国名 リトアニア共和国                      
英語 Republic of Lithuania  
首都 ビリニュス  
独立年 1991年  
主要言語 リトアニア語  
面積 (千Km2) 65  
人口 (百万人) 2.9  
通貨単位 ユーロ  
宗教 主にカトリック  
主要産業 石油精製業、食品加工業、木材加工  
  物流・倉庫業、販売小売業  


トラカイ城(Trakai Island Castle)

リトアニア南東部の町トラカイにあるルネサンス様式の城。
14世紀、ドイツ騎士団の侵略を防ぐため、トラカイ公ケストゥティス (Kestutis) と息子のリトアニア大公ヴィタウタスにより、ガルベ湖に浮かぶ島の上に建造された。

15世紀半ばに軍事的な重要性を失い、宮殿に改築された。
17世紀に戦争による被害を受けて荒廃したが、20世紀半ばに15世紀当時の姿に復元された。




地理

国土の大部分は平地で、氷河作用を受け、多くの湖沼、氷堆石堤がある。

ネマン川が主要河川をなす。

海洋性気候から大陸性気候への遷移地帯にあり、平均気温は1月-4.8℃、
7月 17.2℃。年降水量約 600mmで、混合林地帯に入る。

住民の約 80%がリトアニア人で、ほかに少数のロシア人、ポーランド人、
ベラルーシ人がいる。公用語はリトアニア語。


重工業が発達し、機械、造船、鋼管、電気機器、化学 (合成繊維、肥料) 、セメント、
食品 (食肉、乳製品、製粉、砂糖、水産物加工) 、木材加工、製紙などが主要工業である。

農業部門は畜産と穀物、アマ、テンサイなどの栽培が中心である。
また琥珀加工をはじめ手工業も盛んである。

水運 (海洋、内陸) が発達し、鉄道・道路網も発達している。





歴史

BC2000年頃、スラブ系リトアニア人(Lithuanian)がバルト海沿岸のダウガヴァ川南岸に定住した。

900年頃には、リトアニア人のほかに、ラトガル人、プロシア人などの諸部族がバルト海沿岸地域に
割拠するようになった。


彼らは当時、北方バイキング(スウェーデン)に対して朝貢する立場にあった。
バイキングは、ゴットランド島を拠点に、バルト海沿岸の諸部族を支配下に置いていた。

バルト海からダウガヴァ川に沿ってキエフ公国に至るルートは「琥珀の道」と呼ばれ
バイキングの交易活動にとって、重要な通過拠点の一つであった。

この通商ルートは、後のハンザ同盟が、バルト海を通じてロシアと交易を行う先駆けとなった。



バイキングについで12世紀末にやって来たのはドイツ騎士団であった。

ドイツ騎士団は、かつて十字軍に参加した修道士たちの武装集団であった。
彼らは、聖地エルサレム巡礼者の保護を目的として結成され、十字軍の中核として活躍。

ドイツ騎士団は引き続き、バルト海沿岸へ向かった。

バルト海諸部族は多神教的な信仰を持っていた。
そのため、異教徒を改宗させる使命を帯びたドイツ騎士団の恰好の標的となった。



1230年、ドイツ騎士団はプロシア人の土地に侵攻した。
プロシア人たちはその攻撃と戦ったが、結局は降伏しドイツ騎士団の支配下に入る。

プロシア人の土地は、ドイツ騎士団領となり、プロシア人たちはキリスト教を強制された。

ドイツ騎士団は、引き続きエストニア人、ラトガル人、クール人の土地を征服、
彼らの土地もドイツ騎士団領に組み込まれていった。



1386年、ドイツ騎士団の脅威に対抗するため、リトアニアはポーランドと国家連合を結成、
リトアニア・ポーランド連合王国(Union between Poland and Lithuania)が成立した。

1410年、タンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg)でリトアニア・ポーランド連合王国は
ドイツ騎士団を破り、プロシア人の土地を奪回する。

