国名 イタリア共和国                     
英語 Italian Republic  
首都 ローマ  
独立年 -  
主要言語 イタリア語  
面積 (千Km2) 301  
人口 (百万人) 60.8  
通貨単位 ユーロ  
宗教 キリスト教(カトリック)が国民の約80%
 
  その他、キリスト教(プロテスタント)   
  ユダヤ教、イスラム教、仏教  
主要産業 機械、繊維・衣料、自動車、鉄鋼
 
     
         
ボマルツォ怪物公園(Bomarzo Monster Park)

中部イタリア、ラツィオ州ヴィテルボ県ボマルツォにある庭園。35個の奇怪なオブジェが配置されていることで有名。

16世紀の貴族、オルシーニ家のピエール・フランチェスコ王子が最愛の妻を亡くし悲観にくれていた時、その苦痛から開放されるために作らせたと言われている。
空想の世界がそのまま立ち現れたような奇妙で幻想的な人工庭園は、我々をファンタジーな神話の世界へといざなってくれる。



地理

イタリアのアルプスには、モンブラン(4807m)やマッターホルン(4477m)など高峰がそびえる。

山麓には氷河作用でできたマジョーレやコモなどの湖があって風光美をつくっている。
アルプスとアペニン山脈の間にはこの国最大のポー平原が広がり、穀倉地帯をなしている。

半島部はアペニン山脈が走り、ティレニア海周辺には火山が多数分布して、地震が多い。

気候は各地とも夏は高温で著しく乾燥し、降水量の大半が冬に集中する地中海性気候である。
北部は大陸性で冬の気温がかなり低くなるのに対し、南部は冬も温暖である。

住民の大部分はラテン系のイタリア人で、イタリア語を話し、カトリックの信者。

政治制度は二院制の議会による議員内閣制で、元首は大統領。
政党は多党制が特色で、連立内閣の形をとる。

経済は、かつての農業中心から工業に比重を移し、北部には工業が集中している。
トリノ、ミラノ、ジェノバなどを中心に、化学、自動車、繊維などが主要工業。

これに対して、南部は農業地帯で、ナポリのほかに目立った工業地域は形成されていない。
種々の開発基金の設置にもかかわらず、北部との大きな格差が問題となっている。

水力発電と第二次世界大戦後発見されたポー川流域の天然ガス田が重要なエネルギー資源であるが、一般に資源には恵まれていない。









歴史

BC10世紀頃、北方から、ラテン人(Latini)が南下して、イタリア半島に定住した。

当時のイタリア半島には、先住民族エトルリア人(Etrusci)の文明が栄えていた。
彼らは、ギリシア人やフェニキア人と交易を行い、地中海貿易に従事する海洋民族だった。

エトルリア文字(後のラテン文字)など、ラテン人たちは、大いに文化的影響を受ける。



BC753年、ラテン人の王国として、ティベル河畔(Tiber)にローマ(Roma)が建国された。

初代国王ロムルス(Romulus)は、王の助言機関として「元老院」(Senate)を設立。
元老院議員の任期は終身で、多くの一族を抱える有力貴族によって構成された。

BC509年、ローマでは王政を廃止して、有力貴族の話し合いによる「共和政」が始まる。

元老院は、王に代わる最高権力者として執政官(Consul)を二名選出した。
二名にしたのは、独裁を防ぐと共に、たがいに行動を牽制させるためであった。

執政官は、行政と共に民兵を招集するなど軍事上の最高決定権を持っていた。
軍事力の中核を担ったのは、ローマ市民による重装歩兵部隊だった。

共和政ローマは、槍と盾で身を固めた強力な重装歩兵によって周辺のエトルリア
都市国家を征服し、BC272年、イタリア半島統一を成し遂げる。



イタリア半島統一後は、三次に渡るポエニ戦争(BC264~BC146)で宿敵カルタゴ(Carthage)の地を
属州化、ギリシア(BC146)、エジプト(BC30)をも得て地中海一帯を併呑つくした。

広がる属州を治めた元老院議員らは莫大な富を蓄え、属州からの奴隷労働力を背景に、
ラティフンディウム(Latifundium 大農場)を営んだ。

BC27年、オクタヴィアヌス(Octavius 在位BC27~14年)の帝位獲得により、共和政は潰え、表向きは
元老院など共和政を尊重する事実上の皇帝独裁(プリンキパトゥス Principatus 元首政)が始まった。

以後、最大版図を得る五賢帝時代(96~180)まで、帝政ローマはパクス・ロマーナ(Pax Romana)
を謳歌、同時期にはイエスと使徒らがキリスト教を布教、信徒を増やしていく。

一方で属州拡大が一段落し、奴隷補充が途絶えるとラティフンディウムは低迷。
中世の農奴に似たコロヌス(Colonus)を用いる小作制度が広がった。

五賢帝時代末期からは財政・経済が不振に陥り、軍人皇帝が乱立(235~284)したうえ、
北からゲルマン人、東からササン朝ペルシア(Sasanian Empire)の侵入を受けて軍事費が増加した。

