国名 | オランダ王国 | |||
英語 | Kingdom of the Netherlands | |||
首都 | アムステルダム | |||
独立年 | - | |||
主要言語 | オランダ語 | |||
面積 (千Km2) | 42 | |||
人口 (百万人) | 16.9 | |||
通貨単位 | ユーロ | |||
宗教 | キリスト教(カトリック24.4% | |||
プロテスタント15.8%) | ||||
イスラム教(4.9%) | ||||
主要産業 | 石油精製、化学、電気、食品加工 |
キンデルダイク(Kinderdijk)
ロッテルダムから約25Km、南ホラント州 ニーウ・レッケルラント自治体内の地区。
キンデルダイクの土地は、川の水面上昇や地盤沈下を防ぐため、風車による排水システムが、1740年代から使用されている。
国土の 1/4 程度が海面よりも低いオランダでは、排水整備が生活に欠かすことができない重要なインフラとなっているのである。
19基のずらりと風車が並ぶ壮観な光景は圧巻。1997年、ユネスコの世界遺産に登録された。
地理
オランダは、ベルギー、ルクセンブルクとともにベネルックス3国と呼ばれる。
首都は憲法上アムステルダムとなっているが、行政府と議会はハーグにある。
東はドイツ、南はベルギーに接し、西および北は北海に面し、国内は 12の州に分かれている。
ほかに、海外領土として中央アメリカに、オランダ領アンティル諸島(Antilles)をもつ。
国土は全体に低地で、5分の2は海面より低く、多くの砂丘や堤防により海水の浸入を防いでいる。
南西部はライン川とマース川の沖積地で、沼沢地も多く、集落や耕地は自然堤防上に立地する。
北海沿岸部は、砂丘や堤防を連ねて干拓が進められている。
気候は海洋の影響を受けて温暖で、平均気温は冬でも氷点前後、夏は約 21℃であるが、
天候はきわめて不安定で、晴天日数は年間約 25日にすぎない。
ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ユトレヒトなどの都市を含む半環状の地帯は、
酪農地帯を取り囲んで、人口、産業の集中の著しい一大都市圏を形成している。
国土の 70%近くが農用地で、酪農と畜産、果樹とチューリップやクロッカスなどの園芸農業に特色がある。
工業化は、天然資源の産出がないため遅れたが、19世紀中頃から農産物加工、造船、織物、
製紙などの伝統的工業の近代化に努め、さらに電気機器、機械などの部門が加わった。
第二次世界大戦後は、石油精製、石油化学、航空機製造などの近代工業も著しく伸び、
工業製品の輸出は多い。
オランダでは、内陸水路網の発達が顕著であるが、海運の面でも世界有数の船舶保有国である。
ロッテルダムやアムステルダムが水運業の中心で、特にロッテルダム港湾地区に建設された
ユーロポールトは、北西ヨーロッパで最重要の港である。
歴史
古代のネーデルラント(オランダ・ベルギー)は、ガリア地方とゲルマニア地方の境界に位置していた。
ライン川以南は、ガリア・ベルギカ地方(Gallia Belgica)と呼ばれ、古代ローマのガリア属州であった。
住民はベルガエ人(Belgae)と呼ばれ、ゲルマン人と対峙するローマの前線基地の任を負わされた。
なお、このベルガエ人の呼称は、ベルギーの国名の由来となっている。
476年、西ローマ帝国の滅亡後、ネーデルラントは、フランク王国の所領となった。
カール大帝の死後、フランク王国が3分割されると、ネーデルラントは東フランク王国に編入された。
さらに962年、東フランク王国が断絶すると、ネーデルラントは神聖ローマ帝国の所領となった。
海港と川という水運に恵まれたネーデルラントは、その後、毛織物産業を中心とした貿易で
経済的に発展し、神聖ローマ帝国に属しながらも独立性の高い地域となっていった。
1384年、フランス王室につながるブルゴーニュ公国のフィリップ2世(Philip II)が
フランドル地方を婚姻によって獲得し、ネーデルラントを支配することになった。
ブルゴーニュ公国(Duchy of Burgundy 1384~1477年) ヴァロワ朝ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公の支配領域。 1384年、ブルゴーニュ公フィリップとフランドルの貴族マルグリットが結婚し、 フランドルはブルゴーニュ公国の一部となった。 支配領域は、ブルゴーニュ公領(現在のフランス東部)、ネーデルラント(現在のベルギー・オランダ・ルクセンブルク) 4代目のシャルル公(Charles the Bold 在位:1467~1477年)の死後、1477年にブルゴーニュ公領はフランス王領に編入され、 ネーデルラントはシャルルの一人娘マリーがハプスブルク家のマクシミリアンと結婚したことにより、ハプスブルク家に継承された。 |
さらに1476年、ハブスブルク家のマクシミリアン1世がこのブルコーニュ公の娘と結婚した結果、
ネーデルラントはハブスブルク家のものとなった。
マクシミリアンの孫の力ール5世は、1516年にスペイン王となって、スペイン・ハブスブルク家を誕生させた。
