大政奉還  1867年(慶応三年)     歴史年表      真日本史       人名事典)(用語事典
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幕末には「幕府を倒せ」という議論が盛んになった。だがこの幕府を倒すにも「倒幕」と「討幕」の二つがある。

倒幕は「話合いによって幕府を解体する」という考えであり、討幕は「武力によって幕府を滅ぼす」という考えだ。
坂本龍馬は、話合いによる「倒幕」論者だった。そこで土佐藩を通じ、将軍慶喜に「大政奉還」を進言したのである。

龍馬の案によれば、政権を幕府から朝廷に返上し、その後の政治は諸藩の合議制によって行う。その会議の議長には
徳川慶喜が就任するというもので、慶喜は、この体制でも事実上自分が主権者になれると信じて、この案を受け入れた。


慶応三年(1867年)10月14日、慶喜は大政奉還の上表を提出した。翌15日、朝廷は大政奉還を受け入れたのである。

だがあくまで武力討幕を目指す薩摩と長州は、親幕派で弁の立つ坂本龍馬を暗殺、さらに同じ討幕派の岩倉具視を抱き込み、
同年12月9日、徳川親藩を排除して強行した御前会議で、16歳の明治天皇に「王政復古」を宣言させるのに成功する。

大政奉還により、形式上では天皇に政権を返上したものの、徳川慶喜は将軍職を辞職しておらず、徳川家が引き続き
諸藩への軍事指揮権を有するという実態に変化はなかったのである。


これに危機を感じた薩摩、長州ら討幕派が天皇を味方につけ、徳川慶喜の将軍辞職と、徳川家の領地没収を求めた。
この王政復古の宣言は、徳川家の壊滅を目的とした一種のクーデターであった。

これに反発した旧幕府側が巻き返しをはかり挙兵し、勃発したのが「戊辰戦争」(1868年1月〜1869年5月)である。
だが錦の御旗を掲げた薩長を中核とする新政府軍に、旧幕府軍は総崩れとなり敗北を喫する。


新政府は、当初、徳川家の全領地を取り上げ、徳川家を断絶させるつもりだった。だが最終的に徳川家の存続が
許されたのは、旧幕臣の勝海舟が、相当な覚悟を持って徳川家の存続を要求し続けたことによるのである。

慶応四年(1868年)3月13日、新政府によって江戸城総攻撃が行われる寸前、勝と西郷隆盛による会談が行われた。
ここで、勝の主張した理屈は、旧政府である幕府と、一個の巨大な藩である徳川藩は別物というものだった。

薩摩も長州も含め、全国の藩をつぶすのなら、徳川家をつぶしても構わない。だが全国の諸藩を残すなら、
すでに幕府ではなくなった徳川藩も、一つの藩として残って当然と主張したのである。


勝は、この主張が通らなければ、新政府に対して最後の戦いを挑み、江戸の町もろとも新政府軍を壊滅させる覚悟だった。
この勝の必死の説得に西郷が応じたことにより、江戸市中150万人の生命が戦火から救われたのである。

だが徳川家の存続が決まっても、居住地と石高がなかなか決まらなかった。勝は、慶喜の居住地は江戸で、
200万石は必要だと主張したが、新政府の長州藩が強く反発。


上野の寛永寺にこもっていた彰義隊を、政府軍が攻撃して壊滅させたことで、徳川家の立場は一気に弱くなり、
結局、居住地は駿府(静岡)、石高は70万石ということで決着した。


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大政奉還

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を
朝廷に返上することを申し入れ、翌15日、朝廷はそれを受け入れた。

これによって鎌倉幕府以来、約700年続いてきた武家政治は終了した。



王政復古

1867年(慶応3年)12月9日、天皇は王政復古の大号令を発した。
これは、徳川慶喜の将軍辞職と、徳川家の領地没収を意味するものであった。

これにより、天皇が総裁・議定・参与の三職を通じて行政権を行使する
明治政府が発足(1867年12月9日)した。



戊辰戦争

1868年(慶応4年)1月3日から1869年(明治2年)5月18日まで行われた新政府軍と
旧幕府側との戦いの総称。
鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊の戦)、会津戦争、箱館戦争などを含む。



