明治維新  1868年(明治元年)     歴史年表      真日本史       人名事典)(用語事典
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慶応4年(1868年)9月8日、明治と改元された。

この少し前、7月17日には、江戸も東京と改称されている。


明治天皇は、慶応3年(1867年)1月9日、16歳で即位された。

孝明天皇が慶応2年(1866年)12月25日、36歳で崩御されたためである。


若い明治天皇は、9月末、新しい首都東京に移るため京都を出発され、

東京へ着かれたのが10月なかばであった。


家康以来の徳川家の居城・江戸城は、天皇が住まわれ、皇居となったのである。

日本は新しい時代を迎えたのだ。






幕府を倒し、続いて大名をなくした。それ以後の日本をどうするか。

このビジョンを明確に打ち出し、それを推し進める人材が新政府に求められた。


そこで中心となったのが岩倉使節団(1871年〜1873年)の一行である。


主要メンバーは、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文というまさに明治維新の主役たちであった。

さらには、当時わずか6歳の女子留学生、津田梅子の姿もあった。


彼ら一行が「見た」のは、サンフランシスコからワシントンに向かう大陸横断鉄道(1969年開通)や、

石畳みで舗装されたロンドンやパリの道路だった。


さらに、立派な道路の両側には、江戸城よりも高い石造りの建物がずらりと並んでいる。

聞けば、そこに庶民が住んでいるという。彼らは近代文明の力と富に圧倒された。


彼らは、「あれこれいっている暇はない。とにかく西洋風にし、富国強兵を図らなければならないと考え、

欧化政策による富国強兵の重要性を認識した。


国を富ますには、農業では仕方がない。商業や工業の振興を優先する必要がある。金持ちになって、

その富で武力を強くし、欧米列強の植民地にならないようにする。こういう明確な意図を持った。


だが、その意図は、欧米を見なかった人には実感できない。そのため近代化に対して反発を感ずる。

つまり、使節団派遣の結果、新政府内部は「外国を見てきた人」と「見てこなかった人」に分かれたのだ。


当時はまだ内閣制度はなかったが、今でいえば閣僚に相当するものとして参議という役職があった。

外国を見ていない参議には、一番力があった西郷隆盛、江藤新平らがいた。


この二人は近代化路線に反対である。岩倉使節団を中心とする欧化政策、富国強兵政策反対ということだ。

結局、彼らは新政府に対する反乱を起こした。


江藤新平が佐賀の乱(1874年)、ついで西郷隆盛が西南戦争(1877年)を起こしたが、いずれも敗れ去った。



使節団帰国後の新政府の施策を見ると、まったく欧化政策に躊躇がない。


廃刀令(1876年)などによって士族の特権をまったくゼロにしたのも、また当時としては途方もない借金を

してでも商工業に投資するという決断をしたのも、この使節団の体験なくしては考えられなかったのである。


かつて強力な武器を持ち、高度な機械を操る白人の姿を見て、日本人以外のすべての有色人種は無力感を抱いた。


ところが日本人は絶望するどころか、卓越した西洋文明を見て好奇心を抱き、その知識と技術をあっというまに

自分たちのものにしてしまった。しかも、西欧列強の植民地化を許さず、国家としての独立を守った。


これこそが世界史における明治維新の意義というものであった。





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明治維新年表
1867年 (慶応3年) 10月14日  大政奉還
1867年 (慶応3年) 12月9日  王政復古の大号令
1868年 (慶応4年) 1月3日  戊辰戦争開始
1868年 (慶応4年) 3月14日  五箇条の御誓文布告
1868年 (慶応4年) 4月11日  江戸城無血開城
1868年 (慶応4年) 7月17日  江戸を東京に改称
1868年 (明治元年) 9月8日  元号を明治に改元
1868年 (明治元年) 9月22日  会津藩降伏
1868年 (明治元年) 10月13日  江戸城を皇居とする
1869年 (明治2年) 5月18日  戊辰戦争終結
1869年 (明治2年) 6月1日  版籍奉還
1871年 (明治4年) 5月10日  新貨条例
1871年 (明治4年) 7月14日  廃藩置県
1871年 (明治4年) 11月10日  岩倉使節団出発
1873年 (明治6年) 1月10日  徴兵令
1873年 (明治6年) 7月28日  地租改正条例
1873年 (明治6年) 9月13日  岩倉使節団帰国
1873年 (明治6年) 10月23日  征韓論争が起こる
1874年 (明治7年) 2月1日   佐賀の乱(士族の反乱)
1876年 (明治9年) 3月28日  廃刀令
1876年 (明治9年) 8月5日  秩禄処分→士族の乱が相次ぐ
1877年 (明治10年) 2月14日  西南戦争
1881年 (明治14年) 10月12日  国会開設の勅諭
1885年 (明治18年) 12月22日  内閣制度ができる
1889年 (明治22年) 2月11日  大日本帝国憲法発布


