桜田門外の変 1860年(安政7年)   歴史年表    真日本史       人名事典)(用語事典
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徳川幕府が開かれてから、政治の中心は江戸に移り、京都は歴史の表舞台から遠ざかったかに見えたが、
幕府の権威が崩れ始めると、京都は再び歴史の舞台となる。その中心的存在が、時の孝明天皇であった。


安政5年(1858年)3月23日、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の許可(勅許)を得るため上京。
幕府は、天皇の勅許というお墨付きを得ることで、条約調印の正当性を得ようと考えたのだ。

だが孝明天皇から幕府への返答は「徳川御三家など諸大名にもう一度諮れ」だった。
すなわち、条約の調印は、もう一度よく考えよ、という幕府の申請差戻しである。

勅許申請が武家側の一致した意見であるならば、朝廷としても拒否する理由はない。
勅許を与えたとしても批判は武家側に行き、朝廷に向くことはないからだ。


だがこの時、諸大名の意見は割れており、御三家などは条約に反対しているという情報は朝廷に入っていた。
勅許を与えてしまえば、それは天皇が対立する両意見のうちの一方に、明白に加担することを意味する。

さらにそれは外国の要求をのむ便利な道具として朝廷が使われてしまうことでもあり、天皇にとって
承知できるものではなかったのである。

御三家以下に諮問を行い、諸大名の間で意見の調整をはかれという返答は、武家内部で意見が大きく割れて
いることを考慮すれば、朝廷にとっては筋の通った対応であった。


勅許を得るために上京した堀田正睦は、その目的を達することができず、むなしく京都を離れる。
堀田の江戸帰着後、わずか三日後の4月23日、井伊直弼が大老に就任。就任後、井伊は開国施策を強行する。

安政5年(1858年)6月19日、天皇の勅許を得ないまま、幕府は、日米修好通商条約の調印を強行。
強引な幕府に対する批判は、水戸藩が推す一橋派と南紀派が激しく争う将軍継嗣問題をも巻き込んで過熱化した。


これに対して井伊は、徳川斉昭ら一橋派の大名を処分、吉田松陰らの攘夷派志士を厳罰に処した。(安政の大獄)

安政7年(1860年)3月3日、江戸・桜田門外。季節外れの大雪のなかを登城する井伊直弼の行列に、
水戸藩士をはじめとする18人の襲撃者たちが襲いかかった。井伊は駕籠に乗ったまま銃撃され、斬殺される。

白昼、幕府最高の地位にある大老が襲撃され殺害されたのは、幕府にとって、これ以上ないほどの権威の失墜であった。


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嘉永6年(1853年)ペリーの黒船が浦賀(横須賀)に来航すると、幕府は、朝廷、諸大名、
そして藩士からも開国か攘夷かについての意見を募った。

黒船を自分の目で見ていない朝廷や諸大名は強気だった。
とにもかくにも外国人を上陸させるな、追い払えという勇ましい攘夷論が大勢を占めた。

この攘夷論は、やがて日本が開国すると、当時の国内の主要産業であった絹織物や茶葉が大打撃を受け、
物価が一斉に上がって、国民生活が苦しくなったため、頭ごなしに「暴論だ」というわけにはいかない。

いずれにせよ、この黒船来航は、これまで幕政の外におかれていた朝廷の権威を高め、
外様大名や各藩が幕政に介入する契機となった。


当時、徳川幕府は将軍後継ぎ問題で政局が割れていた。
ペリー来航の年に急逝した将軍家慶の後を継いだ家定はその統治能力が疑問視されていた。

将軍家定は、幼少のころ罹患した天然痘の後遺症としてあばたが顔に残っており、
また奇癖があって人と接することが上手と言えず、三度の結婚にもかかわらず子がいなかった。

そのため就任後、早くも後継ぎの問題が幕府内の派閥争いとなって浮上していたのである。

即ち家定のあと、次期将軍に一橋家の徳川慶喜を推す一橋派(老中・阿部正弘、前水戸藩主・徳川斉昭ら)と、
紀州家の徳川家茂を推す紀州派(紀州藩老中・水野忠央、彦根藩主・井伊直弼ら)とに分かれていたのである。


安政2年(1855年)老中・阿部正弘の推挙により、堀田正睦が筆頭老中となった。
安政5年(1858年)堀田は、日米通商条約の勅許を得るため、朝廷に参内したが失敗に終わった。

同年4月、幕府の大老となった井伊直弼は、黒船7隻を率いて再び来航したペリーに対し、
朝廷からの勅許を待つことを断念し、日米通称条約を締結、調印してしまった。

また同年6月、強行採決により、次期将軍には紀州家の徳川家茂にすると決定。
その決定からまもなく将軍家定が35歳で急死している。


同年9月、井伊直弼は大老の地位を利用し強権を発動、悪政と称される安政の大獄が始まった。

反勢力への弾圧が施行され、長州の吉田松陰、越前の橋本左内ら多くの有能なる学識者が
次々とその対象として捕縛されるに至った。

その総数は百五十余人に及び、大部分が江戸送りとなり、斬首もしくは流罪と厳罰を受けた。

また攘夷論を強硬に唱えていた水戸藩への処罰も過酷であった。
前藩主の徳川斉昭(慶喜の実父)は永年隠居で政治生命を断たれ、家老は切腹、藩士も斬刑に処された。

そして安政7年(1860年)3月3日、季節外れの大雪の朝、井伊直弼は登城途中、
江戸桜田門で水戸藩浪士の襲撃を受け殺害された。

この事件を期に、徳川幕府は終焉へと加速、明治維新へと大きく時代は流れてゆくのである。