1555年、カール5世は王を引退し、スペイン王位とともにネーデルラントを息子のフェリペ2世に与えた。
この結果、ネーデルラントはスペイン・ハブスブルク家のものとなった。
力ール5世(Charles V) ハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝(在位:1519~1556年) 母がスペイン王女のため、1516年、スペイン王となった。 スペイン国王(在位:1516~1556年)としてはカルロス1世(Carlos I)と呼ばれる。 |
フェリぺ2世(Philip II ) スペイン王(在位:1556~1598年) イングランド女王メアリー1世と結婚期間中共同統治者としてイングランド王 フィリップ1世(Philip I)の称号を有していた。 また1580年からはフィリペ1世(Filipe I)としてポルトガル国王も兼ねた。 |
このフェリペ2世は、熱烈なカトリック信者であった。
ところが、ネーデルラントはプロテスタントの力ルヴァン派が多かった。
そのため、フェリペ2世は、住民にカトリックを強制してプロテスタントを弾圧した。
さらにプロテスタント教徒たちをゴイセン(Geuzen 乞食ども)と呼んで差別した。
これに反発したプロテスタントの多い北部7州(これが今のオランダになる)は、
1579年、ユトレヒト同盟を結成して抵抗を続けた。
この運動を指導したのが、オラニエ公ウィレム1世(William I, Duke of Orange)である。
彼は選ばれてオランダ独立戦争の指導者となり、1581年にネーデルラント連邦共和国
として独立を宣言した。
ユトレヒト同盟(Union of Utrecht) ネーデルラント連邦共和国建国の元となった、1579年の対スペイン軍事同盟。 80年戦争中の1579年1月23日、ネーデルラント北部7州が、ユトレヒト州の首都ユトレヒトにて、 対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印した。 この協定では、各州に自治権があることに合意し、また信仰の自由を原則とした。 |
オラニエ公ウィレム1世を初代オランダ総督(Stadhouder 首長)として、共和国であるが王政に近い政治体制だった。
また北部7州の中心州がホラント州で、これがオランダの語源となった。
その後、海洋国であったオランダは、高い造船技術をもって海外貿易に力を入れ、1602年設立の
東インド会社を中心としたバルト海での交易で繁栄した。
アジアでは、香料貿易をポルトガルから奮い、ケープ植民地やジャワ島西部にパタヴィア(現ジャカルタ)
を築いている。
また台湾にもゼーランディア(安平)城を築いて中国との貿易の拠点とし、日本では江戸幕府において、
長崎での交易をヨーロッパで唯一認められている。
さらに新大陸では、ニューネーデルラントをハドソン川下流域に形成し、1625年にはハドソン川の
マンハッタン島にニューアムステルダムを建設している。
南米では砂糖プランテーションを経営し、大西洋三角貿易にも加わって、17世紀には世界経済の中心となり、
覇権国家となった。
アムステルダムは商業と金融の中心都市として発展し、ネーデルラント連邦共和国は黄金期を迎えた。
1648年のウェストファリア条約でスイスとともにネーデルラント連邦共和国の独立が国際的に承認され、
オランダ独立戦争以来、80年にわたるスペイン・ハブスブルク家との戦争は終結した。
しかし1651年、イギリスがネーデルラント連邦共和国を封じ込めるため、イギリス植民地へのオランダ船入港を禁止したため、
英蘭戦争(Anglo-Dutch Wars 1652~1674年)が起こった。
この戦争でネーデルラント連邦共和国は敗北し、世界貿易の覇権をイギリスに奪われてしまった。
さらに、フランスのルイ14世が1667年に南ネーデルラント継承戦争を起こし、ネーデルラント連邦共和国はこれを妨害したために
1672年にオランダ侵略戦争を受けている。
南ネーデルランド継承戦争(War of Devolution 1667~1668年) フランスとスペイン間のネーデルラントの南部にあたるフランドル地方を巡る戦争。 現在のベルギー・ルクセンブルクに当たる南ネーデルラントは当時スペイン領であったが、 1665年にスペイン王フェリペ4世の死後、ルイ14世は王妃マリー・テレーズがフェリペ4世の王女だったことから 継承権を主張し、1667年5月に南ネーデルラントに侵攻した。 |
オランダ侵略戦争(Franco-Dutch War 1672年) 南ネーデルラント継承戦争でフランス王ルイ14世はスペイン領ネーデルラントに侵攻したが、 ネーデルラント連邦共和国がイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結、フランスに圧力をかけたため領有に失敗した。 ルイ14世はこの時のネーデルラント連邦共和国の行為を不快視し、ネーデルラント連邦共和国侵略の意志を露わにした。 そのために三国同盟の切り崩しを図り、イングランドに接近した。 1670年にイングランド王チャールズ2世とルイ14世との間でドーヴァーの密約が成立。 1671年までに神聖ローマ帝国諸侯のほとんどと同盟・中立関係を結び、スウェーデンとも1672年に仏瑞同盟を締結して ネーデルラント連邦共和国を包囲した。 そして1672年3月にイングランドがネーデルラント連邦共和国に宣戦布告して第三次英蘭戦争を始めるとフランスも 4月に宣戦布告、係争中のネーデルラント連邦共和国に侵攻した。 |