大政奉還

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を
朝廷に返上することを申し入れ、翌15日、朝廷はそれを受け入れた。

これによって鎌倉幕府以来、約700年続いてきた武家政治は終了した。



王政復古

1867年(慶応3年)12月9日、天皇は王政復古の大号令を発した。
これは、徳川慶喜の将軍辞職と、徳川家の領地没収を意味するものであった。

これにより、天皇が総裁・議定・参与の三職を通じて行政権を行使する
明治政府が発足(1867年12月9日)した。



戊辰戦争

1868年(慶応4年)1月3日から1869年(明治2年)5月18日まで行われた新政府軍と
旧幕府側との戦いの総称。
鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊の戦)、会津戦争、箱館戦争などを含む。


五か条の御誓文

1868年(慶応4年)新政府が天皇中心の体制を固めるために、天皇が神に誓う形で、
五か条の御誓文を公布した。ひろく意見を聞いて政治を行い、外国から新しい知識を
取り入れて国を発展させていこうというもの。



元号を明治に改元

1868年(慶応4年/明治元年)9月8日、明治改元の詔が発せられ、慶応4年を明治元年とした。
あわせて、天皇一代に元号を一つとする「一世一元」の制が定められた。



版籍奉還


版籍奉還は、領地と領民を天皇へ返上し、幕藩体制の解体と中央集権をはかった政策である。
「版」とは領地、「籍」とはそこに住む人々を指す。

幕府が倒れた後も、国内は諸大名がそれぞれ統治を続けていたため、新政府は大名に
版籍を国に返すように働きかけたのである。




大名は、その後も藩知事(地方長官)として藩政を委任され、その身分と収入が
保たれたため、特に大きな混乱もなく、諸大名の領地・領民が天皇に返還された。



新政府は、版籍奉還と同時に、公家・大名諸侯の呼称を廃止して華族制度を導入し、
公家142家、大名諸侯285家が華族として認められた。



新貨条例

1871年(明治4年)新しい貨幣制度確立のために公布された法令。
江戸時代の複雑な貨幣制度を整理して貨幣単位を円、補助単位を銭・厘とし、金本位制採用をうたった。



廃藩置県

廃藩置県は、すべての藩を廃止して、府県に統一し、中央集権体制の強化をはかった政策。

旧藩知事はすべて東京移住を命じられ、代って府知事・県令(のちの県知事)が
中央から派遣。
全国は、3府72県の行政単位に統一、天皇を中心とする中央集権国家の統治基盤が確立した。



岩倉使節団

1871年(明治4年)政府は、不平等条約の改正を外交の方針とし、その下交渉と欧米の事情を
調べることを目的として、岩倉具視らを欧米使節団として派遣した。



征韓論

明治初期の朝鮮征討論。明治維新以来、政府は朝鮮にしばしば国交を求めたが、朝鮮は排外鎖国政策をとっており
これを拒否したため、1873年(明治6年)西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らは、士族の不満を外戦に向けるため
「征韓」を強く唱えて政府の方針を決定した。

しかし欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通らは内治を優先せよとしてこれに反対、西郷らは敗れて
下野した(明治六年の政変)。士族反乱、自由民権運動の原因となる。



佐賀の乱

1874年(明治7年)2月、佐賀の不平士族が江藤新平を指導者として蜂起した事件で、
士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された。



廃刀令

軍人・警察官にのみ帯刀を認め、士族などの帯刀を禁止した法令。1876年(明治9年)公布。



秩禄処分

1876年(明治9年)明治政府が金禄公債証書の交付を代償として、華族・士族への家禄支給を全廃した処置。
これにより多くの士族は急速に没落した。



西南戦争

1877年(明治10年)鹿児島の士族が西郷隆盛を担いで政府に反乱を起こした。
反乱軍は、近代的な政府軍に敗れ、西郷は自害。

武力による反抗はこれが最後となり、不平士族の反政府運動は言論が中心となった。



大日本帝国憲法

伊藤博文らが渡欧して研究し、君主権の強いプロイセン憲法を手本にして草案をつくり、
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。

主権は天皇にあり、国務大臣や官吏は天皇が任命し、議会は政府を組織する権限をもたない。
外国と条約をむすんだり、戦争を始めることもすべて天皇の権限であった。

特に軍部は天皇に直属するものとして、政府からも議会からも独立していた。
また、国民は「臣民」とよばれ、その権利は法律によって制限できるとされていた。