国名 スペイン
英語 Spain
首都 マドリード
独立年 -
主要言語 スペイン語
面積 (千Km2) 506
人口 (百万人) 46.5
通貨単位 ユーロ
宗教 憲法で信仰の自由が保障されている (約75%がカトリック教徒と言われる)
主要産業 自動車、食料品、化学品、観光産業


歴史
BC12世紀  フェニキア人がイベリア半島に植民都市を建設。
BC264年  ポエニ戦争(BC264~BC146)はじまる
BC146年  ローマのイベリア半島(属州ヒスパニア)支配はじまる。
415年  西ゴート王国(415~711年)建国。首都トロサ(Tolosa)
711年  ウマイヤ朝(711~750年 イスラム王朝)建国。西ゴート王国滅亡。
718年  西ゴート人、北イベリアにアストゥリアス王国(718~910年)建国。レコンキスタ運動はじまる。
732年  トゥール・ポワティエの戦いでフランクに敗北
750年  ウマイヤ朝滅亡
750年  アッバース朝(750~1258年 イスラム王朝)建国。
756年  後ウマイヤ朝(756~1031年 イスラム王朝)建国。
820年  ナバラ王国(820~1512年)成立
910年  アストゥリアス王国、レオン王国(910~1037年)と改称。
930年  カスティリャ王国(930~1479年)建国。
1023年  アッバード朝(1023~1091年 イスラム王朝)建国。首都セビーリャ
1031年  内紛で後ウマイヤ朝滅亡。
1035年   カスティリャ王国(1035~1479年)建国。
1035年   アラゴン王国(1035~1479年)建国。
1037年  レオン王国、カスティリャ王国に併合。
1056年  ムラービト朝(1056~1130年 イスラム王朝)建国
1076年  アラゴン王国、ナバラ王国と合併。
1091年  アッバード朝滅亡。
1130年  ムラービト朝滅亡。
1130年  ムワッヒド朝(1130~1269年 イスラム王朝)建国
1143年  ポルトガル王国、カスティリャ王国から独立。
1232年  ナスル朝(イスラム王朝)建国。首都グラナダ
1258年  アッバース朝滅亡
1269年  ムワッヒド朝滅亡
1282年    アラゴン王国、シチリア島を領有(シチリアの晩鐘事件) 
1323年  アラゴン王国、サルデーニャ島領有
1442年    アラゴン王国、ナポリ王国を領有 
1479年  アラゴン王国、カスティリャ王国と連合し、スペイン王国成立
1492年  グラナダが陥落し、ナスル朝滅亡。レコンキスタ完了
1492年  コロンブス、アメリカ大陸到達
1516年  ハプスブルグ家のカルロス1世(皇帝カール5世在位:1516~1556年)スペイン王即位
1555年  アウクスブルクの宗教和議
1556年  フェリペ2世(在位:1556~1598年)スペイン王即位
1568年  オランダ独立戦争(1568~1609年)
1571年  レパントの海戦
1579年  ネーデルラント北部7州、ユトレヒト同盟
1580年  スペイン、ポルトガルを併合(~1640年)
1588年  スペイン無敵艦隊、イギリス艦隊に敗北
1598年  フェリペ3世(在位:1598~1621年)スペイン王即位
1605年  セルバンテス「ドン・キホーテ」執筆
1621年  フェリペ4世(在位:1621~1665年)スペイン王即位
1640年  ポルトガル王国復活
1648年  ウェストファリア条約。スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)独立
1665年  カルロス2世(在位:1665~1700年)スペイン王即位
1700年  フェリペ5世(在位:1700~1746年)スペイン王即位。 スペイン・ブルボン家成立(~1931年)
1701年  スペイン継承戦争(~1713年)
1713年  ユトレヒト条約
1720年  サルデーニャ王国成立
1733年  ポーランド継承戦争(~1735年)。フランス・スペイン・サルデーニャVSオーストリア・ロシア。ナポリ、シチリア、スペイン領となる
1740年  オーストリア継承戦争(~1748年)
1748年  アーヘンの和約
1756年  7年戦争(~1763年)
1769年  コルシカ、フランス領となる。
1779年  スペイン~イギリス戦争(~1783年)
1783年  ベルサイユ条約(英・仏・西)フランスに西インド諸島の一部を、スペインにフロリダ半島を割譲
1793年  第1回対仏同盟
1799年  第2回対仏同盟
1805年  第3回対仏同盟
1805年  トラファルガーの戦い、アウステルリッツの戦い
1808年  スペイン反乱
1820年  スペイン立憲革命
1859年  イタリア統一戦争(~1860年)
1861年  イタリア王国成立
1873年   スペイン共和国(第一共和政)(~1874年)
1874年  スペイン王国(王政復古)(~1931年)
1898年  アメリカ~スペイン戦争。スペイン、キューバ、フィリピン、グァムを失う
1931年  スペイン革命(共和国宣言)スペイン共和国(第二共和政)(~1939年)
1936年  スペイン内戦
1939年  フランコ独裁(~1975年)
1975年  フランコ死去。カルロス1世、スペイン国王即位。スペイン王国(王政復古)
1986年  EC加盟


