ポツダム宣言受諾 1945年 (昭和20年)      歴史年表      真日本史     人名事典)(用語事典

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サイパン島陥落以後、政府はこの戦争に勝ち目はないと判断、ソ連を仲介に密かに和平工作を進めた。
だが国民に対しては「一億総玉砕」「本土決戦」を唱え戦意を高揚させた。

本土決戦にそなえ、国民を動員して各地に塹壕の構築が行われた。また婦女子の竹槍訓練が強化された。
だがサイパン、グアムから長距離爆撃機B29が、直接日本列島に飛来、無差別に空爆を始めていた。


昭和20年3月、334機のB29が、2時間半にわたり、東京に焼夷弾を投下し、10万人以上の人命が失われた。
翌4月、沖縄本島に米軍が上陸すると日本軍は激しく抗戦、老人や子供に至るまで戦いに参加した。

民間人は、米兵によって、防空壕にガソリンを流し込まれ、手榴弾を投げ込まれて命を落とす者もいた。
沖縄決戦では20万人以上が犠牲となった。沖縄県民の4人に1人が死に、一家全滅も珍しくなかった。

5月にはドイツが無条件降伏し、日本は完全に孤立してしまった。
英米中の連合国は、7月にポツダム宣言を発し、日本に無条件降伏を勧告した。


だが陸軍上層部の強硬な反対を受け、時の鈴木内閣は「ポツダム宣言を黙殺する」と談話を発表。
これを「受諾拒否」と受け取った米軍は、2発の原爆を投下。さらに、ソ連も日本に宣戦布告した。

ソ連は2月、クリミア半島のヤルタで行われた米英ソの首脳会談で、米国の要請により、対日参戦を密約していた。
だが密約は戦後まで極秘とされた。日本はすでに参戦を決めている相手に和平仲介の望みを託していたのである。

8月9日未明、150万のソ連軍が、国境を越え満州になだれ込んだ。50万の関東軍は壊滅、満州国は焦土と化した。
ソ連は、原爆投下で日本の降伏が早まり、領土分割の「分け前」にありつけないのを恐れ、急いで参戦したのだ。


ここに至り、御前会議での昭和天皇の決断によって、ポツダム宣言の受諾が決定された。
宮内省の政務室で、天皇自らが「終戦の詔書」を読み上げ、録音した玉音盤を、15日正午に放送することとした。

だが、これでも軍の一部勢力は納得しなかった。徹底抗戦を唱える将校たちが、クーデターを決行したのだ。
彼らは皇居を警護する近衛師団に決起を促したが、拒否されると師団長を殺害し皇居を占拠。


玉音盤を奪取して放送を阻止しようとしたが、軍司令官の説得でクーデターは頓挫、首謀者たちは自決した。
8月15日正午、玉音放送が日本全国に流れた。陸軍大臣はじめ多くの軍部首脳が自決し、大日本帝国と運命を供にした。

これは日本の事後を、若き軍人に託すとともに、彼らのクーデターの動きを封じるためでもあった。
戦死者200万人、民間人の死者100万人にも及んだ戦争は終結。ここに明治維新以来の大日本帝国は滅亡したのである。

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竹槍訓練

昭和19年8月、政府は「一億国民総武装」を閣議決定、本土決戦に備えて国民に竹槍訓練を課した。

すでにサイパン島は陥落、日本本土の大半が、米軍爆撃機B29の攻撃目標となっていた。

国威発揚のもと、メディアを通じて「鬼畜米英」「一億玉砕」といったスローガンが飛び交い、
婦女子や子供にいたるまで竹槍訓練が強制された。

竹槍訓練が、いかに国民の意識を高揚させるためのものであったとしても、
圧倒的な軍事力と物量を誇る米軍の攻勢を前にして、とても正気の沙汰ではなかった。

だが彼らは、本気で米軍を本土で迎え撃とうとし、国民も必死の覚悟を決め真剣に対応した。
当時の日本は、そんな異様な熱気に全体が覆われていた。

だから太平洋戦争は3年半にも渡り、ついには膨大な犠牲者とともに各地が焼け野原と化すまで、
誰も止めることができなかったである。







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