鎌倉時代に中国から朱子学が伝わった。そのなかに「大義名分論」という考えかたがある。
大義名分とは「身分をわきまえることが人の道」であり、これが本来の意味となっている。
これに影響をうけた後醍醐天皇は、君主たる天皇こそが政治を行うべきだと考えるようになった。
つまり、臣下である幕府は身分をわきまえておらず、これは人の道に反している、というわけだ。
そこで後醍醐天皇は、本来あるべき上下関係に戻そうとした。すなわち「倒幕」である。
だが側近とともに、二度にわたって倒幕計画を立てたものの、どちらも事前に発覚して失敗した。
二度目のときには、天皇自身もつかまって、隠岐島に流されてしまった。(1332年3月)
1333年2月、天皇側に味方して挙兵した楠木正成が、河内の山城に立てこもり、幕府軍と対峙した。
山城を守る楠木軍はわずか千人足らずの小勢。これを囲む幕府軍は、二十万という大軍であった。
だが楠木軍は、奇襲作戦など知略の限りを尽くし、数か月にわたって幕府軍を翻弄し続けたのだ。
すると幕府に不満を持っていた武士たちが、あちこちで反幕府の兵を挙げはじめた。彼らの多くは
承久の乱で、後鳥羽上皇側について処刑された武士たちの子孫であった。
楠木正成の奮闘で幕府打倒の機運が高まるなか、後醍醐天皇は、隠岐を脱出して再び兵を挙げた。
幕府執権・北条高時は、後醍醐天皇討伐のため、足利尊氏を西国に派遣する。(1333年4月)
だが尊氏は途中で、天皇側に寝返ってしまう。尊氏は、かねてより北条高時の専横を快く思わず、
幕府離反を考えていた。彼はまた源氏の嫡流であり、源氏による幕府再興の野望もあったのだ。
さらに尊氏と同じ源氏の名門・新田義貞も、尊氏に呼応して倒幕の兵を挙げた。(1333年5月)
足利尊氏は京に向かい、六波羅探題を一気に壊滅する。一方、新田義貞は、幕府軍が、楠木正成の
山城攻略に手間取っている間、手薄になった鎌倉に攻め込んだ。
怒涛のごとく鎌倉に押し寄せる新田義貞軍に追いつめられ、北条高時をはじめ、北条一族数百人が
東勝寺にて自刃。1333年(元弘三年)5月22日、ここに140年間続いた鎌倉幕府は滅亡した。
蒙古襲来
鎌倉時代中期、元朝の皇帝フビライ・ハンは、アジア全域への勢力の拡大に意欲を燃やし、
1274年(文永11年)1281年(弘安4年)の2度にわたり、元軍を派遣し日本侵略を試みた。
結果的に2度とも元軍は撤退したが、多くの戦費と、新たな元の襲来に備える費用のために、
幕府の財政は苦しくなった。
出陣した御家人たちは多くの犠牲を払いながら十分な恩賞がもらえず、経済的に苦しくなり、
幕府に対する不満をつのらせていった。
1316年(正和5年)北条高時が14代執権に就任すると、独裁的な政治を行い、各地の守護の多くを
北条一族で独占してしまった。このため、御家人の幕府に対する忠誠心は次第に薄れていった。
時の後醍醐天皇は、幕府の支配に陰りが見えた今こそ、幕府打倒の好機到来と判断したのである。