国名 クロアチア共和国           
英語 Republic of Croatia  
首都 ザグレブ  
独立年 1991年  
主要言語 クロアチア語  
面積 (千Km2) 57  
人口 (百万人) 4.3  
通貨単位 クーナ  
宗教 カトリック、セルビア正教等  
主要産業 輸送機械(船舶)、化学製品、繊維  
         
         
プリトヴィッチェ湖群国立公園(Plitvice Lakes National Park)

クロアチアの首都ザグレブの南 110kmにある国立公園。
面積 192k㎡。プリトヴィッチェ川が 16の湖と 92の小滝を形成しながらコラナ川に合流する雄大で珍しい景観を特徴とする。

中生代白亜紀の石灰岩地域であるため、高濃度の炭酸カルシウムが石灰華をつくり、川をせき止めたことにより生み出された自然の芸術作品とたたえられる。
湖面の輝きと森の緑の美しさはもとより、クマやオオカミをはじめノロジカ、オオライチョウなど貴重な野生動物や豊富な鳥類の生息地としても有名である。
1979年世界遺産の自然遺産として登録。
 
   




地理

ヨーロッパ南東部、バルカン半島の北西部にある共和国。

1991年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する
6共和国の一つであった。

北はスロベニアとハンガリー、東はセルビア、南はボスニア・
ヘルツェゴビナに接し、西はアドリア海に臨む。

地形は大部分が山地であるが、ドラヴァ川、サヴァ川の
流域には肥沃な平野と丘陵が広がっている。


住民はおもにクロアチア人で、カトリック教徒が多い。
公用語はクロアチア語、文字はローマ字を用いる。



産業は農林業がおもで、コムギなどの穀類、ブドウ、
オリーブなどを産し、ウシの飼育や、漁業も行なわれる。

スラヴォニア地方では林業が盛ん。
工業はザグレブを中心に発展。

主要都市はザグレブ、スプリト、リエカ、オシエク、プーラなど。
ドゥブロブニクは観光保養地として知られる。

2013年ヨーロッパ連合 EU加盟。




歴史

4世紀、スラブ系クロアチア人が、バルカン半島を南下、
7世紀、パンノニア南部からアドリア海沿岸のダルマティア北部に定住した。

8世紀、フランク王国の支配を受け、ローマ・カトリックを受容した。

925年、クロアチア人の族長トミスラブ(Tomislav)が「クロアチア王」を宣言し、
パンノニア地方を統一し「クロアチア王国」を建国した。

11世紀、ダルマティア地方を統一して、クロアチア王国は最盛期となった。

しかし、1102年にはハンガリー王国の、1527年にはオーストリアの支配下に入り、
オスマン帝国のバルカン半島への侵入に対する防波堤の役割を担うこととなる。

1408年にはアドリア海に面したダルマティア地方をベネチア共和国と争って敗れ、海岸部が分断された。
海岸部は、1815年のウィーン会議でオーストリア帝国領になるまでベネチア領として繁栄した。

1867年、オーストリアとハンガリー間のアウスグライヒ(和議)で、
オーストリア・ハンガリー帝国が成立すると、
クロアチアはハンガリーの一部としてハンガリー政府の支配下に入った。

第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊、1918年、南スラブ人の統一国家として、
「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が成立。(1929年からユーゴスラビア王国に改称)

クロアチアはその一部を構成することとなった。
しかし、セルビア人が新国家の国王になると、
クロアチアは反セルビアと地方分権を掲げて中央政府に反発した。(クロアチア問題)

1941年4月、ナチス・ドイツをはじめとする枢軸国軍がユーゴスラビアに侵攻し、分割・占領した。

この過程で、ドイツの傀儡国家である「クロアチア独立国」が建国され、
その領域はクロアチアの領域にボスニア・ヘルツェゴビナの全土を加えた部分となった。

これはクロアチア王国最大の版図とほぼ同じ領域であった。
ドイツ軍の撤退とともに、「クロアチア独立国」は瓦解、1945年5月にパルチザンによって解放された。



第二次世界大戦後の1945年、、ドイツ軍とのパルチザン闘争を指導したクロアチア人のティトーを中心に、社会主義国家であるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立。
(1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称)
クロアチアはボスニアを放棄して内陸部と海岸部(ダルマティア)を合わせて連邦を構成する一つの共和国となった。

