国名 ウクライナ                          
英語 Ukraine  
首都 キエフ  
独立年 1991年  
主要言語 ウクライナ語、ロシア語  
面積 (千Km2) 604  
人口 (百万人) 44.7  
通貨単位 フリヴニャ  
宗教 ウクライナ正教及び東方カトリック教。  
  その他、ローマ・カトリック教、   
  イスラム教、ユダヤ教等。   
主要産業 鉱工業(21.0%)、農林水産業(9.1%)  
  建設業(2.5%)、サービス業(67.4%)         
           


聖ソフィア大聖堂(Saint Sophia Cathedral)

キエフ公国(Kievan Rus 882~1240年)の宗教的中心で、現存するキエフ最古の教会。
1037年、キエフ公ヤロスラフ1世によって創建されたビザンチン様式の聖堂である。

当時の東方正教会の最高府、コンスタンティノープル(現イスタンブール)のハギア・ソフィア大聖堂からその名が採られている。
1990年、世界遺産登録。





地理

国土はおもに平地からなるが、西部にカルパティア山脈が連なる。

一般に穏やかな大陸性気候で、平均気温は南西部で 1月-3℃、7月 23℃、
北東部で 1月-8℃、7月 19℃。

資源が豊かで、石炭、石油、鉄鉱石、マンガン鉱、カリウム塩などの埋蔵量が多く、
19世紀よりドネツクを中心に工業が発展した。


旧ソ連の最も工業発展の進んだ共和国の一つで、ドネツク、ドニエプル川流域に
大工業地帯があり、各種冶金、機械、化学、食品などの工業が発達している。

また大農産国で、国土の 50%を占める肥沃な黒土地帯を利用して、コムギ、
トウモロコシ、テンサイ、ヒマワリ、ブドウなどの栽培や畜産が盛ん。

土地改良も進められ、灌漑設備が各地でつくられている。

ドニエプル川、ドニエストル川などの河川が流れていることと、黒海に面して
いることから水運が発達し、陸上交通網も密度が高くなっている。

1986年4月、キエフ北方のチェルノブイリで史上最悪の原子力発電所事故が発生した。










歴史

バルト海からコーカサス地方にあたる地域は、375年、ゲルマン人が西方へ移動すると、
東スラブ人と呼ばれるスラブ人の部族が居住するようになった。

彼らは、スラブ語を話し、森林地帯での素朴な農耕生活を送っていた。

農業のほかに牧畜、狩猟、養蜂なども営んでおり、市場の中心となったキエフの街では、
毛皮や蜂蜜、絹織物などの交易で栄えていた。

当時のキエフは、カスピ海のハザール帝国(Khazar)の支配下にあった。

ハザール人は、徴税としてスラブ人の奴隷を調達し、カスピ海沿岸のイスラム帝国
(アッバース朝)と交易を行っていた。

イスラム帝国では、奴隷を労働力のほかに、ハーレムの娘や宦官として使っていた。
この奴隷(Slave)という言葉の語源は、スラブ人に由来しているのである。

850年、スラブ人の地に新たな支配者が現れた。ノルマン人のバイキングである。


ノルマン人の首長リューリク(Rurik)に率いられたバイキングたちは、バルト海沿岸から
現在のロシア北東部に侵攻し、スラブ人を征服。

862年、彼らはこの地にノブゴロド王国(Novgorod)を建国した。

リューリクが亡くなり後継者となったオレグ(Oleg)は、882年にキエフを占領して
キエフ公国(Kievan Rus)を建国した。

だが彼らの目的は領土の拡大ではなく、交易活動の拠点を形成することであった。

海洋民族であったノルマン人たちは、キエフから船でドニエプル川を南下し、
黒海を越えて、ビザンツ帝国に至る交易ルートを確立した。

ビザンツ帝国との交易を通じて、後にキリスト教(ギリシア正教)も伝わることになる。

そして950年、キエフ公国は隣接するハザール帝国に侵攻して滅亡させた。
キエフ公国において少数だったノルマン人たちは、やがてスラブ人の中に同化していった。


1240年、チンギス・ハンの孫バトウ率いるモンゴル軍がキエフ領内に侵入。

キエフ市民は抗戦を続けたが、ついに城壁を破壊され陥落、キエフ公国は滅亡した。
以後250年間、モンゴル民族に支配される時代が続く。(タタールのくびき)

