応仁の乱 1467年(応仁元年)    歴史年表     真日本史       人名事典)(用語事典
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1461年(寛正2年)の大飢饉で、京の加茂川は一面餓死者で覆われた。だがこれだけの惨事にもかかわらず、
将軍足利義政は、花の御所の改築に夢中で世事に全く関心を示さなかった。

将軍不在の状況に陥った幕府は、山名氏、細川氏など有力守護大名の露骨な勢力争いの場と化した。
政治を放棄した義政は、彼らの勢力拡大のために利用される傀儡となっていったのである。

一方、義政とその妃富子には男子が誕生しなかった。そこで出家していた弟・義視を後継将軍に指名した。
しかし、その翌年、皮肉にも富子が義尚を生み、後継者争いが勃発した。

そこで後継者争いを利用し、幕府の実権を握ろうと図った山名氏は富子・義尚を、細川氏は義視を支援した。
さらに畠山氏などの家督争いをめぐる対立も結びつき、山名氏と細川氏とは東西に分かれ、京都の街中に陣取った。

ついには周辺の大名たちが、それぞれの側に加勢し「応仁の乱」と呼ばれる全国的な大乱に発展した。(1467年)
1477年、戦いは勝敗のつかないまま、11年目に終わったが、主戦場となった京都は一面焼け野原となってしまった。


江戸時代には、徳川将軍が15代続いたが、実は室町時代も徳川将軍と同じく15代を数える。
また年数にしても、徳川幕府の260年間に比べ、室町幕府は230年余り続き、さほどの遜色はない。

しかし、徳川家が盤石な支配体制を築き上げた江戸時代とは違って、室町時代のうち、
政権が安定していたのは、3代義満から、6代義教までの約70年間に過ぎない。

7代義勝は、8歳で将軍即位後、翌年に病死。8代義政以降は、山名氏ら有力大名の傀儡となり、
将軍がわずかでも政治に意欲を示すと、追放されたり、殺害されたりした。

そこまで弱体化、形骸化していても、室町将軍が一応、15代まで続いたのは、有力大名からすると
将軍にそれなりの利用価値があったからである。

大名たちは、武家の棟梁たる将軍を支えるという名目で、自らの政治・軍事行動を正当化したのだ。

戦国時代後半に現れた織田信長も、最初はそうした一人だったが、やがて強力な力を養うと、もはや足利家を
利用する価値はないと判断。最後の将軍義昭を追放し、室町幕府を名目上も滅ぼしたのだった。

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