サグラダ・ファミリア聖堂(Iglesia de la Sagrada Familia)
V.カルモナが設計したネオ・ゴシック様式の聖堂を、1883年、 A.ガウディが新たに設計し直したスペイン、バルセロナの聖堂。
ゴシック様式を基礎として、ガウディ独特の生物に着想を得た有機的な形態や多彩なタイル装飾は 4本の完成した塔に最もよく示されている。



前12世紀頃、イベリア半島には西地中海に進出してきたフェニキア人が植民市を建設している。
その植民市の一つであるカルタゴは、前3世紀に都市国家ローマとポエニ戦争を起こした。

第2回ポ工二戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルが、イベリア半島に建設されたカルタゴ・ノヴァを拠点にローマと戦った。
ポエ二戦争でカルタゴが敗れると、イベリア半島はヒスパニアと呼ばれ、ローマの属州として支配された。

395年にローマが東西に分裂すると、イベリア半島は西ローマ帝国の領土となった。
しかし、その後のゲルマン人の大移動の結果、西ローマ帝国は滅亡、西ゴート人が西ゴート王国を建国した。

西ゴート王国はトレド(Toledo)を都として、6世紀末にはアタナシウス派に改宗している。
しかし、711年にイベリア半島に上陸してきたイスラム勢力のウマイヤ朝(Umayyad Caliphate)によって滅亡。
(西ゴート王国滅亡後、王族やキリスト教徒の一部が山岳地帯に逃げ込んでアストゥリアス王国(Kingdom of Asturias)を建国している。
これが後のカスティリャ王国やレオン王国となる)

イベリア半島を支配したウマイヤ朝は、ピレネー山脈をこえてフランク王国に侵入したが、カロリング家のカール・マルテルに732年のトゥール・ポワティエの戦いで撃退されている。
778年、カール大帝は自らピレネー山脈の南へと進軍し、イスラム勢力の討伐を図ったが撤退を余儀なくされた。
撤退後、イスラム勢力の再侵入に備え、795年にスペイン辺境領を設置した。
徐々に辺境伯領は勢力範囲を広げ、801年にはバルセロナを辺境領に加えた。

ウマイヤ朝はその後、750年にアッパース朝によって滅ぼされたが、ウマイヤ家の一族はアッパース朝に対抗し、756年、イベリア半島に後ウマイヤ朝を建国している。
イベリア半島南部コルドバを首都としたこの王朝は、10世紀前半のアブド・アッラフマーン3世(Abd-ar-Rahman III)のときに最盛期を迎え、アミール(Emir 総督)のかわりにカリフ(Caliph 代理者)を称し、アッパース朝やエジプトのファティマ朝に対抗した。

1031年、内紛によって後ウマイヤ朝が滅亡すると、イベリア半島南部には多数のイスラム君主国家が並び立つようになった。
そして北部ではレオン、力スティリャ、ナパラ、アラゴンといったキリスト教国が国土回復運動(レコンキスタ Reconquista)を行っている。

