国名 ベルギー王国              
英語 Kingdom of Belgium  
首都 ブリュッセル  
独立年 -  
主要言語 オランダ語、仏語、独語  
面積 (千Km2) 31  
人口 (百万人) 11.2  
通貨単位 ユーロ  
宗教 キリスト教(カトリック)が大勢  
主要産業 化学工業、機械工業、金属工業、食品加工業  
     
     
ブリュージュ(Brugge)

古都ブリュージュは、ベルギー西部、ウェストフランデレン州の州都。

北海に注ぐライ川が形成したズワイン三角江の船着場に、9世紀初代フランドル伯がノルマン人侵入に備えて建設した砦を中心に形成された。
11世紀頃からフランドルの毛織物業を背景にしだいに発達。

13世紀までにイギリス産の羊毛を一手に引き受け、ヘント、イープルとともに、ハンザ同盟の商業中心地の一つとなり、14世紀に最盛期を迎えた。

町並みは中世の面影を残し、マルクト広場を中心に 47の鐘をもつ鐘楼 (13~15世紀) 、市庁舎 (1376~1420年) をはじめ、
12~16世紀の大聖堂、聖堂、美術館など歴史的建築物が多数ある。2000年、世界遺産の文化遺産に登録された。






























地理

北海に面した北部のフランドル地方は、干拓地と砂丘からなる平地で、内陸部に
向かうにつれて徐々に高度を増し、南部のアルデンヌ高地など中位山地へと移行する。

ドイツとフランスの中間にあり、低平で回廊的地勢をもつため、ナポレオン時代のワーテルロー
の会戦や第一次、第二次両世界大戦の戦場となった。

気候も沿岸部の温暖湿潤なものから内陸部の冷涼なものへと変化し、
降水量は年間 750~1000mmと比較的多い。天候の変化が著しいのが特徴。


国民は約 90%がカトリックで、南東部にドイツ語を話す人々が少数 (約 0.7%) いるが、
南部にはフランス語 (ワロニー方言 ) を話すワロン人 (約 32%) 、
北部にはオランダ語 (フラマン語 ) を話すフラマン人 (約 54%) が住む。

フランス語、オランダ語とも公用語で、その使用地域は国のほぼ中央で南北に分けられるが、
オランダ語地域のなかの首都ブリュッセルは併用地域で、フランス語が優勢。

北部のフランドル地方には中世以来の繊維工業地帯が、南部には炭田と鉄鉱石資源に基礎をおき
19世紀以降に発達した重工業地帯がある。

リエージュを中心とする各都市で鉄鋼、ガラス、鉄および金属製品、化学、電機などの工業が発達。

近年は、アントワープを中心に、オランダに近い北部で石油精製、化学、金属などの工業の発展がめざましい。

1944年以降、ルクセンブルク、オランダとベネルックス関税同盟の条約を結ぶなど、
ヨーロッパ連合 EUの基礎となる地域経済の統合をはかった。

EUの原加盟国であり、ブリュッセルには EUの本部が置かれ、第ニ次世界大戦後のヨーロッパ経済の一つの中心となっている。




歴史

古代のネーデルラント(オランダ・ベルギー)は、ガリア地方とゲルマニア地方の境界に位置していた。

ライン川以南は、ガリア・ベルギカ地方(Gallia Belgica)と呼ばれ、古代ローマのガリア属州であった。

住民はベルガエ人(Belgae)と呼ばれ、ゲルマン人と対峙するローマの前線基地の任を負わされた。
なお、このベルガエ人の呼称は、ベルギーの国名の由来となっている。


476年、西ローマ帝国の滅亡後、ネーデルラントは、フランク王国の所領となった。
カール大帝の死後、フランク王国が3分割されると、ネーデルラントは東フランク王国に編入された。

さらに962年、東フランク王国が断絶すると、ネーデルラントは神聖ローマ帝国の所領となった。



海港と川という水運に恵まれたネーデルラントは、その後、毛織物産業を中心とした貿易で
経済的に発展し、神聖ローマ帝国に属しながらも独立性の高い地域となっていった。

1384年、フランス王室につながるブルゴーニュ公国のフィリップ2世(Philip II)が
フランドル地方を婚姻によって獲得し、ネーデルラントを支配することになった。

ブルゴーニュ公国(Duchy of Burgundy 1384~1477年)

ヴァロワ朝ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公の支配領域。
1384年、ブルゴーニュ公フィリップとフランドルの貴族マルグリットが結婚し、 フランドルはブルゴーニュ公国の一部となった。

支配領域は、ブルゴーニュ公領(現在のフランス東部)、ネーデルラント(現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク)

4代目のシャルル公(Charles the Bold 在位:1467~1477年)の死後、1477年にブルゴーニュ公領はフランス王領に編入され、
ネーデルラントはシャルルの一人娘マリーがハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したことにより、ハプスブルク家に継承された。 



