国名 ドイツ連邦共和国               
英語 Federal Republic of Germany  
首都 ベルリン  
独立年 -  
主要言語 独語  
面積 (千Km2) 357  
人口 (百万人) 80.9  
通貨単位 ユーロ  
宗教 キリスト教(カトリック2、546万人、
 
  プロテスタント2、483万人)、   
  ユダヤ教(11万人)イスラム教(400万人)   
主要産業 自動車、機械、化学・製薬、電子、食品、
 
  医療技術、環境技術、精密機械等       
         
         
ノイシュバンシュタイン城(Neuschwanstein)

ドイツ、バイエルン地方の岩山の頂に建つネオロマネスク様式の大理石造城郭。

19世紀、建築好きのルートヴィヒ2世が幻想趣味を駆使して建てたもので、C.ジャンク (舞台装置設計家) の案に基づき、
建築家 E.リーデル、G.ドルマン、J.ホフマンらが 1869~1886年に建造した。

アメリカ・カリフォルニアにあるディズニーランドのシンデレラ城のモデルとして知られている。
 
 

地理

ドイツの南端、オーストリアとの国境にアルプスがそびえる。

ドイツ最大のライン川は、源をスイスの山中に発し、ボーデン湖を経て、フランスとドイツの国境を流れ、
オランダのロッテルダムで北海へと注ぐ全長約1200km。

エルベ川は、ポーランド、チェコ国境地帯のズデーテン山地に源を発し、ドイツ東部を北へ流れ、
ハンブルク北西で北海に注ぐ全長約1100km。このうち700kmがドイツ国内を占める。

いずれも、ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つである。
また流域は古くからのブドウ栽培地で、ワインの生産が盛ん。


農業は、アルプス周辺では酪農、牧畜が中心となり、中部ドイツから南ドイツにいたる肥沃地帯では、
主としてムギ類、テンサイ、ジャガイモなどが生産される。


エルツ山地では、古くから銀、鉛、亜鉛などの鉱石採掘で知られる。

またデュッセルドルフ周辺のルール地方、アーヘン付近やザールブリュッケン周辺のザールラント州には炭田がある。
またカリ塩や岩塩の埋蔵されている所もある。

世界有数の工業国であり、ザールラント州、ルール地方の重工業のほかに、シュトゥットガルトの自動車工業、
ライン川沿岸の石油化学工業、ベルリンや南西ドイツの電気機器工業に特色がある。
 






歴史

ゲルマニア(Germania)は、ドイツ人をはじめとするゲルマン諸族の発祥の地とされている。

彼らの話す言語は、インド・ヨーロッパ語族(Indo-European)に属することから、
原住地は黒海・カスピ海周辺の草原地帯であると推定される。

ゲルマン人は、紀元前300年頃にはゲルマニア地方に定住を完了し、主として農耕・牧畜
を生活手段とし、部族の王・貴族・平民・奴隷による階層社会を形成していた。

紀元前52年、隣接するガリア地方がローマのシーザーによって征服された。
その後、紀元12年、ローマ帝国はライン川を越えてゲルマニアに侵攻した。

だがトイトブルクの戦い(Battle of Teutoburg)で大敗し、やむなく撤退した。
この勝利によってゲルマニアはローマの支配下から逃れ、民族的独立を保持した。

紀元375年、中央アジアからやってきたフン族に押されて、ゲルマン人の大移動がはじまった。
東からも北からも一斉に怒濤のようにローマ帝国になだれ込んだのである。

国力が弱まっていたローマ帝国は、395年、東西に分裂。
西ローマ帝国は、次々に押し寄せるゲルマン諸族によって蹂躙され、476年、ついに滅亡する。





5世紀後半にサリ族(Salian Franks)の族長クロービスがゲルマン人のフランク族を統一し、
481年にメロヴィング朝を建てフランク王国が始まった。

このフランク王国をはじめとするゲルマン諸国家で忘れてはならないのが、ローマ系住民との関係である。
ゲルマン国家は、少数のゲルマン人に対して、多数のローマ(ラテン)系住民を抱える国家であった。

