国名 レバノン共和国                                
英語 Lebanese Republic  
首都 ベイルート  
独立年 1943.11(フランス)  
民族 アラブ人(95%)、アルメニア人(4%)  
クルド人(1%)  
主要言語 アラビア語  
面積 1万452km2  
人口 413万2000(2013推計)  
通貨単位 レバノン・ポンド(LBP)  
宗教 キリスト教(マロン派、ギリシャ正教、  
  カトリック、アルメニア正教)   
イスラム教(シーア派、スンニ派、ドルーズ派)  
主要産業 農業、金融業、観光業、食品加工業等  






地理

レバノンは、狭い海岸平野に並行してレバノン山脈(1500〜3000m)が走り、
ベッカー高原を隔てて、シリア国境にはアンチ・レバノン山脈が走る。

沿岸部は温帯冬雨気候(地中海式気候)であるが、山地は大陸性気候。

主産業は農業で、地中海沿岸では柑橘類や野菜、山地ではオリーブやアーモンド、ブドウなどの果物、
ベッカー高原では穀類、サトウダイコン、野菜などを栽培する。

住民は大部分がアラブ人で、ほかにアルメニア人、クルド人などが居住する。
宗教は、イスラム教徒(スンニ派、シーア派)が約 6割、キリスト教徒が約 3割(うち約 2割がマロン派)を占める。

不文律によって、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニ派イスラム教徒、
国会議長はシーア派イスラム教徒から選出される。公用語はアラビア語。

古代フェニキアの栄えた地で、今日も中継貿易、金融、金取引などの商業活動が盛ん。
中東諸国のなかでは教育水準が高く、国外で活躍する商人、技術者も多い。




歴史

BC1500年頃、フェニキア人がシドンやティルスなどの都市を造り、地中海の海上貿易に活躍した。
その後、エジプト、アッシリア、新バビロニア、ペルシア、マケドニア、セレウコス朝、アルメニアの支配の後ローマ領となる。

638年からアラブ人の勢力下に入れられ、1110年には十字軍が占領し、1187年サラディンに占拠されるまで絶え間なく戦乱が続いた。
その後1518年、シリアはオスマン帝国の支配下におかれた。


第一次世界大戦後の1919年、サイクス・ピコ協定によってフランスの委任統治領となった。
1943年、フランスはキリスト教徒を保護する名目で、シリアから分離させ、レバノン共和国が成立した。

独立後、有力宗派間で国民協約を締結、大統領はキリスト教マロン派から、首相はイスラム教スンニ派から、
国会議長はイスラム教シーア派からだすことなどでバランスをとることが決められた。

レバノン政府は、宗教各派の勢力の均衡をとりながら、西欧型の経済を発展させてきたが、1948年に隣接する南部にイスラエルが建国され、
パレスチナ難民がレバノン領内に移住し、民族構成が複雑になった。


1970年、ヨルダンを追われたパレスチナ解放戦線(PLO)が、レバノンのイスラム教徒の支援を受け、レバノン南部に拠点を築いた。

だが1975年、イスラム教と対立するマロン派キリスト教徒が、PLOを襲撃、大規模な内戦へと発展した。(レバノン内戦 1975〜1989年)
国内の統制がとれなくなったレバノン政府は、隣国のシリアに内戦の鎮圧を要請、1976年にシリア軍がレバノンに駐留した。

シリア軍のレバノン駐留によって、レバノンの国内情勢は一時的に安定したが、強硬な反イスラエル姿勢を鮮明にしていたシリアが
この地に駐留したことで、イスラエルの緊張が高まることになった。


1982年、イスラエルは、PLOの活動を封じるという名目でレバノンに侵攻した。(レバノン戦争 1982〜2000年)

イスラエル軍は、PLOを西ベイルートに包囲し、猛爆を行い、一般住民を含む多数の被害を出した。
その後、イスラエル軍は、駐留シリア軍と戦闘状態に入り、激しい地上戦を展開した。

続いて、アメリカ、イギリス、フランスなどの欧米諸国が、パレスチナ難民に対する安全保障という名目で、レバノンに多国籍軍を派遣した。
だが、反米・反イスラエルのイスラム過激派勢力(イスラム聖戦機構)の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、結局多国籍軍は1984年撤収を余儀なくされた。