多民族国家ユーゴスラビアは、ティトー(クロアチア人の父とスロベニア人の母の子)の巧みなバランス感覚とカリスマ性によって維持された。
しかし、1980年のティトー大統領の死後、各民族の不満と確執が噴出し民族主義が台頭、ユーゴスラビア社会主義連邦の解体が急速に進んだ。

1991年、独立の可否を問う国民投票が実施され78%が賛成。これをうけて同年6月25日に連邦からの独立を宣言した。
(同日、スロべニアも独立を宣言)

これに対して人口の 12%を占めるセルビア人が反対し、内戦に突入した。(クロアチア紛争)
ユーゴスラビア連邦軍はセルビア人を保護するという名目で軍を派遣、戦乱は4年間に及んだが、1995年、国連の介入で和平協定を結んだ。

紛争終結後は、順調に経済成長し、2013年にEUに加盟した。


7世紀頃 バルカン半島北部、パンノニアとダルマティアに定住。    
925年 トミスラブ(Tomislav)がクロアチア王国建国。    
1102年  ハンガリーの支配下に。       
1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (1929年、ユーゴスラビア王国と改称) の一部へ。   
1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの傀儡国 「クロアチア独立国」 を樹立。    
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国の一つとして発足。    
1963年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称。    
1991年 クロアチア共和国としてユーゴスラビアから分離独立。 (1992年、ECによる独立承認)   
2009年 NATO加盟。      
2013年 EU加盟。      









ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立

第二次世界大戦後、独自の社会主義政策を進めてきたユーゴスラビア連邦は、「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教」といわれ、
政治・民族・言語・宗教がからみあい、きわめて複雑な国だった。



   ユーゴスラビア連邦人民共和国(1945~1963年) 1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称した。(~1992年)



1991年以降、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが連邦から分離独立したあと、
セルビアとモンテネグロは、2003年、両国が共同して運営するセルビア・モンテネグロ国家連合を結成した。

しかしこの国家連合も2006年、モンテネグロが連邦から独立、さらに2008年、セルビア自治州であった
コソボが共和国として独立したことにより、ユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅した。


  




       


ユーゴスラビア史

ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。

第一次世界大戦後の1918年に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、
1929年に「ユーゴスラビア王国」と改称してできた国である。

ユーゴスラビア王国は、第二次大戦後の1945年「ユーゴスラビア連邦人民共和国」に改編され、
さらに1963年「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称された。

ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国であり、六つの共和国に
五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。


この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所である。

4世紀後半、ゲルマン人をはじめとするさまざまな民族の大移動が生じた。

375年、アジア系遊牧民族フン人(匈奴)の侵攻を受け、
彼らは西方への移動を余儀なくされたのである。

一方、バルカン半島方面に南下したのは南スラブ人である。
彼らはドナウ川下流域に達し、東ローマ帝国領内に集落をつくり定住した。

7世紀初頭、南スラブ人は以下の地域に定住を完了した。

バルカン半島北部サヴァ川上流域(スロベニア人)
バルカン半島中部モエシア地方(セルビア人)
アドリア海沿岸ダルマティア北部(クロアチア人)
アドリア海沿岸ダルマティア中部(ボスニア人)
アドリア海沿岸ダルマティア南部(モンテネグロ人)
バルカン半島中部ダルダニア地方(コソボ人)
バルカン半島南部北マケドニア地方(マケドニア人)



南スラブ人のうち、スロベニア人はフランク王国に服属してカトリックに改宗し、
その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、
1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。

クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。

その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、1102年、ハンガリー王国に支配され、
1527年、オーストリア領に、1867年、オーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。