元号を明治に改元

1868年(慶応4年/明治元年)9月8日、明治改元の詔が発せられ、慶応4年を明治元年とした。
あわせて、天皇一代に元号を一つとする「一世一元」の制が定められた。



版籍奉還


版籍奉還は、領地と領民を天皇へ返上し、幕藩体制の解体と中央集権をはかった政策である。
「版」とは領地、「籍」とはそこに住む人々を指す。

幕府が倒れた後も、国内は諸大名がそれぞれ統治を続けていたため、新政府は大名に
版籍を国に返すように働きかけたのである。

大名は、その後も藩知事(地方長官)として藩政を委任され、その身分と収入が保たれたため、
特に大きな混乱もなく、諸大名の領地・領民が天皇に返還された。

新政府は、版籍奉還と同時に、公家・大名諸侯の呼称を廃止して華族制度を導入し、公家142家、
大名諸侯285家が華族として認められた。



廃藩置県

廃藩置県は、すべての藩を廃止して、府県に統一し、中央集権体制の強化をはかった政策である。

旧藩知事はすべて東京移住を命じられ、代って府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。
全国は、3府72県の行政単位に統一され、天皇を中心とする中央集権国家の統治基盤が確立した。



西南戦争

1877年(明治10年)鹿児島の士族が西郷隆盛を担いで政府に反乱を起こした。
反乱軍は、近代的な政府軍に敗れ、西郷は自害。

武力による反抗はこれが最後となり、不平士族の反政府運動は言論を中心に行われるようになった。



大日本帝国憲法

伊藤博文らが渡欧して研究し、君主権の強いプロイセン憲法を手本にして草案をつくり、
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。

主権は天皇にあり、国務大臣や官吏は天皇が任命し、議会は政府を組織する権限をもっていなかった。
外国と条約をむすんだり、戦争を始めることもすべて天皇の権限であった。

特に軍部は天皇に直属するものとして、政府からも議会からも独立していた。
また、国民は「臣民」とよばれ、その権利は法律によって制限できるとされていた。



日清戦争

日清戦争のきっかけは朝鮮だった。1894年(明治27年)朝鮮で大規模な農民一揆(東学党の乱)が
発生したが、朝鮮政府はこの乱を鎮圧できず清国に出兵を要請した。

朝鮮への進出を狙っていた日本は、これを好機と捉え、居留民の保護を名目として出兵。
乱はまもなく鎮圧されたが、日本も清も軍を引かず、日本が清に宣戦布告して日清戦争が勃発した。

開戦後、日本は清の艦隊を破って勝利。下関で講和会議を開き、遼東半島(遼寧省)及び台湾、
賠償金として、銀2億両(約3億円)を獲得した。この結果、日本は大陸進出の足場を築いた。



三国干渉

日本に危機意識を覚えたロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に遭い、やむなく遼東半島を放棄。
だがその後、ロシアが清国から遼東半島を借り受け、アジア進出の拠点とした。

そのため日本は、反ロシア感情をつのらせ、清国からの賠償金は、軍備増強に充てるとともに、
ロシアの極東進出を警戒していたイギリスと日英同盟を結び、ロシアとの来たるべき戦いに備えた。



日露戦争

1904年(明治37年)ロシアが朝鮮国境を越え、軍を移動し基地の建設を始めると、日露開戦となった。
日本は旅順の要塞を陥落、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えた。

米国、T.ルーズベルト大統領の斡旋で日露講和条約を締結、日本は朝鮮と満州の権益、樺太の南半分を
獲得したが、ロシアから賠償金は得られなかった。






日韓併合

日露講和条約で韓国に対する優越権を認められると、韓国を保護国とし、伊藤博文を統監府の長官
として派遣し、外交・軍事などを日本の手におさめ、1907年(明治40年)には政権もにぎった。

これに対して、韓国民衆の抵抗が盛んになり、1909年(明治42年)伊藤は満州のハルビンで、
朝鮮の独立運動家、安重根によって暗殺された。

1910年(明治43年)日本はこれを機会に、武力を背景とし、韓国(大韓帝国)を日本の植民地とする
条約を締結させた。内容は、韓国皇帝が統治権を日本の天皇に譲与するというものであった。

日本から見れば、自国の安全保障上、朝鮮半島の安定化は必要であったが、韓国としては
国が消滅する危機感をもった。独立運動も、その後止むことはなかった。



第一次世界大戦

1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に参戦。
アジアにおけるドイツ権益に対して攻撃を開始した。

ドイツから「火事場泥棒」と非難されるも、かつて三国干渉で、卑劣にも日本の権益を奪取されたとの
想いが強く、ドイツの租借地、青島と、ドイツ領南洋諸島(マーシャル諸島など)を占領した。