鹿鳴館  1883年(明治16年)     歴史年表      真日本史       人名事典)(用語事典
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       TBS「鹿鳴館」(2008年)
 


1883年(明治16年)東京・日比谷で鹿鳴館の落成式が盛大に行われた。

鹿鳴館は時の外相・井上馨の発起で、内外上流社会人の社交場として建てられたもの。


諸外国高官に、日本の欧化ぶりを示し、日本の文化水準も欧米並であることを認識させ、

不平等な条約の改正に役立てようとしたのである。


鹿鳴館では、紳士淑女たちによって毎夜のように舞踏会や園遊会が開かれ、ワルツや

マズルカがきらびやかに踊られた。


この間政府は、井上外相を中心に条約改正の審議を秘密裏のうちに進めていたが、政府内部から

その屈辱的な条約内容が暴露されると、それに対する不満の声が世論から湧きあがった。



またその世論をさらに燃えあがらせる国民憤激の事件が起こった。ノルマントン号事件である。


1886年(明治19年)10月、紀州沖で英貨物船ノルマントン号が難破沈没し、船長以下26名の

乗組員はボートで逃れたが、日本人船客25名は救助されずことごとく溺死した。

治外法権下の領事裁判が船長を無罪としたため、不平等条約に対する世論が沸騰したのである。


1858年(安政5年)に締結されたこの不平等条約の最大の問題は、治外法権の制度であった。


外国人が日本の領土の中で犯罪を行った場合、日本政府はその犯人を捕まえることはできても、

裁くことができない。その犯人を裁けるのは、その国の領事だけとされた。


彼らの言い分としては、「日本の法体系は未整備であり、そのような野蛮国の法律に自国民を

委ねるのは危険である」というものであった。

乱暴な理屈だが、当時の西洋諸国は非白人国を野蛮ときめつけ、治外法権を押付けていたのだ。


そこで、明治政府は日本も立派な文明国であることを諸外国に示すために、盛んに努力した。

その最も顕著な例が鹿鳴館の設立である。


当初、鹿鳴館外交というと、軽薄な西洋崇拝といったイメージがあり、大変評判が悪かった。

しかし、これをやった明治政府の人々は誠に真剣だったのだ。


明治政府の要人たちは、芸者上がりの女性を夫人にした人が多かった。

井上馨の夫人は、もと新橋の芸者。伊藤博文の夫人は、長州・下関の芸者であった。


井上や伊藤のような維新の志士たちは料亭に集まり、そこを根城にしたようなところがある。


元芸者というと、今でも日本の社会ではとやかくいう人がいるが、こと社交ということに関しては、

箱入り娘の武家の嫁では務まらない。


一方、元芸者の夫人たちは、「全身が磨かれて美しく、利発で、男性の視線にも物おじしない」

夜の鹿鳴館において、彼女たちは華麗な外交力を発揮したのである。


当時、日本の「近代化」は「西欧化」と同義であった。

明治政府指導者にとって、鹿鳴館は不平等条約の改正だけではなく、日本の「近代化」推進のために

欠くべからざるものと看做していたのである


それは当時の日本の対外姿勢のあらわれであり、そこにこそ鹿鳴館時代の歴史的意義があったのである。

井上は欧化政策を軸に、不平等条約改正に尽力したが、ノルマントン号事件を機に外相を辞任した。


その後、1894年(明治27年)になって、第2次伊藤内閣の外相・陸奥宗光が英国との「日英通商航海条約」

の調印に漕ぎ着け、ようやく日本は不平等条約の撤廃に成功した。





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1853年 (嘉永6年) 6月3日 ペリー、浦賀に来航  
1854年 (嘉永7年) 3月3日 日米和親条約調印、下田と函館を開港  
1854年 (嘉永7年) 3月27日 吉田松陰、ペリー艦隊で密航を企てるが失敗  
1856年 (安政3年) 8月5日 アメリカ総領事ハリス、下田着任  
1858年 (安政5年) 4月23日 井伊直弼、大老となる  
1858年 (安政5年) 6月19日 日米修好通商条約を締結、4港を開港  
1858年 (安政5年) 9月7日 安政の大獄始まる(〜1859)  
1860年 (万延1年) 1月13日 咸臨丸、アメリカへ出航(勝海舟)  
1860年 (万延1年) 3月3日 桜田門外の変、井伊直弼、暗殺される  
1862年 (文久2年) 1月15日 坂下門外の変、老中・安藤信正、襲撃される  
1862年 (文久2年) 2月11日 皇妹和宮、第14代将軍徳川家茂に降嫁  
1862年 (文久2年) 8月21日 生麦事件、薩摩藩士がイギリス人を殺傷  
1863年 (文久3年) 5月1日 長州藩、下関で外国艦を砲撃  
1863年 (文久3年) 3月13日 芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら新選組結成  
1863年 (文久3年) 7月2日 薩英戦争、英軍艦、鹿児島を砲撃  
1864年 (元治1年) 6月5日 池田屋事件、新選組が尊王攘夷派志士を殺傷  
1864年 (元治1年) 7月19日 蛤御門の変、長州藩、御所を攻撃し敗れる  
1864年 (元治1年) 8月2日 第1次長州征伐  