(レコンキスタとは、イスラム教徒に占領されたイベリア半島をキリスト教徒の手に奪回する運動。
711年のイスラム侵入後から,1492年のグラナダ開城まで続いた。この過程でポルトガル・スペイン両国家が成立した)

1056年にモロッコ西南のマラケシュを都に、ムラービト朝がイスラム化したベルベル人によって建国された。
ムラービト朝はイベリア半島に進出してイベリア半島南部を支配した。

1130年にムラービト朝を滅ぼした同じベルベル人の国家であるムワッヒド朝も、イベリア半島に進出している。
このイベリア半島に進出したムワッヒド朝を撃退した功績によって、ボルトゥカーレ伯が1143年にカスティリャから独立して建国したのが、ポルトガル王国である。

この結果、イベリア半島にはイスラム教徒とキリスト教徒、そしてイスラムの宗教的寛容からユダヤ教徒も存在していた。
当時の最先端の知識と高い文化をもっていたイスラムにふれたキリスト教徒やユダヤ教徒の中には、イスラムに改宗する者もいたし、改宗しないまでもアラビア語を習得する者も少なくなかった。

国士回復運動によってカスティリャの支配下に入ったトレドでは、それらアラビア語を習得した者らによって、古代ギリシア・ローマの文献がアラビア語からラテン語に翻訳された。
この成果が中世文化の発展に大きな影響を与えた「12世紀ルネサンス」と呼ばれている

13世紀になると、イベリア半島の大部分はキリスト教徒の手に落ちた。
アルハンブラ宮殿で有名なグラナダを都とするナスル朝が、イベリア半島最後のイスラム王朝となる。
このナスル朝を滅ぼし、国土回復運動を達成したのが1479年に成立したスペイン王国である。

アラゴン王子フェルナンド5世とカスティリャ王女のイサベルが結婚して成立した連合王国で、1492年にナスル朝グラナダを攻略して、イベリア半島における国土回復運動を完成させている。

国土回復運動(レコンキスタ)が完成した1492年、コロンブスはカリブ海のバハマ諸島にあるサンサルバドル島に上陸した。
当時のスペインは、香辛料貿易のためのアフリカからインドに至る東回りルートの開発に、ポルトガルより一歩遅れていた。

そのため、スペインのイサベルは、西回りのルートの発見に賭けてコロンブスを援助している。



1513年にバルポアがパナマ地峡を横断して太平洋に到着し、その海を「南の海」と命名する頃、1516年にスペイン王カルロス1世が即位して、スペイン・ハプスプルク家が誕生した。

1519年にポルトガル人のマゼランは、このカルロス1世の援助を受けて世界周航に出発し、スペインから南アメリカの南端(現在のマゼラン海峡)を通って太平洋を横断して、1521年にフィリピンに達している。

このフィリピンという地名は、カルロス1世の息子であるフェリペ(後のフェリペ2世)の名からきている。
しかしマゼランは、現地のマクタン島の首長であるラプラプとの戦いで戦死してしまう。

そのため、彼の部下がモルッカ諸島からインド洋をぬけて喜望峰をまわって、1522年にスペインに到着し、地球が球体であることが証明された。

カルロス1世は、1538年のプレヴェザの海戦(Battle of Preveza)でオスマン帝国のスレイマン1世に敗北している。
彼はフランスとイタリア戦争を戦い、神聖ローマ皇帝としてフランスと結んだオスマン帝国や、帝国内のルター派の諸侯たちと戦わなければならなかった。

(イタリア戦争(The Italian War 1494~1559年)
スペイン・ハプスブルク家とフランス・ヴァロワ家がイタリアを巡って繰り広げた戦争。
1559年、カトー・カンブレジ講和条約で、フランスはイタリアへの権利を放棄し、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸がハプスブルク家の統治下に定まった。
代わりにフランスはロレーヌを譲受した)

しかも、最後は1555年のアウクスブルクの宗教和議でルター派を承認せざるを得なかった。
疲れたカルロス1世は翌年に退位し、弟フェルディナントに神聖ローマ皇帝位を、息子のフェリペ2世にスペイン王位を与えた。
これにより、ハブスプルク家はスペイン・ハブスプルク家とオーストリア・ハブスプルク家に分裂することになる。

