国名 | ロシア連邦 | |||
英語 | Russian Federation | |||
首都 | モスクワ | |||
独立年 | ||||
主要言語 | ロシア語 | |||
面積 (千Km2) | 17,070 | |||
人口 (百万人) | 143.1 | |||
通貨単位 | ルーブル | |||
宗教 | ロシア正教、イスラム教 | |||
仏教、ユダヤ教 | ||||
主要産業 | 鉱業、鉄鋼業、機械 | |||
化学工業、繊維工業 | ||||
エルミタージュ美術館(Gosudarstvennyi Ermitazh) ペテルブルグにあるロシア最大の国立美術館。 18世紀に建てられたバロック様式の豪華な大理石宮殿と、増設された三つの離宮と劇場から成るかつての王宮を、1917年の革命後国有化。 収蔵品の歴史は、1764年、エカチェリーナ2世がベルリンの画商ゴツコウスキーから225点の絵画を購入したのに始まる。 現在全館に 200万点以上の美術品が収蔵されている。 |
地理
ユーラシア北部を占める連邦共和国。
西はバルト海から東は太平洋まで広がり、11の時間帯をもつ、国土面積世界第1位の広大な国。
1991年12月、ソビエト社会主義共和国連邦の崩壊をうけて現国名に改称、
ソビエト連邦を構成していた国々からなる独立国家共同体 CISを創設して盟主となった。
地形的にはエニセイ川を境に西の平原、東の山地・高原地帯に大別できる。
西部はウラル山脈により東ヨーロッパ平原と西シベリア平原に分かれる。
エニセイ川以東では西部に中央シベリア高原、南部に東サヤン山脈、西サヤン山脈の山地があり、
北東部とオホーツク海沿岸にも山脈、高原が連続する。最東部のカムチャツカ半島には火山が多い。
ドン川、ヴォルガ川、オビ川、エニセイ川、レナ川、アムール川の各河川が流れている。
気候は西から東へ大陸性気候がしだいに厳しくなり、南東部に季節風気候がみられる。
また南から北へ、黒海沿岸の亜熱帯気候から北極海の島々の極地気候まで変化が著しい。
黒海沿岸を除いて 1月の平均気温は 0℃以下で、-50℃から-1℃まで、7月は 1℃から 25℃まで変化する。
年降水量は西部の 600~700mmから、東部の 100~150mm(南東部は 700~1000mm)まで変化する。
包蔵水力、石炭、鉄鉱、森林資源などの天然資源が豊富で、石油、天然ガス、金、銀、ダイヤモンド、カリウム塩などにも恵まれている。
そのほか銅、ニッケル、雲母、バナジウム、コバルトなどの世界的な生産国。
住民の約 80%がロシア人であるが、ほかに 120以上の民族(主要民族は約 20)が住んでいる。都市人口は全体の 73.9%(2012)。
公用語のロシア語のほか、各共和国では民族語が話される。宗教はキリスト教徒が約 60%を占めるが、そのほとんどはロシア正教会の信者である。
また、イスラム教徒が約 8%を占める。
鉱工業では石油、石炭、電力、鉄鋼、機械、自動車、紙、繊維の生産が多く、農業ではおもにコムギやオオムギなどの穀物が生産されるほか、
アマ、サトウダイコン、ジャガイモなどの栽培、牧畜が盛ん。
国内交通の中心は鉄道であるが、国土が広大で未開発地が多いため空運も発達しており、大都市間を中心に道路網も整備されている。
水運ではボルガ川の水運が発達している。また石油や天然ガスのパイプラインの敷設も進んでいる。
ロシア連邦構成区画 (3市、47州、22共和国、9地方、4自治区)
略史 | |
862年 | リューリク、ノブゴロド王国(862~1478年)建国 |
882年 | オレグ、キエフ公国(882~1240年)建国 |
1240年 | モンゴルのバトゥ軍、キエフ占領 |
1243年 | バトゥ、キプチャク・ハン国(1243~1502年)建国 |
1263年 | ダニール公、モスクワ公国(1263~1325年)建国 |
1325年 | イヴァン1世、モスクワ大公を称して、モスクワ大公国(1325~1613年)成立 |
1480年 | モスクワ大公国、キプチャク・ハン国から独立 |
1547年 | イヴァン4世、ツァーリ(皇帝)を称する |
1613年 | ミハイル・ロマノフ、ロマノフ朝(1613~1917年)創始 |
1721年 | ピョートル1世、国名をロシア帝国(1721~1917年)と定める |
1917年 | レーニン、ロシア・ソビエト社会主義共和国(1917~1991年)樹立 |
1922年 | ソビエト社会主義共和国連邦(1922~1991年)成立 |
1991年 | ソビエト社会主義共和国連邦解体、独立国家共同体(1991年~)成立 |
1991年 | ロシア・ソビエト社会主義共和国解体、ロシア連邦(1991年~)成立 |
歴史
バルト海からコーカサス地方にあたる地域は、375年、ゲルマン人が西方へ移動すると、
東スラブ人と呼ばれるスラブ人の部族が居住するようになった。
彼らは、スラブ語を話し、森林地帯での素朴な農耕生活を送っていた。
農業のほかに牧畜、狩猟、養蜂なども営んでおり、市場の中心となったキエフの街では、
毛皮や蜂蜜、絹織物などの交易で栄えていた。
当時のキエフは、カスピ海のハザール帝国(Khazar)の支配下にあった。
ハザール人は、徴税としてスラブ人の奴隷を調達し、カスピ海沿岸のイスラム帝国
(アッバース朝)と交易を行っていた。
イスラム帝国では、奴隷を労働力のほかに、ハーレムの娘や宦官として使っていた。