1864年 (元治1年) 8月5日 四国艦隊下関砲撃事件  
1866年 (慶応2年) 1月21日 薩長同盟成立  
1866年 (慶応2年) 4月19日 第2次長州征伐  
1866年 (慶応2年) 12月5日 徳川慶喜、第十五代将軍に就任  
1867年 (慶応3年) 10月13日 薩摩・長州藩に討幕の密勅  
1867年 (慶応3年) 10月14日 第15代将軍徳川慶喜、大政奉還  
1867年 (慶応3年) 11月15日 坂本龍馬暗殺  
1867年 (慶応3年) 12月9日 王政復古の大号令  
1868年 (慶応4年) 1月3日 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)  
1868年 (慶応4年) 3月14日 五箇条の御誓文  
1868年 (慶応4年) 4月11日 江戸城無血開城  
1868年 (慶応4年) 7月17日 江戸を東京に改称  
1868年 (明治1年) 9月8日 元号を明治と改元  
1868年 (明治1年) 10月13日 江戸城を皇居とする  
1869年 (明治2年) 5月18日 函館五稜郭陥落  
1869年 (明治2年) 6月17日 版籍奉還、華族・士族・平民の制  
1869年 (明治2年) 7月8日 蝦夷地を北海道と改称  
1871年 (明治4年) 7月14日 廃藩置県  
1871年 (明治4年) 11月10日 岩倉具視らを欧米に派遣(〜1873)  
1872年 (明治5年) 2月28日 陸・海軍省を設置  
1872年 (明治5年) 8月2日 学制を制定、学区制を敷く  
1873年 (明治6年) 1月10日 徴兵令公布  
1873年 (明治6年) 10月23日 征韓論争が起こる  
1874年 (明治7年) 1月7日 板垣退助ら自由民権運動起こる  
1875年 (明治8年) 9月20日 江華島事件  
1877年 (明治10年) 2月14日 西南戦争  
1883年 (明治16年) 7月7日 東京・日比谷に鹿鳴館が竣工  
1885年 (明治18年) 2月11日 内閣制度施行  
1886年 (明治19年) 10月24日 ノルマントン号事件  
1889年 (明治22年) 2月11日 大日本帝国憲法公布(〜1947)  
1890年 (明治23年) 10月30日 教育勅語発布  
1894年 (明治27年) 3月29日 朝鮮東学党の乱  
1894年 (明治27年) 7月16日 日英通商航海条約を締結  
1894年 (明治27年) 7月25日 日清戦争始まる(〜1895)  
1895年 (明治28年) 4月17日 下関条約(日清講和)調印  
1895年 (明治28年) 4月23日 露独仏の三国干渉。日本、遼東半島還付  
1902年 (明治35年) 1月30日 日英同盟調印(〜1923)  
1904年 (明治37年) 2月10日 日露戦争(〜1905)  
1904年 (明治37年) 12月6日 日本、二〇三高地占領  
1905年 (明治38年) 1月13日 日本、旅順占領  
1905年 (明治38年) 5月27日 日本海海戦  
1905年 (明治38年) 9月5日 ポーツマス条約(日露講和)調印  
1906年 (明治39年) 11月26日 南満州鉄道会社設立  
1909年 (明治42年) 10月26日 伊藤博文暗殺(ハルピン事件)  
1910年 (明治43年) 5月25日 大逆事件。幸徳秋水ら検挙  
1910年 (明治43年) 8月22日 日韓併合条約調印、朝鮮総督府設置  
1911年 (明治44年) 8月21日 警視庁、特高課設置  
1912年 (大正1年) 7月30日 (明治45)明治天皇崩御、大正と改元  
1914年 (大正3年) 8月23日 日本、ドイツに宣戦、第1次世界大戦に参戦  
1914年 (大正3年) 11月7日 日本、チンタオ(青島)占領  
1915年 (大正4年) 1月18日 日本、中国に二十一ヵ条要求  
1918年 (大正7年) 8月3日 富山県下で米騒動。全国に波及  
1920年 (大正9年) 1月10日 国際連盟成立(〜1946)日本は常任理事国に  
1920年 (大正9年) 3月15日 第1次世界大戦後の反動恐慌起こる  
1921年 (大正10年) 11月4日 原敬首相、東京駅で刺殺  
1921年 (大正10年) 11月12日 ワシントン軍縮会議、日英同盟破棄  
1921年 (大正10年) 12月13日 四カ国条約調印  
1922年 (大正11年) 2月6日 九カ国条約調印  
1922年 (大正11年) 7月15日 日本共産党結成  
1923年 (大正12年) 9月1日 関東大震災  
1925年 (大正14年) 5月12日 治安維持法公布  
1926年 (昭和1年) 12月25日 (大正15 昭和1)大正天皇崩御、昭和と改元  
1927年 (昭和2年) 4月21日 金融恐慌起こる(昭和恐慌)  
1928年 (昭和3年) 2月20日 最初の普通選挙実施  
1928年 (昭和3年) 6月4日 関東軍、張作霖を爆殺(張作霖爆死事件)  
1930年 (昭和5年) 1月21日 英米日、ロンドン海軍軍備制限条約調印  
1930年 (昭和5年) 11月14日 浜口雄幸首相、東京駅で狙撃される  
1931年 (昭和6年) 9月18日 満州事変勃発  
             
