国名 | コソボ共和国 | |||
英語 | Republic of Kosovo | |||
首都 | プリシュティナ | |||
独立年 | 2008年 | |||
主要言語 | アルバニア語、セルビア語 | |||
面積 (千Km2) | 11 | |||
人口 (百万人) | 1.8 | |||
通貨単位 | ユーロ | |||
宗教 | イスラム教(主にアルバニア人)、 |
|||
セルビア正教(セルビア人)等 | ||||
主要産業 | サービス業(56.6%) 工業(28.9%) | |||
農業(14.5%) | ||||
ペーヤ総主教修道院 (Patriarchate of Peje) 首都プリシュテナの西部ベーヤにあるセルビア正教の修道院で、13世紀に建造された。 かつてコソボがセルビア王国の下に栄えたことを今に伝える。 建物の修復が、2006年に行われ、その時セルビア王妃と貴族を描いたフレスコ画が発見された。 教会の歴史と共にセルビア芸術遺産が守られている名高い場所である。女性の修道院であり、2006年、世界遺産に登録された。 |
地理
北と東はセルビア、西はアルバニア、北西はモンテネグロ、
南はマケドニアと接する。
北部にコパオニク山地(Kopaonik)、南部にシャル山地(Sar Planina)
が広がり、イバル川(Ibar)とその支流が中央部を貫流する。
住民はおもにアルバニア人で、その他セルビア人、モンテネグロ人、
トルコ人など。
言語はアルバニア語、セルビア語など。
宗教はイスラム教のほかセルビア正教など。
肥沃な中部のコソボ盆地と西部のメトヒア盆地(Metohija)では、オオムギ、
コムギを中心とした農業、タバコの栽培、ヒツジの飼育が行なわれる。
昔から鉱業が盛んで、褐炭、アスファルト、亜鉛などを産し、刺繍、
じゅうたん、金属細工などの家内工業、手工業も行なわれる。
歴史
BC10世紀頃から、印欧語族のイリュリア人(Illyrians)が、バルカン半島北西部のイリュリアに居住していたが、
コソボの地域に住んでいた部族は、ダルダニア人(Dardanians)と呼ばれていた。
BC393年、バルデュリス王(Bardyllis 在位~BC358)が部族を統一、ダルダニア王国(BC393~BC28)を建国した。
ダルダニアは、領土をめぐり、マケドニアと抗争を繰り返していたが、BC28年に共和政ローマの属州となった。
4世紀頃から、ダルダニアに移動してきたのが南スラブ人であり、7世紀初頭には、この地域の多くは
スラブ人の居住地域となっていた。
スラブ人の定住に続いて、7世紀以降、トラキア地方からブルガール人がやってきて、ダルダニアを征服。
681年、ブルガール人の第一次ブルガリア帝国が建国され、コソボやマケドニアはブルガリア帝国の一部となった。
1018年、第一次ブルガリア帝国は、東ローマ帝国に敗北し滅亡した。
1168年、コソボを含む南部セルビア地方がセルビア人によって統一され、中世セルビア王国が建国された。
14世紀、オスマン帝国がバルカン半島に進出し、コソボの戦い(Battle of Kosovo 1389年)で、
セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦ったが、最終的に敗北し、1459年、中世セルビア王国はオスマン帝国に併合された。
1912年、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシア間に個別の同盟条約が結ばれ、
オスマン帝国に対する共同防衛を目的とした防衛同盟体制(バルカン同盟)が成立。
バルカン諸国は相次いでオスマン帝国に宣戦を布告、1912年、第一次バルカン戦争が勃発した。
オスマン帝国は、約72万という倍以上のバルカン諸国の軍隊の攻撃にあい、およそ2か月で敗北した。
これによってオスマン帝国はバルカン半島、エーゲ海、地中海の領土の大半を同盟側に譲渡した。
またセルビアは、コソボの奪回を果たした。
1918年、第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー帝国が滅亡すると「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」が建国された。
王国は、スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロが統合されて成立した。
コソボとマケドニアもその領域内に組み込まれた。
(1929年、国号をユーゴスラビア王国に改称)
第二次世界大戦中、ユーゴスラビア王国はナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国の支配下に置かれた。
しかし、ナチス・ドイツが1945年に降伏すると、新憲法が制定され、新たにユーゴスラビア連邦人民共和国(6共和国で構成)が建国された。
コソボは、セルビア社会主義共和国の一部として「コソボ自治区」として出発した。
1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と改称。
コソボ自治区は「コソボ自治州」に改称された。
1998年、コソボ自治州で独立をめぐり武力紛争が激化した。(コソボ紛争)
当時のミロシェビッチ連邦政府は、同自治州のアルバニア人に対する弾圧を強化した。
そのため、北大西洋条約機構 NATOは、連邦政府がアルバニア人を迫害していると批判し、
1999年、人道的介入を理由に新ユーゴに空爆を実施した。
1999年6月に和平が成立しコソボは国際管理下に。その後コソボは2008年に独立を宣言した。
BC393年 | ダルダニア王国(~BC28)が建国される |
BC28年 | 共和政ローマの属州となる |
681年 | ブルガール帝国の一部となる |
1168年 | 中世セルビア王国の一部となる。 |
1459年 | 中世セルビア王国がオスマン帝国に併合され、オスマン帝国の支配下に。 |
1913年 | バルカン戦争でオスマン帝国に勝利したセルビアがコソボを奪回。 |
1918年 | セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が建国。コソボは王国の一部となる。 |
1929年 | セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国がユーゴスラビア王国に改称 |
1941年 | 第二次世界大戦中、ドイツ、イタリア、ブルガリアに分割占領される。 |
1945年 | ユーゴスラビア連邦人民共和国が成立。 |
セルビア共和国の一部として「コソボ自治区」が設立。 | |
1963年 | ユーゴスラビア連邦人民共和国が「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と改称。 |
コソボ自治区が「コソボ自治州」に改称。 | |
1981年 | コソボ自治州の共和国昇格を求めるアルバニア系住民による暴動発生。 |
1992年 | セルビアとモンテネグロが新たにユーゴスラビア連邦共和国を結成 |
1996年 | コソボ紛争(~1999年)。セルビアとコソボ自治州が内戦へ |
1999年 | NATOによるセルビア空爆 |
1999年 | 和平が成立しコソボは国際管理下に。 |
2008年 | コソボ共和国の独立を宣言。セルビアやロシア、中国は承認せず。 |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立
