昭和17年5月27日午前6時、南雲司令官率いる機動部隊は、ミッドウェー島に向け、広島湾を出発した。
機動部隊の編成は「赤城」「加賀」をはじめとする空母4隻を擁した計21隻。
2日後の5月29日、山本連合艦隊司令長官率いる戦艦「大和」など主力部隊も広島湾を出発した。
これより前の4月18日、米太平洋艦隊が日本近海に接近、空母から発艦した爆撃機が日本本土を空襲。
本土空襲に大きな衝撃を受けた日本軍部は、真珠湾攻撃で撃ち漏らした米空母を叩く必要に迫られた。
そこで、ハワイの西 2,000キロに位置する米軍の拠点・ミッドウェー島を攻略する作戦を立案した。
ミッドウェー島を占領し、これを奪回にくる米空母を迎え撃ち、撃滅するのが作戦の骨子であった。
さらにアリューシャン列島の米軍基地を攻略する作戦も同時に進められた。これは北方からの空襲の
憂いを除くとともに、それに対抗し米空母が北上してくるだろうとの読みからの二正面作戦だった。
6月5日午前1時30分、ミッドウェー島北西約400kmに展開した4隻の空母から、先発部隊108機が発艦。
午前3時30分、先発部隊がミッドウェー基地施設を空爆、重油タンクや格納庫を破壊し打撃を与えた。
午前4時、先発部隊より「第二次攻撃の要あり」との打電が届く。南雲司令官は、付近に米艦隊がいないものと判断し、
第二次攻撃を決定。午前4時15分、待機中だった航空機の装備を魚雷から、陸上攻撃用爆弾への積み替えを命じた。
だが積み替え作業中、偵察機が米空母が近くにいることを発見、再び魚雷に積み替え、発艦しようとした午前7時26分、
米軍の急降下爆撃機がいっせいに日本空母を襲う。甲板では、魚雷や爆弾を抱えた航空機が引火により次々と爆発。
「赤城」「加賀」「蒼龍」は、炎上して30分後に沈没。残る「飛龍」は、敵空母に向かって進撃し「ヨークタウン」を
大破したが、4発の爆弾を受け夕刻に沈没。後方500kmにいた主力部隊も援軍に間に合わず、なすすべもなく退却した。
日本側の作戦は、米空母が付近にいないことが前提になっていた。だが米軍は日本側の暗号を解読し、作戦の概略を
つかみ、ミッドウェー島の周辺で、日本の機動部隊を待ち受けていたのだ。
6月7日、アリューシャン攻撃部隊は、ダッチハーバーを空襲し、アッツ島、キスカ島の占領に成功した。だがミッドウェー
での戦いは、機動部隊壊滅により、米軍の勝利となった。 米国側は、空母1隻を含む2隻、航空機130機を喪失、死傷者300名。
日本側の損害は、空母4隻を含む7隻、航空機290機を喪失、死傷者3,050名。この戦いで日本は、歴戦の優秀な搭乗員を数多く
失った。補充要員を入れたが、世界最高レベルだった日本パイロットの「質」は低下。戦力は大幅にダウンしてしまった。
ミッドウェー海戦 (Battle of Midway) 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)6月5日から7日にかけて、ハワイ諸島北西にある ミッドウェー沖で日米両海軍の機動部隊が繰り広げた大規模な戦闘。 日本軍の連合艦隊は空母4隻をすべて失う大敗を喫し、これ以後、日本軍は太平洋での 制海権・制空権を失い、戦局は劣勢に転じた。 |