さらに1476年、ハブスブルク家のマクシミリアン1世がこのブルコーニュ公の娘と結婚した結果、
ネーデルラントはハブスブルク家のものとなった。

マクシミリアンの孫の力ール5世は、1516年にスペイン王となって、スペイン・ハブスブルク家を誕生させた。
1555年、カール5世は王を引退し、スペイン王位とともにネーデルラントを息子のフェリペ2世に与えた。

この結果、ネーデルラントはスペイン・ハブスブルク家のものとなった。

力ール5世(Charles V)

ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519~1556年)
母がスペイン王女のため、1516年、スペイン王となった。
スペイン国王(在位:1516~1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 

フェリペ2世(Philip II ) 

スペイン王(在位:1556~1598年)
イングランド女王メアリー1世と結婚期間中共同統治者としてイングランド王
フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。

また1580年からはフィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。



このフェリペ2世は、熱烈なカトリック信者であった。

ところが、ネーデルラントはプロテスタントの力ルヴァン派が多かった。
そのため、フェリペ2世は、住民にカトリックを強制してプロテスタントを弾圧した。

さらにプロテスタント教徒たちをゴイセン(Geuzen 乞食ども)と呼んで差別した。

これに反発したプロテスタントの多い北部7州(これが今のオランダになる)は、
1579年、ユトレヒト同盟を結成して抵抗を続けた。

この運動を指導したのが、オラニエ公ウィレム1世(William I, Duke of Orange)である。

彼は選ばれてオランダ独立戦争の指導者となり、1581年にネーデルラント連邦共和国
として独立を宣言した。

ユトレヒト同盟(Union of Utrecht)

オランダ建国の元となった、1579年の対スペイン軍事同盟。
80年戦争中の1579年1月23日、ネーデルラント北部7州が、ユトレヒト州の首都ユトレヒトにて、
対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印した。
この協定では、各州に自治権があることに合意し、また信仰の自由を原則とした。


オランダ独立戦争で、力トリックの多かった南ネーデルラントの南部10州(現在のベルギー)は、
そのままスペイン・ハブスブルク家に支配された。

1700年、スペイン王カルロス2世(Charles II)が病死して、跡取りがなくスペイン・ハプスブルグ家は断絶した。

するとフランス王ルイ14世は、自分の孫のフィリップがスペインのハプスブルク家の血すじを引いている
という理由でスペイン王にしようと考えた。

そうなると将来は、フランスとスペイン両国が合体するかもしれない。

フランスの勢力があまりにも大きくなりすぎるのを警戒したイングランドら3国は同盟を結び、
フィリップの王位継承に反対した。その結果、1701年、スペイン継承戦争が起こった。

13年もの戦いの末、この戦争は1713年のユトレヒト条約(Treaty of Utrecht)でようやく終結。
この条約で、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にする事を列国に認めさせることができた。

ただし、将来にわたってフランスとスペインが合体しないという条件付きだった。

また、この条約の翌年に結ばれたラシュタツト条約で、オーストリアが南ネーデルラントを獲得した。

スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1714年)

スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対イングランド、オーストリア、オランダ間で行われた戦争。

1700年スペイン王カルロス2世の死によりハプスブルク家が断絶。
新王にルイ14世の孫フィリップ(フェリペ5世)が即位すると、イングランド・オーストリア・オランダは
フランス・ブルボン家の拡張に反対して同盟し、フランス・スペインに宣戦布告した。
 


ユトレヒト条約(Treaty of Utrecht 1713年)

スペイン王位継承戦争の講和条約。
イギリスはフランスのスペイン王位を認める代わりに、仏領アメリカ植民地の一部を獲得。


ラシュタット条約(Treaty of Rastatt 1714年)

スペイン王位継承戦争の講和条約。
オーストリアは、スペイン領ネーデルラント・ミラノ・ナポリ・サルデーニャの領有を認められた。
 


1789年、フランス革命が勃発すると、ヨーロッパ諸国は危機感を抱いた。
フランスの革命政権が王制の否定に至ったことを意味するからである。

革命思想の波及を恐れた諸国は、同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指した。

1792年、オーストリア・プロイセン同盟軍とフランス革命軍との戦争が勃発。

この戦争はフランス革命軍が勝利し、1797年10月17日のカンポ・フォルミオの和約(Treaty of Campo Formio)
で、オーストリア領ネーデルラント(ベルギー諸州)がフランスに譲渡された。


ナポレオン戦争の終結後、1815年にウィーン会議が開催され、ナポレオンに占領されたヨーロッパの領土
を各国に振り分けることになった。

このウィーン会議の議決によって、南ネーデルラント(ベルギー)はネーデルラント連合王国として
ふたたびオランダと一つの国になった。


しかし、政治の実権をオランダ側に握られたベルギー側は、不満をつのらせた。

不満が爆発したのは1830年、フランス7月革命に刺激されたベルギー(南ネーデルラント)は、
ブリュッセルで武装蜂起し、ドイツ中部の公国からレオボルド1世を王に迎えて独立を宣言した。

