国名 ギリシア共和国                          
英語 Hellenic Republic  
首都 アテネ  
独立年 -  
主要言語 現代ギリシア語  
面積 (千Km2) 132  
人口 (百万人) 10.8  
通貨単位 ユーロ  
宗教 ギリシャ正教  
主要産業 観光業、海運業、鉱工業、農林水産業  
     
     
サントリーニ島 (Santorini Islands)

キクラデス諸島のほぼ南端に位置する火山島。アテネから飛行機で約40分ほど。
海に沈んだ アトランティス大陸 の残りだともいわれている不思議な島。

実際にここは、紀元前1500年前に火山の爆発で島の大半が沈んでしまい、その時山だった所だけがかろうじて残っている。
島の片側は断崖で、その上にフィラの町(Fira)をはじめとする白い家並の町が展開している。

黒い岩の断崖上に並ぶ真っ白い家並みが美しく、蒼いドーム屋根の教会が印象的である。
   



地理

地中海東部に突出するバルカン半島の南部を中心に、クレタ島をはじめとするエーゲ海諸島、およびイオニア諸島からなり、
北はアルバニア、北マケドニア、ブルガリア、東はトルコと国境を接する。

地形は全体に山がちで、国土の約 4分の3を山地が占め、バルカン半島部の西寄りを北北西から南南東方向に連なるピンドス山脈が脊梁山脈をなす。
最高点はオリンポス山の 2917m。

ストルマ川、ヴァルダル川、ピニオス川などの流域に比較的広い平野がある。
基本的には温帯冬雨気候(地中海式気候)に属し、夏は乾燥し、雨はおもに冬に降るが、複雑な地形の影響で地域差が大きい。


住民の 90%以上はギリシア人で、ほかにマケドニア人、トルコ人、アルバニア人、ロムなどが住む。ギリシア語が公用語。

主要作物はコムギ、オオムギ、トウモロコシ、タバコ、テンサイ、トマト、各種果樹。
牧畜はヒツジ、ヤギの飼育が中心。

鉱業生産の半分以上は褐炭により、ほかに鉄鉱、マグネシウム鉱、亜鉛などの採掘が盛んで、近年ボーキサイト、石油、天然ガス生産が増加。
工業は零細企業が中心で、他の EU諸国より経済発展が遅れていたが、近年急速に発展、国内総生産に占める割合では 1970年に農林漁業をこえた。

主要工業は食品、繊維、化学、鉄鋼、アルミニウム、造船、石油精製などであるが、アテネ、テッサロニケ両地区に集中して立地するため、
政府は他地域の工業化を推進中。貿易収支は慢性的入超で、輸出総額は輸入の約 40%。


交通・宿泊施設の拡充に伴って 1970年代半ば以降に観光業が急成長、1990年の観光収入は約 26億ドルに達し、輸出総額の 46%になった。
また、世界的海運国として、海運業も重要な産業となっている。
   






歴史

BC2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のイオニア人(Ionian)、アカイア人(Achaioi)がバルカン半島を南下。

イオニア人は、テッサリアからアナトリア半島(小アジア)、
アカイア人は、ギリシア中部からペロポネソス半島北部に集落をつくり定住した。

彼らは主として農耕・牧畜を生活手段とし、専制君主である王を頂点に、
貴族・戦士・農民・奴隷による階層社会を形成していた。

また各地に城塞や神殿を備えた都市を形成し、石造建築や表音文字など高度な文明を築いていた。

彼らの文明はミケーネ文明(Mycenaean civilization)と呼ばれ、BC1600年から約400年間最盛期を続けた。


BC1194年、トロイ戦争(Trojan War ~BC1183)が勃発、彼らは総力をあげて小アジアに遠征しトロイを滅ぼした。
この戦争はエーゲ海と黒海を結ぶ交易路をめぐる争いであったと推定されている。


BC1100年、好戦的なドーリア人(Dorians)がペロポネソス半島南部に侵入。
各地の王宮や城塞は破壊され炎上し、諸都市は次々と滅んでいき、ミケーネ文明は消滅した。

(ドーリア人の原住地は小アジアとされているが、一説には、異民族(海の民)に追われて移動してきた
ヒッタイト(Hittite)の末裔ではないかと考えられている)






BC800年、ギリシア全土にようやく復興の兆しが訪れ、社会生活や宗教などが整えられていった。

この頃、アテネ、ミケーネ、スパルタなど各地でポリス(都市国家)が形成され、
それぞれの都市国家のなかで、政治や文化が自由に発達していく。

BC600年頃には、各都市国家が海外貿易の拠点となる新たな土地を求めて国外への植民が始まり、
地中海沿岸や、エーゲ海全域へと経済圏を拡大していった。



BC500年、小アジア東岸にあるイオニア植民市がペルシア帝国に反乱を起こした際、
ギリシアのいくつかの都市が植民市に肩入れしたことをきっかけにペルシア戦争が始まる。

