国名 セルビア共和国
英語 Republic of Serbia
首都 ベオグラード
独立年 1992年
主要言語 セルビア語、ハンリー語
面積 (千Km2) 77
人口 (百万人) 7.1
 地理
ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、マケドニア、コソボ、アルバニア、
モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアと接する。
北部にヴォイヴォディナ自治州がある。

北部はドナウ川、ティサ川、サバ川流域の肥沃な平野、中部および南部は
山岳地帯で、モラバ川とその支流が峡谷を刻んで貫流する。
住民は大部分がセルビア人で、公用語はセルビア語、
文字はキリル文字を用いる。宗教はセルビア正教が主である。

産業は農業が主で、ヴォイヴォディナなど北部の肥沃な平野は穀倉地帯で、
コムギ、トウモロコシ、サトウダイコンなどの栽培が盛ん。
肉牛飼育も行なわれる。
また、石炭、石油を産し、金属、機械、製紙、繊維、化学などの工業が発達。
主要都市はベオグラード、ニーシュ、ノービサード (ヴォイヴォディナ自治州) など。
 










歴史
6世紀 東欧から南スラブ人が南下を始める。
7世紀 バルカン半島西部(ビザンツ帝国の領域)に定住。
9世紀 セルビア人、ビザンツ帝国の支配下に
セルビア人がキリスト教(ギリシア正教)を受容する。
1168年 セルビア人、中世セルビア王国を建国(-1817)
1389年 コソボの戦い。オスマン帝国の支配下となる。
1817年 セルビア公国(-1882年)成立。オスマン帝国の自治公国
1882年 セルビア王国(-1918年)が成立。
ベルリン条約により、オスマン帝国から完全に独立。
1908年 オーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合
1912年 第一次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利し、セルビアがコソボを奪回。領土を拡大。
1913年 第二次バルカン戦争でセルビア王国はコソボとマケドニアを領有
1914年 サラエボ事件
オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 セルビア・クロアチア・スロベニア王国の一部
1929年 ユーゴスラビア王国に改称
1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによる占領。ユーゴスラビア王国消滅。
1943年 ユーゴスラビア連邦人民共和国の中のセルビア社会主義共和国
コソボが、セルビア共和国の一部として「コソボ・メトヒヤ自治区」が設立。
冷戦時代はじまる
1961年 ベオグラードで第1回非同盟諸国会議開催
1963年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
ティトー大統領による民族分権と非同盟中立政策。
コソボ・メトヒヤ自治区が「コソボ自治州」に改称。
1980年 ティトー大統領死去。集団指導体制発足
1990年 ミロシェヴィッチ(セルビア社会主義共和国大統領)がセルビア人による民族統一主義を主張
アルバニア系住民による暴動発生。
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発。ユーゴ解体
1992年1月 セルビアとモンテネグロのユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア連邦)のうちの共和国
(4月、新ユーゴスラビア連邦)結成
1992年3月 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
1992年4月 新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争
1995年12月 デイトン和平合意
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦・セルビア人共和国連合成立
1997年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。(コソボ紛争)
1999年 セルビアとコソボ自治州が内戦へ。NATOによるセルビア空爆
コソボが国連の暫定行政下となる。
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2007年 モンテネグロが分離。セルビア共和国
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言。
(アメリカ、EU諸国が独立を認め、日本も国家として承認)


ドリナ川(Drina River)
ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの国境を流れる川。
ドナウ川水系に属し、サヴァ川の支流で346kmの長さを有する。
川の中にある岩の上に、45年もの間、1軒の家が残されており、人は住んでおらず観光スポットになっている。


セルビアは、7世紀頃から東ローマ帝国の勢力下にあったが、1168年にセルビア王ステファン1世(StefanⅠ)が諸部族を統一、1171年に中世セルビア王国が成立した。
その後、領域を拡大し、14世紀中頃ドゥシャン王(Dusan)の時期にその版図はギリシアにまで及んだ。

