国名 | ハンガリー | ![]() |
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英語 | Hungary | |||
首都 | ブダペスト(Budapest) | |||
独立年 | ||||
主要言語 | ハンガリー語 | |||
面積 | 9万3030km2 | |||
人口 | 985万0845人(2017年推計) | |||
通貨単位 | フォリント | |||
宗教 | カトリック約39%、カルヴァン派約12% | |||
主要産業 | 機械工業、化学・製薬、農業、畜産業 | |||
ゲッレールト温泉 (Gellert Baths) ハンガリーのブダペストを代表する温泉施設のひとつ。 ゲッレールト丘から湧き出る熱水を利用した浴場は、モザイク・タイルで美しく装飾されている。 お湯は約38℃と低めなので、チェスをしながら長時間入浴する人も。 施設にはサウナ風呂や屋外スイミング・プール、各種のマッサージ・サービスや、療養サービスも用意されている。 |
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地理
国土のほぼ中央をドナウ川が南流、東側は低平なハンガリー大平原で、
その中央をティサ川がドナウ川と平行して流れ、南部に肥沃な穀物地帯をつくる。
北部はミシュコルツを中心とした鉱工業地帯。
西部には中欧最大のバラトン湖がある。面積593km2、平均水深3m。
湖には魚類が豊富で、湖岸にはブドウ園が多い。
気候は寒暖の差の大きい大陸性気候で、国内の年平均気温は7~12℃、
年較差は約 25℃とかなり大きい。
農業中心国で、国土の約6割を耕地が占め、コムギ、トウモロコシ、ジャガイモ、ブドウ、
テンサイ、果実などを産する。
第ニ次世界大戦後は畜産品、ワイン、果実などを除いて農産物の輸出は減少、
自動車、鉄道車両など工業製品の輸出が増加している。
歴史
ハンガリーの首都ブダペストは、オーストリアの首都ウィーンを横切って東西に流れていたドナウ川が、
その流れを南北に変えるドナウベント(ドナウの曲がり道という意味)の南にある町である。
もともとドナウ川をはさんで西のブダと東のペストが合併してできた都市のため、
今でも市内の中央部を川が流れている。
このブダペストのあるハンガリー盆地は、かつてパンノニア(Pannonia)と呼ばれた。
ケルト人が多く住んだこの地域は、BC9年、ローマに支配されて属州となった後、
5世紀にフン人のアッティラがここに大帝国を建国している。
しかし、アッティラの死とともに帝国は崩壊し、東ローマ帝国がパンノニアを支配した。
6世紀、カフカス山脈の遊牧民族アヴァール人 (Avars) が侵入してくるが、
フランク王国のカール大帝に撃退された。
フランク王国が分裂して影響が弱まると、900年頃、再びマジャール人(Magyar)がウラル山脈から西進してくる。
マジャール人はイタリアやドイツにも侵攻したが、
後の神聖ローマ皇帝となるオットー1世に、955年にレヒフェルトの戦いで敗れた。
敗れたマジャール人は1000年、ハンガリー王国を建国し、
初代王イシュトパーン1世(Stephen I)がキリスト教に改宗する。
ハンガリー王国は大きくその領土を広げて発展するものの、
13世紀にはモンゴルによって大きな被害を受けた。
14世紀のラヨシュ1世(Louis I 在位:1342-1382)によって産業が振興され、
15世紀のマーチャーシュ1世(Matthias I 在位:1458-1490)
のときに再びハンガリーは繁栄を取り戻している。
しかし、1526年のモハ一チの戦い(Battle of Mohacs)で、ラヨシュ2世がオスマン帝国の
スルタン、スレイマン1世に大敗して死亡すると、
ハンガリーはハブスブルク領とオスマン帝国領に分割されることになる。
オスマン帝国が1683年の第2次ウィーン包囲に失敗すると、1699年の力ルロヴィッツ条約で
ハンガリーの主要地域はオーストリアに割譲され、
ハンガリーの支配者はオーストリア、ハブスプルク家になる。
1848年にフランスで2月革命が起こると、オーストリアではウィーン3月革命が起こった。
そしてオーストリア国内ではハンガリー(マジャール人)民族運動が高まって、
コシュートのもとにマジャール人は独立政府をつくり、憲法も制定している。
さらに、1849年4月にハンガリーではコシュートによって独立宣言が出されたが、
オーストリアがロシアに協力を求め、この独立運動は鎮圧されている。
しかし、ドイツ統一をめぐる争いでオーストリアが1866年の普墺戦争に敗れると、
オーストリアはマジャール人と妥協して、ハンガリー王国の独立と議会の成立を認めた。
オーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねる同君連合の形をとり、
