国名 | マケドニア旧ユーゴスラビア共和国 | |||
英語 | Former Yugoslav Republic of Macedonia | |||
首都 | スコピエ | |||
独立年 | 1991年 | |||
主要言語 | マケドニア語、アルバニア語 | |||
面積 (千Km2) | 26 | |||
人口 (百万人) | 2.1 | |||
通貨単位 | マケドニア・デナル | |||
宗教 | キリスト教(マケドニア正教)7割 | |||
イスラム教3割 | ||||
主要産業 | 農業(たばこ、ワイン、とうもろこし) | |||
繊維、鉱業(鉄等) | ||||
聖ヨハネ・カネヨ教会(St. Jovan Kaneo) マケドニア西部の都市オフリドにあるマケドニア正教会の教会。オフリド湖に突き出た岬の先端に位置する。15世紀以前の創建。 十字型の平面構成をとり、アルメニアの建築様式の影響が見られる。内部には「全能のキリスト」をはじめとするフレスコ画が残っている。 |
地理
バルカン半島の中央に位置しアルバニア、ブルガリア、ギリシア、コソボ、
セルビアに囲まれ、山地、盆地、渓谷が複雑に入り組んでいる。
住民の半数以上がスラブ系のマケドニア人で、そのほかアルバニア人、トルコ人などが居住する。
公用語はマケドニア語、アルバニア語。マケドニア正教徒が多い。
産業は、銅、鉛、亜鉛などを産出するため製錬業が盛んなほか、繊維工業も行なわれる。
農牧業関連ではヒツジ、ウシの牧畜やコムギの生産、ブドウの栽培が中心をなす。
主要都市はスコピエのほかビトラ、プリレプなど。
1991年マケドニア共和国として独立を宣言。
だがマケドニア地域の南半分はギリシア領であることや、マケドニアの名は古代ギリシアに
由来することなどから、ギリシアが「マケドニア」の国名を使うことに反対。
そのため、1993年の国際連合加盟の際は暫定的に
「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」の名称でなされた。
2018年国名をめぐって対立していたギリシアとの長年にわたる交渉の末、
国名を北マケドニア共和国とすることで合意し、2019年正式に変更した。
歴史
マケドニア地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人やトラキア人などの部族が割拠していた。
BC4世紀からBC3世紀にかけて、現在のマケドニア共和国に相当するマケドニア地方は
マケドニア王国の支配下となっていった。
マケドニア王国はアレクサンドロス3世(在位BC336~BC323)の時代に最大版図となるが、
その死後、国は分裂し、BC168年、共和政ローマの支配下となった。
BC146年、この地域は正式に共和政ローマのマケドニア属州の一部とされた。
395年、ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となった。
マケドニア地域には北から西ゴート族、フン族、アヴァールそしてスラヴ人などが侵入を繰り返した。
4世紀頃から、マケドニアに移動してきたのが南スラブ人であり、7世紀初頭には、
この地域の多くはスラブ人の居住地域となっていた。
マケドニア地方の民族構成は複雑であり、隣接するギリシアと同じギリシア系住民、
ブルガリア系住民やセルビア系住民、さらにトルコ系、アルバニア系住民もいた。
民族構成の複雑さに加えて、15世紀以来オスマン帝国のもとに深く組み込まれたため、
この地域のスラブ語を話す住民の民族としての自覚が遅れた。
その結果、マケドニアはオスマン帝国からの独立や自治を達成した近隣諸国ギリシア、
セルビア、ブルガリアの領土的野心の対象とされた。
1870年代から、これら三国がマケドニアの領有を主張して対立を繰り返した。
バルカン諸国の対立とヨーロッパ列強の利害が絡むなかで、最大の犠牲者はこの地方に住む住民であった。
マケドニアの住民の民族としての自覚は遅れたが、1893年には「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げる内部マケドニア革命組織(VMRO)が結成された。
VMROは1903年に自らの目的を達成するため蜂起し、一時的ながら自治政府を形成して共和国を宣言したが、オスマン帝国軍によって鎮圧された。
この蜂起は旧暦7月20日の聖イリヤの日に行われたためイリンデン蜂起とよばれている。
しかし、その後、1912年10月から1913年5月にかけて起きた第一次バルカン戦争で、オスマン帝国軍がバルカン連盟諸国に敗北してバルカン半島から撤退すると、
マケドニアは権力の真空地帯となった。
マケドニアをめぐり、バルカン連盟諸国の領土要求が衝突し、バルカン諸国の間で第二次バルカン戦争(1913年6月-1913年8月)が生じた。
バルカン戦争後、マケドニアは分割され、戦争に勝利を収めたギリシアが50%、セルビアが40%、敗戦国ブルガリアが10%を領有した。
セルビアの領土となったマケドニアは、第一次世界大戦後の1918年12月に建国された「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」に組み込まれた。