しかし、1389年のコソボの戦いを契機として、オスマン帝国のバルカン進出が決定的となり、以後400年以上にわたり、オスマン帝国の支配を受けた。

長いオスマン帝国の統治下で、セルビア人はセルビア正教会や民族叙事詩を通して民族性を保ち、19世紀初頭、他のバルカン諸民族に先んじてオスマン帝国に対し二度にわたる蜂起(1804-1813年、1815年)を企てた。

セルビアの独立運動は同じスラブ民族で、パン・スラブ主義をとるロシアが支援していた。
それに対してオスマン帝国と同じように帝国内でスラブ系の民族を支配しているオーストリアはスラブ系民族の独立を抑えながらゲルマン人のバルカン進出を図ろうとしていた。

1817年、セルビアは、完全な自治を有するセルビア公国となった。

1882年、ロシア・トルコ戦争後のベルリン条約によりセルビア王国として正式な独立を承認され、以後、急速な近代化を図ると共に近隣諸国との軍事化を競うこととなった。

1908年、オスマン帝国の青年トルコ革命の混乱に乗じて、オーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、その地には多数のセルビア人が住んでいたので、セルビア王国などスラブ系民族は強く反発した。

スラブ系民族の中にはセルビアを中心にスラブ人の統一国家を作ることを主張する大セルビア主義が強くなり、オーストリアのパン・ゲルマン主義と鋭く対立するようになった。
内陸国であるセルビア王国の願望は、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合してアドリア海への進出をはかることであった。

1912年、ロシアの仲介でブルガリア、ギリシア、モンテネグロとそれぞれ二国間同盟を結び、バルカン同盟を作りあげた。
ちょうどそのときオスマン帝国はイタリアとの戦争に直面していたので、同年、セルビアなどバルカン同盟諸国はオスマン帝国に宣戦布告してバルカン戦争となった。
この戦争で敗れたオスマン帝国はバルカン半島の大部分の領土を放棄した。
(第1次バルカン戦争)


1913年、オスマン帝国がバルカン半島から撤退すると、民族解放が遅れ真空地帯になっていたマケドニアに対するバルカン同盟諸国の領土的野心が衝突した。
その結果、ブルガリア軍がセルビアとギリシアに侵入しバルカン戦争となった。

ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、ルーマニアが参戦したためブルガリアは孤立して、その占領地を放棄し、縮小されることで決着がついた。
この勝利によってセルビア王国はコソボとマケドニアを領有し、南スラブ解放の旗手としての地位を不動のもとした。
(第2次バルカン戦争)


1914年6月、セルビア人青年がオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者を暗殺したサラエボ事件が起きると、オーストリアは背後にセルビア王国の指示があるとして宣戦布告した。
セルビア王国は隣国のモンテネグロ王国とともにイギリス、フランス、ロシアの三国協商諸国の支援を受けて、第一次世界大戦に突入した。

バルカン諸国ではブルガリアがドイツ、オーストリアの同盟側につき、さらにオスマン帝国も同盟側となり、激しい戦闘となった。
セルビアはブルガリア軍の侵攻を受け、政府は首都ベオグラードを捨ててアドリア海のコルフ島に逃れた。
第1次世界大戦では南スラブ地域の死者は190万にのぼっている。
(第一次世界大戦)

1917年、セルビア政府は南スラブ民族の統一を検討していたユーゴスラビア委員会と協同して、コルフ島で14カ条からなる「コルフ宣言」を発表。
そこで、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人を統一した立憲君主国を建国することを宣言した。

1918年11月に戦争が終わり、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、南スラブ地域は混乱、しかもイタリアがロンドン秘密条約に基づいてダルマチアを占領しようと動くなど、緊迫した。

国家統一を急がなければならなくなった南スラブ人各組織は、コルフ宣言の線で結束することとなり、12月1日、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の建国宣言を行った。
 
このセルビア人、クロアチア人、スロベニア人王国は、1929年に「南スラブ」を意味する「ユーゴスラビア王国」に改称した。

これを「第一のユーゴ」ともいうが、いくつかの民族、文化、宗教の違いを含む多民族国家であった。

第二次世界大戦でユーゴスラビア王国がドイツに侵攻されると、ティトーの率いる共産党を主力とするパルチザン闘争によって抵抗を続け、1943年には社会主義を掲げる連邦国家である「ユーゴスラビア連邦人民共和国」が成立した。