1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立している。
第一次世界大戦が勃発すると、オーストリア・ハンガリー帝国は同盟国側で参戦した。
しかし、1918年11月にオーストリアは降伏して、連合国と休戦条約を結んだ。
1918年にハンガリーはオーストリアから分離・独立してハンガリー人民共和国となった。
ところが1918年にクン・ベラによるハンガリー革命が起きて、一時的にハンガリーには
ソビエト政権が成立している。
この政権は、ハンガリーから獲得した領土の確保と革命の波及を恐れたルーマニアやホルティが率いた
ハンガリー国民軍よって打倒されている。
1919年の連合国とのサン・ジェルマン条約ではオーストリア・ハンガリー帝国の解体が進められた。
そして、その後の1920年のトリアノン条約によって、ハンガリーはオーストリアからの
独立が正式に承認されている。
この後のハンガリーでは、ホルティが独裁政権をにぎってドイツに接近し、
第ニ次世界大戦では枢軸国の一員となっている。
ドイツとともに敗戦を迎えたハンガリーはソ連に占領されて、戦後は共産化が進んだ。
1946年にはハンガリー共和国(第二共和国)となった。
1947年には敗戦国としてパリ講和条約を結び、正式に王政を廃止した。
また、コミンフォルム(共産党情報局)やコメコン(東欧経済相互援助会議、COMECON)に参加し、ワルシャワ条約機構にも加盟して、
衛星国として社会主義陣営の一角を担った。
しかし、1956年のスターリン批判に対して、10月にはハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件)が首都ブダペストで起こっている。
ナジ・イムレはワルシャワ条約機構からの脱退や反ソ体制を公言したため、ソ連軍の介入をまねいて、ナジは処刑され、カタル政権が成立している。
ソ連でゴルバチョフによるペレストロイカ(改革)が行われると、共産党独裁体制は揺らいでいき、1989年5月にはオーストリアとの国境に設けられていた
鉄条網を撤去して国境を開放し、11月のベルリンの壁崩壊へ続く東欧革命(東欧社会主義国の消滅)を促進している。
社会主義体制を終了させたハンガリーは再びハンガリー共和国(第三共和国)となり、1999年に北大西洋条約機構(NATO)に、2004年に欧州連合(EU)に加盟している。
5世紀 | アッティラの指導するフン人が、パンノニア(Pannonia)に帝国を建設。アッティラの死後、東ローマ帝国がパンノニアを支配 |
900年 | ウラル山脈から西進してきたマジャール人が定住 |
1000年 | マジャール人がハンガリー王国 (1000-1918年) を建設 |
1526年 | モハ一チの戦い。オスマン帝国領 |
1699年 | 力ルロヴィッツ条約。オーストリア領 |
1866年 | プロイセン-オーストリア(普墺)戦争 |
1867年 | オーストリア・ハンガリー帝国成立(1867-1918年) |
1914年 | 第一次世界大戦。同盟国側で参戦 |
1918年 | オーストリアから独立、ハンガリー人民共和国成立(第一共和国)(1918-1919年) |
1919年 | サンジェルマン条約調印(オーストリア・ハンガリー帝国解体) |
1920年 | ハンガリー王国成立(王政復古)(1920- 1945年) |
1920年 | トリアノン講和条約調印(ハンガリーの領土分割) |
1939年 | 第ニ次世界大戦。枢軸国として参戦 |
1946年 | ハンガリー共和国成立(第二共和国)(1946 - 1989年) |
1947年 | パリ講和条約 |
1989年 | ハンガリー共和国成立(第三共和国)(1989年 - 現在) |
ドナウ鎖橋(Chain Bridge)
首都ブダペストは「ドナウの真珠」と呼ばれる水の都である。
都市の中央をドナウ川が流れ、西側に王宮を擁するブダ(Buda)、
東側に商業都市ペスト(Pest)が広がる。
その東西の性格の異なる都市が一つになってブダペストが生まれた。
ドナウ鎖橋が実現する以前、ブダとペストの間の横断は、
並べた舟の上に板を敷いて渡る「浮き橋」で結ばれていた。
だが冬場になると押し寄せる流氷を避けるために解体されてしまう。
人々が川を横断するには、流氷を避けて向こう岸に届けてくれる
渡し守に頼らなければならなかった。
それを変えたのが、流氷で橋脚が押し流されないよう工夫された鎖橋である。
1849年、鎖橋がついに完成。以降ハンガリーの首都を彩るシンボルとなった。
1987年、鎖橋とドナウ河畔地区は、ユネスコの世界遺産に登録された。
ちなみに世界遺産に登録されている鉄橋はイギリスのアイアン・ブリッジと
鎖橋の2箇所しかない。