BC490年、ギリシア軍は、マラトンの戦いでペルシア軍に勝利する。

その9年後、ペルシアのクセルクセス大王自身が軍を率いてギリシアに攻め寄せた。

ギリシア軍は、BC480年のサラミスの海戦と、BC479年のプラタイアの戦いで勝利を挙げ、ペルシア軍を撃退した。
その後は、ペルシアとの戦いで、指導的な役割を果たしたアテネとスパルタがギリシアの覇権を奪い合うことになる。

BC478年、アテネを中心にデロス同盟を結んで戦争にそなえる仕組みをつくる
BC443-BC429年、ペリクレスがアテネの将軍になって民主政治を指導する(ペリクレス時代)このころ、アテネがもっとも栄える。

BC431-BC404年、アテネとスパルタが戦争をする(ペロポネソス戦争)
アテネの成長に危機感を強めたスパルタは、その同盟都市とともに、アテネに戦いを挑む。

結局、スパルタが勝利するが、その覇権は長続きせず、BC371年にはレウクトラの戦いで、BC362年にはマンティネイアの戦いでテバイに敗れる。

テバイの支援を受けたスパルタの奴隷ヘロータイは、メッセニアにメッセーネ市を創設、
また、アルカディアの都市はメガロポリスという新都市を首都として反スパルタ同盟を結成する。

このあと、アテネやスパルタ、テバイなどの都市がリーダーとして覇権を握りながら、多くの都市が争い続ける。



BC359年、ギリシアの北部にあるマケドニア王国がフィリッポス2世王の支配の下、勢力を伸ばし始める。

脅威を感じたギリシア諸都市はマケドニアに戦いを挑むが、BC338年、カイロネイアの戦いで敗北し、
その勢力下に入る。
BC336年、フィリッポスが、アイガイの劇場で暗殺されると、息子アレクサンドロスがその跡を継ぐ。

BC334-BC323年、マケドニアのアレクサンドロス大王が、ギリシア連合軍を率いて東方遠征を行い、
アケメネス朝ペルシアを征服。
ギリシアからメソポタミア、エジプトなど広大な範囲をギリシア系の王朝が治めるヘレニズム時代を迎える。

BC323年、アレクサンドロス大王が病死すると、大王の領土は、セレウコス朝シリア、
アンティゴノス朝マケドニア、プトレマイオス朝エジプトに分裂する。

BC215-197年、2回にわたってローマと戦争をする。



BC146年、ギリシアとマケドニアはローマに支配されるようになる。
BC146年、ローマがマケドニアを属州としたのを皮切りに、ギリシアはローマの一部と化した。

BC31年、アクティウムの海戦でプトレマイオス朝エジプトがローマに破れると地中海はローマの所領と化し、
ギリシアもその中に組み込まれることとなった。

BC27年、ローマ皇帝アウグストゥスは、これまでマケドニアの総督管理下に置かれていたギリシアをアカイア属州として分ける。
アカイア属州は、中部ギリシア、ペロポネソス半島そして周辺の島を含み、首都はアテネではなく、コリントスであった。

また、アウグストゥスは、ローマ軍の退役兵にギリシアの土地を与えた。
パトラス、コリント、フィリッピの周辺がその中心で、彼らはローマ文化ををギリシアに持ち込んだ。




395年、ローマ帝国は東西に分裂し、ギリシアは東ローマ帝国の勢力範囲に収まった。

ギリシア正教が国教と定められたことにより、東ローマ帝国は急速にギリシア化をはじめ、7世紀には帝国の公用語はギリシア語となった。
東ローマ帝国の公用語がギリシア語になって以来、事実上、東ローマ帝国はギリシア人の国家となった。



1453年、オスマン帝国の侵入により、首都コンスタンティノープルは陥落。

東ローマ帝国は止めを刺され、ギリシアは、オスマン帝国の勢力範囲に取り込まれた。
オスマン帝国の支配により、ギリシア人は、厳しい抑圧と搾取を受けた。


オスマン支配は、1821年に始まる独立戦争まで約400年に及んだ。

1700年までにギリシア人の人口が4分の1も減少した事実は、いかにオスマン帝国の圧政が強かったかを示している。

ギリシア人は、土地を持たない小作農民か奴隷の身分でしかなく、ギリシア語での教育は禁止された。
ギリシア人たちは教会の地下に秘密学校を開き、民族的地位を確保し続けた。