ローマ系住民は、ローマで正統とされたアタナシウス派を信奉していた。
これに対してゲルマン人は、アリウス派などの異端や異教を信奉していた。


宗教の違いは、しばしば民族対立のもととなる。

そう考えたクロービスは496年に、ランスの教会でアタナシウス派に改宗して、
国内のローマ系住民と同じ宗教となった。

これによりローマ系住民との関係は改善され、ローマ教会との連携も強まった。

その後、フランク王国は、534年にはフランス東南部に建国したブルグンド王国を滅ぼし、
着実にその領土を広げていった。




大陸のゲルマン国家宮宰(きゅうさい 王の補佐役)となったカロリング家のカール・マルテルは、
732年にはイベリア半島から進出してきたイスラム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエの戦いで破っている。


カール・マルテルの子であるピピン(ピピン3世)は、751年に力ロリング朝を開いて、王位を承認してくれた
法王の要請で北イタリアのロンバルド王国を討伐し、イタリア北東部のラヴェンナ地方を756年に寄進した。
(ピピンの寄進)

ピピンの子カールは、774年にロンバルド王国を滅ぼし、北のザクセン人を力トリックに改宗させ、
東ではモンゴル系アヴァール人に打撃を与えた。

さらに西ではイべリア半島の後ウマイヤ朝と戦い、現在のフランス・ドイツのほとんどを支配した。

800年には法王レオ3世によって、サン・ピエトロ大聖堂でカールの戴冠が行われ、西ローマ帝国の復活が宣言された。
カールはカール大帝として、西ローマ帝国を受け継ぐ支配者となった。



だがカール大帝の死後、王国は領土分割をめぐって争いが起こり、870年に三分割された。

領土争いにより王権が弱体化すると、異民族(マジャール人)に狙われることになった。
相次ぐマジャール人の襲撃で町や教会が略奪され、フランク王国内は混乱を極めた。

そんな中、東フランク王国では、936年にザクセン朝のオットー1世(Otto I)が国王に選出された。
955年、オットー1世は、東方から攻め込んできたマジャール人の撃退に成功する。



962年、法王ヨハネス12世がオットー1世に、古代ローマ帝国の継承者として戴冠した。
ここに神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire 962~1806年)が誕生した。

神聖ローマ帝国はローマ法王に支持された皇帝を認めた国家、あるいは地域である。

ローマ教会と法王の守護者である皇帝は最高権威を法王と二分し、皇帝の権威は
教会を通じて西ヨーロッパ全体に及ぶこととなったのである。

東フランク王国(843~962年)

843年、ヴェルダン条約によりフランク王国が3分割された結果、
ルートヴィヒ1世の三男であるルートヴィヒ2世(在位843~876)が継承した王国。

870年のメルセン条約で西へ拡大。
911年、ルートヴィヒ4世(Louis the Child 在位893~911)の死によりカロリング朝は断絶。

以後諸部族の王朝であるフランケン朝、ザクセン朝の王が東フランク王を称し、
962年、ザクセン朝のオットー1世の戴冠により神聖ローマ帝国が成立。(East Francia) 



オットー1世の新しい帝国(神聖ローマ帝国)の支配圏は、ドイツ王国(東フランク)に
おおむね限定されていた。

神聖ローマ皇帝といえども、実質的にはドイツ王に過ぎない。
だが現実のドイツ王は、神聖ローマ皇帝にこだわった。

当時のドイツ王国は、ザクセンやバイエルンなどの諸侯が分立しており、
歴代のドイツ王の実権の及ぶ範囲は、きわめて限定されていたからである。


それゆえにこそ、西ヨーロッパ世界での普遍的な支配者であるローマ皇帝となるために
法王の手による戴冠を必要とした。

それがなければ、ドイツ王は、ただのドイツ王でしかないとされた。
ここにドイツ王、そして神聖ローマ皇帝は、法王とのつながりを何よりも必要としたのである。





11世紀後半、帝国統合の手段としての教会支配政策がもとで、国王と法王の衝突が起った。(叙任権闘争)


ドイツ王はイタリア王を兼ねたため、法王としばしば対立していた。

ドイツ王ハインリヒ4世は、イタリアにおける影響力を増すために、子飼いの司祭たちを
ミラノ大司教・フェルモ司教などに次々と任命した。


これに対して法王グレゴリウス7世は、司教の任命権は、国王ではなく教会にあることを通達したが、
ハインリヒが聞き入れないため、法王は彼を破門した。(破門は、王位の剥奪を意味する)


このとき、ドイツ王の権力が強化することを恐れたドイツ諸侯は、法王に味方してしまった。
廃位を恐れたハインリヒはやむなく、法王に謝罪し、破門の解除を乞うことにした。

