| 国名 | タイ王国 | ![]() |
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| 英語 | Kingdom of Thailand | |||
| 首都 | バンコク(Bangkok) | |||
| 独立年 | ||||
| 主要言語 | タイ語 | |||
| 面積 | 51万4000km2 | |||
| 人口 | 6841万4135人(2017年推計) | |||
| 通貨単位 | バーツ | |||
| 宗教 | 仏教83% | |||
| 主要産業 | 機械、自動車、プラスチック |

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地理
インドシナ半島の中央部にある立憲君主制の国。
全土が熱帯気候に属し、年平均気温は北部内陸地方で26℃、南部の臨海地域で28℃と高温。
5-10月の雨季と、11-4月の乾季に分かれ、半島部やカンボジアとの国境に近い南東海岸部では、
南西モンスーンの影響で年降水量が3000mmを超えるところもある。
バンコク 27.3℃(1月) 29.3℃(7月) 年降水量1650mm
地形はほぼ 4地域に大別される。
中心をなすのはチャオプラヤー川(Chao Phraya River)の沖積平野で、中央タイと呼ばれ、
肥沃な土壌と網目状の河川、運河により穀倉地帯をなす。
北タイは、その北方にある山地で、チャオプラヤー川の上流をなす諸河川の谷や
盆地で農業が行なわれ、もち米、トウモロコシ、綿花が主産物。
チーク材の切り出しが盛んであったが、環境保護のため伐採および輸出が禁止された。
東北タイは中央平野の東方にあるコラート高原を占め、ジュート、ケナフなど繊維作物の栽培と牧畜が盛ん。
南タイはマレー半島部で、天然ゴム、スズの産地。漁業は沿岸、淡水ともに盛ん。
工業は 1970年代以降それまでの米、野菜、ゴム、トウモロコシなどの 1次産品の輸出に加えて、
衣類、機械類など工業製品の輸出の比重が高まった。
輸入も消費財が減り、工業生産用の原材料、原油などが増加した。
農業も灌漑面積の拡張や品種改良により生産が増大している。
1980年代後半から外国の投資が増加し急速な経済発展を遂げたが、その後バブル経済の様相を呈し、
1997年の変動為替相場制度への移行を契機に通貨が大幅に下落、経済危機を迎えた(アジア通貨危機)。
住民はシャム族とラオ族を主体として人種的、文化的に一体化が進んでおり、タイ語を用いる仏教徒が大部分。
中国人はおもに都市に住んで経済的に大きな力をもち、南部にはイスラム教徒のマレー人も多い。
歴史
タイ民族はもともと中国南部に住み、古代に南下してきたといわれる。
13世紀には北部にスコータイ王朝(Sukhothai Kingdom 1238-1438)が成立。
やがて、中部に勃興したアユタヤ王朝(Ayutthaya Kingdom 1351-1767)がそれにとって代わった。
アユタヤは交易で繁栄するが、1767年にビルマの侵攻により滅亡。その後の動乱を制したラーマ1世が、
現在まで続くチャクリー王朝(Chakri dynasty)を開いたのは1782年のこと。
チャクリー王朝の歴代国王のなかでも、特にラーマ5世(Rama V 在位1868-1910)と
ラーマ9世(Rama IX 在位1946-2016)は名君と称えられる。
ラーマ5世は19世紀に国の近代化を推し進め、奴隷の解放や学校教育の普及を実現した。
ラーマ9世は1946年に即位。在位中には軍のクーデターや反政府デモが相次いだが、
ラーマ9世は仲介役として和解に心血を注いだ。
スコータイ王朝(Sukhothai Kingdom 1238-1438年)
13世紀、メコン河(Mekong River)流域に点在していたいくつかの小国家がまとまり、
1238年、シー・インタラーティット王(Si Inthrathit 在位1238-1270年)のもと
タイ民族初の統一国家・スコータイ王国が建国された。
3代目となるラームカムヘーン王(Ramkhamhaeng 在位1279-1299年)は、スリランカ(セイロン島)から
伝わった上座部仏教を国教として制定した。
このラームカムヘーン王の時代、中国ではモンゴルの元朝が強勢を誇っていた。