第二次世界大戦期には、ユーゴスラビア内のマケドニア地方はブルガリアとイタリアによって占領された。
マケドニアでもパルチザン戦争が展開され、パルチザンが勝利を収めた。
1945年にユーゴスラビア連邦が成立すると、マケドニアは構成6共和国の一つとなった。
社会主義ユーゴのもとで、マケドニア人が民族として承認され、マケドニア語やマケドニア文化が確立された。
1991年マケドニア共和国として独立を宣言。
2001年2月、マケドニア人優先の政治に、人口の3割を占めるアルバニア人が反発して衝突が発生した。(マケドニア紛争)
2001年8月、北大西洋条約機構 NATOなどの仲介によって、憲法の改正やアルバニア語の公用語化などアルバニア人の権利拡大が認められ、対立を克服した。
7世紀 | 南スラブ人がマケドニア地方に定住 | |||
1460年 | オスマン帝国の支配下に入る | |||
1918年 | セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の領域に。 | |||
1945年 | ユーゴスラビア連邦人民共和国の一つとして発足 | |||
1991年 | マケドニア共和国として独立 | |||
1993年 | 国連加盟 |
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立
第二次世界大戦後、独自の社会主義政策を進めてきたユーゴスラビア連邦は、「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教」といわれ、
政治・民族・言語・宗教がからみあい、きわめて複雑な国だった。
ユーゴスラビア連邦人民共和国(1945~1963年) 1963年、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称した。(~1992年)
1991年以降、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが連邦から分離独立したあと、
セルビアとモンテネグロは、2003年、両国が共同して運営するセルビア・モンテネグロ国家連合を結成した。
しかしこの国家連合も2006年、モンテネグロが連邦から独立、さらに2008年、セルビア自治州であった
コソボが共和国として独立したことにより、ユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅した。
ユーゴスラビア史
ユーゴスラビアという国は現在、存在しない。
第一次世界大戦後の1918年に建国された「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」が、
1929年に「ユーゴスラビア王国」と改称してできた国である。
ユーゴスラビア王国は、第二次大戦後の1945年「ユーゴスラビア連邦人民共和国」に改編され、
さらに1963年「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」に改称された。
ユーゴ「南」スラビア「スラブ人」という名の通り、南スラブ人の国であり、六つの共和国に
五つの民族、四つの言語、三つの宗教(カトリック・ギリシア正教・イスラム)、
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)をもつ一つの国家、それがユーゴスラビアだった。
この地域は、ちょうど東西ローマ帝国の境界線が引かれた場所である。
4世紀後半、ゲルマン人をはじめとするさまざまな民族の大移動が生じた。
375年、アジア系遊牧民族フン人(匈奴)の侵攻を受け、
彼らは西方への移動を余儀なくされたのである。
一方、バルカン半島方面に南下したのは南スラブ人である。
彼らはドナウ川下流域に達し、東ローマ帝国領内に集落をつくり定住した。
7世紀初頭、南スラブ人は以下の地域に定住を完了した。
バルカン半島北部サヴァ川上流域(スロベニア人)
バルカン半島中部モエシア地方(セルビア人)
アドリア海沿岸ダルマティア北部(クロアチア人)
アドリア海沿岸ダルマティア中部(ボスニア人)
アドリア海沿岸ダルマティア南部(モンテネグロ人)
バルカン半島中部ダルダニア地方(コソボ人)
バルカン半島南部北マケドニア地方(マケドニア人)
南スラブ人のうち、スロベニア人はフランク王国に服属してカトリックに改宗し、
その後スロベニアは東フランク王国、そして神聖ローマ帝国に編入され、
1867年のオーストリア・ハンガリー帝国が成立するとその一部となった。
クロアチア人も、スロベニア人と同じくフランク王国に服属してカトリックに改宗している。
その後はスロベニア人と違って独立を保っていたものの、1102年、ハンガリー王国に支配され、
1527年、オーストリア領に、1867年、オーストリア・ハンガリー帝国の一部となっている。
一方で、東ローマ帝国の支配を受けたセルビア人は、ギリシア正教を受け入れ、1168年、中世セルビア王国を建国して、