そこで彼は、アルプスを越え、北イタリアのカノッサ城に滞在中の法王を訪れ、
ざんげ服ではだしのまま、雪の中で三日間待ったのちに破門を許された。


1077年に起きたこの事件を「カノッサの屈辱(Road to Canossa)」といい、
法王権力の強化を物語るエピソードとして、後の世に伝わっている。


だが、ハインリヒ4世はその後、屈辱を晴らしている。

彼はドイツに戻り、直ちに反対派の諸侯を制圧して国内の憂いを断った。

その後、軍を率いてローマを包囲、グレゴリウス7世を廃位に追い込むと、
対立法王クレメンス3世をたて、神聖ローマ皇帝の帝冠を受けた。

結局、武力がものをいったのである。






1096年以降、十字軍運動が開始され、第一回十字軍の軍勢が聖地を奪って
エルサレム王国を建国し、再びローマ法王の威光が高まることになる。


一方、バルト海沿岸のプロイセン地方(Prussia)は、先住民であるプロイセン人が住んでいた。

彼らは多神教的な信仰を持っていたため、12世紀以降、異教徒を改宗させる
使命を帯びた「十字軍」の標的となった。


プロイセン人たちはその攻撃と戦ったが、結局はドイツ騎士団の支配下に入る。

ドイツ騎士団とは、1198年、十字軍の時代にエルサレムで設立された騎士修道会
(軍事力を備えたカトリック修道会)である。


彼らは領地と大義名分を求めて「異教徒と戦う集団」となり、バルト海沿岸まで進出し、
そこでプロイセンの先住民を征服する許可をローマ皇帝より得たのである。

ドイツ騎士団

騎士修道会の一つ。1190年の第3回十字軍以降に活躍。13世紀以降東方植民の先頭にたち
領土の拡大に寄与。ドイツ騎士団領は、プロイセンの基礎となった。(Teutonic Order) 



1226年、ドイツ騎士団領(1226~1525年)の成立によって、キリスト教化が進められるとともに、
プロイセン人たちも徐々にドイツ化していった。



ドイツ騎士団は、続いて異教国リトアニア・ポーランド王国との戦いに身を投じる。

ドイツ騎士団のプロイセン平定は、当時大国であったリトアニアとポーランドに大きな脅威を与え、
両国はそれに対抗するため、1386年に合同し、リトアニア・ポーランド王国を結成していたのである。



1410年、タンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg)でドイツ騎士団は歴史的な敗北を喫した。

その後もドイツ騎士団は敗北を続け、西プロイセン地方はリトアニア・ポーランド王国の統治下に組み込まれる。
これによってドイツ騎士団領の領土は、東プロイセン地方のみとなった。





1525年、リトアニア・ポーランド王ジグムント1世(Sigismund I)は、
騎士団領をポーランド王国の保護下に置くと、騎士団総長で甥でもある
ホーエンツォレルン家(House of Hohenzollern)出身のアルブレヒト(Albert)
を臣従させ、彼を初代プロイセン公に任命した。

これによってドイツ騎士団領は消滅し、東プロイセン地方は「プロイセン公国」
(Duchy of Prussia 1525~1618年)となった。

プロイセン公国

1525年から1701年まで、現在のドイツ北東部、ロシア領カリーニングラード州
およびポーランド北部に存在した国家。プロシア公国とも。 (Duchy of Prussia) 




1618年、プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒ(Albert Frederik)が後継者無く没すると、
プロイセンは同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯(Prince-elector of Brandenburg)
ヨハン・ジギスムント(John Sigismund)が継承することになった。


これによって、ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公(Duke of Prussia)を兼務する
「ブランデンブルク・プロイセン公国」(Brandenburg-Prussia 1618~1701年)が成立した。

1660年、ブランデンブルク・プロイセン公国は、リトアニア・ポーランド王国から正式に独立したが、
西プロイセン地方は依然としてリトアニア・ポーランドの統治下にあった。

選帝侯

神聖ローマ皇帝の選挙権をもつ諸侯。当時のドイツ語圏の諸侯すべてに皇帝を選挙する権利はなく、
有力な大国の諸侯のみ選挙権を有していた。(Prince-elector)
 


