国名 | ルーマニア | |||
英語 | Romania | |||
首都 | ブカレスト | |||
独立年 | - | |||
主要言語 | ルーマニア語、ハンガリー語 | |||
面積 (千Km2) | 238 | |||
人口 (百万人) | 19.9 | |||
通貨単位 | レイ | |||
宗教 | ルーマニア正教、カトリック | |||
主要産業 | 金属(鉄鋼、アルミ)、工業(機械機器、繊維) | |||
鉱業(石油)、農業(小麦、トウモロコシ) |
ブラン城 (Bran Castle)
ルーマニア中央部の都市ブラショフの南西約30キロメートルにある古城。
1377年に築城され、現在は長年に渡り受け継がれてきた調度品などを 3つのテーマに分けて展示している。
15世紀にこの地を治めたヴラド・ツェペシュ公は、敵対するオスマントルコの兵士を串刺しにしたことから非常に恐れられ、後年ドラキュラのモデルともなった。
ドラキュラの城ということに因んで、毎年10月31日は、ハロウィンパーティーが行われる。
地理 北部から南南東に延びるカルパティア山脈と、その末端から西に延びるトランシルヴァニア・アルプス とが大きな弧をなして国土の中央を通り、 弧の外側にはワラキア、モルダヴィア二大平野、その東の黒海沿岸にはドブロジャ平野がある。 弧の内側にはトランシルヴァニア盆地があり、その西をかぎるアプセニ山地などの山地群の西側には、なだらかな起伏をなすハンガリー大平原縁辺部がある。 大陸性気候で冬は寒く、夏は暑い。平均気温は7月平野部で 22℃以上、1月山地で-9℃程度。 国土の多くは肥沃な大地で、歴史的にも農業が大きな役割を占め、最大の農産物は、小麦、続いてトウモロコシ、その他大麦、ひまわり、菜種などが生産される。 天然資源に恵まれ、石炭や鉄鉱石、また石油とガスを産出する。 大河ドナウ川が南部のブルガリアとの国境沿いを流れ黒海に注ぐ河川交通の要衝である。 河口に広がるドナウデルタは世界自然遺産にも指定された欧州最大のデルタであり、多様な魚種、動植物、野鳥の宝庫で、ペリカンなどの貴重な鳥も見ることができる。 |
歴史 ドナウ川下流北岸のダキア地方(Dacia)は、BC1000年頃から 農耕民族ダキア人が居住していた。 BC82年、ダキア王ブレビスタス(Burebistas 在位BC82~BC44年)が諸部族を統合してダキア王国を建国。 第6代王デセバルス(Decebalus 在位87~106年)の時、ローマ領に侵入、ローマにとって脅威となった。 その後、トラヤヌス帝が2度にわたって遠征 (101~102、105~106) 、106年、ダキアをローマ属州とした。 |
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271年、スカンディナビア半島から南下した西ゴート族(Visigoths)がダキア地方に侵入。 国力が衰退していたローマはダキアを放棄した。 その後、フン人やアヴァール人、ブルガール人など多くの異民族がこの地に侵入した。 様々な民族に支配されながらも、14世紀、この地域には、ワラキア公国(1330年)、 モルダヴィア公国(1362年)の2国が並び立つようになった。 しかし、15世紀以降、ワラキア公国(1418年)モルダヴィア公国(1512年)の両国は オスマン帝国の支配下に入った。 |
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1878年、露土戦争によりオスマン帝国が敗北、独立を宣言しルーマニア王国発足。 1918年、第一次世界大戦後、ハンガリーが敗北するとトランシルヴァニアを併合。 1918年、ロシア帝国崩壊後、モルダヴィアを併合。 1940年、ソ連にモルダヴィアを占領される。 1940年、第二次世界大戦。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦。 1947年、王制を廃止し、人民共和国樹立を宣言。 1974年、チャウシェスクが初代大統領に就任。共産党一党独裁体制へ。 1989年、政変(ルーマニア革命)によりチャウシェスク政権崩壊。国名をルーマニアに改称。 |
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1991年、ソ連が崩壊すると、モルダヴィアが独立を宣言し、国名をモルドバ共和国に変更した。 |
BC1000年 | ドナウ川下流北岸のダキア地方にダキア人が居住 |
BC82年 | ダキア王ブレビスタスが諸部族を統合してダキア王国を建国 |
106年 | ローマ帝国の属領 |
271年 | 西ゴート王国の支配下 |
1330年 | ワラキア公国成立 |
1418年 | オスマン帝国の支配下 |
1878年 | オスマン帝国から独立 |
1881年 | ルーマニア王国成立 |
1918年 | ハンガリーからトランシルヴァニアを併合 |
1918年 | モルダヴィアを併合して大ルーマニア王国成立 |
1940年 | ソ連にモルダヴィアを占領される |
1940年 | 第二次世界大戦でドイツにつき枢軸国側として参戦 |
1947年 | 王制を廃止し、ルーマニア人民共和国成立 |
1965年 | ルーマニア社会主義共和国に改称 |
1974年 | チャウシェスクが初代大統領に就任。共産党一党独裁体制へ |
1989年 | チャウシェスク独裁政権崩壊。国名をルーマニアに変更 |
ナディア・コマネチ (Nadia Comaneci)
ルーマニアには国民的英雄が二人いる。
ひとりはドラキュラ伯爵、もうひとりは1976年のモントリオール五輪、
体操の金メダリスト、ナディア・コマネチだ。
14歳のとき、ルーマニア代表として五輪出場、大会史上最年少で金メダル3個を獲得。
その機械のように正確な演技は、世界を驚かせ「ルーマニアの白い妖精」といわれた。
だが帰国後、コマネチは苦難に巻き込まれることになる。
ルーマニアの独裁的指導者・チャウシェスク大統領にとって、スポーツ選手は
外貨獲得の道具に過ぎなかった。
連日のように国家の広告塔として利用された彼女は、ついに決死の覚悟で
アメリカに亡命する。
やがてルーマニア革命で独裁政権が倒れ、コマネチは再びルーマニアの土を
踏むことができた。
その後、五輪出場資格は、16歳以上となり、この規定が変更されない限り
今後も彼女の記録が破られる可能性はない。