国名 タイ王国  
英語 Kingdom of Thailand
首都 バンコク(Bangkok)
独立年
主要言語 タイ語
面積 51万4000km2
人口 6841万4135人
通貨単位 バーツ
宗教 仏教83%
主要産業 機械、自動車、プラスチック





地理

インドシナ半島の中央部にある立憲君主制の国。

大部分が熱帯サバナ気候で、雨季(5~10月)と乾季の降水量の差が大きい。

マレー半島にある南部は熱帯雨林気候。
地形はほぼ 4地域に大別される。

中心をなすのはチャオプラヤー川の沖積平野で、中央タイと呼ばれ、
肥沃な土壌と網目状の河川、運河により穀倉地帯をなす。

北タイは、その北方にある山地で、チャオプラヤー川の上流をなす諸河川の谷や
盆地で農業が行なわれ、もち米、トウモロコシ、綿花が主産物。

チーク材の切り出しが盛んであったが、環境保護のため伐採および輸出が禁止された。

東北タイは中央平野の東方にあるコラート高原を占め、ジュート、ケナフなど繊維作物の栽培と牧畜が盛ん。

南タイはマレー半島部で、天然ゴム、スズの産地。漁業は沿岸、淡水ともに盛ん。

年降水量は西海岸で 4000mm。工業は 1970年代以降それまでの米、野菜、ゴム、
トウモロコシなどの 1次産品の輸出に加えて、衣類、機械類など工業製品の輸出の比重が高まった。

輸入も消費財が減り、工業生産用の原材料、原油などが増加した。

農業も灌漑面積の拡張や品種改良により生産が増大している。
1980年代後半から外国の投資が増加し急速な経済発展を遂げたが、その後バブル経済の様相を呈し、
1997年の変動為替相場制度への移行を契機に通貨が大幅に下落、経済危機を迎えた(アジア通貨危機)。

住民はシャム族とラオ族を主体として人種的、文化的に一体化が進んでおり、タイ語を用いる仏教徒が大部分。

中国人はおもに都市に住んで経済的に大きな力をもち、南部にはイスラム教徒のマレー人も多い。




歴史

先史時代

現在のタイ国の地にタイ族の国家が生まれたのは13世紀とされている。

それまではドバラバティ(Dvaravati)、シュリービジャヤ(Srivijaya)、
クメール(Khmer)などの国家が存在した。

ドバラバティは、6世紀から11世紀に存在したモン族(Mon)の王国。
チャオプラヤー川下流域ナコンパトム(Nakhon Pathom)を中心に、
いくつもの塀で囲まれた都市を作っており、
仏教を中心とする高度な文化圏を形成していた。

シュリービジャヤは、7世紀後半から14世紀後半に存在したマレー人の交易国家。
スマトラ島からマレー半島に至る地域で海上交易を行う大乗仏教を信仰する国だった。

また、クメールは、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国。
現在のカンボジアのもととなった国で、アンコールを首都として、13世紀初めにはタイ全土も支配した。

その結果、現在のタイ王国にクメール美術、言語、宗教(仏教)などの文化的影響をもたらした。


スコータイ王朝(Sukhothai Kingdom 1238~1438年)

13世紀、メコン河流域に点在していたいくつかの小国家がまとまり、1238年、シー・インタラーティット王(在位1238~1270年)
のもとタイ民族初の統一国家・スコータイ王国が建国された。

クメール勢力の衰退に乗じて大きく勢力を伸ばし、領土はラオスやシンガポール地域まで及んだ。

また、3代目となるラームカムヘン王(在位1279~1299年)は、スリランカ(セイロン島)から伝わった上座部仏教を国教として制定した。
ラームカムヘンは民衆に仏教の教えを説くことともに、自身も寄進を行い、僧侶たちの説法にも耳を傾けた。

こうした仏教の保護事業には王権を強化する意図もあり、ラームカムヘンが実施した国王による仏教の保護事業は、
スコータイ以後のタイの諸王朝にも引き継がれた。


ランナー王朝(Lan Na Kingdom 1296~1558年)

スコータイ王朝と平行して北部の方では、メンライ王(在位1296~1311年)によりランナー王朝が建国された。

チェンマイを都に置き、メコン河中域の小国家だったビエンチャンを支配下に置くなど
勢力を広げたが、1558年にはビルマ(ミャンマー)の属国となった。


アユタヤ王朝(Ayutthaya Kingdom 1351~1767年)

アユタヤ朝は交通の要衝チャプラヤー川流域に建国された。
そこは以前から物産の集散地だった。

アユタヤ朝の創建者のラーマディボディー1世(在位1351~1369年)は、国内および周辺国において転戦を重ね、
北方のスコータイ、東方のカンボジアを攻略して勢力の拡大をはかり、マレー半島のマラカ(マラッカ)にまで及んだ。

この王の後継者たちは、チャオプラヤー川の中流域と下流域を完全に押さえ、
商港アユタヤには中小河川や水路を通じて内陸部の広い地域の物産が集まった。

これに加えて自国でとれる米や獣皮などを取りそろえ、近隣へ輸出した。
同時にシャム湾と南シナ海を通じて中国南部とつながり、マレー半島の西岸を通じてベンガル湾への通商ルートを確保した。

ボロマラーチャー2世(在位1424~1448年)治下では、1432年に東隣国アンコール朝を壊滅させ、1438年にスコータイを完全に併合した。

ラーマディボディー2世(在位1491~1529年)は、ヨーロッパ人と最初に接触を持った王だった。
1509年にポルトガルがアユタヤに使節をを送ってきた。

その2年後、ポルトガルがマラカ(マラッカ)を占領した。
ポルトガルは1516年にアユタヤと最初の条約を結び、ポルトガル人の居住が認められ、通商の権利を獲得し、
カトリックの布教が承認された。