1701年、スペイン継承戦争(1701~1713年)が始まると、ブランデンブルク・プロイセン公国は、
神聖ローマ皇帝側に立って参戦した。

(当時の神聖ローマ皇帝はオーストリア・ハプスブルグ家のレオポルド1世である)


プロイセン公フリードリヒ1世(FrederikⅠ)は、スペイン継承戦争でハプスブルグ家を支持し、奮闘した功績により、
王号を認められ、ベルリンを首都とする「プロイセン王国」(Kingdom of Prussia 1701~1871年)が誕生した。

スペイン継承戦争

1701~1713年、スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対オーストリア、イングランド、オランダ間で行われた戦争。

1700年スペイン王カルロス2世の死により、スペイン・ハプスブルク家が断絶。
新王にルイ14世の孫フィリップ(フェリペ5世)が即位すると、イングランド・オーストリア・オランダは
フランス・ブルボン家の拡張に反対して同盟し、フランス・スペインに宣戦布告した。(War of the Spanish Succession)


プロイセン王国

1701~1871年。1618年、ブランデンブルク選帝侯国(首都ベルリン)とプロイセン公国とが合同して
ブランデンブルク・プロイセン公国が成立。1701年にプロイセン王国と改称。

18世紀後半にフリードリヒ2世が絶対主義体制を確立して強国になった。
のち普墺戦争・普仏戦争に勝利し、1871年ドイツ帝国を建国した。(Kingdom of Prussia)
 








フリードリヒ1世の死後、プロイセン王国はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(Frederik WilliamⅠ)、
フリードリヒ2世(FrederikⅡ)の時代に入る。

この両王の時代に宮廷費の削減、産業の振興が成し遂げられ、プロイセンは中欧における強国の地位に入り込むことができた。


フリードリヒ2世は、オーストリア継承戦争(1740~1748年)と、それに続く七年戦争(1756~1763年)でオーストリアと、
15年間にわたって戦い、現在のポーランド南西部にあたるシュレジエン地方(Silesia)の大部分を獲得した。

新興国プロイセンが、ヨーロッパ屈指の名門ハプスブルク家を打ち負かした。
このことがフリードリヒ2世を大いに勢いづかせ、彼は「大王」と呼ばれるようになる。

彼は、軍制改革を行い、欧州最強といわれる軍を作り上げた。
また、彼自身が啓蒙専制(近代化による富国強兵)君主として産業の振興、自由政策等々を行い、国力を増強した。


オーストリア継承戦争

1740~1748年、オーストリアの王位継承をめぐって起きた国際戦争。

マリア・テレジアの即位をめぐりプロイセン・フランス・スペインなどが開戦、
オーストリアはイギリスと結び対抗。アーヘンの和約(Treaty of Aix-la-Chapelle)で終結。

オーストリアはマリア・テレジアの王位継承を認められたが、
シュレジエンをプロイセンに与えたほか領土の一部を失った。(War of the Austrian Succession)


七年戦争
 
1756~1763年、プロイセンのフリードリヒ2世(大王)とオーストリアのマリア・テレジアとの間で、
シュレジエンの領有をめぐって始まった戦争。

フランス、ロシアがオーストリア側、イギリスがプロイセン側についた

オーストリアはマリア・テレジアの息子ヨーゼフ (のちの2世) を父帝フランツ1世の死後、
神聖ローマ皇帝として認めるという約束だけを得、プロイセンのシュレジエン領有を確認して戦争は終った。

この戦争の結果、プロイセンはヨーロッパ列強と認められた。
また海外植民地(インド・カナダ)で、イギリスがフランスを破り、英国経済の世界的優位が確立した。

ロシアは、ヨーロッパ進出の足がかりとして参戦したが、中途でプロイセンと和議を結び、
戦線を離脱したため、領土的には得るものがなかった。(Seven Years' War)
 





1772年のプロイセン・オーストリア・ロシアの3国による第1次ポーランド分割によって西プロイセン地方を
領有したことで、プロイセン王国は全プロイセン地方を統治することになった。


次のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(Frederik William Ⅱ)の時代、フランス革命が勃発。