その維持のため、重税を課された都市は疲弊し、帝国は分裂の危機に陥った。

ディオクレティアヌス帝(Diocletian 在位284~305年)は、四帝分治制をしいて分裂を回避、
さらに帝政は皇帝を神とする専制君主制(Dominatus ドミナトゥス)へと変質した。

次ぐコンスタンティヌス帝(Constantine I 在位306~337年)は、迫害にかかわらず勢力を拡大する
キリスト教を取り込まざるを得ず公認した。

だが軍と官僚を維持する重税は属州の反乱を招いたうえ、375年、ゲルマン侵入にローマ帝国は大きく動揺、
テオドシウス帝(Theodosius I 在位379~395年)はやむなく帝国を東西に分割した。




テオドシウスの二人の息子によってローマが分割統治されると、再び統一されることはなかった。

兄アルカディウス(Arcadius 在位395~408)が東ローマを、弟ホノリウス(Honorius 在位395~423)
が西ローマをそれぞれ治めることになった。

410年、西ローマ皇帝ホノリウスは、西ゴート族の侵入を受け、首都と宮廷を防衛しやすい
イタリア北東部のラヴェンナ(Ravenna)に置いた。

その後、旧都ローマは西ゴート族に略奪された。

ホノリウスにとって、800年に渡り外敵の侵入を許さなかった都が陥落した打撃は大きかった。
歴代皇帝の墓所は暴かれ、財物は全て持ち去られ、多くの住民は虐殺されるか奴隷とされた。

455年にはヴァンダル族によって再びローマは略奪され、残された多くの富が持ち去られた。

一方、西ローマの首都ラヴェンナも、ゲルマン人諸族の侵入が繰り返された。

476年、オドアケル(Odoacer)率いるゲルマン傭兵部隊によって、首都ラヴェンナは陥落。

時の皇帝ロムルス(Romulus 在位475~476)は、オドアケルに降伏し、西ローマ帝国は滅亡した。




ヨーロッパ史では通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって中世の始まりとする。
一方、東ローマ帝国はその後、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまで、1000年近く存続した。

西ローマ帝国最後の皇帝となったロムルス帝は、奇しくもその名がローマ建国の初代王ロムルスと
同じであり、ロムルスに始まりロムルスに終わるという、何とも皮肉な名前となった。

退位した後のロムルス帝の消息については不明であり、死んだ日すら、歴史に残っていない。
それほど当時の西ローマ帝国は弱体化、有名無実化していたのである。



西ローマ帝国を滅亡に追い込んだオドアケルは、ラヴェンナを首都としでオドアケル王国を建国、
イタリア全土を統治したが、493年、東ゴート族のテオドリック(Theodoric)によって滅ぼされた。

しかし、その東ゴート王国も、553年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世に滅ぼされてしまった。

ユスティニアヌスは、534年に北アフリカと地中海(サルデーニャ、コルシカ島)を支配していた
ヴァンダル王国(Vandal Kingdom)を滅ぼしており、これをもって地中海を再統一した。

しかし彼の死後、東ローマ帝国の勢力が弱くなると、568年、ロンバルト族がイタリア半島北部に
ロンバルト王国(Lombards Kingdom)を建国する。






481年、フランク族のクロービス(Clovis 在位481~511)が北ガリアにフランク王国を建国した。

当時のフランク王国は、少数のフランク人に対して、多数のローマ人を抱える国家であった。
ローマ人はカトリックを信奉していたが、フランク人は多神教だった。

宗教の違いは、しばしば民族対立のもととなる。

そう考えたクロービスは496年に、部下3000人とともにカトリックに改宗した。
これによりローマ人住民との関係は良好になり、ローマ教会との連携も強まった。


その後、クロービスは、534年にガリア東南部のブルグンド王国を滅ぼし、さらに西に進撃し
西ゴート族をイベリア半島に追いやり、ピレネー山脈までを支配下に収めた。


3代目のフランク王ピピン(Pepin Ⅲ 在位751~768)は、751年、ローマ法王の要請で
北イタリアのロンバルト王国からラヴェンナ地方を奪い、756年、法王に寄進した。

このラヴェンナの寄進が、法王領の始まりとなり、以後1100年に渡り、ローマ法王は
他の世俗の統治者と同じように、自らの領地をもつようになった。

こうしてローマ法王は、フランク王国と手を結ぶことで、経済基盤を手にするとともに
東ローマ帝国からの自立化を強めていった。




ピピンの子カール(Charlemagne 在位768~814)は、774年にロンバルト王国を滅ぼし、
北ドイツのサクソン人を力トリックに改宗させ、現在のフランス・ドイツのほとんどを支配した。