スペイン王となったフェリペ2世は、スペイン植民地に加えてナポリ、シチリアやネーデルラントなども領有した。
1559年には、長くフランスと戦っていたイタリア戦争を力トー・カンプレジ条約で終結させ、1571年のレバントの海戦ではオスマン帝国を破った。

1580年にボルガル王室が断絶すると、その王位を継承してポルトガル王を兼任(ボルトガル併合)している。(ハプスブルク朝ポルトガル)
ポルトガルの領土も獲得して文字通り「太陽の沈まぬ国」となる。

しかし、ネーデルラントのカルヴァン派(ゴイセン)に対してカトリックを強制した結果、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)を中心に、1568年にオランダ独立戦争が起こった。
カトリックの多かった南部10州の抱き込みに成功するものの、北部7州はユトレヒト同盟を結成して、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)として独立を宣言した。

(ユトレヒト同盟(Union of Utrecht)
オランダ建国の元となった、1579年の対スペイン軍事同盟。
80年戦争中の1579年1月23日、ネーデルラント北部7州が、ユトレヒト州の首都ユトレヒトにて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印した。
この協定では、各州に自治権があることに合意し、また信仰の自由を原則とした)

1588年にはオランダを援助していたイギリス(エリザベス1世)に無敵艦隊を送ったが、イギリスに敗北している。(アルマダ戦争)
一方、フィリピンのルソン島ではレガスピによってマニラが建設され、メキシコのアカプルコを起点とするアカプルコ貿易が行われていた。
(アカプルコ貿易とは、ポトシ銀山の銀をはじめとする新大陸の銀がアカプルコに集められ、マニラで中国の絹や陶磁器と交換する貿易である)

この新大陸産の銀はヨーロッパにも大量に入ってきた。そして量が増えた分価値が下がった銀に対して、物価が跳ね上がる価格革命を引き起こしている。
しかしスペインは、新大陸で獲得した銀や貿易の富を国内産業の育成には使わず、対外戦争や贅沢な宮殿の建設などにしか使用しなかった。
それが17世紀に衰退する原因となる。

1640年には併合していたポルトガルが独立し、三十年戦争でも力トリック側として介入した結果、ハブスブルク家は敗北し、1648年のウェストファリア条約でオランダとスイスの独立が国際的に承認される。
また、力トリック政策が思いもかけないところでスペインにとどめを刺すことになる。

(三十年戦争(Thirty Years' War 1618年~1648年)
神聖ローマ皇帝王フェルディナント2世のプロテスタント圧迫が原因で、ボヘミアのプロテスタント反乱をきっかけに勃発した戦争。
デンマーク、スウェーデン、フランスがプロテスタント側で参戦したため、一躍、国際戦争の様相を呈した。
神聖ローマ帝国内の戦争であった最初の局面ではまだ宗教的対立による戦争という傾向が強かったが、外国勢力が介入してからは、政治的利害のほうが優越し、最終的にはオーストリア、スペインの両ハプスブルク家とフランスのブルボン家の対抗関係を主軸として戦われた。
主な戦場となったドイツは国土が荒廃し、皇帝権の弱化による諸邦の分裂と相まって、著しく近代化が遅れることになった)

(ウェストファリア条約(Peace of Westphalia 1648年)
1648年、三十年戦争の講和条約。
①プロテスタントまたカルヴァン派の信仰が認められた。
②ドイツの約300の諸侯が独立。神聖ローマ帝国の実質的解体
③.フランスは、ドイツからアルザス地方の大部分とその他の領土を獲得
④スウェーデンは北ドイツのポンメルンその他の領土を獲得。
⑤オランダの独立の承認(オランダ独立戦争の終結)
⑥スイスの独立の承認
なお、フランス(ルイ14世・マザラン)とスペイン間の戦争は継続され、両者の講和は遅れて1659年のピレネー条約で成立した。
ピレネー条約でフランスはアルトワを獲得、ルイ14世とスペイン王フェリペ2世の娘マリー・テレーズの婚姻を取り付けた。
またこの時イギリスはピューリタン革命の最中であったので、この条約には関わっていない)




