築城され、現在は長年に渡り受け継がれてきた調度品などを 3つのテーマに分けて展示している。

15世紀にこの地を治めたヴラド・ツェペシュ公は、敵対するオスマントルコの兵士を串刺しにしたことから非常に恐れられ、後年ドラキュラのモデルともなった。
ドラキュラの城ということに因んで、毎年10月31日は、ハロウィンパーティーが行われる。



ルーマニアは「Romania」と記される。
これは「ローマ人の国」という意味で、ローマの時代はダキアと呼ばれた。
ダキアは、トラヤヌスのときにドナウ川をこえた唯一のローマの属州となり、ローマ人の移住が進んで「ローマ人の国」と呼ばれるようになる。

しかし、ローマの力が衰退するとゲルマン人がこの地に進出し、ルーマニアは西ゴート人の支配下に入った。
さらにはフン人やアヴァール人などの侵入を受け、スラブ人の移住に加えてブルガール人がこの地に進出している。

様々な民族に支配されながらも、ローマ人(ラテン人)の特色を残したまま、10世紀にこの地域にはトランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィアといった3国が並び立つようになった。
しかし、トランシルヴァニアはハンガリー王国の支配下に入り、残るワラキアとモルタヴイアは、14世紀にはワラキア公国とモルダヴィア公国となった。

しかし、両国とも15世紀にはオスマン帝国の支配下に入った。
(ワラキア公国のヴラド・ツエべシュ公は吸血鬼のモデルとなった人物で、オスマン帝国との戦いでは捕虜をみせしめとして串刺しにし、道に並べたことから「串刺し公」の名前で有名)

しかし、ハンガリー王国の支配下に入ったトランシルヴァニアも、1526年のモハ一チの戦いでハンガリーのラヨシュ2世が敗死すると、オスマン帝国の属国となっている。
しかし、オスマン帝国が1683年の第2次ウイーン包囲に失敗すると、1699年のカルロヴィッツ条約で、再びハブスプルク家のハンガリー王国領となっている。

19世紀になってナショナリズムが高揚すると、1853年のクリミア戦争後の1859年にモルダヴィアとワラキアは連合公国(モルダヴィア・ワラキア連合公国)をつくり、1861年にはルーマニア自治公国となった。
そして、1877年のロシア・トルコ(露土)戦争のサン・ステファノ条約でルーマニアは、セルビア・モンテネグロとともにオスマン帝国からの独立が承認された。

後のベルリン会議でもその独立は追加承認されて、ルーマニア王国が成立している。
ルーマニアは、1912年の第1次バルカン戦争で隣国のブルガリアが領土を拡大すると、それを阻止するために1913年の第2次バルカン戦争に参加して、ブルガリアの領土を縮小することに成功している。
また第一次世界大戦に連合国として参戦し、敗戦国となったハンガリーからトランシルヴァニアやベッサラビアを獲得し、ブルガリアからも領土を獲得した。

そのためハンガリー革命が起きてソビエト政権が樹立すると、トランシルヴァニアの確保と革命の影響を恐れてハンガリーに侵攻し、ソビエト政権を打倒している。
しかし第ニ次世界大戦では、逆にホルティ政権下のハンガリーに侵攻されてトランシルヴァニアを占領されている。

1940年6月にはソ連にも侵入され、ベッサラビアと北ブコビナを占領されている。
(最終的にソ連に割譲したヘッサラビアは、現在のモルドバ共和国になる)
その後、ルーマニアは枢軸国側となり、ソ連軍の侵攻を受けて共産主義化が進んでいく。

パリ講和条約を結んだ1947年に、ルーマニアでは正式に王政が廃止されて、ルーマニア人民共和国となった。
コミンフォルム・コメコン・ワルシャワ条約機構に加盟し、ソ連圏の一部だったルーマニアは1965年にチャウシェスクが指導者となると、ソ連批判(ルーマニアのソ連批判)を始め、国号もルーマニア社会主義共和国へ変更している。

チャウシェスクはソ連と距離を置き、東側の異端児として西側諸国との関係を深めていった。
(ルーマニアの対ソ独自外交)。
その独自性が最も現れたのが1968年のチェコ事件で、ルーマニアは、ソ連のチェコスロヴァキアの民主化運動に対する軍事介入に参加していない。

これらの独自路線を貫けたのは、豊富な地下資源のおかげだった。
しかし、西側諸国との関係を深めた分、借金は増え、国内では豪華な宮殿を造営するなどしたため、ルーマニアの経済は疲弊していった。

1989年に起こった東欧革命(東欧社会主義圏の消滅)の中で、ポーランド、ハンガリーが民主化し、さらにべルリンの壁が崩壊すると、次々と東欧諸国は民主化を行った。
そんな中、チャウシェスクは権力を維持しようとしたために暴動が発生し、12月にチャウシェスクは処刑され、流血の革命によって民主化が実現している。
その後は2004年に北大西洋条約機構(NATO)に、2007年にブルガリアとともに欧州連合(EU)に加盟している。


ルーマニアは、古くからの農業国で、第二次世界大戦前には全労働人口の約8割が農林業に従事していた。
戦後は企業の国有化に続き、多数の工場が新設あるいは増設されて、工業化が急速に進み、その結果、農林業の従事者は全労働人口の約4割に減少した。

石油産出国でもあるが、1947-1989年の共産党政権下で産出が伸び悩み、工業、農業ともにマイナス成長となった。
1989年の革命でチャウシェスク独裁政権が崩壊し、国名から人民共和国が削除された。