800年には法王レオ3世によって、サン・ピエトロ大聖堂でカールの戴冠が行われ、西ローマ帝国
の復活が宣言された。カールはカール大帝として、西ローマ帝国を受け継ぐ支配者となった。



だがカール大帝の死後、王国は領土分割をめぐって争いが起こり、870年に三分割された。
これにより、イタリア王国(中世)が成立。

領土争いにより王権が弱体化すると、異民族(マジャール人)に狙われることになった。
相次ぐマジャール人の襲撃で町や教会が略奪され、フランク王国内は混乱を極めた。


そんな中、東フランク王国では、936年にザクセン朝のオットー1世(Otto I)が国王に選出された。
955年、オットー1世は、東方から攻め込んできたマジャール人の撃退に成功する。


962年、法王ヨハネス12世がオットー1世に、古代ローマ帝国の継承者として戴冠した。
ここに神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire 962~1806年)が誕生した。



神聖ローマ皇帝は、イタリア王を兼ねることになり、962年以降、イタリア王国(北イタリア)は
神聖ローマ帝国内に組み込まれることになった。

だが歴代神聖ローマ皇帝は、戴冠のためにイタリアに遠征し、イタリア王に
即位すると、その後は、イタリア王国にはほとんど不在であった。

国王のいないイタリア王国には中央政府の権威がほとんど存在しないに等しかった。


南イタリアについては、812年、東ローマ皇帝とカール大帝が締結したアーヘンの和約
(Treaty of Aachen)で東ローマ帝国に帰属することになった。

かつて古代ローマ地中海世界の中心であったイタリアは、地中海が政治的に東ローマ世界と、
西ヨーロッパ世界に分裂した結果、2つの世界の境界が接する辺境の地になってしまった。



だが一貫して、中央の強力な支配が及ばなかったことが、結果的に自由な都市国家群
をつくりだすことになった。

11世紀初頭になると、イタリア中部や北部の都市、特にベネチア、ミラノ、フィレンツェ
などが、海運や商業によって繁栄するようになった。

その政治形態はコムーネ(Comune)と呼ばれた。これはイタリア語で自治都市を意味する。

これらの自治都市は、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した
自治権限をもつ都市共和国へと発展し、大きな政治勢力になっていった。



イタリアの北部都市群が、自治権や政治力を獲得していったのは、なによりも経済力を
つけていったことが、基礎にあった。

なかでも繁栄をきわめた共和国が、ベネチアとジェノバ、そしてフィレンツェだった。

ベネチア市民は、イタリア本土に土地をもつことを禁じられていたため、海に乗り出し、
商業帝国を建設するしかなかった。

その結果として、ベネチアは、ヨーロッパ初の交易都市となっていった。

ジェノバは、12世紀の十字軍時代にはその出港地となり、フランドル地方の毛織物を
中東やアジアに輸出し、ベネチアと繁栄を競った

フィレンツェ商人は、イングランドでユダヤ人に代わって国王の金融業者となった。

また後のルネサンスを支える富を生み出したのも、メディチ家(House of Medici)
をはじめとするフィレンツェ商人であった。



商魂たくましいベネチア共和国は、なんと東ローマ帝国を一時滅亡させている。

1202年の第4回十字軍は、イスラムの本拠地であったエジプトを攻略しようという
法王の呼びかけによって結成された。しかし、肝心の戦費が集まらない。

そこで、困った十字軍は、ベネチア商人らの商売敵のコンスタンティノープルを攻略してくれるのなら
喜んで資金を出すという誘いに乗り、1204年には、コンスタンティノープルを占領。


もともとは、東ローマ帝国の支援で始まった十字軍だった。
(聖地エルサレムは、東ローマ帝国領であったが、1071年以降はセルジュク・トルコが支配していた)

もはや、その首都であるコンスタンティノープルまで攻撃するという当初の目的から全くはずれた、
まさに 「脱線した十字軍」となりはててしまった。

その結果、東ローマ皇帝は、コンスタンティノープルを放棄し、周辺地域に亡命するはめになった。



つまり、十字軍というのは名ばかりで、略奪できれば同じキリスト教国でも襲うことを証明したのである。

この十字軍の失態は、ヨーロッパ世界にさまざまな影響を与えた。

とりわけ、十字軍の指導者であったローマ法王の威信が失われた。
これは後の「宗教改革」の原因のひとつとなった。


またその後復活を遂げた東ローマ帝国も、皇帝の権威は地に落ち、
帝国自体の力も大幅に削減され、斜陽化への道を歩むことになった。

一方で、ベネチア商人は、十字軍遠征に伴う輸送と補給、さらには商圏の拡大によって
巨万の富を獲得することに成功したのである。




一方、南イタリアでは、1130年、ノルマン人が南イタリア及びシチリア島を征服して、
ここにノルマン人の覇権が確立した。(シチリア王国の成立)