             

ペリー、浦賀に来航

1853年6月、アメリカの提督・ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖(横須賀)に来航し、
開国を迫った。

これ以上、外国人を追い出そうとする攘夷を続けるのは不可能と考えた幕府は、
翌年1854年、日米和親条約を調印し、下田と函館を開港した。



日米修好通商条約

1858年(安政5年)6月19日、大老の井伊直弼とアメリカ総領事ハリスが日米修好通商条約を
結び、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港を開いた(下田は閉鎖)。

アメリカの治外法権を認め、日本に関税自主権のない不平等な条約だった。
つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような修好通商条約を結んだ。



安政の大獄

大老・井伊直弼が反対派に下した弾圧事件(1858〜1859年)

将軍継嗣問題で井伊が紀州の徳川家茂を擁立、また天皇の許可を得ずに日米通商条約
を調印した。これを徳川慶喜を推す一橋派が批判。

これに対し井伊が同派の公卿・諸大名らを罰し、吉田松陰・橋本左内ら多数の尊王攘夷派
の人士を投獄・処刑した。



桜田門外の変

1860年3月3日、大老・井伊直弼の安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸・薩摩の浪士ら
18人が、桜田門外で直弼を暗殺。



坂下門外の変

井伊直弼の後をうけた老中・安藤信正の公武合体の政策に反対して、水戸浪士ら6人が、
1862年1月15日、坂下門外で信正を襲撃した事件。信正は負傷、老中を辞職。

公武合体政策とは、朝廷の権威と結びつくことによって幕藩体制を建て直そうとした政策で、
1862年孝明天皇の妹・和宮と14代将軍徳川家茂との結婚は、この政策の一つであった。



生麦事件

1862年8月21日、薩摩藩士が起こした英国人殺傷事件。

薩摩藩主・島津久光の行列が生麦(横浜市鶴見区)にさしかかった際、イギリス人4人が
騎馬のまま行列に遭遇、怒った従士が無礼打ちにし、1名を斬殺、2名を負傷させた事件。

