国名 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(英国)
英語 United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland
首都 ロンドン
独立年 -
主要言語 英語
面積 (千Km2) 243
人口 (百万人) 61.8
通貨単位 スターリング・ポンド
宗教 英国国教等
主要産業 医薬品、自動車、原動機等




歴史  
BC9-BC5世紀 ケルト人、ヨーロッパ中部からブリテン島に移住  
BC1世紀 ローマ人、ブリタニア侵攻  
1世紀 ブリタニアがローマの属州となる  
5世紀 アングロ・サクソン人、ブリタニア侵攻  
7-8世紀 アングロ・サクソン人、イングランド7王国を建国  
829年 エグバート、イングランド7王国を統一。ウェセックス朝成立  
  イングランド王国(Kingdom of England 829-1707年)成立  
9世紀 デーン人(ヴァイキング)の侵攻・侵略  
1016年 デンマーク王クヌートに征服され、デーン朝成立  
1066年 ノルマン朝(1066-1135年)始まる  
1066年 ノルマン人、イングランドを征服、ノルマン朝始まる  
1154年 プランタジネット朝(1154-1399年)始まる  
1215年 ジョン王、マグナカルタ(人民の自由・権利)を認める  
1339-1453年 英仏百年戦争  
1348年 ペストが流行する  
1381年 ワットタイラーの農民一揆がおこる  
1399年 ランカスター朝(1399-1461年)始まる  
1455-1485年 バラ戦争(貴族同士が戦う大内乱)  
1461年 ヨーク朝(1461-1485年)始まる  
1485年 テューダー朝(1485-1603年)始まる  
1534年 イギリス国教会成立、ローマ教会から離脱  
1558年 エリザベス1世即位  
1588年 スペイン無敵艦隊を撃破。(アルマダ戦争)  
劇作家シェイクスピアが活躍  
1600年 東インド会社を設立する  
1603年 ステュアート朝(1603-1714年)始まる  
1620年 ピューリタンが北アメリカに移住  
1640年 ピューリタン革命がおこる  
1649年 チャールズ1世が処刑される。清教徒革命、王政を廃し、共和制へ  
1660年 王政復活、チャールズ2世即位  
1688-1689年 名誉革命と権利章典の交付  
イギリス議会政治の定着  
1707年 イングランド、スコットランド合併  
グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain 1707-1801年)成立  
1714年 ハノーヴァー朝(1714-1917年)始まる  
1760年 産業革命がすすむ  
1776年 アメリカ13州の独立。イギリス、植民地アメリカを失う  
このころイギリス国内で産業革命が進行  
1801年 イギリス、アイルランドを併合  
グレートブリテン及びアイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Ireland 1801-1927年)成立  
この後、二大政党政治が発達し、経済がめざましく発展する  
1815年 ワーテルローの戦いでナポレオン軍を破る  
1837年 ヴィクトリア女王が即位する  
1851年 「世界の工場」イギリスはロンドンで大博覧会を開催  
大英帝国の経済力を誇示。積極的な植民地経営  
1902年 日英同盟が結ばれる  
1914年 第一次世界大戦おこる。イギリスは大きな痛手をこうむる  
1917年 ウィンザー朝(1917-)始まる  
1922年 アイルランド、イギリスから分離、自治領となる  
1927年 グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland 1927-)に国号変更  
1939年 第二次世界大戦おこる。イギリス傷つき弱体化する  
1948年 インド、パキスタンがイギリスから独立  
1949年  アイルランド独立。共和制に移行。  
1960代 アフリカ諸国、イギリスから独立  
1969年 アイルランド暴動が激しくなる  
1973年 ECに加盟  
1979年 サッチャー、イギリス最初の女性首相  
1982年 フォークランド紛争がおこる  
1994年 英仏海峡トンネルが開通する  
1997年 労働党党首ブレアが首相になる  


ブレナム宮殿(Blenheim Palace) 
18世紀、マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレナムの戦いでフランス軍を破った戦功として、当時のイギリスのアン女王から贈られたもの。
英国随一のバロック建築の 傑作である宮殿と、偉大な造園家が生み出した風景式庭園が魅力。
ウィンストン・チャーチル英元首相の生家としても有名。