モンゴル人たちは、税収が目的であり、服従して納税すれば自治を認めた。
スラブ人たちは、モンゴルに対して恭順の意を示し、国力の保持に努めることにした。

また北方のノブゴロド王国は、モンゴル支配を免れていた。
遊牧民族のモンゴル人は、森林地帯のノブゴロドには関心を示さなかったからである。



1263年、ヴォルガ川支流の商業都市であったモスクワにモスクワ公国が成立した。

1362年、隣国のリトアニアがモンゴル軍と衝突。激しい戦いの末、リトアニアが勝利。
リトアニアは、モンゴルからキエフを含むウクライナ地方の領土を獲得した。

その後、モンゴルはリトアニア、ティムール帝国などの侵攻により国力が衰退した。

好機と見たモスクワのイヴァン3世(Ivan III)は、1470年、モンゴルへの納税を停止した。

1480年、モンゴルが、支払いを要求して軍をモスクワに差し向けたとき、イヴァン3世は、
自ら大軍を率いて迎え撃つ用意をした。

だがモスクワの軍勢に恐れをなしたモンゴル軍は、そのまま退却してしまった。
これをもって、250年間に渡るモンゴル支配はようやく終了を迎えることになった。

その後、1502年、モンゴルはティムール帝国に攻撃され滅亡した。




一方、ウクライナのスラブ人たちは、リトアニア大公国の支配下に置かれた。

リトアニア人たちは、税を納めればスラブ人たちの自治を認めた。
また、スラブ人の宗教にも理解を示し、キリスト教を保護した。

ただし、その後もモンゴル人の侵入が相次いだため、スラブ人たちは
モンゴル人と対峙するリトアニアの前線基地の任を負わされた。

スラブ人たちは武装して、ドニエプル川流域で農業に従事した。

彼らは、畑を耕しながらも銃や剣を手放さなかった。
このような武装農民集団は、後にコサック(Cossacks)と呼ばれた。



当時のリトアニアは、ドイツ騎士団の侵入にも悩まされていた。

ドイツ騎士団は、かつて十字軍に参加した修道士たちの武装集団であった。
彼らは、聖地エルサレム巡礼者の保護を目的として結成され、十字軍の中核として活躍。

ドイツ騎士団は引き続き、バルト海沿岸へ向かった。

リトアニアをはじめとするバルト海諸民族は多神教的な信仰を持っていた。
そのため、異教徒を改宗させる使命を帯びたドイツ騎士団の恰好の標的となった。


バルト海諸民族は、ドイツ騎士団の攻撃と戦ったが、次々と征服され、
彼らの土地はドイツ騎士団領に組み込まれていった。


1386年、ドイツ騎士団の脅威に対抗するため、リトアニアはポーランドと国家連合を結成、
リトアニア・ポーランド連合王国を成立させた。

1410年、タンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg)でリトアニア・ポーランド連合王国は
ドイツ騎士団を破り、バルト海諸民族を解放することに成功した。

リトアニア・ポーランド連合王国は、その後も勝利を続け、1457年、ドイツ騎士団領を占領した。

1525年、リトアニア・ポーランド王ジグムント1世(Sigismund I)は、当時の騎士団長アルブレヒト
(Albert)にプロシア人の土地を封土として与え、彼を初代プロイセン公に任命した。

これによってドイツ騎士団は消滅し「プロイセン公国」(Duchy of Prussia)が成立。
このプロイセン公国は、やがてビスマルク(Bismarck)によってドイツ帝国へと発展することになる。