1789年、フランス革命が勃発すると、ヨーロッパ諸国は危機感を抱いた。
フランスの革命政権が王制の否定に至ったことを意味するからである。

革命思想の波及を恐れた諸国は、同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指した。

1792年、オーストリア・プロイセン同盟軍とフランス革命軍との戦争が勃発。


戦争のさなか、1792年と1795年、プロイセンは、第2次と第3次のポーランド分割によって、
東プロイセンと南プロイセンもその版図に加えた。

またこれにより、当時のポーランド・リトアニア共和国は滅亡・消滅した。


その後1975年、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、戦争から離脱し、フランス革命軍と
バーゼル和約(Peace of Basel)を締結し休戦となった。



一方、オーストリアとフランス革命軍の戦争は、革命軍の勝利となり、1797年のカンポ・フォルミオの和約
(Treaty of Campo Formio)で、オーストリア領南ネーデルラントを含むライン左岸地方がフランスに譲渡された。


このため、ライン左岸の領土を失った帝国内の諸侯の不満が高まった。

時の神聖ローマ皇帝フランツ2世は、今後選挙によって再び皇帝の地位を獲得することは困難と判断、
1804年5月、ナポレオンが皇帝になると、それへの対応として同年8月、ハプスブルク家の所領を
皇帝領として統合し、自らオーストリア皇帝フランツ1世と名乗った。

これによりオーストリア帝国が成立、神聖ローマ帝国は、事実上消滅した。(名目上の消滅は二年後になる)




次のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Frederik William Ⅲ)がプロイセン王位に就いたころ、
ヨーロッパにはナポレオン旋風が吹き荒れた。

ナポレオン軍は、当初の革命防衛戦争から大陸制圧の侵略戦争へと転換していた。

1805年、ナポレオン軍は、アウステルリッツの戦い(Battle of Austerlitz)で、オーストリア・ロシア連合軍に大勝、
ドイツ諸国を保護下に置き、ライン同盟(Rheinbund)を成立させた。

神聖ローマ帝国に属していたドイツ諸侯は、ライン同盟結成に伴い神聖ローマ帝国を離脱、
これにより、850年間続いた神聖ローマ帝国は完全に消滅した。


フランスの勢力がドイツ全体に及ぶに至り、1806年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、これまでの休戦条約を破棄、
イギリス、ロシアと第四次対仏大同盟を結成し、同年10月、フランスに宣戦布告した。

しかし開戦直後のイエナ・アウエルシュタットの戦い(Battle of Jena–Auerstedt)で
プロイセン軍は甚大な損害を被り、プロイセン全土がフランス軍に制圧された。

1807年のティルジット条約(Peace of Tilsit)は、予想以上に厳しい内容だった。

プロイセン王国の崩壊は、何とか免れたものの、ベルリンは占領下に置かれ、ポーランド分割で
手に入れた領土は、ワルシャワ公国として復活することになる。


さらに法外な賠償金まで要求され、かつての大国プロイセンは、ナポレオン戦争の敗北により、
ヨーロッパ三流国家へと一気に転げ落ちていったのである。


プロイセン国民の生活は困窮し、ナポレオンへの憎悪が、日増しに充満していった。
こうした国民感情は、やがてドイツ・ナショナリズムの源流となって全土に拡大した。

ナポレオンのプロイセンに対する不当な接収や賠償金が、国民の「民族統一」への思いに
火を付け、覚醒させたのである。


その後、王国の復興は、首相ハルデンベルク(Hardenberg)やシュタイン(Stein)といった
優れた官僚たちによって順調に進み、内政にもようやく落ち着きが見られるようになった。


こうしたなか、1812年10月、ナポレオン軍は、ロシア遠征に失敗し、退却を余儀なくされる。

これを好機と見たフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、オーストリア、ロシアと同盟を結び、
再びフランスに宣戦布告した。

1813年10月、同盟軍はライプツィヒの戦い(Battle of Leipzig)でナポレオン軍を破った。
この戦いは「諸国民戦争」と呼ばれ、プロイセン史に残る大きな出来事となった。




1815年、ナポレオン戦争後、オーストリア宰相メッテルニヒ(Metternich)主導の勢力均衡政策により、
ヨーロッパに新たな秩序が生まれ、プロイセンを含むドイツ諸国はオーストリアを盟主とする
ドイツ連邦に組み込まれた。


また、ウィーン議定書によって、プロイセン王国は新たにドイツ西部のライン地方
(Rhineland ラインラント)を獲得した。

この「飛び地」は19世紀に大きく工業化が進んだ地域で、
これによってプロイセン王国の国力は急速に高まった。


ドイツ連邦

1815~1866年。旧神聖ローマ帝国を構成していたドイツの35の領邦と4つの帝国自由都市との連合体。

1815年のウィーン議定書に基づき、オーストリア帝国を盟主として発足、
1866年の普墺戦争のプロイセン王国の勝利をもって解消された。(German Confederation)
 