その後1194年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世(Henry VI)がピサとジェノバの支援をえて遠征、
南イタリアとシチリア島を奪回して、パレルモでシチリア国王に即位した。

ここにノルマン朝は終焉し、シチリア王国は神聖ローマ皇帝の支配下となった。


1266年、神聖ローマ皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ法王クレメンス4世は、
フランスに助けを求め、これに応じたフランス王ルイ9世は、南イタリアに軍勢を派遣。

南イタリアはフランス軍に占領され、ここにフランス支配下のシチリア王国が成立した。


1282年、フランスの支配に不満をもったシチリア住民の反乱が発生し、フランス軍は
シチリア島からの撤退を余儀なくされた。

この出来事は「シチリアの晩鐘(ばんしょう)」(Sicilian Vespers)と呼ばれ、
シチリア住民の女性に対するフランス軍の暴行に怒った住民が暴徒化した事件である。

たまたま、暴動が開始されたとき、晩鐘を告げる鐘が鳴り始めたのでこう呼ばれている。


その後、シチリア住民はローマ法王に、シチリアの自治を認める許可を請願したが
法王に拒否されてしまう。

やむなくイベリア半島のアラゴン王国の王に保護を求めて王位を提供した。
ここにシチリア島はアラゴン王国の支配下となった。

1442年、アラゴン王国がフランス領ナポリを占領し、ここにアラゴン王国支配下の
ナポリ王国が成立した。



ルネサンスは、フィレンツェからはじまった。

14世紀、フィレンツェでは、銀行家でもあったメディチ家の支援を受け、
芸術家たちが数々の傑作を生み出した。

ルネサンス期の芸術の誕生には、地中海貿易と金融業によって財を成した
フィレンツェ及びメディチ家の資金力が不可欠であった。

ルネサンスとは、復活を意味するフランス語である。

すなわちギリシアやローマなどの古典文化を復興しようとする文化運動であり、
14世紀にイタリアで始まり、その後西欧各国に広まった。

美術では、フィレンツェのフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)の「受胎告知」や
ボッティチェッリ(Botticelli)の「プリマヴェーラ」などがルネサンス初期の作品である。


その後「モナリザ」「最後の晩餐」のレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)、
「最後の審判」のミケランジェロ(Michelangelo)、「聖母子像」のラファエロ
(Raffaello)などが活躍し美術の黄金時代を迎えた。

科学技術の分野では「火薬」「羅針盤」「活版印刷」の3大発明がなされ、
ヨーロッパの発展に大きな影響を及ぼした。


建築では、フィレンツェ大聖堂、ローマのサン・ピエトロ大聖堂などが建設された。

サン・ピエトロ大聖堂は、349年、コンスタンティヌス帝の創建によるもので、1520年、
法王レオ10世(Pope Leo X)が大改築を行い、ミケランジェロが設計、建造に従事した。

このレオ10世は、大聖堂の建設資金を集めるため、これを買えば罪がつぐなえるという
免罪符を売り出し、その後の「宗教改革」を引き起こしたことで知られる。

ルネサンスも後期になると、イタリア戦争が起こり、終焉を迎えることになる。



イタリア戦争とは、1494年、フランス王シャルル8世(Charles VIII)が、
王位継承権を楯に、ナポリ王国に侵攻した事件である。

前述のように、ナポリ王国は、建国の1282年からアラゴン王国に
征服される1442年まで、フランスの支配下にあった。

ナポリ王国を建国したのは、カペー朝のアンジュー家だったが、シャルル8世は、
そのアンジュー家から支配権を受け継いだと主張し、ナポリ王国奪還をねらって侵攻してきたのである。


イタリアへの侵攻を開始したシャルル8世率いる大軍は、フィレンツェを占領、
ナポリ攻略を急ぐシャルル8世はすぐに全軍を率いて南下し、ローマを経て一路ナポリを目指した。