14世紀前半にはバルカン半島北部を統合して大勢力となっている。
中世セルビア王国は、ステファン・ドゥシャン王(Stefan Dusan(在位1331~1355)のときに最盛期を迎えるが、
1389年、コソボの戦いでオスマン帝国に敗れて、その支配下に入った。
そしてモンテネグロやボスニア・ヘルツェゴビナ、そしてマケドニアも、15世紀にはオスマン帝国に支配された。
19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、ロシアがスラブ民族やギリシア正教徒の保護を口実に、
1877年にロシア・トルコ(露土)戦争を起こした。
この戦争でオスマン帝国が敗北すると、1878年のべルリン会議で、セルビアとモンテネグロは
ルーマニアとともに独立が承認された。
このベルリン会議では、ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得している。
1908年の青年トルコ革命のどさくさでオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合すると、
オーストリアとセルビアとの対立が深まり、バルカン半島はパン・スラブ主義を掲げるロシアと、
パン・ゲルマン主義を掲げるオーストリアとの対立の舞台となっていった。
青年トルコ革命(Young Turk Revolution 1908年) イスタンブルで青年を中心に結成された「統一と進歩委員会」を中核とするトルコの改革運動。 アブデュルハミト2世の専制打倒と立憲制復活をめざした。 一時は衰退したが、1908年青年トルコ革命に成功し、翌年政権獲得。 |
1911年にイタリア・トルコ戦争が起こり、オスマン帝国が敗北すると、1912年にセルビアやモンテネグロは
ブルガリア・ギリシアとバルカン同盟を結んでオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争を起こしている。
イタリア-トルコ戦争(Italo-Turkish War 1911-1912年) 北アフリカのトルコ領トリポリとキレナイカ(現在のリビア)をめぐる、イタリアとオスマン帝国との戦争。 イタリアが勝ち、ローザンヌ条約でイタリアによる両地方の領有が承認された。 |
この戦争でバルカン同盟は勝利したが、今度は獲得したオスマン領マケドニアの配分をめぐって、1913年に第2次バルカン戦争が勃発する。
敗北したブルガリアはドイツ・オーストリアに接近し、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる状態になる。
そして、オーストリアの皇太子であったフランツ・フェルディナントが1914年6月28日、
ボスニアの州都サラエボでセルビアの青年プリンチップに殺されるサラエボ事件が起こり、
オーストリアがセルビアに宣戦して第一次世界大戦が始まった。
しかし、1918年11月にオーストリアが降伏すると、セルビアとモンテネグロを中心にスロベニア、
クロアチア、ボスニアを合併した「セルビア人・タロアチア人・スロベニア人王国」の独立が宣言された。
この王国は、1919年のサン・ジェルマン条約で正式に承認されている。
また、王となったセルビアのアレクサンデルは1929年にユーゴスラビア王国と改称し、
セルビア人主導の専制政治を進めた。
第二次世界大戦が勃発すると、ユーゴスラビア王国は1941年にドイツの侵攻を受けた。
これに対してティトー率いるパルチザンなどが抵抗し、ユーゴはソ連の手を借りずに、
自力でのナチス・ドイツからの解放に成功している。
そして第二次世界大戦後の1945年に、ユーゴスラビア連邦人民共和国
(1963年にユーコスラビア社会主義連邦共和国と改名)として社会主義国となった。
ティトーは、ソ連中心の社会主義体制に反発して1948年、ユーゴスラビアはコミンフォルムから除名されている。
そのためコメコン(東欧経済相互援助会議)やワルシャワ条約機構も参加していない。
ティトーは第三勢力の立場をとり、1961年にはエジプトのナセルやインドのネルーらと
非同盟諸国首脳会議をベオグラードで開催している。
父はクロアチア人、母はスロベニア人であるティトーは、ユーゴの首都(ベオグラード)
が置かれ歴史もあるセルビアの強大化を防ぎ、
複雑な民族構成であるユーゴスラビアをまとめる接着剤だった。
そのような力リスマ性のあるティトーが1980年に死ぬと、様々な民族問題が噴出するようになった。
1991年6月にスロベニアとクロアチアが独立を宣言し、同年の9月にはマケドニアも独立を宣言している。
1992年3月にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、4月に成立したセルビアと
モンテネグロからなるユーゴスラビア連邦共和国
(通称:新ユーゴスラビア連邦)が侵攻して内戦となった。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)
この内戦は1995年にアメリカの仲介で停戦となったものの、1997年にミロシェヴィッチが