アユタヤは1732年から1762年が絶頂期だった。多くの仏教寺院が建立された。

この王国の富によって、都城内のどの河岸にも点在する500あまりの立派なパゴダ・寺院によって壮麗な景観がつくられた。
その中には金泥塗りの仏像が安置されようになった。

しかし1765年、ビルマに侵攻され、2年間の戦いの後、1767年4月7日の総攻撃で一夜にして陥落。
これにより仏典、寺院、仏像などがすべて破壊されてしまった。


トンブリー王朝(Thonburi Kingdom 1767~1782年)

破壊し尽くされたタイ国は、アユタヤの将軍だったタークシンによって救われた。
残存兵力を統合した将軍は、ビルマ軍を追い払い、チャオプラヤ川下流のトンブリーに都を定め、自ら王位(在位1769~1782年)についた。

王は祖国の再建を掲げ、タイ国内各地の地方勢力を懐柔し、治世の初期3年は戦闘で明け暮れた。
さらに再来襲したビルマ軍勢力を撃退し、カンボジアやラオスとも戦争をした。

しかし、長く続いた戦争の結果、王は精神錯乱に陥った。
そこでチャクリ将軍がクーデターを起こし、タークシン王の治世は15年で終わった。


チャクリー王朝(Chakri dynasty 1782~)

現在の王朝の創始者チャクリ将軍はラーマ1世(在位1782~1809年)となった。
トンブリーから対岸のチャオプラヤ川左岸のバンコクへと遷都した。
この王朝は別名チャクリ朝、またはバンコク朝とも呼ばれる。

ビルマは1785年に再び約10万の大軍をもって侵攻してきた。
ラーマ1世はこれを撃退。タイの歴史はここから港市バンコク時代へと入った。

19世紀の初期には、タイは繁栄を取り戻した。
ラーマ1世は、カンボジア、ラオス、そしてマレー半島諸国に領土拡張政策を取り、宗主権を確立した。

1855年、ラーマ4世(在位1851~1868年)は国際情勢の変化に伴い、イギリスとの間に自由貿易を原則とする条約を結び、
その後その他の西欧諸国とも同様の外交関係を築いた。

さらにラーマ5世(在位1868~1910年)は奴隷制度を廃止すると共に、郵便通信事業、教育制度の制定、鉄道の建設など、
近代国家としての基礎を作り上げ、絶対君主制を確立した。


タイは広大で肥沃なチャオプラヤ川デルタを擁していた。
この平野は、住民を扶養するばかりでなく、米を中国やマラッカへ輸出することができた。
その米穀は、山林の産物(チーク材、香料、樹脂)、綿花、コーヒー豆、砂糖と並んで重要な商取引の商品の一つとなった。

この首都バンコクは大きな貿易都市だった。当時の人口は約40万人といわれる。
その半数は中国人であり、タイ人は3割にすぎなかった。
ほかにベトナム人、カンボジア人など近隣の人たちが来航していた。

この港は諸外国に開かれていたために、タイ人に対して当時の国際政治情勢がどのように動いているかの情報をもたらした。
同時にどのように対応していくかの政治的順応性を身につけるのに役立った。

19世紀になると、隣接国のビルマやベトナム、ラオス、カンボジア、マラヤなどが順次植民地化されていく中で、
タイ国だけは独立を保つことが出来た。


タイ史
1238年 スコータイ王朝(1238-1438年)タイ王国の成立
1296年 ランナー王朝(1296-1558年)
1351年 アユタヤ王朝(1351-1767年)
1767年 トンブリー王朝(1767-1782年)
1782年 チャクリー王朝(1782-現在)
1932年 立憲君主国となる





王様と私 (The King and I)


1956年のアメリカ映画。 ラーマ4世時代のチャクリー王朝が舞台。

ラーマ4世を演じたのは、当時は新人であったユル・ブリンナー(Yul Brynner) 
彼はロシア人だが、そのエキゾチックな容貌が決定打となり主役に抜擢された。

役作りで剃った坊主頭と精悍なマスク、その強烈な存在感で、映画は大ヒット。
アカデミー主演男優賞を受賞し、たちまちスターの座を獲得した。

映画の中でラーマ4世は、イギリス人家庭教師(デボラ・カー Deborah Kerr)
を困らせる粗野な王として描かれている。

だが実際のラーマ4世は、仏教哲学に通じた学識の深い王で、国民に敬愛されている。
映画は大ヒットしたが、タイ国内では国王に対する不敬罪にあたるとして上映が禁止された。






水かけ祭り (Songkran Festival)


多民族国家のタイには、年3回正月がある。

日本と同じ西暦の正月(1月)と中国の旧正月(2月)、
そして伝統的なタイの正月(4月)である。

水かけ祭りは、タイの正月期間(4/13~4/15)に行われる。

もともと仏像や仏塔に水をかけて清めるという風習だった。
今は街の往来で通行人同士が水を掛けあう祭りに発展した。

この時期のタイは真夏であり、暑さしのぎの意味もあった。
バケツで豪快に水をかけたり、水鉄砲でねらい撃ったりする。

さらには、トラックの荷台にドラム缶を積んで、誰かまわず
水をばらまくなど、祭りにあらず、まさに水かけ戦争といえる。

一方で飲酒運転が増えたり、水をかけられたバイクが転倒したり、
酔っ払った女性が裸になることもあり社会問題にもなっている。

全身びしょ濡れになるから、期間中は外出しない人も多い。

旅行者は、濡れてもいい服装はもちろん、スマホや財布など
防水対策をしっかり行うことが大切だ。

(住所:Songkran Festival, Khaosan Road, Banglumphu, Bangkok, Thailand)