第二次世界大戦後、独自の社会主義政策を進めてきたユーゴスラビア連邦は、「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教」といわれ、
政治・民族・言語・宗教がからみあい、きわめて複雑な国だった。
ユーゴスラビア連邦人民共和国(1945~1963年) 1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称した。(~1992年)
1991年以降、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが連邦から分離独立したあと、
セルビアとモンテネグロは、2003年、両国が共同して運営するセルビア・モンテネグロ国家連合を結成した。
しかしこの国家連合も2006年、モンテネグロが連邦から独立、さらに2008年、セルビア自治州であった
コソボが共和国として独立したことにより、ユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅した。
ユーゴスラビア史
ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。
第一次世界大戦後の1918年に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、
1929年に「ユーゴスラビア王国」と改称してできた国である。
ユーゴスラビア王国は、第二次大戦後の1945年「ユーゴスラビア連邦人民共和国」に改編され、
さらに1963年「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称された。
ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国であり、六つの共和国に
五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。
この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所である。
4世紀後半、ゲルマン人をはじめとするさまざまな民族の大移動が生じた。
375年、アジア系遊牧民族フン人(匈奴)の侵攻を受け、
彼らは西方への移動を余儀なくされたのである。
一方、バルカン半島方面に南下したのは南スラブ人である。
彼らはドナウ川下流域に達し、東ローマ帝国領内に集落をつくり定住した。
7世紀初頭、南スラブ人は以下の地域に定住を完了した。
バルカン半島北部サヴァ川上流域(スロベニア人)
バルカン半島中部モエシア地方(セルビア人)
アドリア海沿岸ダルマティア北部(クロアチア人)
アドリア海沿岸ダルマティア中部(ボスニア人)
アドリア海沿岸ダルマティア南部(モンテネグロ人)
バルカン半島中部ダルダニア地方(コソボ人)
バルカン半島南部北マケドニア地方(マケドニア人)
南スラブ人のうち、スロベニア人はフランク王国に服属してカトリックに改宗し、
その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、
1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。
クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。
その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、1102年、ハンガリー王国に支配され、
1527年、オーストリア領に、1867年、オーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。
一方で、東ローマ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、1168年、中世セルビア王国を建国して、
14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。
中世セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan(在位1331~1355)のときに最盛期を迎えるが、
1389年、コソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。
そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、
1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こした。
この戦争でオスマン帝国が敗北すると、1878年のべルリン会議で、セルビアとモンテネグロは
ルーマニアとともに独立が承認された。
このベルリン会議では、ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。
1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、
オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、
パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。
青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年) イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。 アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。 一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得。 |
1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロは
ブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。
イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年) 北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。 イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された。 |
この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したオスマン領マケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。
そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、
ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、
オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。
しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、
クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。
この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。
また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、