1495年5月、ナポリに入城、シャルル8世は戴冠して念願のナポリ王となった。

だがシャルル王の天下も長くは続かなかった。


フランスのイタリア介入を嫌ったローマ法王アレクサンデル6世の画策により、
神聖ローマ帝国、ベネチア、ミラノなどの諸国が同盟を結んだ。

これらの連合軍によって包囲されたシャルル8世率いるフランス軍は、
慣れない異国での戦闘に大敗し、フランス本国に逃げ帰ったのである。

その後、シャルル8世は捲土重来を期していたのだが、1498年に事故がもとで死亡、
雪辱を果たすことができずに終わった。


このシャルル8世のイタリア遠征で、フランス王国は莫大な負債を抱えることになった。
それにもかかわらず、歴代フランス王は勢力拡大のための戦争に明け暮れていた。

イタリア戦争がはじまった1494年から、1789年のフランス革命までの300年間に、
なんと200年間の戦争の時期、つまり、約70%の期間が戦争であった。


戦争が常態化していたこの時期には、フランス政府は税金を集め、それで戦争という
事業を行うことを仕事としていた。

財政がひっ迫すると増税し、より多くの兵員をということで傭兵を雇ったため、
軍事費の増大はとどまることがなかった。

やがて民衆の窮乏は頂点に達し、フランス革命が起こるべくして起こったのである。




16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ諸国の政治形態は、絶対王政であった。

絶対王政とは、国王が軍と官僚により市民階級を一元的に支配する中央集権国家である。

フランスのルイ14世、イギリスのエリザベス1世、そしてスペインのフェリペ2世
などの治世がその代表的なものとされる。


やがて市民を主体とする市民革命によって、これらの絶対王政は滅亡することになる。
1789年に起こったフランス革命は、その典型的なものである。

フランス革命のさなか、ナポレオン・ボナパルトという革命の寵児が現れた。


1795年、王党派の反乱鎮圧によって革命政府の信任を得たナポレオンは、
若干26歳でイタリア遠征軍総司令官に任命された。

1796年、ナポレオンはイタリア遠征の途についた。 彼はイタリアに進軍して連戦連勝、
オーストリア軍やイタリア諸勢力を撃破してミラノに入城した。

以降、1814年までの18年間、イタリアの地は、ナポレオンの支配下に入るのである。


ナポレオンという人物は、戦略家としてその軍事的才能が高く評価されているが、
その一方で、古い秩序を打ち壊し、自由をもたらす解放者としての側面があった。

彼は支配した各国で、民衆のために憲法を制定し、議会を置いた。

フランス革命の持つ自由や平等といった精神が、ナポレオンを通じて、
支配地の民衆の間に広まっていった。

イタリア人たちの間にも、自由と平等を愛する自分達の故郷を創り上げたいという
素朴な願いが芽生えてきた。

それはやがて、イタリアという大きな祖国を創り上げたいという民族統一運動へと
発展することになる。




1814年、ナポレオンが失脚するとウィーン会議が開かれ、1815年にウィーン議定書が締結された。

これによって北のロンバルディア地方とベネチアはオーストリア領となり、
南イタリアとシチリアは、アラゴン王国の後継国であるスペイン領となった。



これに対して、カルボナリ党(炭焼党)と呼ばれる秘密結社がイタリアの民族統一を掲げて立ち上がった。
彼らは南で1820年にナポリ蜂起を、北で1821年にピエモンテ蜂起を起こした。

どちらともオーストリアに鎮圧されてしまうが、1830年のフランス7月革命の影響で、
カルボナリ党は、1831年再びイタリア反乱を起こしている。

このイタリア反乱もオーストリアに鎮圧されてしまうが、1831年、カルボナリ党を継いで、
新たに政治結社「青年イタリア党」が結成された。



その後のイタリア統一運動の主導的役割を担ったのがサルデーニャ王国であった。

サルデーニャ首相カヴール(Cavour)は、1855年クリミア戦争に参戦するなど
巧みな外交でサルデーニャの地位を高め、フランスの支援を獲得した。


1859年、サルデーニャ王国は、北イタリアを支配していたオーストリアと開戦、
このイタリア統一戦争の勝利により、ロンバルディア地方を併合した。

一方、青年イタリア党のガリバルディ(Garibaldi)は、1860年、義勇軍「赤シャツ隊」
を率いて、シチリア・ナポリを征服、スペインの両シチリア王国を滅ぼした。

