国 名 | ルクセンブルク大公国 | ||||
英 語 | Grand Duchy of Luxembourg | ||||
首 都 | ルクセンブルク | ||||
独立年 | - | ||||
主言語 | ルクセンブルク語、仏語、独語 | ||||
面 積 | 3(千Km2) | ||||
人 口 | 0.5(百万人) | ||||
通 貨 | ユーロ | ||||
宗 教 | 国民の大多数はカトリック | ||||
主産業 | 鉄鋼業、金融業 | ||||
ノートルダム大聖堂(Cathedrale Notre-Dame) 首都ルクセンブルク旧市街にある後期ゴシック兼ルネサンス様式のカトリック教会。 イエズス会修道士のジャン・ドゥ・ブロークの設計により17世紀に建造。 ルクセンブルク大公とベルギー皇女ジョセフィーヌ・シャルロットとの婚礼が行われた場所としても知られている。 旧市街全体は、1994年、世界遺産(文化遺産)に登録された。 |
地理
ベルギーのアルデンヌ高原とフランスのロレーヌ台地の間にある
丘陵性の地帯にあり、降水量が比較的多く、気候は冷涼である。
住民はドイツ系が多く、公用語はドイツ語系のルクセンブルク語、
フランス語、ドイツ語の3種類。
主産業はフランスのロレーヌ地方から延びる鉄鉱床に依存して
19世紀から発達した鉄鋼業。
土地利用では、耕地、牧草地、放牧地が卓越し、酪農、
牧畜業が広く行なわれている。
主要輸出品は、鉄鋼、金属製品、繊維、化学薬品などで、
ドイツ、ベルギーをはじめ周辺の国々との取り引きが多い。
立憲君主制で、比例代表制による一院制議会がある。
ベルギー、オランダとともにベネルックス三国と称される。
歴史
古代のルクセンブルクの地は、ローマのガリア属州の一つとして、隣接するネーデルラント
とともに、ガリア地方とゲルマニア地方の境界に位置していた。
住民はトレベリ人(Treveri)と呼ばれ、城塞を築いて、ゲルマン人と対峙する
ローマの前線基地の任を負わされていた。
ローマ帝国の滅亡後、962年、ルクセンブルクの地は神聖ローマ帝国の支配下となった。
963年、神聖ローマ皇帝オットー1世の近縁に当たるアルデンヌ伯爵(Count of the Ardennes)
の所領となり、城塞を小さな城(Lucilinburhuc)と名付けた。
この「小さな城」が、現在のルクセンブルクの国名の由来となっている。
ルクセンブルクは神聖ローマ帝国の戦略的拠点として領土を拡大し、アルデンヌ伯爵から
10代目の子孫ハインリヒ7世(Henry VII)は、1308年ドイツ王に即位、その後神聖ローマ皇帝となった。
ハインリヒ7世は即位後、勢力拡大を狙って、息子ヨハンとボヘミア王の娘との婚姻を成立させ、
1310年、ボヘミアの領土獲得に成功した。
1354年、ルクセンブルクは公国に昇格し、ルクセンブルク家は最盛期を迎えた。
だが支配領域の拡大はルクセンブルク家の財政破綻を引き起こしてしまう。
1441年、ネーデルラントの領主であるブルゴーニュ家がルクセンブルクを掌中に収め、
ルクセンブルク公国はこれ以降、ネーデルラントの一地方となった。
その後400年に渡り、ルクセンブルクはネーデルラントと運命を共にすることとなる。
その後、ネーデルラントとルクセンブルクは、1555年、スペイン・ハプスブルク家に、
さらに1714年、オーストリア・ハプスブルク家の支配下となった。
ヨーロッパの強国がその支配をめぐって争ったルクセンブルクの町並みは、
次第に堅固な要塞へと姿を変えていった。
1789年、フランス革命によって国王ルイ16世が処刑されると、ヨーロッパ諸国は危機感を抱いた。
フランスの革命政権が王制の否定に至ったことを意味するからである。
革命思想の波及を恐れた諸国は、同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指した。
1792年、オーストリア・プロイセン同盟軍とフランス革命軍との戦争が勃発。
オーストリア領ルクセンブルクは、最前線の戦場となった。
フランス革命軍に包囲されたルクセンブルクは、実に7ヵ月もの間持ち堪えたが、
とうとう蓄えが尽き、1795年6月6日に降伏を余儀なくされた。