セルビア人主導の専制政治を進めた。
第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。
これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、
自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。
そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国
(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。
ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。
ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと
非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。
父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)
が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、
複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。
そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。
1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアと
モンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国
(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)
この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが
新ユーゴスラビアの大統領となると、
アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。(コソボ紛争)
これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、
国連も介入することとなった。
2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、
新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。
たが、2006年にモンテネグロが分離し、2008年にコソボが独立を宣言するに至り、
ユーゴスラビアという国家はその歴史に幕を閉じた。
4世紀 | ゲルマン人の大移動後、南スラブ人がバルカン半島を南下 |
7世紀 | 南スラブ人、バルカン半島に定住完了 |
925年 | クロアチア人、クロアチア王国を建国(~1102) |
1000年 | モンテネグロ人、ドゥクリャ公国を建国(~1185) |
1102年 | クロアチア王国滅亡。ハンガリーの支配下になる |
1168年 | セルビア人、中世セルビア王国を建国(~1459) |
1185年 | 中世セルビア王国、モンテネグロのドゥクリャ公国を併合 |
1389年 | コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン帝国に敗北 |
1459年 | セルビア、オスマン帝国の支配下になる |
1460年 | マケドニア、オスマン帝国の支配下になる |
1463年 | ボスニア、オスマン帝国の支配下になる |
1804年 | 第一次セルビア蜂起(~1813)。失敗 |
1815年 | 第二次セルビア蜂起(~1817)。自治権を獲得 |
1817年 | セルビア公国成立(~1882) |
1867年 | スロベニア、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下になる |
1877年 | ロシア-トルコ戦争 |
1878年 | サン・ステファノ条約。ベルリン会議 |
セルビア、モンテネグロの独立承認 | |
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得 | |
1882年 | セルビア王国成立(~1918) |
1908年 | 青年トルコ革命 |
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合 | |
1912年 | 第一バルカン戦争。オスマン帝国がバルカン同盟に敗れ、領土を割譲 |
1913年 | 第二次バルカン戦争。ブルガリアがバルカン同盟に破れ、領土の大半を割譲 |
1914年 | サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦 |
1918年 | 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」成立 |
1929年 | ユーゴスラビア王国と改称 |
1939年 | 第二次世界大戦 |
1941年 | ドイツのユーゴ占領(~1944) |
1945年 | ユーゴスラビア連邦人民共和国成立 |
1945年 | ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称 |
1980年 | チトー大統領死去。集団指導体制発足 |
1991年 | スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発 |
1992年 | セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)創設 |
1992年 | ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言 |
新ユーゴがボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ~1995) | |
1998年 | ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。(コソボ紛争) |
1999年 | NATOによるセルビア空爆 |
2003年 | ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称 |
2006年 | モンテネグロが独立 |
2008年 | コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言 |
コソボの娘 (Kosovo Maiden)
セルビアの画家プレディチ(Uros Predic)の作品。
一人の娘が、1389年コソボの戦いで傷ついた兵士に赤ワインを飲ませている。
娘は結婚を誓った将軍を探して、戦場に赴いたのである。
娘の話を聞いて、その兵士は多くの槍が地面に突き刺さっている場所を指さして言った。
「あそこが、将軍が倒れている場所だ」
兵士は娘に勧めた。これ以上裾や袖が血で汚れぬうちに、家に帰るように。
娘は将軍の戦死を知ると、大粒の涙を流し、自らの運命を嘆きながら帰っていった。
1389年、コソボ平原にてバルカン連合軍とオスマン帝国軍が衝突。(コソボの戦い)
戦いはオスマン軍の勝利に終わり、以降コソボはオスマン支配を約500年受けることになった。