ガダルカナル撤退 1943年 (昭和18年)      歴史年表     真日本史        人名事典)(用語事典

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昭和17年8月7日から 6か月間に渡るガダルカナル島の戦いは、日本側の敗北に終わった。
ミッドウェー海戦と並び、大東亜戦争における日米攻守の分岐点となった戦いである。


昭和17年7月6日、日本海軍の設営隊が、ガダルカナル島に上陸、航空基地の建設を始めた。

この島に基地を築けば、ソロモン諸島の制空権を抑えることができる。これにより米豪の分断が
可能になり、海軍の拠点であるラバウルの安全を強固にできると、海軍上層部は考えたのである。

8月7日、米軍海兵隊約1万2千が、ガ島と対岸のツラギ島に上陸、ツラギの400名の海軍守備隊は全滅。
ガ島の日本軍は、設営隊約1,200名が中心で、250名ほどの海軍部陸戦隊がいただけであった。


わずか1日の戦闘で飛行場とその一帯を奪われ、設営隊はジャングルに撤退して援軍を要請した。

8月8日夜、三川中将率いる第8艦隊がラバウルから出撃。重巡「鳥海」を主力とする第8艦隊は、
米豪艦隊の「キャンベラ」をはじめとする重巡4隻を撃沈し、制海権を握る。

だが10Km先で揚陸作戦中だった米軍輸送船団は攻撃せず、そのままラバウルへ帰還した。


三川中将はこのとき、上陸部隊を護衛してきた米空母3隻が、救援に駆けつける可能性を無視できず、
さらに航空機の援護のない再突入は危険と考え、早期撤退を決断したのである。

8月18日、ガ島奪還のため、一木大佐率いる陸戦部隊約900名が出撃、飛行場の東40Km、タイポ岬に上陸。
21日早朝、一木隊は敵陣に白兵戦を試みたが、米軍の猛烈な反撃に遭い全滅。一木大佐は銃で自決した。


この後、9月には川口少将率いる約4,000名の陸戦部隊、10月には丸山中将の第二師団を上陸させたが、
いずれも奪還に失敗する。一方、海でも、11月のソロモン海戦で敗戦を喫し、制海権を失ってしまう。

日本側の輸送船の多くは、ガ島に到着する前に撃沈され、武器弾薬はおろか食料すら届かなかった。
将兵たちは、ジャングルで飢えやマラリアなどに耐えるしかなく「まるで餓(ガ)島だ」と嘆いた。


12月31日、大本営はついにガ島からの撤退を決定。翌18年2月から駆逐艦による救出作戦が始まった。

3万6千名の投入兵力の内、戦死者は2万2千名にのぼった。その多くが餓死や戦病死であった。
ガ島での 6か月間の戦いは、陸海上全ての戦力を無意味に消耗した以外の何ものでもなかった。

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東京ローズ(Tokyo Rose)

昭和18年3月、ラジオ・トウキョウで「ゼロ・アワー」という番組がスタートした。
音楽と語りを中心に、流暢な英語を話す女性アナウンサーが、アメリカ軍兵士に語りかけるというものだ。

目的は、アメリカ軍兵士に、恋人や家族のことを思い出させ、戦意を喪失させることにあった。
だが兵士を魅了するその語り口は、いつしか多数の兵士たちのあこがれへと変わっていった。

「太平洋のみなしごさん、あなたたちのお船は全部沈んじゃったのよ。どうやってお家に帰るつもり?」

ガダルカナル島、フィリピン、ジャワなど、娯楽のない南の孤島で、いつ死ぬか分からない最前線の
兵士たちは「東京ローズ」と呼ばれる彼女たちの声に、いやされ魅了されていったのである。







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