大ブリテン島は古代ローマの時代、ブリタニアと呼ばれて、ガリアと呼ばれたフランスと同じく、インド・ヨーロッパ語系のケルト人が住んでいた。

しかし、ローマのシーザーがガリア遠征に続いてブリタニアに侵入し、1世紀には大ブリテン島北部のスコットランドとアイルランド島以外はローマの領土となった。

5世紀頃、ユトランド半島(現在のデンマーク)から大ブリテン島にアングロ・サクソン人が侵入、ケルト人を征服してイングランド7王国(へプターキー)を建設している。
まわりを海に囲まれたイングランドは、デーン人(デンマーク地方からイングランドに来襲したノルマン人)の侵攻に苦しんだ。

829年 エグバートがイングランド7王国を統一。イングランド王国が成立し、ウェセックス朝を開く。
9世紀末にアルブレッド大王がデーン人を撃退するものの、イングランドは2度、デーン人に支配される。

1度目が1016年で、デンマーク王クヌートに征服されてデーン朝が成立した。
2度目は1066年のノルマン征服(ノルマン・コンクェスト)である。

1066年、ノルマンディー公ウイリアムが、へイスティングズの戦い(Battle of Hastings)でクヌートの死後に復活したアングロ・サクソン系の国を撃退して、イングランドを征服し、ウイリアム1世となりノルマン朝イングランドを開いている。

1154年、ノルマン朝第4代スティーヴンが没すると、ノルマン朝は断絶し、フランスのアンジュー伯アンリがイングランド国王ヘンリー2世として即位、プランタジネット朝が始まる。

2代目のリチャード1世は、第3回十字軍に参加し、アイユーブ朝のサラディンと戦ったことで知られる。
第3代のジョン王はフランス王フィリップ2世と戦って、フランス西部にもっていた領土の大半を失ったうえ、1209年にカンタベリ大司教の任命権をめぐって、教皇インノケンティウス3世に破門される。

怒った貴族たちは、1215年に王権の一部を制限するマグナ・カルタ(大憲章)を王に認めさせて、これがイングランド憲法のスタートとなった。
ところが息子のヘンリー3世がマグナ・カルタを無視したために、シモン・ド・モンフォールに率いられた責族たちが、1265年に貴族と聖職者の会議に州と都市の代表を加えて政治を話し合った。



これがイングランド議会の起源で、次のエドワード1世時代には、貴族と聖職者(後の上院)に、各州2名の騎士と各都市2名の市民が選ばれて(後の下院)招集された。
この身分制議会は、上院だけではなく下院も招集される形が「模範」的だったために、模範議会と呼ばれる。

この二院は当初、一緒の会議で協議していたが、エドワード3世の時代には別々に協議するようになって上院(貴族院)と下院(庶民院)となり、今の二院制議会の基礎ができている。
1328年、フランス王シャルル4世が、跡継ぎがなく没し、カペー朝がとだえ、従兄弟のヴァロア家フィリップ6世がヴァロア朝を興した。

すると、イングランドのエドワード3世が、母親がカペー朝の出身だったことから、フランスの王位継承権もあると主張、1339年、百年戦争(1339-1453年)がはじまった。
背景にはフランドル地方と、大陸に残されたガスコーニュ地方(ギエンヌ)の支配権をめくる争いもあった。

イングランドは1346年のクレシーの戦いで勝利し、1356年のポワティエの戦いでは、エドワード3世の長男エドワード黒太子が、フランス国王ジャン2世を捕虜としている。
早くから貨幣経済が普及していたイングランドでは、農奴解放が進んで独立自営農民(ヨーマン)が誕生していた。

しかし百年戦争の勃発に続き、黒死病(ペスト)の流行も重なって人口が激減すると、労働力不足となった領主らが、農民の移動の自由を制限して支配を強化しようとした。
そのため1381年にワット・タイラーの乱と呼ばれる農民反乱が起き、指導者の一人だったジョン・ボールは、「アダムが耕しイヴが紡いだとき、だれが責族であったか」と唱えて身分制度を厳しく批判した。
(この思想は、聖書主義を唱え聖書の英訳を行った、オックスフォード大学神学教授のウイクリフの影響である)

しかし、フランスにジャンヌ・ダルクが現れると一気に形勢が逆転して、1453年にボルドーが陥落してイングランドは敗北し、カレーを除く大陸すべての領土を失った。

その後イングランドでは、1455年からランカスター家とヨーク家が王位を争うパラ戦争が起き、ランカスター系のヘンリー7世が、1485年にテューダー朝を開いて内乱を終結させた。

