国名 チェコ共和国                    
英語 Czech Republic  
首都 プラハ  
独立年 1993年  
主要言語 チェコ語  
面積 (千Km2) 79  
人口 (百万人) 10.5  
通貨単位 チェコ・コルナ  
宗教 カトリック10.3%、無信仰34.3%  
主要産業  機械工業(自動車を含む)、
     
  化学工業、観光業        


チェスキー・クルムロフ(Cesky Krumlov)

チェコ南部の都市チェスケー・ブジェヨヴィツェ (Cesey Budejovice) の南西約 20kmにある町。
モルダウ川がS字形に蛇行して島のように残された台地の上の旧市街と、その北側対岸に 13世紀後半に建てられたチェスキー・クルムロフ城およびラトラン地区からなる。

14~16世紀にこの地を治めた封建貴族の保護と振興策によって手工業と商業で栄えた町には、後期ゴシック様式とルネサンス様式の建物が残る。
城を中心とした地域は 1992年、世界遺産の文化遺産に登録。




地理

ヨーロッパ中部、ドイツの東、スロバキアの西に位置する内陸国。

西のボヘミア地方と、東のモラヴィア地方からなり、
国土の大半が低山に囲まれた盆地。

気候は大陸性気候と海洋性気候の混合で、海洋性気候の特徴は東部へ向かうほど弱まる。
年平均気温は西端のヘプで7℃、南東部のブルノで9℃。


分離独立したスロバキアに比べ高度に工業化が進んでおり、エンジニアリングが最大の産業。
次いで食品、エレクトロニクス、化学等の産業が有力。

1990年代初めに実施された経済改革が奏効してめざましい経済成長と低失業率を実現し、
西側諸国の一員として認められた。






歴史

モラヴィア地方(Moravia)は、ドナウ川の支流であるモラヴァ川流域の一帯である。

古くはゲルマニアの一地方であり、ゲルマン人が住んでいたが、
6世紀にスラブ人の一種族であるチェック人(Czechs)、スロバク人(Slovaks)の土地となった。

833年、この土地に、チェック人たちによってモラヴィア王国がつくられた。
モラヴィア王国は城塞や教会をもち、都市を形成して一定水準の文明を築いていた。

周辺では、フランク王国やブルガリア帝国が勢力を拡大しており、
モラヴィア王国は、東ローマ帝国と同盟を結び、これらに対抗した。

だが907年、モラヴィア王国は、東方から侵入してきたマジャール人(Magyars)に敗れて滅亡した。

1000年、モラヴィア王国の東部、スロバク人が住んでいた土地に、
マジャール人がハンガリー王国(Kingdom of Hungary)を建国した。

一方、西部の地域は、チェック人が1198年、新たにボヘミア王国(Kingdom of Bohemia)を建国した。





ボヘミア王国は11世紀には神聖ローマ帝国の一部となったために、カトリックが普及した。

そしてボヘミア王国は、1356年の金印勅書では選帝侯の一つとなっているが、
この勅書を発布したルクセンブルク家のカール4世は、ボヘミア王でもあった。

カール4世はボヘミア王力レル1世として首都プラハにカレル大学を創始している。

息子のジギスムントは、1411年に神聖ローマ皇帝となり、
1414年にコンスタンツ公会議を開催して、教会大分裂(シスマ)を終了させた。

しかし、この公会議では、カレル大学教授であったフスを異端として火刑にしたために、
ブス派のボヘミア(現在のチェコ)住民がフス戦争を起こしている。

この戦争は宗教だけでなく、チェック人のドイツ人支配に対する反抗でもあった。

1526年のモハーチの戦いでハンガリーがオスマン帝国に敗れると、ハブスブルク家の神聖ローマ皇帝
カール5世の弟であるフェルディナント(1世)が、ハンガリーの一部とボヘミア王を継承している。

ボヘミアでは宗教改革の後、フス派やルター派といったプロテスタントの勢力が強かった。

ここで、1617年、神聖ローマ皇帝マテイウスの弟のフェルディナント(2世)がボヘミア王となると、
プロテスタントの多いボヘミアは弾圧を受けた。

これに対して1618年にボヘミア反乱が起こり、三十年戦争が始まった。

三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約でようやく終結したが、
ボヘミアはこれ以降、オーストリア(ハブスブルク家)の支配が確定することになった。

1848年のフランスでの2月革命の影響でウィーン3月革命が起こると、
6月にはプラハを中心にボヘミア人民族運動が起こっている。

そして、パラツキーを議長とするオーストリア帝国のもとのスラブ民族の自立をめざしたスラブ民族会議が開かれている。
しかし諸国民の春とも呼ばれた民族運動は弾圧され失敗している。