1861年、プロイセン王に即位したヴィルヘルム1世(William I)は、
分裂状態にあったドイツ諸国の統一を目指していた。

そこで首相として起用されたのが「鉄血宰相」の異名をもつ
ビスマルク(Bismarck)であった。

首相になったビスマルクは議会で「ドイツの統一は、言論によってではなく、
鉄と血によって解決される」と述べ、軍事力によるドイツ統一をうったえた。

彼は早速、参謀総長モルトケ、陸相ローンらと共にドイツ統一に乗り出す。

ビスマルクが、まず手始めに行った戦争が、デンマーク領シュレスヴィヒ・
ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)をめぐるデンマーク戦争(Danish War)だった。

シュレスヴィヒ・ホルシュタインは、ユトランド半島(Jutland Peninsula)
の南に位置する小さな王国だった。

このうちホルシュタイン州はもともと神聖ローマ帝国の領土で、
ドイツ系住民が多い地域だった。

15世紀以降にデンマークの領土に組み込まれ、それ以後プロイセンとの間で
領有権をめぐって争われていたのである。

1864年、ビスマルクは、オーストリアと同盟し、デンマークと開戦、
小国相手の戦争は、難なくプロイセン・オーストリアの勝利となった。

ところが奪い取ったシュレスヴィヒ・ホルシュタインの共同管理をめぐって
今度はプロイセンとオーストリアが対立した。

オーストリアの管理区域に、プロイセンが侵入したことで、オーストリアが激怒し、
1866年普墺戦争(Austro-Prussian War)が勃発。

プロイセンの軍事力は強力であり、また稀代の知将モルトケの采配が
プロイセン軍に勝利を運んだ。

普墺戦争に勝利したプロイセンは、オーストリアの主導するドイツ連邦を解体、
ドイツ関税同盟によってかねてから結びつきの強かったドイツ北部22邦諸邦と
連合する連邦国家「北ドイツ連邦」(North German Confederation 1867~1871年)
を成立させた。


一方、普墺戦争に負けたオーストリアは、領内の独立の気運が高まったため、
ハンガリーの議会に行政府の権限を与え、オーストリア・ハンガリー帝国を成立させた。

普墺戦争

1866年、ドイツ統一の主導権をめぐって起こったプロイセンとオーストリアの戦争。
7週間でプロイセンが大勝し、オーストリアを除外したドイツ統一の大勢が決定した。

プラハ条約(1866年)が結ばれ、ドイツ連邦の解体とプロイセンの北ドイツ連邦組織の承認、
ドイツ統一におけるオーストリアの不干渉、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国の
プロイセンへの帰属などが定められ、プロイセンは事実上ドイツの中心となった。
プロイセン・オーストリア戦争とも。(Austro-Prussian War)
 

北ドイツ連邦

1867年、プロイセンを中心に結成された連邦国家。
普墺(ふおう)戦争の勝利後オーストリアと南ドイツ諸邦を除きマイン川以北22の領邦で構成。
1871年のドイツ帝国成立の基盤となった。(North German Confederation) 




一方、プロイセンの台頭に危機感を募らせたのが、フランス皇帝ナポレオン3世だった。
彼はナポレオン1世の甥で、国民投票によって皇帝に選出されていた。

やがてフランスとプロイセンの間に、戦争の火種がくすぶりはじめる。

戦争のきっかけとなったのが、スペインの王位継承問題だった。

1868年、スペインでクーデターが起こり、スペイン・ブルボン家のイサベル2世(Isabel II)
がフランスへ亡命。
空いてしまったスペイン王位をめぐり、スペイン王位継承問題が発生した。


一時はプロイセン家のレオポルト公(Leopold)がスペイン王に即位すると決まったが、
その話を聞いたナポレオン3世が猛反対する。

レオポルト公がスペイン王になると、フランスはプロイセン王国に挟まれてしまうからだった。



その後、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、ナポレオン3世の抗議を受け入れ、
レオポルトに即位の取りやめを勧告する。

これによって事件は終わったかに見えたが、 ナポレオン3世は、プロイセン王のもとに、
大使を送り、将来にわたってプロイセン家からスペイン王を出さないよう保証を迫った。