幕府は英国の要求に応じて賠償金を支払ったが、薩摩藩は犯人逮捕に応じなかったので、
翌年、英軍艦の鹿児島砲撃(薩英戦争)の原因となった。



池田屋事件

1864年6月5日、長州・土佐・肥後各藩の尊攘派志士約30名が、京都三条小橋の旅宿
池田屋に集まり謀議中、新選組に襲撃され、尊攘派志士ら多くの死傷者を出した事件。
長州藩の憤激を呼び、蛤御門の変のきっかけとなった。



蛤御門の変

1864年7月、長州藩が池田屋事件の形勢挽回のため京都に出兵、京都守護職・松平容保の
率いる諸藩の兵と宮門付近で戦って敗れた事件。禁門の変ともいう。



第1次長州征伐

蛤御門の変で、長州藩が皇居へ発砲したことを理由に幕府が長州藩へ出兵。
これに対し長州藩は、蛤御門の変の責任者として家老3名を切腹させ、幕府に
謝罪の意を示したため、幕府側の不戦勝に終わった。



四国艦隊下関砲撃事件

1864年8月5日、英・米・仏・オランダの四国連合艦隊が下関海峡から長州藩を攻撃し、
一部は上陸して藩兵と戦い、沿岸の砲台を全滅させた事件。

前年長州藩が攘夷決行のため海峡航行中の米・仏・オランダの船舶を砲撃したことへの報復と、
長州藩や幕府の攘夷主義を粉砕するのが目的であった。

この事件は、長州藩内尊攘派が攘夷を捨てて開国に転ずる契機となった。



薩長同盟

1866年1月21日、長州再征を前に、対立していた薩長両藩が幕府に対抗して協力することを
約束した攻守同盟。坂本竜馬が仲介した。



第2次長州征伐

長州藩では、急進派の高杉晋作らが奇兵隊以下諸隊の軍事力を背景に
打倒幕府の姿勢を示した。

そのため、幕府は1866年4月、長州再征を行ったが、洋式の兵器を備えた
長州軍を相手に苦戦し撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。



大政奉還

1867年10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを
申し入れ、翌15日、朝廷はそれを受け入れた。

これによって鎌倉幕府以来、約700年続いてきた武家政治は終了した。



王政復古

1867年12月9日、天皇は王政復古の大号令を発した。これは、徳川慶喜の将軍辞職と、
徳川家の領地没収を意味するものであった。

これにより、天皇が総裁・議定・参与の三職を通じて行政権を行使する明治政府が発足
(1867年12月9日)した。



戊辰戦争

1868年1月3日から1869年5月18日まで行われた新政府軍と旧幕府側との戦いの総称。
鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊の戦)、会津戦争、箱館戦争などを含む。



元号を明治に改元

1868年(慶応4年/明治元年)9月8日、明治改元の詔が発せられ、慶応4年を明治元年とした。
あわせて、天皇一代に元号を一つとする「一世一元」の制が定められた。



版籍奉還

版籍奉還は、領地と領民を天皇へ返上し、幕藩体制の解体と中央集権をはかった政策である。
「版」とは領地、「籍」とはそこに住む人々を指す。

幕府が倒れた後も、国内は諸大名がそれぞれ統治を続けていたため、新政府は大名に
版籍を国に返すように働きかけたのである。

大名は、その後も藩知事(地方長官)として藩政を委任され、その身分と収入が
保たれたため、特に大きな混乱もなく、諸大名の領地・領民が天皇に返還された。

新政府は、版籍奉還と同時に、公家・大名諸侯の呼称を廃止して華族制度を導入し、
公家142家、大名諸侯285家が華族として認められた。



廃藩置県

廃藩置県は、すべての藩を廃止して、府県に統一し、中央集権体制の強化をはかった政策。

旧藩知事はすべて東京移住を命じられ、代って府知事・県令(のちの県知事)が
中央から派遣。
全国は、3府72県の行政単位に統一、天皇を中心とする中央集権国家の統治基盤が確立した。



西南戦争

1877年(明治10年)鹿児島の士族が西郷隆盛を担いで政府に反乱を起こした。
反乱軍は、近代的な政府軍に敗れ、西郷は自害。

武力による反抗はこれが最後となり、不平士族の反政府運動は言論が中心となった。



鹿鳴館

東京の日比谷にあった明治時代の官設社交場。英国人コンドル(Josiah Conder)の設計で、
1883年(明治16年)7月7日完成。

外務卿井上馨が、条約改正交渉のために企図し、内外上流階級の舞踏会などが開かれて
欧化主義の象徴となった。のち華族会館などになり、1941年(昭和16年)取り壊された。