独立は翌年ロンドン会議で列国に承認され、ベルギーは永世中立国となった。


だが1914年、第一次世界大戦が始まると、ドイツは中立を無視してベルギーに侵入し占領した。
そのため、戦後のベルサイユ条約で、ベルギーはやむなく永世中立を破棄した。

しかし第二次世界大戦でドイツに再び占領され、ベルギーは連合国側について参戦した。

ベルギーは小国として小規模な軍事力しかなく、国家安全保障体制の構築が急務となった。

そのため、戦後はNATO(北大西洋条約機構)への参加を通じて、西側安全保障体制と
経済の安定を目指した。

現在のベルギーは、首都ブリュッセルにNATOの本部を置いている。
また1993年に成立したヨーロッパ連合(EU)の本部もブリュッセルに置かれ「EUの首都」とも呼ばれている。



BC700年 ネーデルラント北部にゲルマン人、南部にケルト人(ベルガエ族 Belgae)が居住。
BC57年 南部がジュリアス・シーザーに征服されてローマ領に。
734年 フランク王国の支配下に。
870年 フランク王国の分裂に伴い、東フランク王国の支配下に。
962年  東フランク王国の分裂に伴い、神聖ローマ帝国の支配下に。 
1050年 イングランドから羊毛を輸入して加工。毛織物工業が繁栄。
1384年 ブルゴーニュ公国の支配下に。
1476年 ハプスブルク家の支配下に。
1555年 スペイン・ハブスブルク家のフェリべ2世の支配下に。
1568年 オランダ独立戦争。(80年戦争 ~1648年)
1579年 北部7州、ユトレヒト同盟結成。南部10州は脱落。
1581年 ネーデルラント連邦共和国(1581~1793年)。南部10州(南ネーデルラント)は、スペインの支配下。
1667~1668年 南ネーデルラント継承戦争。
1701年 スペイン継承戦争。
1714年 ラシュタット条約。南ネーデルラントはオーストリアの支配下に。
1797年  南ネーデルラントはフランスの支配下になる。
1815年 ウィーン会議で、フランス領ホラント王国が、南ネーデルラント(フランス領南ネーデルラント)を獲得。
立憲君主制のネーデルラント連合王国となる。(1815~1830年)
1830年 7月革命の影響で、ブリュッセルで武装蜂起。ベルギー王国として独立。永世中立国宣言。
1885年 レオポルド2世がコンゴの領有宜言。
1884年 ベルリン会議。コンゴ自由国建設。
1908年 ベルギー領コンゴ成立。
1914年 第一次世界大戦。ベルギー中立国。ドイツに占領される。
1939年 第二次世界大戦。ドイツに再び占領される。
1945年 国際連合加盟。
1948年  ベネルクス関税同盟結成。 
1949年  北大西洋条約機構(NATO)加盟。
1951年 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)加盟。
1967年  北大西洋条約機構(NATO)の本部がブリュッセルにおかれる。
1993年 ヨーロッパ連合(EU)加盟。本部、ブリュッセル






オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)


生年月日 : 1929/05/04
出身地 : ベルギー/ブリュッセル
没年 : 1993/01/20

1951年のブロードウェイ舞台作品「ジジ」で主役を演じ、その舞台を見た
ウィリアム・ワイラー監督により1953年「ローマの休日」にて主役の座を獲得。

美しく優雅で気品があり、無邪気でチャーミングなプリンセス・アンに
世界中の映画ファンが魅了された。

女っぽい曲線美とはほど遠い、だが個性的でファッショナブルなオードリーの登場は、
女優の美しさの基準を変えてしまうほど、新鮮で衝撃的だった。

作品の大ヒットと共に、オードリーはアカデミー主演女優賞を受賞。
彼女に憧れ、ボーイッシュな髪型の「ヘプバーン・カット」が大流行した。







ノートルダム大聖堂(Cathedral of Our Lady)


水運の町アントワープは、ブリュッセルに次ぐベルギー第二の都市。

最盛期は16世紀。毛織物業で繁栄し、ヨーロッパ第一の貿易都市となった。

ゴシック建築のノートルダム大聖堂は、アントワープが誇る観光名所。
塔の高さは123m、当時の船乗りたちにとって帰港時の目印となっていたという。


物語「フランダースの犬」ラストシーンの舞台となったのが、この大聖堂だ。

ここでは、少年ネロが憧れていたルーベンスの「キリストの降架」が鑑賞できる。
大聖堂の前には、ネロとパトラッシュ(Nello & Patrasche)のモニュメントも横たわっている。

大聖堂へのアクセスは、アントワープ中央駅(Antwerp-Central)から徒歩15分。