それは、ハブスブルク家は力トリック教国どうしの結婚しか認めなかったために該当する王族が少なく、近親婚が続いて王家の出生率が低下、乳児の死亡率が高くなっていた。

1700年にカルロス2世が死ぬとスペイン・ハブスプルク家は断絶し、フランスのルイ14世の孫のフィリップがフェリペ5世としてスペイン・ブルボン朝が成立した。

しかし、1701年にスペイン継承戦争が起こったことにより、1713年にユトレヒト条約が結ばれ、スペインとフランスの合併は永久に禁止するという条件でフェリペ5世のスペイン王位が認められた。

(スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701~1714年)
スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対イングランド、オーストリア、オランダ間で行われた戦争。
スペイン王カルロス2世が王位をルイ14世の孫、フィリップ(フェリペ5世)に遺して1700年に没すると、イングランドら3国は同盟を結び、フィリップの王位継承に反対した)

(ユトレヒト条約(Treaty of Utrecht 1713年)
スペイン王位継承戦争の講和条約。
イギリスはフランスのスペイン王位を認める代わりに、仏領アメリカ植民地の一部を獲得した)


この条約は同時に新大陸で行われたアン女王戦争の終結条約でもあって、スペインはジブラルタル・ミノルカ島をイギルスに割譲している。
さらに1714年に結ばれたオーストリア・ハブスブルク家とのラシュタット条約で、スペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント(南ネーデルラント)、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを割譲している。

1756年の七年戦争でも、同じブルボン朝であったフランスと同盟して戦った。
その結果、1763年のパリ条約で、スペインはフロリダを失うかわりにミシシッピ以西のルイジアナを獲得している。
しかしアメリカ独立戦争が1775年に始まると、1779年にスペインは参戦し、ヴェルサイユ条約でフロリダ・ミノルカ島を取り返している。

(七年戦争(Seven Years' War 1756~1763年)
プロイセンとオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争。
プロイセンとオーストリア間ではシュレジェンの帰属を決定する戦争となった。
同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となった。
結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンと地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。
同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ独立戦争、フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった)


フランスでフランス革命が起き、革命政府(国民公会)は1793年1月にルイ16世の処刑を行った。
これに対して同じブルボン朝だったスペインは、第1回対仏大同盟に参加した。
しかしスペインは敗北し、以後、フランスの衛星国となる。

そのため1803年、スペインがもっていたミシシッピ以西のルイジアナは統領(執政)政府を成立させたナポレオンによってアメリカに売却されている。
さらにスペインは、第一帝政を始めたナポレオンのフランスとともに、1805年10月のジブラルタル海峡沖でのトラファルガー海戦で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗北している。

戦争によって経済が崩壊し、スペイン・ブルボン家のフェルナンド7世が退位させられると、ナポレオンの兄のジョゼフがスペイン主として即位した。
しかし、この即位に対してスペインの人々は抵抗し、1808年にスペイン反乱が起こった。
このときにマドリードでフランス軍がスペイン市民を銃殺した様子をゴヤが描いたのが「5月3日の処刑」である。

ナポレオンがロシア(モスクワ)遠征に失敗して失脚すると、1815年のウィーン議定書でブルボン朝が復活し、フェルナンド7世が復位している。
ナポレオンの支配によってもたらされた自由主義やナショナリズムは、大きな影響をおよばして、1820年にリエゴ(Riego)らによってスペイン立憲革命が起こった。
そして植民地ではラテンアメリカ諸国の独立という事態をまねく。

独立以前のラテンアメリカは根強い人種差別が残っていて、本国生まれの白人、植民地生まれの白人であるクリオーリョ、白人とインディオの混血であるメスティーソ、白人と黒人の主昆血であるムラートに、自由身分の黒人、黒人奴隷という階層ができあがっていた。

特に、スペイン本国からやってきた官僚らと対立したクリオーリョたちを中心に独立運動が起き、多くの国が独立している。
この結果、スペインはキューバとプエルトリコ以外のアメリカ大陸の植民地を失った。