ノルマントン号事件

1886年(明治19年)10月24日、英国船ノルマントン(Normanton)号が和歌山県沖で難破した際、
船長以下の英国人船員は避難し、日本人乗客25名が全員死亡した事件。

治外法権下の英国領事裁判が船長を無罪としたため、不平等条約に対する日本国民の憤懣は高まった。



大日本帝国憲法

伊藤博文らが渡欧して研究し、君主権の強いプロイセン憲法を手本にして草案をつくり、
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。

主権は天皇にあり、国務大臣や官吏は天皇が任命し、議会は政府を組織する権限をもたない。
外国と条約をむすんだり、戦争を始めることもすべて天皇の権限であった。

特に軍部は天皇に直属するものとして、政府からも議会からも独立していた。
また、国民は「臣民」とよばれ、その権利は法律によって制限できるとされていた。



日英通商航海条約

1894年(明治27年)7月16日、日本・イギリス間の条約。1858年(安政5年)の日英修好通商条約
(領事裁判権,協定関税率を定めた不平等条約)を改正したもの。

イギリスは日本に接近してロシアを牽制したかったから改正に応じたとされる。
当条約によってアメリカやヨーロッパ諸国とも同様の条約改正がなり、日本の国際的地位を向上させた。
また対清開戦の国際的準備ができたとして、日清戦争開戦にいたった。



日清戦争

日清戦争のきっかけは朝鮮だった。1894年(明治27年)朝鮮で大規模な農民一揆
(東学党の乱)が発生したが、朝鮮政府はこの乱を鎮圧できず清国に出兵を要請した。

朝鮮への進出を狙っていた日本は、これを好機と捉え、居留民の保護を名目として出兵。
乱はまもなく鎮圧されたが、日本も清も軍を引かず、清に宣戦布告して日清戦争が勃発。

開戦後、日本は清の艦隊を破って勝利。下関で講和会議を開き、遼東半島及び台湾、
賠償金として、銀2億両(約3億円)を獲得。この結果、日本は大陸進出の足場を築いた。



三国干渉

日本に危機意識を覚えたロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に遭い、やむなく遼東半島を
放棄した。だがその後、ロシアが清国から遼東半島を借り受け、アジア進出の拠点とした。

そのため日本は、反ロシア感情をつのらせ、清国からの賠償金は、軍備増強に充て、ロシア
の極東進出を警戒するイギリスと日英同盟を結び、ロシアとの来たるべき戦いに備えた。




日露戦争

1904年(明治37年)ロシアが朝鮮国境を越え、軍を移動し基地の建設を始めると、日露開戦となった。
日本は旅順の要塞を陥落、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えた。

米国、T.ルーズベルト大統領の斡旋で日露講和条約を締結、日本は朝鮮と満州の権益、樺太の南半分を
獲得したが、ロシアから賠償金は得られなかった。



日韓併合

日露講和条約で韓国に対する優越権を認められると、韓国を保護国とし、伊藤博文を統監府の長官
として派遣し、外交・軍事などを日本の手におさめ、1907年(明治40年)には政権もにぎった。

これに対して、韓国民衆の抵抗が盛んになり、1909年(明治42年)伊藤は満州のハルビンで、
朝鮮の独立運動家、安重根によって暗殺された。

1910年(明治43年)日本はこれを機会に、武力を背景とし、韓国(大韓帝国)を日本の植民地とする
条約を締結させた。内容は、韓国皇帝が統治権を日本の天皇に譲与するというものであった。

日本から見れば、自国の安全保障上、朝鮮半島の安定化は必要であったが、韓国としては
国が消滅する危機感をもった。独立運動も、その後止むことはなかった。



第一次世界大戦

1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に参戦。
アジアにおけるドイツ権益に対して攻撃を開始した。

ドイツから「火事場泥棒」と非難されるも、かつて三国干渉で、卑劣にも日本の権益を奪取されたとの
想いが強く、ドイツの租借地、青島と、ドイツ領南洋諸島(マーシャル諸島など)を占領した。