そんな中、ナポレオンは、エジプト遠征(1798~1801)の時、エジプト人たちにナショナリズム精神
(国民意識・民族意識)を高揚させ、オスマンからの解放・独立の気運を高めた。

やがてギリシア人の中にも民族意識が高まり、1814年、ギリシア商人アレクサンドロス・イプシランディスが、
オスマン帝国から独立するための秘密結社フィリキ・エテリア(Filiki Eteria)を結成した。



フィリキ・エテリアはロシアの黒海沿岸都市オデッサ(Odessa)で結成されたが、創設したイプシランディスは、
かつてロシア軍に従軍し、その時のロシア帝国皇帝アレクサンドル1世(在位1801~1825)の副官を務めたこともあった。

彼はまた、ロシア皇帝の専制と反動化に反発した革命団体デカブリスト(十二月党)とも交流して、自由主義精神をも持ち始めていたのである。

フィリキ・エテリアの会員数が1000人を越えた1820年、イプシランディスは同社の総司令官に就任し、武力蜂起の計画が練られた。

そして、翌1821年3月、フィリキ・エテリアは蜂起し、オスマン帝国の宗主権下にあるモルダヴィア公国(現在のモルドバ共和国)
及びワラキア公国(現在のルーマニア)へ進軍した。これが、ギリシア独立戦争(1821~1829)である。



だがイプシランディスの軍は期待していたロシア軍による援助もなく、オスマン軍によって半年も経たずに壊滅、
イプシランディスはオーストリアに亡命したがそこで捕まり獄死した。

しかしギリシア軍の蜂起は、新しい司令官のもとで、その後も継続され、1822年1月、独立を宣言した。
これに対してオスマン軍は、1822年4月、キオス島(小アジア西岸)に上陸して、ギリシア人の徹底的な虐殺をおこなった(キオス島虐殺事件)。

この出来事は、ロマン派画家ドラクロワ(Eugene Delacroix)の絵画「シオの虐殺」によって一般に広まり、独立の支持が高まった。
西欧諸国においても文明の故郷ギリシアを守る意味で独立を援助し、各国から民間人の構成による義勇軍が集められた。

キオス島虐殺事件を機にロシアも立ち上がり、イギリス・フランスと独立支援を続け、イギリス外相カニング(George Canning 1770~1827)
の仲介によって、1826年、独立支援同盟を結成。




翌1827年10月、3国の連合艦隊が、ナヴァリノ沖(ペロポネソス半島南西岸)で、オスマン艦隊を撃破し、
ギリシアの独立を確実なものとした(ナヴァリノの海戦 Battle of Navarino)。

オスマン帝国はオーストリアのメッテルニヒ(Metternich 1773~1859)に支援を求めたが、当時のメッテルニヒは、
オーストリア国内の反体制運動(自由主義運動)への対応に忙殺されていたため、支援を得られなかった。

1829年、ロシアとオスマン帝国との間でアドリアノープル条約(Treaty of Adrianople)が締結され、ロシアはオスマン帝国にドナウ川沿岸と
黒海北岸の割譲を強制、またオスマン領のボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由航行権を獲得するとともに、ギリシアの独立をオスマン帝国に承認させた。

1832年、イギリス、フランス、ロシアとオスマン帝国との間でコンスタンティノープル条約(Treaty of Constantinople)が締結され、ギリシアの独立が正式に承認された。
1832年、ギリシアの国境が画定され、ギリシア王国として独立を果たした。




イギリス、フランス、ロシア3国の支援により、ギリシアは自国のギリシア正教徒を保護しつつ、独立を達成する形となった。

だが3国の真の目的は、ナショナリズムを高揚させ、ギリシア民族運動を活発化させることにより、オスマン帝国を弱体化させ、
その間に地中海東部への進出を目指してオスマン領の権益を手に入れることであった。

特にオスマンの隣国ロシアにとっては、ギリシア保護はオスマン領土を奪取するための格好の口実であった。
事実、これ以降は、オスマン領土の獲得合戦となり、当時の国際現状を総称して東方問題(Eastern Question)と呼ばれたのである。



独立後のギリシアでは、フランスのクーベルタンらによって、1896年に国際オリンピック大会の第1回が、アテネで開催されている。

しかしギリシアの国内の政情は安定せず、国外では1912年に、バルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦して第一次バルカン戦争を起こし、
その後1913年に、ブルガリアに対して第二次バルカン戦争を行って勝利した。