1569年には単一国家としてのポーランド・リトアニア共和国が成立。
リトアニアはポーランドとともに、バルト海から黒海沿岸まで広がる中欧の大国となった。


1620年、領土拡大を狙うオスマン帝国がポーランド・リトアニア共和国に侵攻。(オスマン戦争 1620~1634年)

この戦争では、ウクライナの4万人のコサック農民が動員された。
コサックたちは勇敢に戦い、約10万のオスマン軍の進撃を食い止めることに決定的な役割を果たした。

コサックたちの活躍により、最終的にポーランド・リトアニア共和国はオスマン帝国の撃退に成功した。
しかし、14年間の長期にわたりオスマン帝国と戦い続けた結果、共和国内部は物質的に疲弊してしまった。

またこの戦争で、多くの働き手を失ったコサック農家は窮乏をいっそう深めることになった。


1648年、ウクライナ地方でコサック農民の一揆が発生、この一揆はまもなく鎮圧されたが、
その後1654年、ロシアがウクライナ人の保護を口実としてポーランド・リトアニア共和国に侵攻。

1655年7月、リトアニアの首都ビリニュスはロシア軍によって破壊され炎上、数千人の市民が犠牲となった。

1667年1月、休戦条約が結ばれ、ポーランド・リトアニア共和国は、ドニエプル川のウクライナ左岸地方を
ロシアに割譲した。

この戦争で東ヨーロッパにおける覇権はロシアに移り、ロシアは帝国としての威容をととのえていった。


その後、ポーランド・リトアニア共和国は、1772年、1792年、1795年にロシア、オーストリア、
プロイセンの三国によって分割され、共和国は消滅し、ウクライナ全土がロシア領となった。

ロシア帝国の一員として歩み出したウクライナは、ロシアの同化政策に翻弄されることになる。
ロシア語の公用語化が進められ、教会においては、ウクライナ語で説教することも禁止された。

だがこれらの圧政は、ウクライナ人たちの民族意識を高め、やがて独立を求める力強い民族運動に発展した。


第一次大戦が終了し、1917年の革命でロシアが崩壊し「ソビエト社会主義共和国連邦」が誕生すると、
キエフにも中央委員会が発足し「ウクライナ人民共和国」として独立を宣言した。

混乱の中で勝ち取った独立だが、ソビエトがこれを認めず、5年間に渡る内戦の末、1922年、
ウクライナは社会主義共和国としてソビエト連邦の一員として留まることになった。

1991年8月24日、ソビエト連邦の崩壊とともに、ウクライナはようやく悲願の独立を果たした。
憲法を制定し議会政治のもと経済改革を進めることになった。





2004年、大統領選挙で親ロシア政権が敗れ、ユシチェンコ(Juscenko)による親西欧派政権が成立。

大統領選挙では、親ロシア派のヤヌコーヴィチ(Yanukovych)と、親西欧派のユシチェンコの激しい一騎討ちとなった。

開票の結果、ヤヌコーヴィチの当選が発表されると、野党勢力が、ヤヌコーヴィチ陣営において大統領選挙で不正があったと主張し始め、
不正の解明と再選挙を求めて、首都キエフを中心に、ゼネラル・ストライキ、座り込み、デモンストレーション、
大規模な政治集会を行い選挙結果に抗議した。(オレンジ革命)。


オレンジ革命(Orange Revolution)

選挙結果に対して抗議運動を行った野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして、リボン、「ユシチェンコにイエス!」と書かれた旗、
マフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命と呼ばれている。
 


この抗議運動はマスメディアを通じて世界各国に報道され、大きな関心を呼んだ。
特にヨーロッパやアメリカでは野党ユシチェンコに対して、ロシアでは与党ヤヌコーヴィチに対して肩入れする報道がなされた。

野党勢力を支持するEU及びアメリカなどの後押しもあり結局野党の提案を受け入れて再度投票が行われ、再投票の結果、ユシチェンコ大統領が誕生した。


2010年、大統領選挙で親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権が成立。

2013年11月、ヤヌコーヴィチ政権がEUとの連合協定の交渉プロセスの停止を決定したことにより、
欧州統合支持者や政権の汚職に反対する市民による大規模反政府デモが発生した。