オーストリアが第一次世界大戦に敗北すると、1919年のサン・ジェルマン条約によって
正式にボヘミアはチェコとして独立し、スロバキアと合併してチェコスロバキアとして独立を承認された。

マサリクを初代大統領とするチェコスロバキアは東欧第一の工業国(武器製造)となり、議会制民主主義が発展している。
しかし民族自決のもとにヨーロッパで成立した国々は、ソビエ卜政権となったロシアに対する反共防壁でもあった。

さらにドイツとオーストリアの合併を阻む形で形成されたチェコスロバキアには、
その最西端にズデーテン地方というドイツ人が多く住む地域が割譲された。

1935年にマサリクにかわりベネシュが大統領となった頃、隣国ドイツで政権をにぎったナチスが、1938年にオーストリア併合を行った。
そして同年、ナチス・ドイツ、ヒトラーがズデーテン地方の割譲を要求してきた。

この要求に対して開かれたミュンヘン会談では、当事国であるチェコスロバキアの代表は出席を許されないまま、
イギリス・フランスの宥和政策によってズデーテン地方はドイツへ割譲された。

翌年の1939年にドイツによってチェコスロバキアは解体され、ベネシユは亡命した。
しかも、西半分のボヘミアはドイツに併合され、東半分のスロバキアは保護国とされた。

第ニ次世界大戦が終わると、亡命していたベネシュが帰国してチェコスロバキア共和国は復活した。

しかし、マーシャル・プランの受け入れをめぐって1948年2月にチェコスロバキア・クーデタが起き、
チェコで共産党政権が樹立されて、ベネシュは大統領を辞任している。

そして1960年には正式に社会主義国となって、国名もチェコスロバキア社会主義共和国と改称している。

ところが自由化の波が起こると、1968年にノヴォトニーにかわったドプチェクが「人間の顔をした社会主義」を掲げ、
チェコスロバキアの民主化運動、「プラハの春」が起こった。

しかし、ソ連によるチェコスロバキアヘの軍事介入が行われ、ドプチェクはソ連に連行されて「プラハの春」は終わった。

翌年にドプチェクにかわったフサークらは改革派を弾圧した。
これに対して1977年、政府によって基本的人権が損なわれていることを明らかにした
憲章77を発表したハヴェルらは、反政府運動を続けた。

そして1989年11月にべルリンの壁が崩壊し、東欧革命(東欧社会主義圏の消滅)の一つとして、
チェコスロバキアでもビロード革命と呼ばれる静かな革命よって共産党政権は崩壊した。

このとき、大統領に選出されたのがハウルで、非共産党の政権を成立させ、ドプチェクもここで連邦議長として復権している。

1993年にチェコとスロバキアは平和な連邦解消を行って、それぞれチェコ共和国、スロバキア共和国となった。

チェコは1999年に、スロバキアは2004年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、
2004年にはチェコ、スロバキアともに欧州連合(EU)に加盟している。


833年     スラブ人がモラヴィア王国建設
907年  アジア系のマジャール人が侵入、モラヴィア王国滅亡
1000年  東のスロバキアは、マジャール人建国のハンガリーの支配下に。
1198年  西のチェコは、チェック人がボヘミア王国を建設。
1618年  ボヘミア反乱。三十年戦争はじまる。
1648年  ウェストファリア条約。ボヘミアはハブスブルク家の支配下に。
1919年  サン・ジェルマン条約。ボヘミアはチェコとして独立。
 スロバキアと合併してチェコスロバキア共和国成立。
1938年  ミュンヘン会談。ズデーテン地方はドイツへ割譲。
1939年  ドイツによってチェコスロバキアは解体。
1945年  チェコスロバキア共和国復活
1960年  チェコスロバキア社会主義共和国
1968年  チェコスロバキア民主化運動(プラハの春)
1989年  東欧革命(ビロード革命)社会主義政権崩壊
1993年  チェコとスロバキア合併解消。チェコ共和国






プラハ(Prague)


モルダウ川のほとりにある古都プラハ。

1346年、神聖ローマ帝国皇帝カール4世(Charles IV 在位1346~1378)は
プラハを首都とし、カレル大学(Charles University)を創立。

プラハは欧州随一の文化的中心となった。

魔法都市と呼ばれる世界遺産プラハ歴史地区(Historic Centre)にはゴシック、
ロマネスク、ルネサンスなど多様な時代の建造物が残る。

欧州最古かつ最大の城といわれるプラハ城、大河モルダウに架かるカレル橋など、
その美しい街並みは、世界中から訪れる観光客を魅了してやまない。