これにより、1861年立憲君主制に基づくイタリア王国が成立した。

1866年ベネチアをオーストリアより奪回、さらに1870年ローマ法王領を占領し、
翌1871年、ローマを首都に定めた。



ローマの併合によって、アルプス山脈からシチリア島まで、イタリア全土が
ようやくひとつの国家にまとまったのである。

西ローマ帝国の滅亡から、イタリア統一までに要した時間は、約1400年。

この間に育った祖国愛、ひいては家族愛が、現在のイタリア人の心の支えとなっている。




イタリア史
BC850年  (サルデーニャ)フェニキアが植民都市を建設 
BC800年  (シチリア)ギリシアが植民都市を建設 
BC753年 ティベル川河口に、ラテン人が都市国家ローマ建設
BC660年  (コルシカ)エトルリアの支配下  
BC616年 エトルリア人ローマ征服。王政へ
BC565年  (コルシカ)ギリシアの支配下 
BC509年 ラテン人、エトルリア人の王を追放して共和政開始
BC510年 (サルデーニャ)カルタゴの支配下
BC500年 (シチリア)カルタゴの支配下
BC340年  (ロドス島)アケメネス朝ペルシアの統治下 
BC332年  (ロドス島)マケドニア(アレクサンドロス3世)の統治下
BC280年  (コルシカ)カルタゴの支配下 
BC272年 南部のギリシア人植民市タレントゥム征服。イタリア半島統一
BC264年 (シチリア)第一次ポエニ戦争でカルタゴを破ったローマの支配下
BC259年  (コルシカ)ローマの支配下 
BC238年 (サルデーニャ)ローマの支配下
BC168年 ローマがマケドニアを滅ぼす。(ピドナの戦い)
BC146年 カルタゴ滅亡。ポエニ戦争終結
BC135年 (シチリア)シチリアの奴隷反乱
BC133年 ローマが小アジアのペルガモンを滅ぼす
BC73年 スパルタクスの乱
BC64年 ローマがシリアを滅ぼす
BC60年 第一回三頭政治
BC46年 シーザー独裁
BC44年 シーザー暗殺
BC30年 エジプトのプトレマイオス朝を滅ぼす
BC27年 アウグストゥス帝政を開始
BC27年  (クレタ島)ローマの属州 
297年  (ロドス島)ローマの属州。(ローマ帝国分裂後は東ローマ帝国領) 
313年 コンスタンティヌス帝、ミラノ勅令でキリスト教公認
375年 フン族の東進、ゲルマン民族の大移動開始
395年 ローマ帝国の分裂により、西ローマ帝国成立
395年  (クレタ島)東ローマ帝国領 
440年 (シチリア)ゲルマン民族の東ゴート族が侵入
456年 (シチリア)(サルデーニャ)(コルシカ)北アフリカのヴァンダル人に占領
476年 西ローマ帝国滅亡
481年 クロービス、フランク王国を建国。(メロヴィング朝)
535年 (シチリア)東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が東ゴート族を追い出す
567年 (ベネチア)ロンバルディアからの避難民がアドリア海沿岸に集落をつくる
568年 北イタリアにロンバルト(ランゴバルト)王国建国
697年 (ベネチア)共和政総督 (ドージェ )のもとにベネチア共和国成立
751年 小ピピン即位。カロリング朝成立
768年 カール大帝即位。
774年 カール大帝により、ロンバルト王国滅亡
800年 カール大帝、ローマで戴冠
824年  (クレタ島)アッバース朝がクレタ島を領有 
827年 (シチリア)イスラムアッバース朝の支配下
843年 ヴェルダン条約、フランク王国3分割。(仏・伊・独の基)
870年 メルセン条約、イタリア半島北部はイタリア王国となる。
961年  (クレタ島)東ローマ帝国がクレタ島を奪回 
962年 オットー1世、ローマ皇帝として戴冠。(神聖ローマ帝国成立 ~1806)
962年 イタリア王国は神聖ローマ帝国の一部となる。
1005年  (ジェノバ)ジェノバを中心にした都市連邦成立。(ジェノバ共和国) 
1017年 (コルシカ)ピサが植民地支配
1096年 第一回十字軍遠征
1130年  (シチリア)(シチリア王国)ノルマン人がシチリアを征服。ルッジェーロ2世がシチリア王国建国 
1194年 (シチリア)(シチリア王国)ノルマン朝の後継者が断絶し、神聖ローマ帝国のハインリヒ6世がシチリア王国の皇帝となる
1204年 (ベネチア)(クレタ島)第四回十字軍に参加しコンスタンティノープル占領。クレタ島を獲得。
1266年  (シチリア)(シチリア王国)フランス領
1282年 (シチリア)(ナポリ王国)(シチリア王国)シチリア晩祷事件により、スペインのアラゴン王がシチリアを支配。シチリア王国がシチリア王国とナポリ王国に分裂
1282年 ナポリ王国は、フランス・アンジュー家の支配下となる。(~1442年)
1284年  (コルシカ)ジェノバが植民地支配 
1287年 (ジェノバ)ジェノバがピサに完勝し、ティレニア海の覇権を確立。(メローリアの海戦)
1300年 ルネサンス時代はじまる(~1550年)
1309年  (ロドス島)聖ヨハネ騎士団に占領 