しかし、いまだスコータイ王朝は、東のクメール王朝(カンボジア)のような強い力はなかった。
そのため、元朝は裕福なクメール王朝やパガン王朝(ビルマ)を優先的に狙い、スコータイ王朝は侵攻を免れた。
モンゴル侵攻により、カンボジアとビルマが衰退していく一方、相対的にタイの地位が高まり、スコータイ王朝は
仏教を王国統一の理念として発展していった。
なお、ユネスコ世界遺産に登録されている仏教遺跡のスコータイ歴史公園はスコータイ王朝の王都に位置している。
ランナー王朝(Lan Na Kingdom 1296-1558年)
スコータイ王朝と平行して北部の方では、マンラーイ王(Mangrai 在位1292-1311年)によりランナー王朝が建国された。
チェンマイ(Chiang Mai)を都に置き、メコン河中域の小国家だったビエンチャン(Vientiane)を支配下に置くなど
勢力を広げたが、1558年にはビルマ(ミャンマー)の属国となった。
アユタヤ王朝(Ayutthaya Kingdom 1351-1767年)
1317年、ラームカムヘーン王が没すると、スコータイ王朝は後継者争いや内部紛争により急速に弱体化した。
1351年、スコータイ王朝の有力諸侯であったラーマーティボーディー(Ramathibodi)は、王朝の衰退に乗じて
クーデターを起こし、アユタヤ王朝を創始した。
アユタヤ王朝は交通の要衝チャプラヤー川流域に建国された。そこは以前から物産の集散地だった。
アユタヤ王朝の創始者のラーマーティボーディー1世(Ramathibodi I 在位1351-1369年)は、
国内および周辺国において転戦を重ね、北方のスコータイ、東方のクメールを攻略して勢力の拡大をはかり、
マレー半島のマラカ(マラッカ)にまで及んだ。
この王の後継者たちは、チャオプラヤー川の中流域と下流域を完全に押さえ、
商港アユタヤには中小河川や水路を通じて内陸部の広い地域の物産が集まった。
これに加えて自国でとれる米や獣皮などを取りそろえ、近隣へ輸出した。
同時にタイランド湾と南シナ海を通じて中国南部とつながり、マレー半島の西岸を通じて
インドのベンガル湾への通商ルートを確保した。
8代目のボーロマラーチャーティラート2世(Borommarachathirat II 在位1424-1448年)治下では、
1432年に東隣国クメール王朝を壊滅させ、1438年にスコータイを完全に併合した。
11代目のラーマーティボーディー2世(Ramathibodi Ⅱ 在位1491-1529年)は、ヨーロッパ人と
最初に接触を持った王だった。1509年にポルトガルがアユタヤに使節をを送ってきた。
その2年後、ポルトガルがマラカ(マラッカ)を占領した。
ポルトガルは1516年にアユタヤと最初の条約を結び、ポルトガル人の居住が認められ、通商の権利を獲得し、
カトリックの布教が承認された。
アユタヤは1732年から1762年が絶頂期だった。多くの仏教寺院が建立された。
この王国の富によって、都城内のどの河岸にも点在する500あまりの立派なパゴダ・寺院によって壮麗な景観がつくられた。
その中には金泥塗りの仏像が安置されるようになった。
しかし1765年、ビルマに侵攻され、2年間の戦いの後、1767年4月7日の総攻撃で一夜にして陥落。
これにより仏典、寺院、仏像などの多くが破壊されてしまった。
トンブリー王朝(Thonburi Kingdom 1767-1782年)
破壊し尽くされたタイ国は、アユタヤの将軍だったタークシン(Taksin)によって救われた。
残存兵力を統合した将軍は、ビルマ軍を追い払い、チャオプラヤー川下流のトンブリーに都を定め、
自ら王位(在位1769-1782年)についた。
王は祖国の再建を掲げ、タイ国内各地の地方勢力を懐柔し、治世の初期3年は戦闘で明け暮れた。
さらに再来襲したビルマ軍勢力を撃退し、カンボジアやラオスとも戦争をした。
しかし、長く続いた戦争の結果、王は精神錯乱に陥った。
そこでチャクリ将軍(General Chakri)がクーデターを起こし、タークシン王の治世は15年で終わった。
チャクリー王朝(Chakri dynasty 1782-)
現在の王朝の創始者チャクリ将軍はラーマ1世(Rama I 在位1782-1809年)となった。