温泉地で療養中であったプロイセン王は、とりあえず検討するからと言って、大使を返させた。



しかし、このいきさつを聞いたビスマルクは、すぐさまナポレオン3世あてに電報を打つ。

「フランス大使はプロイセンを脅迫しようとし、王はこれに激怒して追い返した」
という内容だった。

ビスマルクは、ナポレオン3世を怒らせ、戦争にまきこむために、わざと偽りの電報を
送ってよこしたのだ。

ナポレオン3世は、その電報の内容をまんまと信じ、プロイセンに対し宣戦布告し、
普仏戦争(Franco-Prussian War)が勃発した。

この戦争は半年間続き、最終的にプロイセン軍は、フランスの首都パリを占領し、
参戦したドイツ連合軍とともに勝利する。

ナポレオン3世は捕虜にされ、フランスの帝政は崩壊した。

ビスマルクにとって、人生最大の戦争が、この普仏戦争だったと言われている。

1871年、プロイセン占領下のベルサイユ宮殿で、ヴィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝となる
儀式をあげ、ここにドイツの統一は完成し、ドイツ帝国(German Empire)が成立した。



普仏戦争

1870~1871年、ドイツの統一をめざすプロイセンと、隣国に強大な統一国家の出現を恐れる
フランスとの間に行われた戦争。

フランス側にとっては、ナポレオン3世の対外膨張策がメキシコ遠征の失敗以来破綻をきたしており、
その威信回復のためにも戦争を必要とした。

一方、プロイセン側にとっては、普墺戦争の勝利でドイツ統一の実現に大きく前進したが、
それを嫌うフランスの領土干渉に対し、これを排除する必要があった。

この戦争はプロイセンが勝利し、1871年、敗戦国フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式
が行われ「ドイツ帝国」(German Empire 1871~1918年)が誕生した。(Franco-Prussian War) 

ドイツ帝国

1871年にドイツの22君主国と3自由市の統一により成立した連邦国家。
プロイセン王が皇帝を、プロイセン首相が宰相を兼ねた。

1918年、ドイツ革命により崩壊。
神聖ローマ帝国に次ぐ帝国として、ドイツ第2帝国ともいう。(German Empire) 




その後ドイツは皇帝ウィルヘルム2世(Wilhelm II)のもとで帝国主義政策に乗出して、
イギリス、フランスなど先進植民地国家の敵対を招き、第一次世界大戦(1914~1918年)で
屈辱的な講和を強いられた。

1918年のドイツ革命(German Revolution)によって帝政が崩壊すると、
プロイセンはドイツ国(German Reich)を構成する「プロイセン自由州」(Free State of Prussia)となった。


1919年のヴェルサイユ条約によって西プロイセン地方が新生ポーランド共和国に割譲されると、東プロイセン地方は「飛び地」として孤立した。
この状態を解消しようと、1939年にナチス・ドイツはポーランドに宣戦し、第二次世界大戦を引き起こす。



一時はドイツが全プロイセン地方を統治下に置いたが、1945年の敗戦によって状況は一変した。
ドイツ系の住民はプロイセン地方から逃亡し、あるいは追放され、東プロイセンの北部はソヴィエト連邦に、それ以外のプロイセン地方はポーランドに併合された。

これによってドイツの一部としてのプロイセンは消滅する。
第二次世界大戦後、アメリカ、ソ連の冷戦が激化するなかで、1949年、ドイツは東西に分裂したが、1990年 10月、41年ぶりに統合された。