2014年2月、親ロシア派政権の腐敗に対する批判が強まり、ヤヌコーヴィチ大統領が追放。(ウクライナ騒乱)
それに反発した親ロシア派が、クリミアのロシア編入を住民投票で強行、ウクライナ東部も同調し、深刻な内戦に発展した。




     

  世紀 年代 出来事
  4C以降 スラブ民族の定住
  8C 882年 キエフ・ルーシ(キエフ公国)の成立
  10C 988年 ギリシャ正教が国教となる
  13C 1240年 モンゴル軍キエフ攻略
  14C 1340年 ポーランドの東ガリツィア地方占領
  1362年 リトアニアのキエフ占領 (以後、ポーランドとリトアニアによる支配)
  17C 1648年 ポフダン・フメリニツキーの蜂起 (コサックによるポーランドからの独立戦争)
  1654年 ペレヤスラフ協定
  18C 1709年 ポルタヴァの戦い (ロシアからの独立戦争)
  1764年 ロシアによるウクライナ自治の廃止
  19C 1853年 クリミア戦争
  20C 1914年 第一次世界大戦
  1917年 ロシア革命。ウクライナ人民共和国成立
  1922年 ソビエト社会主義共和国連邦成立
  1932年 農業集団化による大飢饉
  1939年 第二次世界大戦 (~1945年)
  1941年 独ソ戦開始、独によるウクライナ占領 (~1944年)
  1954年 クリミアをウクライナに編入
  1986年 チェルノブイリ原発事故
  1991年 ソビエト連邦崩壊、CIS創設、ウクライナ独立。
  1996年 憲法制定、通貨グリヴニャ導入
  21C 2004年 大統領選挙で親ロシア政権が敗れ、ユシチェンコ (Juscenko) による親西欧派政権が成立。
  オレンジ革命 (大統領選の不正選挙に対するやり直し投票の実施)
  2010年 大統領選挙で親ロシア派のヤヌコーヴィチ (Yanukovych) 政権が成立。
  2013年 ヤヌコーヴィチ政権がEUとの連合協定の交渉プロセスの停止を決定。
  欧州統合支持者や政権の汚職に反対する市民による大規模反政府デモが発生。
  2014年 親ロシア派政権の腐敗に対する批判が強まり、大統領が追放された。
  それに反発した親ロシア派が、クリミアのロシア編入を住民投票で強行。
  ウクライナ東部も同調し、深刻な内戦に発展した。






ウクライナ陸軍の女性兵士


ウクライナでは、2013年に徴兵制を廃止したが、翌年発生したロシアの
クリミア侵攻の後に徴兵制が復活した。

2014年3月、クリミア半島にロシアが軍事侵攻し、強制的に併合した。

この「併合」という強硬措置に対して、ウクライナ政府はじめ欧米は激しく非難した。


クリミア半島併合の理由は当時、半島にアメリカ主導によるNATO基地が
建設される恐れがあったためである。

ロシアのプーチン政権にとってみれば、これを見過ごすわけにはいかなかったのだ。


現在、ウクライナ軍全体の3%が女性兵士となっている。

歴史上の理由からだろうか、ウクライナは芯が強く、相手が男性であっても
対等に立ち向かっていく勇敢な女性が多いようである。







スワローズ・ネスト城(Swallow's Nest)


クリミア半島南部黒海沿岸の断崖絶壁に建つ「ツバメの巣」と呼ばれる城。

1911年、バルト海のドイツ人石油王がロシアの建築家レオニード・シャーウッド
(Leonid Sherwood)にネオ・ゴシック様式の別荘として作らせた城。

その後、城は売却され、現在は高級レストランとして運営されているが、崖から張り出して
今にも落ちてしまいそうな立地のため、観光客が絶景を求めて訪れる観光スポットとなった。

この城は映画のロケ地としても知られ、アガサ・クリスティーの小説「そして誰もいなくなった」
など数々のミステリー映画にも登場している。