さらにフランス革命が起こると、1793年にネーデルラント連邦共和国はフランスに占領され、ネーデルラント連邦共和国は
消滅してしまう。
その後、ナポレオンが失脚した後のウィーン会議におけるウィーン議定書によってオランダは独立を回復、
1814年、ネーデルランド連合王国が成立した。
その後、1830年にベルギーが独立し、ネーデルランド連合王国は、オランダ王国に改称した。
第ニ次世界大戦ではドイツに占領されたが、戦後のオランダは国際連合の原加盟国となり、
国際司法裁判所がハーグに置かれている。
また1991年、ヨーロッパ連合(EU)を発足させたマーストリヒト条約(Treaty of Maastricht)はオランダで調印された。
BC700年 | ネーデルラント北部にゲルマン人、南部にケルト人(ベルガエ族 Belgae)が居住。 |
BC57年 | 南部がジュリアス・シーザーに征服されてローマ領に。 |
734年 | フランク王国の支配下に。 |
870年 | フランク王国の分裂に伴い、東フランク王国の支配下に。 |
962年 | 東フランク王国の分裂に伴い、神聖ローマ帝国の支配下に。 |
1050年 | イングランドから羊毛を輸入して加工。毛織物工業が繁栄。 |
1384年 | ブルゴーニュ公国の支配下に。 |
1476年 | ハプスブルク家の支配下に。 |
1555年 | スペイン・ハブスブルク家のフェリべ2世の支配下に。 |
1568年 | オランダ独立戦争。(80年戦争 ~1648年) |
1579年 | 北部7州、ユトレヒト同盟結成。南部10州は脱落。 |
1581年 | ネーデルラント連邦共和国(1581~1793年)。南部10州(南ネーデルラント)は、スペインの支配下。 |
1602年 | 東インド会社設立。 |
1609年 | スペインと休戦条約。事実上の独立達成。 |
1618年 | 三十年戦争。 |
1648年 | ウェストファリア条約。ネーデルラント連邦共和国の独立正式承認。 |
1652~1654年 | 第1次イギリス~オランダ戦争。 |
1665~1667年 | 第2次イギリス~オランダ戦争。ニューネーデルラントが奪われる。 |
1667~1668年 | 南ネーデルラント継承戦争。 |
1672年 | オランダ侵略戦争。 |
1672~1674年 | 第3次イギリス~オランダ戦争。 |
1688年 | 名誉革命。ウイリアム3世がイギリス王となり、妻メアリ2世と共同統治。ネーデルラント連邦共和国はイギリスと同君連合。(~1702年) |
1701年 | スペイン継承戦争。 |
1714年 | ラシュタット条約。南ネーデルラントはオーストリアの支配下に。 |
1793年 | フランスに占領されネーデルラント連邦共和国消滅。 |
1795年 | フランスがこの地域にバタヴィア共和国を建国。 |
1799年 | 東インド会社解散。 |
1806年 | ナポレオンによってバタヴィア共和国は廃され、ホラント王国が成立。弟ルイを国王とする。 |
1810年 | フランスの侵攻により、ホラント王国が併合される。 |
1815年 | ウィーン会議で、フランス領ホラント王国が、南ネーデルラント(フランス領ネーデルラント)を獲得。 |
立憲君主制のネーデルラント連合王国となる。(1815~1830年) | |
1815年 | ウィーン会議で、ケープ植民地、セイロン島をイギリスに割譲。 |
1830年 | ベルギーが独立し、ネーデルラント連合王国は、オランダ王国に改称。 |
1914年 | 第一次世界界大戦。オランダ中立。 |
1939年 | 第二次世界界大戦。ドイツに占領される。 |
1945年 | 国際連合加盟。 |
1948年 | ベネルクス関税同盟結成。 |
1949年 | 北大西洋条約機構(NATO)加盟。 |
1957年 | EEC(欧州経済共同体、後の欧州連合)加盟。 |
アンネ・フランク博物館 (Anne Frank House)
アンネの日記で知られるアンネ・フランク一家が
約2年間過ごした隠れ家は、博物館になっている。
アンネは、ユダヤ人迫害を逃れ、一家とともにオランダに移住。
しばらくは安穏な日々が続いたが、1939年、オランダにドイツ軍が侵攻。
隠れ家もナチスの秘密警察に発見され、アンネはアウシュヴィッツに送られてしまう。
約2年間続いた家での生活は終わりを告げてしまった。
この博物館は展示と言うより、存在そのものが戦争犯罪に対するメッセージとなっている。
(住所:アムステルダム旧市街 Prinsengracht 263 Amsterdam, Netherlands)