日独伊三国同盟 1940年(昭和15年)    歴史年表     真日本史       人名事典)(用語事典
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1898年の米西戦争以降、アメリカは「海洋大国」への脱皮を目論んでいた。
国内市場が飽和状態になり、新たな市場を海外植民地に求めたのである。

その足掛かりとして、米西戦争でフィリピンを獲得。同時にハワイやグアムも併合領有し、
太平洋に橋頭保を築いた。次に狙うは中国市場である。

だが第一次世界大戦で、日本が獲得した太平洋の権益は、アメリカ本土からフィリピンを経て、
中国大陸に至るアメリカの「帝国主義ルート」を分断する形となった。

これを座視できなくなったアメリカは、日本を抑止するため、ワシントン軍縮条約(1921年)において、
日本の主力艦の保有数を制限。同時に、米・英・仏・日の4か国条約を締結し、日英同盟を失効させた。

さらに、9か国条約で、中国の「主権尊重・領土保全」を唱え、日本が得たばかりの山東省の旧ドイツ権益を
放棄させたのである。ここに日米の対立が表面化し、お互いを仮想敵国と想定、将来の戦いに備えるようになる。

1939年9月、第二次世界大戦が勃発。ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻。これに対し、英仏が宣戦布告。
翌年5月、ドイツはフランスなど西欧諸国への攻撃を開始。オランダ、ベルギーは降伏し、6月にはパリが陥落した。

日本はドイツの連勝に自国の利を見出し、宗主国の敗北によって権力の空白となった仏印に進出することを企てる。
その目的は、長期戦となった日中戦争継続のため、石油やボーキサイト、ゴムなどの資源を確保することにあった。

1940年(昭和15年)9月27日、すでにドイツと提携していたイタリアを加え、日独伊三国同盟を締結。
この同盟は「第三国から攻撃を受けた場合は、お互いに軍事的援助を行う」という攻守同盟であった。

第三国とはアメリカを想定しており、日独伊三国同盟の目的は、アメリカの参戦を牽制することにあった。
だがこの同盟は、いずれかの国が攻撃を受けた場合のみ有効であり、日本からの先制攻撃はこれにあたらない。

同盟の弱点は、参戦の機会を伺うアメリカによって利用されてしまう。
1941年(昭和16年)8月1日、アメリカは、日本への石油輸出を全面禁止するという強硬措置を打ち出す。

これは石油の大半をアメリカに依存する日本にとって、致命的な一打となった。急遽日米交渉を試みるもついに決裂。
1941年(昭和16年)12月1日、天皇臨席の御前会議で「アメリカとの開戦もやむなし」との聖断が下されたのである。

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金属類回収令(昭和16年)


アメリカによって石油からくず鉄まで輸入がストップされたため、
たちまち銃や砲弾に使う戦略物資が不足する事態となった日本。

そのため一般家庭からも、鉄や銅など金属類を回収するようになる。
家庭のなべや釜、箪笥の取手、寺の釣り鐘まで根こそぎ回収された。

寺の鐘楼は、釣り鐘の重さでバランスを保っていたため、崩壊の危険があり、
多くの寺院では、石・コンクリート等で作られた代替の鐘を吊り下げた。

各地の小学校には必ずあった二宮金次郎の銅像や、渋谷のハチ公像も回収対象となり、
その跡は石像にとって代えられた。現在のハチ公像は戦後に再建された二代目である。






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