この後、女王となったイサベルはメキシコの復活に固執して、フランスのナポレオン3世、イギリスとともに1861年のメキシコ出兵を行って失敗している。
この外交の失敗もあり、1868年の国内での革命でイサベルが亡命すると、ホーエンツォレルン家のレオボルドが王になった。
これにナボレオン3世が反対して起きたスペイン王位継承問題が、1870年のプロイセン・フランス(普仏)戦争につながっている。

19世紀末のスペインでは、植民地として残されたフィリピンとキューバで独立運動が起きている。
フィリピンのホセ・リサールは小説「ノリ・メ・タンへレ」でスペインの圧政を描き出し、キューバではホセ・マルティが独立運動を開始した。
しかし、キューバの独立をアメリカが支援したために1898年にアメリカ・スペイン(米西)戦争が起き、スペインは敗北してキューバは独立し、フィリピンやグアム、プエルトリコも失ってしまう。

そのためスペイン植民地は、19世紀末にはベルリン会議でアフリカ分割として獲得した西サハラと、ジブラルタル海峡を挟んで自国の対岸にあるスペイン領モロッコだけになる。

第一次世界大戦においてスペインは中立政策をとったが、大戦中からの経済混乱が続いて1923年には軍事独裁政権が成立し、1931年にはスペイン革命が起きる。
そしてブルボン家のアルフォンソ13世が国外脱出して共和政が成立。
一方で、経済混乱が長く続いたスペインでは貧困層が拡大し、労働運動や組織の力が強くなっていた。

1935年のコミンテルン第7回大会で、コミンテルンが人民戦線の結成を提唱すると、1936年にスペイン人民戦線が成立して、アサーニャを大統領とする人民戦線内閣が成立した。
しかし、これに対してモロッコの将軍だったフランコが反乱を起こして、スペイン内戦が起きた。
3年も続くこの内戦で、フランコ側をドイツやイタリア、ポルトガルの独裁者サラサールが支援し、アサーニャ側にはソ連、国際義勇軍としてアメリカの作家・ヘミングウエーやフランスのマルロー、イギリスのオーウェルなどが参加している。

またこの内戦における、ドイツ・イタリアによるスペイン北部ゲルニカの無差別攻撃をテーマにして、ピカソが「ゲルニカ」という作品を描いたことは有名。
しかし、イギリスとフランスはこの内戦に対して不干渉政策を行い、1939年にはマドリードが陥落してフランコ側が勝利した。
スハニィンではファランへ党を中心に、1975年までフランコの独裁が続くこととなる。

第二次世界大戦が勃発するとスペインは中立を維持したが、大戦後の国際連合はスペインを排除したため、スペインのフランコ政権は国際社会から孤立していった。
ところが東西冷戦によって、反共という立場からフランコ政権はアメリカに接近することになり、1955年にスペインは国連加盟を果たしている。

1975年にフランコが死ぬと、フアン・カルロス1世が即位してブルボン家が復活している。
立憲君主政となったスペインは、独裁政権から民主化を行い、1982年に北大西洋条約機構(NATO)、1986年にヨーロッパ共同体(EC)に加盟し、ヨーロッパ連合(EU)にも加盟している。
しかし国内では、奥部バスク地方のバスク人がスペインからの独立運動(バスク民族運動)を起こし、しばしばテロが行われている。


スペインの産業の中心は農業であるが、機械化が遅れ、大土地所有制が残存し、生産性は低い。
おもな生産物はコムギ、オオムギのほか、オリーブ、オレンジなど。ウシは北部の湿潤地域、ヒツジは中部のメセタでおもに飼育。鉱物資源はビルバオの鉄鉱床のほか石炭、銅、水銀、亜鉛、スズ、鉛、マンガンなど多種あり、他のヨーロッパ諸国への原料提供国となっている。

綿・毛織物で知られるバルセロナ、ビルバオを中心とした北部、マドリードなどには軽工業、重工業が発達。
史跡、観光地が各地に多く、観光収入が重要な財源の一つ。 1986年ヨーロッパ共同体 ECに加盟