新ユーゴスラビアの大統領となると、
アルバニア系住民が90%を占めるコソボの独立運動を弾圧したために、武力闘争となった。(コソボ紛争)
これに対してNATOによるセルビア空爆が(国連の安保理の決議なしの実行だったため後に問題化)行われ、
国連も介入することとなった。
2001年にコシュトニツァ政権が成立してミロシェヴィッチが失脚すると、
新ユーゴ連邦は2003年にセルビア・モンテネグロ共和国となった。
たが、2006年にモンテネグロが分離し、2008年にコソボが独立を宣言するに至り、
ユーゴスラビアという国家はその歴史に幕を閉じた。
4世紀 | ゲルマン人の大移動後、南スラブ人がバルカン半島を南下 |
7世紀 | 南スラブ人、バルカン半島に定住完了 |
925年 | クロアチア人、クロアチア王国を建国(~1102) |
1000年 | モンテネグロ人、ドゥクリャ公国を建国(~1185) |
1102年 | クロアチア王国滅亡。ハンガリーの支配下になる |
1168年 | セルビア人、中世セルビア王国を建国(~1459) |
1185年 | 中世セルビア王国、モンテネグロのドゥクリャ公国を併合 |
1389年 | コソボの戦い。セルビアなどのバルカン連合軍、オスマン帝国に敗北 |
1459年 | セルビア、オスマン帝国の支配下になる |
1460年 | マケドニア、オスマン帝国の支配下になる |
1463年 | ボスニア、オスマン帝国の支配下になる |
1804年 | 第一次セルビア蜂起(~1813)。失敗 |
1815年 | 第二次セルビア蜂起(~1817)。自治権を獲得 |
1817年 | セルビア公国成立(~1882) |
1867年 | スロベニア、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下になる |
1877年 | ロシア-トルコ戦争 |
1878年 | サン・ステファノ条約。ベルリン会議 |
セルビア、モンテネグロの独立承認 | |
ボスニア・ヘルツェゴビナの管理権をオーストリアが獲得 | |
1882年 | セルビア王国成立(~1918) |
1908年 | 青年トルコ革命 |
オーストリア・ハンガリー帝国、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合 | |
1912年 | 第一バルカン戦争。オスマン帝国がバルカン同盟に敗れ、領土を割譲 |
1913年 | 第二次バルカン戦争。ブルガリアがバルカン同盟に破れ、領土の大半を割譲 |
1914年 | サラエボ事件。オーストリア、セルビアに宣戦布告。第一次世界大戦 |
1918年 | 「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」成立 |
1929年 | ユーゴスラビア王国と改称 |
1939年 | 第二次世界大戦 |
1941年 | ドイツのユーゴ占領(~1944) |
1945年 | ユーゴスラビア連邦人民共和国成立 |
1945年 | ユーゴスラビア社会主義連邦共和国と改称 |
1980年 | チトー大統領死去。集団指導体制発足 |
1991年 | スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立宣言し、ユーゴ紛争勃発 |
1992年 | セルビアとモンテネグロがユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)創設 |
1992年 | ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言 |
新ユーゴがボスニア・ヘルツェゴビナに侵攻。(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ~1995) | |
1998年 | ミロシェヴィッチ大統領、コソボの独立運動を弾圧。(コソボ紛争) |
1999年 | NATOによるセルビア空爆 |
2003年 | ユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)が、国名をセルビア・モンテネグロ共和国と改称 |
2006年 | モンテネグロが独立 |
2008年 | コソボが「コソボ共和国」として独立を宣言 |
カメニ・ククリ (Kameni Kukuli)
首都スコピエから車で約1時間、奇岩が林立するククリツ村(Kuklici)がある。
カメニ・ククリは、岩が侵食により人形のようにみえることからその名がついた奇岩群。
確かに直立した石柱が人の姿に見えなくもない。1000万年ほど前に形成されたものらしい。
伝承によると、石柱は全員結婚式の参加者だったという。
新郎はすでに結婚しているのに、式を挙げようとしているのが妻に発覚。
彼女の呪いにより新郎新婦はもとより、列席者皆が石にされてしまったという。
ごていねいに石柱には、新郎新婦、仲人などのプレートがつけられている。
(住所:Kuklici, Stone Dolls, North Macedonia)