これを「第二のユーゴ」ともいう。ティトーは自主管理社会主義と非同盟主義を掲げて、ソ連から距離を置き、民族の対立を克服する独自の社会主義国家建設をめざした。
(1963年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称)

セルビアはユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する一つの共和国にすぎなかったが、セルビア人は連邦内においても人口で最も多く、主導的立場にあった。

セルビア人はまたクロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナにも多数居住し、セルビア共和国への集権的な権力の集中を図ろうとした。
それは他の民族からは「大セルビア主義」と警戒されるようになった。

しかし、問題が複雑であるのは、このセルビア共和国の中に、アルバニア人が多数を占めるコソボと、ハンガリー人が多数を占めるヴォイヴォディナという二つの自治州が含まれていることであった。

この二つの自治州は、自治権を拡大し、共和国並みにすることをセルビアに要求し、セルビア政府はそれを抑圧してきていた。

特にコソボ自治州はムスリムも多いという宗教的な違いもあって根深い対立が続いていた。
それでもユーゴスラビア建国の英雄ティトー(彼自身はクロアチア人)が生きている間は、自主管理社会主義という理念のもとで統一国家として存続していた。
しかし、1980年のティトーの死は、ユーゴスラビアの民族問題を一挙に吹き出させるきっかけとなった。


1870年代に入り、ユーゴスラビア各共和国で民族主義的な暴動が頻発するようになった。
苦慮したティトーら指導部は、1974年憲法を制定し、共和国の主権を拡大し、セルビア共和国内の自治州の権限も共和国並みに引き上げることとした。
その結果、コソボ州ではアルバニア人が勢力を増し、セルビア人やモンテネグロ人を迫害するケースが出てきて、州外に逃れる人びとが増えた。

それをうけてセルビア人の中にコソボの自治権を制限せよとの声が強くなった。
そのような民族主義の高揚の中から強硬姿勢をとる共産主義者同盟のミロシェヴィッチ政権が誕生した。
(1989-1997年はセルビア共和国大統領。1997-2000年は新ユーゴスラビア大統領)

民族間の対立はまずセルビア共和国のコソボ自治州で始まったがミロシェヴィッチは力でその要求を抑えつけた。
1990年の各共和国における自由選挙の実施の際でも、セルビアではミロシェヴィッチ率いる共産主義者同盟が多数を占めた。

1991年、経済先進地域であったスロベニアとクロアチアが独立を宣言。
しかし、セルビアはモンテネグロとともに連邦制の維持を主張して独立を認めず、ユーゴスラビア内戦が始まった。
(ユーゴ紛争)

さらに1992年までにマケドニア・ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言、ユーゴスラビアの解体が進行した。
セルビアは、クロアチア内のセルビア人勢力、ボスニアのセルビア人勢力を支援し、内戦を激化させた。

1992年、セルビアは民族的に近いモンテネグロと新ユーゴスラビア連邦を作って対抗した。
特にボスニア内戦ではセルビア人勢力による民族浄化と称する非人道的な行為が国際的に非難され、1995年にはNATO軍の空爆を受け、停戦を受け入れた。
(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)


ユーゴスラビアの解体が明確となった後、セルビア内のコソボ自治州の独立運動が再び活発になると、1998年にミロシェヴィッチ政権はその弾圧に乗りだした。
ここでもアルバニア人に対する残虐行為が国際的に非難され、1999年、再びアメリカを主体とするNATO軍の空爆を受けることとなった。
(コソボ紛争)


この間、ミロシェヴィッチは独裁的な力を振るって、極端な民族主義路線を続けたが、2000年の総選挙でついに落選してしまった。
ミロシェヴィッチに対して国際的な追求が始まり、国際司法裁判所は人道に対する罪でミロシェヴィッチを告発、逃亡中のミロシェヴィッチは捕らえられ裁判に付されることとなった。