1913年8月のブカレスト講和条約 (Treaty of Bucharest)により、ギリシアはマケドニアとクレタ島を獲得した。


1914年に第一次世界大戦が勃発し、1918年10月にオスマン帝国が降伏すると、これに乗じて、1919年にギリシアは小アジアのスミルナ(Smyrna)を占領した。
しかし、1922年、オスマン帝国にかわってアンカラに新政府をつくったケマル・パシャ(Kemal Pasha トルコ共和国初代大統領)に撃退された。


その結果、小アジアに古代から居住していたギリシア人約150万人は難民となった。

その後、1923年に締結されたローザンヌ条約(Treaty of Lausanne)により、スミルナ、東トラキアはトルコの領土となり、
トルコ領土に住んでいたギリシア人とギリシア国内に住んでいたトルコ人の強制交換が行われた。


1924年、国民投票により王政廃止、共和政となった。

第二次世界大戦では、隣国アルバニアを併合したイタリアがギリシアに侵攻。
さらにドイツやブルガリアが侵攻して、1945年までドイツ・イタリア・ブルガリア3国による分割占領状態に置かれた。戦後になって、ようやく解放された。


1946年には、強行された総選挙によって王政が復活した。アメリカの共産主義封じ込め政策の始まりとなる、1947年のトルーマン・ドクトリン
(Truman Doctrine)では、トルコとともに経済援助を受け、共産党を非合法化した。

1952年には、北大西洋条約機構(NATO)に参加して、冷戦ではアメリカ側、西側陣営の最前線となった。
しかし、1967年に軍事クーデターが発生すると、国王はローマに脱出した。

1974年に正式に王政は廃止され、共和政が成立した。(ギリシア共和国の成立)

1981年、欧州共同体(EC)に加盟。
2004年には、第1回から108年ぶりにアテネでオリンピックが開催された。


しかし、2010年には、巨額の財政赤字隠しが発覚し、ユーロ圏全体や世界中を巻き込む金融危機である、欧州ソブリン危機
(European debt crisis 世界的金融危機)を引き起こしている。



BC2000年  イオニア人、アカイア人がギリシア本土に移住
BC1600年  ミケーネ文明が発展期を迎える 
BC1100年  ドーリア人の侵入でミケーネ文明が滅亡する。 
BC800年  ポリスが各地で成立
BC776年  第1回オリンピア競技 (古代オリンピック)が開催 
BC500年  ペルシア戦争はじまる 
BC490年  マラトンの戦いでペルシア軍に勝利 
BC443-429年  ペリクレスが民主政治を指導 (ペリクレス時代) 
BC431-404年  アテネとスパルタが戦争 (ペロポネソス戦争) 
BC338年  ギリシアはマケドニアの支配下にいる 
BC334-324年  マケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征 
BC146年  ギリシアとマケドニアがローマの支配下にいる 
395年  ローマ帝国は東西に分裂 
  ギリシアは東ローマ帝国の勢力範囲にいる 
1453年  オスマン帝国の侵入により、コンスタンティノープル陥落 
  ギリシアは、オスマン帝国の勢力範囲に取り込まれる 
1821年 オスマン帝国からの独立戦争
1832年 コンスタンティノープル条約によりギリシアの独立が承認され、ギリシア王国が成立    
1912年-1913年 第一次・第二次バルカン戦争
1914年 第一次世界大戦
1924年  国民投票により王政廃止、共和政へギリシア共和国成立 
1940年 第二次世界大戦
1941年 ドイツ・イタリア・ブルガリア3国により分割占領
1946年 総選挙で王党派が圧勝し、王政復古。ギリシア王国
1952年 NATO加盟
1967年 クーデターにより軍事政権へ
1974年 国民投票により王政廃止、共和政へ。ギリシア共和国
1981年 EC (ヨーロッパ共同体、現EU) 加盟
2004年 アテネ・オリンピック開催
2010年 欧州ソブリン危機







メテオラ修道院 (Meteora)


高さ500mの断崖絶壁に建っているのは、ギリシア正教の修道院。

15世紀後半、ギリシアにオスマン帝国の勢力が及ぶと、修道士たちは、
戦火を避けるため、岩山の上に修道院を建てて住むようになった。

こんな断崖絶壁の上に建物を建てて不便ではないの、と心配してしまうが
迫害から逃れるためには、仕方ないことだったのだ。

建築資材をもって頂上にたどり着くのは非常に危険で、修道院の
完成まで約30年かかったとされている。

修道院は拝観可能だが、ひたすら岩の急階段を登らなければならない。
頂上に達するまでかなりハードな行程である。

(テッサリア、トリカラ県カランバカ Meteora, Kalambaka Thessaly Trikala)