ヘンリー7世は星室庁裁判所で、王に逆らう者のほとんどを処刑して絶対王政の基礎を築いている。
また、ジェノヴァ出身のカポットを支援して、北米を探検させている。

2代目のヘンリー8世は王妃力ザリンと離婚して、アン・プーリンと結婚しようとした。
この離婚を教皇が認めなかったために、1534年に議会の支持を得て首長法(国王至上法)を制定し、国王をトップとするイングランド国教会を成立させた。

ヘンリー8世の長男エドワード6世が即位すると、1549年に一般祈祷書を制定して国教会の教義・制度を整えたが、わずか15歳で死んでしまう。
その後、メアリー1世が即位すると、彼女はスペイン国王フェリペ2世と結婚し、カトリックを復活させ、新教徒弾圧を行って「ブラッデイ・メアリー(血のメアリー)」と呼ばれた。

しかし、メアリー1世が即位わずか5年ほどで死んだため、エリザベス1世が即位して、1559年に統一法を定めて国教会を再建している。
エリザベス1世は、フェリペ2世に対抗するためにドレーク(イギリス人として初めて世界周航に成功)やホーキンズなどの海賊船に、略奪許可状(外国船を略奪してOKという許可状)を与えて、スペインの銀船隊を襲わせている。

この結果、怒ったスペインの無敵艦隊がイングランドに上陸しようとしたが、1588年のアルマタ戦争で撃破されている。
さらに、1600年に東インド会社を設立し、毛織物産業を育成するなどの重商主義政策を進める一方、1601年に救貧法を定めて貧民の救済も行っている。

生涯結婚せずに「処女王(ヴァージン・クイーン)」と呼ばれ、ウォルター・ローリー(Walter Raleigh)によってつくられたイングランド最初のアメリカ植民地はその名にちなんでヴァージニア(現在のヴァージニア州とは異なる)と呼ばれた。



エリザベス1世が未婚のまま亡くなってテューダー朝が途絶えると、スコットランド王だったジェームズがジェームズ1世として即位して、ステュアート朝が始まった。

しかし、ジェームズ1世は王権神授説を唱えて国教会を強制した。
このため信仰の自由を求めたピューリタン(清教徒)の人々が、メイフラワー号で1620年、北アメリカのプリマスに上陸した。

次のチャールズ1世も議会と対立し、議会は1628年に権利の請願を提出して、議会の同意がない課税や不当な逮捕や投獄の禁止などを王に認めさせている。
ところが、王は事実上これを無視して翌年には議会を解散し、11年間も召集しなかった。
しかし、国教会の強制に反発して、1639年にスコットランドの反乱が起こると、その戦費のためにチャールズ1世は、1640年4月に議会を召集した。

しかし議会が課税に反対したために三週間で閉会され(短期議会)、11月に再び議会を召集するが、議会は王の失政を非難したため1642年にヨークで国王が挙兵して内乱(ピューリタン革命、イギリス市民革命)となり、議会も1651年まで開催されっぱなし(長期議会)となる。

議会は国王側の王党派(国王派)(国教徒中心)と反国王派の議会派(ビューリタン中心)に分裂して、最初は王党派が有利だった。
議会派はさらに徹底抗戦を主張する独立派と、早期解決を求めた長老派に分裂。

独立派のクロムウェルは鉄騎隊と呼ばれる軍隊をつくり、これを手本に議会派がつくった新型軍が、1645年のネイズピーの戦いで王党派を負かしている。
さらにクロムウェルは、参政権の平等を説く過激な水平派(平等派)と協力して、議会から長老派を追放した。
そして1649年にチャールズ1世を処刑して、共和政(コモンウェルス)というイギリスで唯一国王のいない時期をうちたてた。

その後、水平派を弾圧したクロムウェルは独裁政治を行い、1649年にスコットランド征服、アイルランド征服を行って、後のアイルランド問題につながっていく。


共和政府は中継貿易によって栄えていたオランダに対抗するため1651年に航海法を制定した。
そのためにイギリス・オランダ(英蘭)戦争(第1次 1652-1654年)が勃発している。