2003年、和平路線に転換したセルビアは、新ユーゴスラビア連邦を解消し、モンテネグロと対等な国家連合であるセルビア・モンテネグロを成立させた。
モンテネグロはセルビア人が主体であったが、同時にアルバニア系住民も多く、セルビアのコソボ自治州におけるアルバニア人迫害に対する反発が強かったためである。

この国家連合は長く続かず、2006年にはモンテネグロは国民投票で国家連合を解消することを決め、ここに両国は完全に分離した。
ここにユーゴスラビアは完全に消滅した。

コソボ自治州の独立をめぐるコソボ問題は長い国際的な調停作業があったが結局合意に達せず、2008年にコソボ共和国が一方的に独立を宣言した。
セルビアはそれを承認しておらず、現在はにらみ合い状態が続いている。




























































ユーゴスラビア史

ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。
かつて第一次世界大戦後に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、1929年に改名してできた国である。

ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国で、現在は改名前の名の中心であったセルビア、スロベニア、クロアチアに加えてボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニアの6共和国に分離し、さらに2008年にはコソボがセルビアから独立している。

この六つの共和国に五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。

この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所で、4世紀のゲルマン人の大移動後、スラブ人がドナウ川を南下して広がっていく。
その中のスロベニアはフランク王国に服属してカトリックに改宗し、その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、15世紀にはハプスブルク家領となり、1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。

クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。
その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、11世紀末にハンガリー王国に支配され、同じくオーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。

一方で、ビザンツ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、12世紀にはセルビア王国を建国して、14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。
セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan)のときに最盛期を迎えるが、14世紀末にコソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。

そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、1875年にボス・ア・ヘルツェゴビナでオスマン帝国に対しての反乱が起こった。

これに対して、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こしてオスマン帝国が敗北すると、1878年のサン・ステファノ条約に続くべルリン条約で、セルビアとモンテネグロはルーマニアとともに独立が承認された。
さらにボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。

1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。

(青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年)
イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。
アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。
一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得)

1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロはブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。

(イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年)
北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。
イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された)

この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したマケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。

そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。

しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。
この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。
また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、議会を停止して専制政治を進めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。
これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。

そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。
ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。

ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。
父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。
そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。

1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアとモンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。

この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが新ユーゴスラビアの大統領となると、アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。
これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、国連も介入することとなった。

2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。
2007年にはセルビアとモンテネグロが分離し、2008年にはコソボが独立宣言を行っている。

4世紀 ゲルマン人の大移動後、スラブ人南下
7世紀 南スラブ人(スラブ民族)、バルカン半島に定住完了
8世紀 スロベニア人、フランク王国の支配下に
9世紀 セルビア人、ビザンツ帝国の支配下に
10世紀 クロアチア人、フランク王国の支配下に
11世紀 クロアチア人、ハンガリー王国の支配下に
12世紀 セルビア人、セルビア王国を建国
1389年 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン・トルコ軍(オスマン帝国)に敗北
1496年 モンテネグロが屈し、南スラブ諸地域がオスマン帝国領となる
1875年 ボスニア・ヘルツェゴビナ反乱
1877年 ロシア-トルコ戦争
1878年 サン・ステファノ条約。ベルリン条約
セルビア、モンテネグロ、ルーマニアとともに独立承認
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得
1908年 青年トルコ革命
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合。セルビアと対立
1912-1913年 第一・第二次バルカン戦争
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 オーストリアが降伏
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言
1919年 サン・ジェルマン条約正式承認
1929年 ユーゴスラビア王国と改称
1939年 第二次世界大戦
1941年 ドイツの侵攻 対 ティトーのパルチザン
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国(旧ユーゴスラビア)成立
1948年 ユーゴ、コミンフォルムから追放
1961年 ベオグラードで第1回非同盟諸国会議開催
1963年 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称
1980年 チトー大統領死去。集団指導体制発足
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴスラビア連邦)結成
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
新ユーゴスラビア連邦がボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。内戦
1997年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。NATOによるセルビア空爆
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2007年 セルビアとモンテネグロが分離
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言。(アメリカ、EU諸国が独立を認め、日本も国家として承認)