トンブリーから対岸のチャオプラヤー川左岸のバンコクへと遷都した。
この王朝が現在まで続くチャクリー王朝である。
ビルマは1785年に再び約10万の大軍をもって侵攻してきた。ラーマ1世はこれを撃退。
その後、カンボジア、ラオス、そしてマレー半島諸国に領土拡張政策を取り、宗主権を確立した。
19世紀の初期には、タイは繁栄を取り戻した。
1855年、4代目のラーマ4世(Rama Ⅳ 在位1851-1868年)は国際情勢の変化に伴い、イギリスとの間に
自由貿易を原則とする条約を結び、その後その他の西欧諸国とも同様の外交関係を築いた。
さらにラーマ5世(Rama Ⅴ 在位1868-1910年)は奴隷制度を廃止すると共に、郵便通信事業、
教育制度の制定、鉄道の建設など、近代国家としての基礎を作り上げ、絶対君主制を確立した。
タイは広大で肥沃なチャオプラヤー川デルタを擁していた。
この平野は、住民を扶養するばかりでなく、米を中国やマラッカへ輸出することができた。
その米穀は、山林の産物(チーク材、香料、樹脂)、綿花、コーヒー豆、砂糖と並んで重要な商取引の商品の一つとなった。
首都バンコクは大きな港湾都市だった。当時の人口は約40万人といわれる。その半数は中国人であり、タイ人は3割にすぎなかった。
ほかにベトナム人、カンボジア人など近隣の人々が来航していた。
この港湾都市は、諸外国に開かれていたために、タイ人に対して当時の国際政治情勢がどのように動いているかの情報をもたらした。
同時にどのように対応していくかの政治的順応性を身につけるのに役立った。
19世紀になると、欧米列強が東南アジアに進出、隣接国のビルマやベトナム、ラオス、カンボジアなどが順次植民地化されていく中で、
タイ国だけは巧みな外交手腕で自国の独立を守り切った。
「微笑みの国」といわれるタイだが、笑顔の裏にはそんなしたたかさが隠されている。
| タイ史 | |
| 1238年 | スコータイ王朝(1238-1438年)タイ王国の成立 |
| 1296年 | ランナー王朝(1296-1558年) |
| 1351年 | アユタヤ王朝(1351-1767年) |
| 1767年 | トンブリー王朝(1767-1782年) |
| 1782年 | チャクリー王朝(1782-現在) |
| 1932年 | 立憲君主国となる |

王様と私 (The King and I)
1956年のアメリカ映画。 ラーマ4世時代のチャクリー王朝が舞台。
ラーマ4世を演じたのは、当時は新人であったユル・ブリンナー(Yul Brynner)
彼はロシア人だが、そのエキゾチックな容貌が決定打となり主役に抜擢された。
役作りで剃った坊主頭と精悍なマスク、その強烈な存在感で、映画は大ヒット。
アカデミー主演男優賞を受賞し、たちまちスターの座を獲得した。
映画の中でラーマ4世は、イギリス人家庭教師(デボラ・カー Deborah Kerr)
を困らせる粗野な王として描かれている。
だが実際のラーマ4世は、仏教哲学に通じた学識の深い王で、国民に敬愛されている。
映画は大ヒットしたが、タイ国内では国王に対する不敬罪にあたるとして上映が禁止された。

水かけ祭り (Songkran Festival)
多民族国家のタイには、年3回正月がある。
日本と同じ西暦の正月(1月)と中国の旧正月(2月)、
そして伝統的なタイの正月(4月)である。
水かけ祭りは、タイの正月期間(4/13~4/15)に行われる。
もともと仏像や仏塔に水をかけて清めるという風習だった。
今は街の往来で通行人同士が水を掛けあう祭りに発展した。
この時期のタイは真夏であり、暑さしのぎの意味もあった。
バケツで豪快に水をかけたり、水鉄砲でねらい撃ったりする。
さらには、トラックの荷台にドラム缶を積んで、誰かまわず
水をばらまくなど、祭りにあらず、まさに水かけ戦争といえる。
一方で飲酒運転が増えたり、水をかけられたバイクが転倒したり、
酔っ払った女性が裸になることもあり社会問題にもなっている。
全身びしょ濡れになるから、期間中は外出しない人も多い。
旅行者は、濡れてもいい服装はもちろん、スマホや財布など
防水対策をしっかり行うことが大切だ。
(住所:Songkran Festival, Khaosan Road, Banglumphu, Bangkok, Thailand)