1324年  (サルデーニャ)アラゴン王国の支配下 
1379年 (ベネチア)(ジェノバ)ジェノバ共和国を、キオッジアの海戦で破り、地中海の覇権を獲得
1395年 (ミラノ)ヴィスコンティ家がミラノ公になりミラノ公国成立
1408年 (ベネチア)ハンガリー王国からダルマチアを奪取。
1442年 アラゴン王国、ナポリ王国を領有
1479年 アラゴン王国、カスティリヤ王国と連合し、スペイン王国成立
1489年 (ベネチア)キプロス島を獲得
1495年 (ナポリ王国)フランスのヴァロワ朝シャルル8世はナポリ王国の継承権を主張してイタリアに侵入し、イタリア戦争が始まった。ナポリ王国を占領
1516年  (シチリア)スペイン王国の成立後、シチリア王国は、スペイン・ハプスブルク家の支配下 
1516年  (サルデーニャ)スペイン・ハプスブルク家の支配下 
1522年 (ベネチア)ロードス包囲戦でオスマン帝国に敗北
1522年  (ロドス島)オスマン帝国(スレイマン1世)の統治下 
1535年 (ミラノ)スペイン・ハプスブルクの支配下に。ミラノ公国消滅
1571年 (ベネチア) オスマン帝国により、キプロス島が陥落
1669年 (ベネチア) (クレタ島)オスマン帝国との戦争によりクレタ島を失う
1706年 (ミラノ)オーストリアの支配下に
1713年 (サルデーニャ)スペイン継承戦争(1701~1714年)の結果、サルデーニャの支配権が、スペイン・ハプスブルク家からオーストリア・ハプスブルク家に渡る
1713年 (シチリア)スペイン継承戦争(1701~1714年)の結果、イタリアのサヴォイア家がシチリア王国の王位を獲得
1720年 (サルデーニャ)イタリアのサヴォイア家がシチリア王国をオーストリア・ハプスブルク家に渡しサルデーニャを得る
1720年 (シチリア)オーストリア・ハプスブルク家がサルデーニャをイタリアのサヴォイア家に渡しシチリア王国を得る
1720年 (サルデーニャ)サルデーニャ王国成立。首都トリノ
1729年 (コルシカ)コルシカ独立戦争
1735年 (シチリア)(ナポリ王国)ポーランド継承戦争の結果、スペイン・ブルボン家がナポリ王国、シチリア王国の支配権を得る
1768年 (ジェノバ)(コルシカ)コルシカをフランスに売却
1769年 (コルシカ)コルシカ独立戦争終結。コルシカ、フランス領となる
1796年 イタリア遠征で、イタリアはナポレオンの支配下に入る。
1796年 (ジェノバ)フランスの支配下に。
1797年 (ベネチア) ナポレオン・ボナパルトに降伏。ベネチア共和国消滅
1814年 (ジェノバ)(サルデーニャ)サルデーニャ王国がジェノバを併合
1816年 (ベネチア)ウィーン議定書が締結され、北のロンバルディアとベネチアはオーストリア領となる。
1816年 (シチリア)(ナポリ王国)(両シチリア王国)ウィーン議定書が締結され、ナポリ王国、シチリア王国は、両シチリア王国として復活し、スペイン・ブルボン家の支配下となる
1849年 青年イタリア党によりローマ共和国建国(フランスの介入により半年で打倒される)
1859年 イタリア統一戦争
1859年 (ミラノ)(サルデーニャ)サルデーニャ王国がミラノを併合
1861年 イタリア王国成立(3.17)
1861年 (シチリア)(ナポリ王国)(両シチリア王国)ナポリ王国、シチリア王国はイタリア王国に統合された(3.17)
1861年 (ミラノ)ミラノがイタリア王国に統一される(3.17) 
1866年 (ベネチア)ベネチアがイタリア王国に統一される(10.19)
1882年  三国同盟(ドイツ、オーストリア、イタリア)締結(5.20) 
1912年  (ロドス島)イタリアに占領(4.27) 
1913年  (クレタ島)第一次バルカン戦争の結果、ギリシア領となる(12.1) 
1914年  サラエボ事件勃発(6.28)
1914年 オーストリアがセルビアに宣戦布告(7.28)第一次世界大戦はじまる(7.28)
1915年 イタリアが三国同盟を破棄(5.4)オーストリアに宣戦布告(5.23)
1916年  イタリアがドイツに宣戦布告(8.28)
1918年  ドイツが降伏(11.11)第一次世界大戦終了(11.11) 
1922年 ムッソリーニのファシスト党内閣成立(10.31)
1939年 ドイツがポーランドに侵攻(9.1)第二次世界大戦はじまる(9.1)
1940年 日独伊三国同盟締結(9.27)
1943年  連合軍のシチリア上陸(7.10) 
1943年  ムッソリーニ失脚(7.25) 
1943年  イタリア無条件降伏(9.8) 
1943年  ドイツ軍の北イタリア占領(9.10) 
1943年  イタリア、ドイツに宣戦布告(10.13) 
1943年  ムッソリーニの処刑(4.28) 
1945年  戦艦ミズーリにて日本、降伏文書調印(9.2)第二次世界大戦終了(9.2)
1947年  (ロドス島)ギリシアに編入(9.15) 
1948年 イタリア共和国成立(1.1)