1653年にクロムウェルは護国卿に就任して長期議会を解散させているが、死後には長老派が議会に復活して、1660年にチャールズ2世が即位し王政復古となった。
ところがチャールズ2世はカトリックを擁護する政策を行ったため、議会は、公職就任者を国教徒に限定する審査法を1673年に、法によらない逮捕・裁判・監禁を禁じた人身保護法を1679年に制定して、王に対抗した。

この王と議会の対立は次の王をめぐる議会内の分裂を生んで、トーリ党(後の保守党)とホイッグ党(後の自由党)というイギリス二大政党政治が生まれるきっかけとなっている。

国王即位の問題では、結局1685年にチャールズ2世の弟がジェームズ2世として即位した。
しかし彼もカトリック政策によって専制政治を行おうとしたために、議会は1688年にジェームズ2世の娘で新教徒のメアリーと、その夫であるオランダ総督オラニエ公ウィレムをイギリスへまねいた。
その結果、ジェームズ2世がフランスへ亡命して、無血の革命となった。
(名誉革命)

ウィレムとメアリーは翌年に権利の宣言を承認して、ウィリアム3世・メアリー2世として共同統治を行うこととなった。
そして権利の宣言は権利の章典となり、国民の生命や財産の保護が定められて、立憲政治の基礎が成立している。

メアリー2世の妹のアン女王が即位すると、彼女の時代にイギリスとスコットランドが合併して、1707年にグレートブリテン王国が成立している。
1714年、アン女王の子供がすべて幼くして死んだために、ステュアート朝が断絶すると、ドイツよりハノーヴァー選帝侯がジョージ1世として迎えられ、ハノーヴァ一朝(1917年に第一次世界大戦時に王室名をウィンザー朝と改名)が開かれた。

次のジョージ2世の時代にホイッグ党のウォルポールが首相となると、国王がウォルポールの続投を望んだのに、ウォルポールは議会での不信任に従って総辞職した。
これによって内閣は王ではなく、議会に対して責任を負う責任内閣制が成立し、「王は君臨すれども統治せず」という現在のイギリス議会政治が成立している。

こうして一連のイギリス立憲政治が確立する頃、イギリスはフランスと第2次英仏百年戦争とも呼ばれる植民地獲得戦争を行っている。
北アメリカにおける植民地をめぐるもので、ヨーロッパでの戦争は必ず、北アメリカでの戦争と並行して行われている。

ファルツ継承戦争はウイリアム王戦争、スペイン継承戦争はアン女王戦争、オーストリア継承戦争はジョージ王戦争、七年戦争はフレンチ・インディアン戦争として行われている。
イギリスは七年戦争(北アメリカではフレンチ・インディアン戦争)の結果、多くの領土を獲得した。

しかし、その維持のためには金がかかる。そのため、この金を北アメリカ東海岸にある13植民地から取ろうとした。
その不満から1776年7月4日に13植民地は独立宣言を出した。

1781年のヨークタウンの戦いでイギリスは敗北し、1783年のパリ条約によって13植民地の独立を承認して、ミシシッピ川以東のルイジアナを13植民地に割譲した。
さらにヴェルサイユ条約ではフランスにセネガルを、スペインにはフロリダ・ミノルカ島を返還している。

(七年戦争(Seven Years' War 1756-1763年)
プロイセンとオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争。
プロイセンとオーストリア間ではシュレジェンの帰属を決定する戦争となった。
同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となった。

結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンと地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。
同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ独立戦争、フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった)


18世紀後半に始る産業革命により、イギリスは世界の工場として資本主義が発展、19世紀には国内においては自由主義的な改革を行い、対外的には大英帝国を形成し、世界の最先進国家となった。

第一次世界大戦後、経済的主導権はアメリカ合衆国に移り、さらに第二次世界大戦後は海外植民地が相次いで独立するとともに、合衆国、ソ連の台頭により、世界の政治、経済に占めるイギリスの地位は相対的に低下。

しかし依然として世界の主要工業国の一つであることに変わりなく、鉄鋼、機械、化学、電子、自動車、航空機、繊維、衣料などの工業が発達し、ロンドンは世界金融の一中心となっている。
その反面、第一次産業の比重がきわめて低く、食糧や工業原料は大部分輸入に依存、これが国際収支の慢性的赤字の大きな原因となっている。

しかし、1970年代には新たに発見された北海油田の開発が進み、1980年代からは石油輸出国となり、その収益は経済の一端を支えている。
1973年、ヨーロッパ共同体 EC加盟。