以後1795年から20年間、ルクセンブルクはフランス共和国に併合されることになる。
1815年、ナポレオン戦争が終結すると、ウィーン会議が開催され、ナポレオンに占領された
ヨーロッパの領土を各国に振り分けることになった。
このウィーン会議の議決によって、ルクセンブルクは大公国に昇格し、同君連合のもと
ネーデルラント連合王国の統治下となった。
同時にドイツ連邦に加盟するとともに、プロイセン軍がルクセンブルクに駐屯することになった。
1839年、ロンドン条約により、ルクセンブルクの領土が現在のルクセンブルク大公国とベルギー領
リュクサンブール州に二分された。
1867年、ロンドン国際会議でルクセンブルクは永世中立国となり、駐屯していたプロイセン軍
は撤退することになった。
また1890年、ネーデルラント連合王国との同君連合を解消して、ルクセンブルク大公国として
正式に独立した。
だがその後、二度の世界大戦でドイツに占領されたため、1948年に永世中立を破棄、1949年に
NATO(北大西洋条約機構)への参加を通じて、安全保障体制と経済の安定を目指した。
1970年以降、優遇税制によって国外金融機関の誘致を推進し、順調な経済成長を遂げた。
現在のルクセンブルクはヨーロッパ金融の中心地となっている。
BC700年 | ルクセンブルクの地にケルト人(トレベリ族 Treveri)が居住。 |
BC57年 | ジュリアス・シーザーに征服されてローマ領に。 |
734年 | フランク王国の支配下に。 |
870年 | フランク王国の分裂に伴い、東フランク王国の支配下に。 |
962年 | 東フランク王国の分裂に伴い、神聖ローマ帝国の支配下に。 |
963年 | アルデンヌ伯爵(Count of the Ardennes)の所領となる。 |
1354年 | ルクセンブルク公国に昇格。 |
1441年 | ブルゴーニュ公国の支配下に。 |
1476年 | ハプスブルク家の支配下に。 |
1555年 | スペイン・ハブスブルク家のフェリべ2世の支配下に。 |
1714年 | オーストリアの支配下になる。 |
1795年 | フランスの支配下になる。(~1815年) |
1815年 | ルクセンブルク大公国に昇格。ネーデルラント連合王国と同君連合となる。同時にドイツ連邦に加盟。 |
1839年 | 領土が現在のルクセンブルク大公国とベルギー領リュクサンブール州に二分される(ロンドン条約) |
1867年 | 永世中立国となり、ドイツ連邦から離脱。 |
1890年 | ネーデルラント連合王国との同君連合を解消。ルクセンブルク大公国として正式に独立。 |
1914年 | ドイツによる占領。 |
1940年 | ドイツによる占領。(~1944年) |
1945年 | 国際連合加盟。 |
1948年 | 中立政策を放棄、オランダ、ベルギーとともにベネルクス関税同盟を結成。 |
1949年 | 北大西洋条約機構(NATO)加盟。 |
1952年 | ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)加盟。 |
1958年 | EEC(欧州経済共同体、後の欧州連合)加盟。 |
Hello (ハロー) 英語
ルクセンブルクの主要産業は製鉄である。
南西部に広がる鉄鉱石の鉱床によって発展してきた。
だが古来、この地域は鉱床をめぐり、周辺各国の激しい戦場となった。
大国に翻弄されながら、ルクセンブルクは苦難の歴史をたどってきたのだ。
そのため、ルクセンブルクは多民族国家となり、複数の言語が共存している。
現在は、ルクセンブルク語のほか、ドイツ語、フランス語が公用語となっている。
義務教育は6歳から15歳まで。小学校1年でドイツ語の読み書きを学び始め、
小学校2年からフランス語の読み書きが加わる。
さらに、中等教育では英語を選択して学習する者が多い。
そのため、ルクセンブルク人は日常的に三ヵ国語以上を話すマルチリンガルである。
その最大の理由は、自国語だけでは、高等教育を受けることができないからだ。
ちなみに、世界で最も外国語が苦手な国は、アメリカと日本である。
それはなぜだろうか。理由は「必要がない」からだ。
外国語を身に付ける必要に迫られていないのだから、苦手なのはあたりまえといえる。