7月9日   赤穂浪士 1702年(元禄15年)     歴史年表       真日本史       人名事典)(用語事典
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元禄14年(1701年)3月14日、江戸城は松の廊下。

赤穂藩主・浅野内匠頭は、吉良上野介からの度重なる侮辱にたえかね、刃傷に及ぶ。

幕府裁定で内匠頭は切腹、お家は断絶、だが吉良上野介はお咎めなしという処分であった。

赤穂城にて悲報を受けた赤穂藩家老・大石内蔵助は、幕府裁定を不服とし、家臣らと密かに仇討ちを誓う。



翌元禄15年12月14日、内蔵助をはじめとする赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入り主君の仇を討つ。

これは当時の思想や習慣からすると、身命を捨てての主君の仇討ちは全くの義挙であった。
当時の世論はこの襲撃をほめたたえ、それが47士の助命論となって現れたのである。


だが彼らを助命すれば、刃傷事件のときの幕府裁定が間違っていたことになる。幕府は進退きわまった。
そこで時の将軍綱吉は、上野寛永寺の住職・公弁法親王(こうべんほっしんのう)に意見を求めた。

法親王は皇族であるため、江戸において将軍が頭を下げる唯一の人物である。
将軍綱吉は、いったん切腹と決めてから、法親王に助命を言い出してもらおうと考えたのである。


だが法親王は「彼らは一命を賭して本懐を遂げたのだ。死に華を咲かせてやるのがよかろう」と答えた。
やむなく幕府は47士を、作法通り切腹させることにしたという。

赤穂浪士は、江戸の町で許可なく兵を動かし私闘を演じたのだから、彼らの行動は幕府に対しては不忠義である。
したがって本来なら、打ち首という最悪の厳罰が下されても仕方がない立場にあったのだ。


だが幕府は名誉ある切腹という結論を下した。当時の幕府は、家臣の主君へ忠義を推進する立場にあった。
主君のために命を張った赤穂浪士を無下にはできなかったのだ。


一方、吉良家は、討ち入りに参加した赤穂浪士よりはるかに多い侍を擁していながら、主君を殺害されており、
武士としての本分を果たさなかったとして、領地没収・お家断絶の幕府裁定が下されている。


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かたき討ち(かわら版)





四国、去る御大名様御家中、田川徳左衛門留守中に

妻、同国千葉村多五郎と申す者密通いたし、

当四月十一日国元を立のき候に付き、右徳左衛門、

所々方々と相尋ね候うち、大坂中の嶋にて見当り、

其の場において首尾よく本望とげられけるは、

ゆゆしかりける次第なり。


元禄八年(1695年)六月二十九日

(大坂中ノ島において敵討之次第/大阪府立中ノ島図書館所蔵)







かわら版とは、紙に木版で刷ったいわゆる新聞であり、元禄時代、市中で読みながら売られた「読売瓦版」がそのはしりであったとされる。

ゴシップ好きな江戸の庶民にとって、火事に喧嘩に仇討ちは「鉄板ネタ」であり、それらを報じたかわら版は飛ぶように売れたという。


上に紹介したかわら版は、元禄八年六月に報じられた、仇討ちのかわら版である。
四国のとある大名の家臣、田川徳左衛門の妻が、旦那が留守の間に千葉村の多五郎と密通した。

ゆるし難く討ち果たさねば、と考えた徳左衛門は、その後国許を出立して多五郎を所々方々と捜索した。
ようやく大阪中之島で見つけ、その場で首尾よく本懐を遂げ、結構な次第であった、という記事である。

これは、いわゆる「主君の仇、父親の仇」という趣旨とは異なり、妻仇討(めがたきうち)といわれるものである。
妻と姦通をした浮気相手の男を本夫が殺すというものであり、これも当時は合法の仇討ちのひとつであった。



しかし実際のところ、交通や情報が未発達の江戸時代、日本中を歩き回って、仇を見つけ出すことは、容易ではなかった。

出立当初は、郷里からの経済的な援助もあり、気力も充実していたが、事はすぐさま首尾よく運ぶわけでもない。

何年もたって郷里で忘れられかけると、なかなか辛い任務となり、負担はますます大きくなるばかりである。
だから、見つけ出したときの「ここで会ったが百年目!」という叫びはあながち大げさというわけでもなかったようだ。


ことほどさように、仇討ちとは、山あり谷ありの物語性を秘めた一大ストーリーであった。

だから、仇討ちが見事に達成されたことを知るや、かわら版屋は競って情報を集め、すぐに商品にした。
江戸の庶民は、そのリアルなストーリーを、こぞって娯楽のひとつとして楽しんだのである。