375年 フン族の東進、ゲルマン民族の大移動開始
486年 クロービス、フランク王国を建国。(メロヴィング朝)
751年 小ピピン即位。カロリング朝成立
768年 カール大帝即位
800年 カール大帝、ローマで戴冠
843年 ヴェルダン条約、フランク王国3分割。(仏・伊・独の基)
870年 メルセン条約、ロートリンゲンの東半分が東フランク王国領となる
911年 東フランク王国でカロリング王朝断絶
962年 オットー1世、ローマ皇帝として戴冠。(神聖ローマ帝国成立 -1806)
1077年 カノッサの屈辱。(皇帝の教皇への屈伏)
1096年 十字軍運動が開始
1199年 ドイツ騎士団がエルサレムで設立
1226年  ドイツ騎士団領(1226-1525年)の成立 
1410年 タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団敗北
1525年  プロイセン公国(1525-1618年)の成立 
1618年 ブランデンブルク・プロイセン公国(1618-1701年)の成立
1660年 ブランデンブルク・プロイセン公国、リトアニア・ポーランド王国から独立
1701年 プロイセン王国(1701-1871年)の成立。フリードリヒ1世が神聖ローマ皇帝から王の称号を承認される
1740-1748年 オーストリア継承戦争
1756-1763年 七年戦争。シュレジエン地方を獲得
1772年 第1次ポーランド分割。(プロイセン・オーストリア・ロシア)
1793年  第2次ポーランド分割。(プロイセン・ロシア)  
1795年  第3次分割。 (プロイセン・オーストリア・ロシア) リトアニア・ポーランド王国は消滅
1813年 ライプツィヒの戦い
プロイセン・ロシア・オーストリア・イギリス・スウェーデンの連合軍がナポレオンのフランス軍を破る
1814年 ウィーン条約。プロイセン王国はドイツ西部のライン地方(ラインラント)を獲得
1815年  ドイツ連邦の成立(1815-1866年) オーストリア帝国を盟主として発足
1862年 ビスマルクがプロイセン王国首相に就任
1866年 プロイセン・オーストリア(普墺)戦争。
1867年  北ドイツ連邦の成立(1867~1871) ドイツ連邦解体、プロイセンの覇権確立
1871年 ドイツ帝国(1871-1918年)成立
1914年 第一次世界大戦。ドイツ、対ロシア・対フランス宣戦
1917年 無制限潜水艦(Uボート)作戦宣言。アメリカの対ドイツ宣戦
1918年 ドイツ革命。ヴィルヘルム2世退位・亡命、ドイツ帝国崩壊
1918年 ドイツ降伏、第一次世界大戦終結。
1919年 ドイツ、アルザス・ロレーヌをフランスに返還。多額の賠償金を負う
1919年 ドイツ共和国(ワイマール)憲法制定。議会制民主主義共和国(ワイマール共和国 1919-1933年)成立
1939年 ナチス・ドイツ、プラハ占領。独ソ不可侵条約調印。ポーランド侵攻開始
1939年 イギリス、フランス、対ドイツ宣戦。(第二次世界大戦始まる -1945)
1945年 ドイツ無条件降伏。ドイツ東西に分裂。ドイツ連邦共和国(西ドイツ 1949-1990年)、ドイツ民主共和国(東ドイツ 1949-1990年)成立
1990年 東西ドイツ統一。ドイツ連邦共和国成立






ホーエンツォレルン城 (Hohenzollern Castle)

小高い山の頂に威風堂々とそびえ立つホーエンツォレルン城。

「天空の城」の異名をもつ南ドイツ屈指の名城と称えられる。

霧の日は、城だけが姿を現し、その幻想的な光景は、見る者を魅了する。

城の創建は11世紀。
ドイツ皇帝を輩出した名門ホーエンツォレルン家の居城として築城された。

だが1423年、内戦で包囲された後に占領され、完全に破壊されてしまった。
その後、約30年かけて再建され、三十年戦争の際には要塞として機能した。

だが戦争終結後は、城の重要性が薄れ、徐々に廃墟と化していった。
現在の城が建設されたのは1867年、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の時代。

ネオ・ゴシック様式の城として、新たに建て直させたものである。
ドイツ最後の皇帝、ヴィルヘルム2世の直系の子孫がそのまま所有している。


現在は、年間30万人の集客を誇る、人気の観光スポットとなっている。
場内では、王家に縁のあるコレクションを見学することができる。

宝物館では、貴重な国王の王冠や、フリードリヒ大王の服などが展示されている。

ホーエンツォレルン城は、観光街道のひとつ、ファンタスティック街道沿いにある。
見どころのひとつ、シュヴァルツヴァルトは、ドイツ語で「黒い森」を意味する。

密集して生えるトウヒの木により、森が黒く見えることから名付けられた。
史跡や自然を交互に楽しめるのも、この街道の魅力である。


城へのアクセスは、テュービンゲン中央駅(Tubingen)から、ヘッヒンゲン駅(Hechingen)まで列車で1時間半。
ヘッヒンゲン駅から城まで車で20分。

(Hohenzollern Castle, 72379 Burg Hohenzollern, Germany)