一方、レバノン南部に住んでいたイスラム教シーア派住民が、レバノン戦争で多数の被害を受けた。
彼らは、異教徒のイスラエル軍に対して武装闘争を決意、反イスラエル武装組織「ヒズボラ」を結成した。

ヒズボラによる激しい武装闘争が開始され、イスラエル兵の死者が増加していった。
このため2000年、イスラエル軍はレバノンから撤退した。

2006年、ヒズボラがイスラエル兵を拉致したことをきっかけに、イスラエルは、再びレバノン南部に侵攻したが、国際世論の反発から停戦に応じた。


  レバノン史
  BC3000年 フェニキア人がレバノンの地に定住
  BC1500年 フェニキア人の都市国家が建設され、地中海貿易で栄える
  BC1505年 エジプト(第18王朝)の支配下に入る
  BC740年 アッシリアの支配下に入る
  BC608年 新バビロニアの支配下に入る
  BC538年 アケメネス朝ペルシアの支配下に入る
  BC333年 マケドニアの支配下に入る
  BC300年 セレウコス朝シリアの支配下に入る
  BC83年 アルメニアの支配下に入る
  BC71年 共和制ローマの支配下に入る
  395年 ビザンツ帝国の支配下に入る
  638年 イスラム帝国(正統カリフ)の支配下に入る
  1518年 オスマン帝国の支配下に入る
  1919年 フランスの委任統治領となる(サイクス・ピコ協定)
  1943年 フランスの委任統治終了。フランス領シリアから分離し、レバノン共和国成立
  1970年  ヨルダン政府の弾圧でパレスチナゲリラ(PLO)が、根拠地をレバノン南部に移動(ヨルダン内戦)(9月) 
  1970年  カイロでヨルダン首相暗殺事件発生(黒い9月事件)(12月) 
  1972年  パレスチナゲリラによるミュンヘン・オリンピック村襲撃事件(9月) 
  1975年 ベイルート郊外でマロン派キリスト教徒が、パレスチナ人の乗ったバスを襲撃(レバノン内戦 1975〜1989年)(4月)
  1976年 シリア軍のレバノン駐留(10月)
  1982年 イスラエル軍、ベイルートに侵攻(レバノン戦争 1982〜2000年)(6月)
  1982年  パレスチナ難民保護のため、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどが多国籍軍をレバノンに派遣(8月)
  1989年  レバノン内戦終結(ターイフ合意)(10月)
  2000年 イスラエル軍、レバノンから撤退(5月)
  2005年 レバノンに29年間駐留していたシリア軍が撤退(4月)
  2006年 シーア派系武装勢力ヒズボラが、イスラエル軍兵士を拉致(第二次レバノン戦争 2006年)(7月)
  2006年 イスラエル軍がレバノンを空爆、侵攻(7月)、停戦(8月)





ヒズボラ (Hezbollah)


アメリカは、ヒズボラをテロ組織と決めつけている。
だが、実態はそうではない。

1982年以降、イスラエルはレバノン南部を占領していた。

それに対して結成された反対組織がヒズボラであり、
強いて言うならレジスタンスに近い。

ヒズボラは、レバノン政府の支援を受けて成立した政党だ。
ヒズボラからは大臣も多く輩出している。

つまり、ヒズボラは占領軍に対する抵抗組織であり、
その意味ではテロリストではない。

ヒズボラは、これまで攻撃や拘束のような行為は
イスラエル軍とそれを支援する米軍に対してだけ行っている。

民間人を対象にはしていないのである。
占領下で敵国に対する抵抗はテロ行為ではないだろう。

これに対してイスラエルは空港爆撃ばかりか
レバノンの多くの村を壊滅に追い込んでいる。

民間人に多数の死傷者が出て、すでに戦争行為となっている。

だが、国連安保理が非難の決議を出そうとしても、アメリカが
必ず拒否権を発動してそれを潰してしまっているのが現実だ。

もともと国連は第二次大戦の戦勝国によって作られたものである。

戦勝国である常任理事国が拒否権を持っているため、常任理事国の
同盟国になれば、その行為が否認されることはほとんどない。

このように国連安保理は、すでに機能不全に陥っているのである。