一方で、東ローマ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、1168年、中世セルビア王国を建国して、
14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。

中世セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan(在位1331~1355)のときに最盛期を迎えるが、
1389年、コソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。

そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、
1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こした。

この戦争でオスマン帝国が敗北すると、1878年のべルリン会議で、セルビアとモンテネグロは
ルーマニアとともに独立が承認された。

このベルリン会議では、ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。

1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、
オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、
パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。

青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年)

イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。
アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。
一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得。
 


1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロは
ブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。

イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年)

北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。
イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された。
 


この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したオスマン領マケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。




そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、
ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、
オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。

しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、
クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。

この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。

また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、
セルビア人主導の専制政治を進めた。

第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。

これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、
自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。





そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国
(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。

ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアは
コミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。

ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと
非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。

父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)
が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、
複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。

そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。

1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。

1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアと
モンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国
(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)

この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが
新ユーゴスラビアの大統領となると、
アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、
武力闘争となった。(コソボ紛争)

これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)
行われ、国連も介入することとなった。

2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、
新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。

たが、2006年にモンテネグロが分離し、2008年にコソボが独立を宣言するに至り、
ユーゴスラビアという国家はその歴史に幕を閉じた。

4世紀 ゲルマン人の大移動後、南スラブ人がバルカン半島を南下
7世紀 南スラブ人、バルカン半島に定住完了
925年  クロアチア人、クロアチア王国を建国(~1102)
1000年 モンテネグロ人、ドゥクリャ公国を建国(~1185)
1102年 クロアチア王国滅亡。ハンガリーの支配下になる
1168年 セルビア人、中世セルビア王国を建国(~1459)
1185年 中世セルビア王国、モンテネグロのドゥクリャ公国を併合
1389年 コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン帝国に敗北
1459年  セルビア、オスマン帝国の支配下になる
1460年  マケドニア、オスマン帝国の支配下になる
1463年  ボスニア、オスマン帝国の支配下になる
1804年 第一次セルビア蜂起(~1813)。失敗
1815年 第二次セルビア蜂起(~1817)。自治権を獲得
1817年  セルビア公国成立(~1882) 
1867年 スロベニア、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下になる
1877年 ロシア-トルコ戦争
1878年 サン・ステファノ条約。ベルリン会議
セルビア、モンテネグロの独立承認
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得
1882年  セルビア王国成立(~1918) 
1908年 青年トルコ革命
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合
1912年 第一バルカン戦争。オスマン帝国がバルカン同盟に敗れ、領土を割譲
1913年  第二次バルカン戦争。ブルガリアがバルカン同盟に破れ、領土の大半を割譲 
1914年 サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦
1918年 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」成立
1929年 ユーゴスラビア王国と改称
1939年 第二次世界大戦
1941年 ドイツのユーゴ占領(~1944)
1945年 ユーゴスラビア連邦人民共和国成立
1945年  ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称 
1980年 チトー大統領死去。集団指導体制発足
1991年 スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発
1992年 セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)創設
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言
新ユーゴがボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ~1995)
1998年 ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。(コソボ紛争)
1999年  NATOによるセルビア空爆 
2003年 ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称
2006年 モンテネグロが独立
2008年 コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言








恋人たちの島 (Lovers Island)


クロアチアのアドリア海沿岸に「恋人たちの島」と呼ばれる島がある。

ザダル(Zadar)とパシュマン(Pasman)島の間に位置するガレシュニャク島(Galesnjak)で
完成度の高いハートの形をしていることから名づけられたという。

個人が所有している島で、ところどころに灌木が茂り、ウサギが住む程度の無人島だ。

国立公園にも指定されているコルナティ諸島(Kornati Islands)に隣接しているため、
ヘリコプターやセスナ機などで遊覧飛行が楽しめる。

また結婚式やパーティなどでの貸し切り利用も可能となっているので、
ハネムーンのカップルに人気のスポットとなっている。

(住所:Galesnjak Island, Croatia)