リトアニア・ポーランド連合王国は、その後も勝利を続け、1457年、ドイツ騎士団領を支配下に置いた。



1525年、リトアニア・ポーランド王ジグムント1世(Sigismund I)は、当時の騎士団長アルブレヒト
(Albert)にプロシア人の土地を封土として与え、彼を初代プロイセン公に任命した。

これによってドイツ騎士団は消滅し「プロイセン公国」(Duchy of Prussia)が成立。
このプロイセン公国は、やがてビスマルク(Bismarck)によってドイツ帝国へと発展することになる。




1569年には単一国家としてのポーランド・リトアニア共和国(Polish-Lithuanian Commonwealth)が成立。

リトアニアはポーランドとともに、バルト海から黒海沿岸まで広がる中欧の大国となった。


1620年、領土拡大を狙うオスマン帝国がポーランド・リトアニア共和国に侵攻。(オスマン戦争 1620~1634年)

戦争は、最終的にポーランド・リトアニア共和国の勝利となったが、14年間の長期にわたり
オスマン帝国と戦い続けた結果、共和国内部は物質的に疲弊してしまった。




1648年、支配下のウクライナ地方で農民一揆が発生、この一揆はまもなく鎮圧されたが、
その後1654年、ロシアがウクライナ人の保護を口実としてポーランド・リトアニア共和国に侵攻。

1655年、歴史上はじめてリトアニアの首都ビリニュスが外国軍によって占領された。

ロシア軍による占領により、数千人の市民が犠牲となり、ビリニュスの街は17日間にわたって燃え続けた。
占領は1661年まで続き、ロシアのリトアニア国内への影響力が増大していった。

その後、ポーランド・リトアニア共和国は、1772年、1792年、1795年にロシア、オーストリア、
プロイセンの三国によって分割され、共和国は消滅した。



リトアニアの市民には、ロシア正教が強制され、各地の地名も変更させられた。
またリトアニア文字は一切禁止され、キリル文字の使用が強制された。

だがこれらの圧政は、リトアニア人たちの民族意識を高め、やがて独立国家を求める力強い民族運動
に発展することになる。



第一次世界大戦は、ロシア、オーストリア、そしてドイツに大きな混乱をもたらした。
専制君主国家ロシアとオーストリアは崩壊し、敗戦国ドイツは莫大な賠償金を負わされた。

このような国際情勢を巧みに利用し、リトアニアは1918年2月16日に独立を宣言した。
だが二次世界大戦開始後の1939年、ソ連軍の進駐をうけ、1940年、ソ連に併合された。



リトアニア・ソビエト社会主義共和国として半世紀の時を刻むあいだ、リトアニア民族組織が結成された。
1990年の選挙で独立派が圧勝して独立を宣言、同年9月に独立を達成し、国際連合に加盟した。

そして2004年、東欧の一つのゴールである欧州連合(EU)加盟を果たした。       

 

BC2000年 リトアニア人がバルト海沿岸に定住
1251年 リトアニア大公国の成立
1386年 リトアニア・ポーランド連合王国の成立
1410年 タンネンベルクの戦いでドイツ騎士団に勝利する
1525年 プロイセン公国の成立
1569年 ポーランド・リトアニア共和国の成立
1620年 オスマン戦争(~1634年)
1655年 ロシア(ロマノフ朝)の支配下になる
1795年 第三次ポーランド分割。ロシアによる支配
1918年 リトアニア独立宣言。リトアニア第一共和国の成立
1940年 リトアニア・ソビエト社会主義共和国の成立
1991年 リトアニア共和国として独立を回復。国連加盟
2004年 欧州連合(EU)・北大西洋条約機構(NATO)に加盟




琥珀 (amber)

触角のある昆虫が琥珀の中に眠っている。

樹木の樹液が滲み出て固まり、数千万年の長い時を経て琥珀に姿を変えていった。
樹液が流れ落ちる際、昆虫や草木が取り込まれて化石化したのである。

リトアニアのバルト海沿岸は、琥珀の一大産地として知られる。
古代より太陽の色と大地の温もりを持つ琥珀は、幸福をもたらすパワーストーンとされてきた。

化石なのに、こんなにも鮮やかで美しい、まさに大地の贈り物と呼ばれる所以である。