サルデーニャ史(Sardinia)
BC850年 フェニキアが交易都市建設
BC510年 カルタゴが覇権確立
BC238年 共和政ローマ領(BC238~BC456)
456年 北アフリカのヴァンダル族領(Vandals)(456~534)
534年 東ローマ帝国(534~846)
846年 イスラム(846~1017)
1017年 ピサ共和国(1017~1324) 
1324年 アラゴン王国(1324~1516)
1516年 スペイン・ハプスブルク家(1516~1713)
1713年 オーストリア・ハプスブルク家(1713~1720)
1720年 サルデーニャ王国(1720~1861)
1861年 イタリア王国(1861~)
   
   
コルシカ史(Corsica)
BC660年  エトルリア領 
BC616年  カルタゴ領 
BC565年  ギリシア領 
BC534年  エトルリア領 
BC453年  シラクサ領 
BC280年 カルタゴ領
BC259年 共和政ローマ領(BC259~456)
456年 北アフリカのヴァンダル族領(Vandals)(456~534)
534年 東ローマ帝国領(534~725)
725年 ロンバルト王国領(725~774)
774年 西フランク領(774~846)
846年 イスラム(846~1017)
1017年 ピサ共和国(1017~1284)
1284年 ジェノバ共和国(1284~1769)
1769年 フランス王国(1769~)



シチリア史(Sicily  BC1000~1130年)
BC1000年  フェニキア植民都市 
BC800年 ギリシア植民都市
BC500年 カルタゴ支配下
BC264年 共和政ローマ領
440年 東ゴート族が侵入
456年 アフリカのヴァンダル族領(Vandals)(456~476)
476年  オドアケル王国(Odoacer)(476~493) 
493年  東ゴート王国(493~535) 
535年 東ローマ帝国(535~846)
827年 イスラム(シチリア首長国)(827~1130)



シチリア王国史(Kingdom of Sicily 1130~1816年)
1130年 ノルマン朝(シチリア王国)(1130~1194)
1194年 神聖ローマ帝国(シチリア王国)(1194~1266)
1266年 フランス王国・アンジュー家(シチリア王国)(1266~1282)
1282年 アラゴン王国(シチリア王国)(1282~1474)
1474年 スペイン王国(シチリア王国)(1474~1516)
1516年 スペイン・ハプスブルグ家(シチリア王国)(1516~1700)
1700年 スペイン・ブルボン家(シチリア王国)(1700~1713)
1713年 サヴォイア家(シチリア王国)(1713~1720)
1720年 オーストリア・ハプスブルグ家(シチリア王国)(1720~1735)
1735年 スペイン・ブルボン家(シチリア王国)(1735~1816)
1816年 両シチリア王国(1816~1860)
1861年 イタリア王国 (1861~)
   
   
ナポリ王国史(Kingdom of Naples 1282~1816年)
1282年 フランス王国(ナポリ王国)(1282~1442年)
1442年 アラゴン王国(ナポリ王国)(1442~1495)
1495年 フランス王国(ナポリ王国)(1495~1495)
1495年 アラゴン王国(ナポリ王国)(1495~1500)
1501年 フランス王国(ナポリ王国)(1501~1504)
1504年 スペイン王国(ナポリ王国)(1504~1516)
1516年 スペイン・ハプスブルク家(ナポリ王国)(1516~1700)
1700年 スペイン・ブルボン家(ナポリ王国)(1700~1713)
1713年 オーストリア・ハプスブルク家(ナポリ王国)(1713~1735)
1735年 スペイン・ブルボン家(ナポリ王国)(1735~1806)
1806年 ボナパルト朝(ナポリ王国)(1806~1815)
1815年 スペイン・ブルボン家(ナポリ王国)(1815~1816)
1816年 両シチリア王国(1816~1860)
1861年 イタリア王国 (1861~








アルベロベッロ (Alberobello) 

アルベロベッロは、イタリアのプッリャ州に属する人口一万人ほどの街。

「トゥルッリ」と呼ばれる白いトンガリ屋根の家が並ぶことで知られている。
この地方でとれる石灰岩の切り石を積み上げて造った石造家屋である。

トゥルッリ(Trulli)とは「部屋一つ、屋根一つ」という意味。
つまり、ワンルーム一戸建てで、その中をカーテンなどで仕切って使っている。

壁は分厚いので、夏は暑さを遮り、かなり涼しく過ごせる。
飾りのついた屋根の尖塔は、この街のシンボルマークにもなっている。


トゥルッリとともに始まったこの街の歴史。その起源は15世紀までさかのぼる。
かつて、この街は貧しく住民は石が多く、やせた土地に暮らしていた。

当時は、屋根の数に応じて税金が徴収されることになっていた。
だから、税金逃れのために、すぐに解体できるように家屋を造る必要があった。

税務署の役人が調べに来たら、家があった場所は石が転がっていただけ。
役人が帰ると、また戻ってトゥルッリを建て直した、などという話も伝わっている。


アルベロベッロの街は、徒歩で散策するのにちょうど良い大きさだ。
トンガリ屋根の教会や、南仏の雰囲気漂う街並みを見て歩くのも楽しい。

この街で唯一の二階建てのトゥルッリは、博物館になっており、中を見学できる。
夏のあいだは劇場となり、演劇やコンサートなどが開催されている。


アクセスは、バーリ中央駅(Bari Centrale)から列車で約一時間半。
アルベロベッロ駅からトゥルッリが立ち並ぶ市街までは、徒歩10分程度である。

(Largo Martellotta, 70011 Alberobello BA, Italy)