この奴隷(Slave)という言葉の語源は、スラブ人に由来しているのである。
850年、スラブ人の地に新たな支配者が現れた。ノルマン人のバイキングである。
ノルマン人の首長リューリク(Rurik)に率いられたバイキングたちは、バルト海沿岸から
現在のロシア北東部に侵攻し、スラブ人を征服。
862年、彼らはこの地にノブゴロド王国(Novgorod)を建国した。
リューリクが亡くなり後継者となったオレグ(Oleg)は、882年にキエフを占領して
キエフ公国(Kievan Rus)を建国した。
だが彼らの目的は領土の拡大ではなく、交易活動の拠点を形成することであった。
海洋民族であったノルマン人たちは、キエフから船でドニエプル川を南下し、
黒海を越えて、ビザンツ帝国に至る交易ルートを確立した。
ビザンツ帝国との交易を通じて、後にキリスト教(ギリシア正教)も伝わることになる。
そして950年、キエフ公国は隣接するハザール帝国に侵攻して滅亡させた。
キエフ公国において少数だったノルマン人たちは、やがてスラブ人の中に同化していった。
1240年、チンギス・ハンの孫バトウ率いるモンゴル軍がキエフ領内に侵入。
キエフ市民は抗戦を続けたが、ついに城壁を破壊され陥落、キエフ公国は滅亡した。
以後250年間、モンゴル民族に支配される時代が続く。(タタールのくびき)
モンゴル人たちは、税収が目的であり、服従して納税すれば自治を認めた。
スラブ人たちは、モンゴルに対して恭順の意を示し、国力の保持に努めることにした。
また北方のノブゴロド王国は、モンゴル支配を免れていた。
遊牧民族のモンゴル人は、森林地帯のノブゴロドには関心を示さなかったからである。
1263年、ヴォルガ川支流の商業都市であったモスクワにモスクワ公国が成立した。
1362年、隣国のリトアニアがモンゴル軍と衝突。激しい戦いの末、リトアニアが勝利。
リトアニアは、モンゴルからキエフを含むウクライナ地方の領土を獲得した。
その後、モンゴルはリトアニア、ティムール帝国などの侵攻により国力が衰退した。
好機と見たモスクワのイヴァン3世(Ivan III)は、1470年、モンゴルへの納税を停止した。
1480年、モンゴルが、支払いを要求して軍をモスクワに差し向けたとき、イヴァン3世は、
自ら大軍を率いて迎え撃つ用意をした。
だがモスクワの軍勢に恐れをなしたモンゴル軍は、そのまま退却してしまった。
これをもって、250年間に渡るモンゴル支配はようやく終了を迎えることになった。
その後、1502年、モンゴルはティムール帝国に攻撃され滅亡した。
イヴァン3世の孫のイヴァン4世(Ivan IV)は、1547年にツァーリ(皇帝)の称号を正式に採用し、
諸侯・貴族を抑えて農奴制を強化した。
彼はその統治の厳しさから「雷帝」と恐れられた。
イヴァン4世の時代のロシアは、キプチャク・ハン国の流れをくむヴォルガ川中流域のカザン・ハン国や
下流域のアストラハン・ハン国のモンゴル系の国を征服して、南ロシアに領土を広げた。
しかし、イヴァン4世の死後は空位と内乱が続き、ロシアは混乱の時代となる。
この混乱は、1613年に名門責族のロマノフ家のミハイル・ロマノフ(Michael of Russia)が皇帝に選ばれてロマノフ朝が成立し、なんとかおさまった。
このロマノフ朝のもとで皇帝の専制政治は強化され、ツァーリズムと呼ばれるロシアの専制君主政ができあがっていく。
農奴制の強化によって、1670~1671年にはドン・コサック(Don Cossack 農民武装集団)の首領であるステンカ・ラージンの乱が起こる。
この乱が鎮圧されて、ステンカ・ラージンが処刑された翌年にピョートル1世(Peter Ⅰ)が生まれた。
ステンカラージンの乱(Stepan Razin Rebellion) タタール人(モンゴルの一族)の首長ステンカ・ラージン(Stepan Razin)が、農奴強制化に反発し、 1667年挙兵したが、ドン川河畔のシンビルスク(現在のウリヤノス)で政府軍に捕らえられ、モスクワで処刑された。 |
1682年、ピョートル1世が即位した。
彼はロシア軍の近代化の必要性を痛感し、1697年大使節団とともに西ヨーロッパの技術、制度を視察。
オランダ、イギリスなどで工場、学校、病院を見学、造船、砲術などを学び、多くの技術者を連れて帰国、軍の近代化に着手した。
ピョートル1世は、東では清の第4代皇帝・康熙帝に南下政策を阻まれて、1689年にネルチンスク条約を結ぶ。
西では、1700年にデンマーク・ポーランドと組んで、スウェーデンのカール12世と北方戦争を戦って勝利した。
この勝利によって1712年にバルト海をのぞむペテルブルクが建設されて、ロシアの首都となった。
北方戦争(Northern War) 1700~1721年、バルト海支配をめぐりスウェーデンとロシア・ポーランド・デンマークなどが行なった戦争。 はじめスウェーデンが優勢だったが、1709年のポルタバでの戦いにピョートル1世が大勝。 優位に立ったロシアはバルト海沿岸に進出しペテルブルクを建設した。 |
ロシア帝国皇帝 | ||
ピョートル1世(Peter I) | (在位1682年~1721年) | ペテルブルク建設(1712年) |
ピョートル1世(Peter I) | (在位1721年~1725年) | 国名を「ロシア帝国」に改称 |
エカチェリーナ1世(Catherine I) | (在位1725年~1727年) | |
ピョートル2世(Peter II) | (在位1727年~1730年) | |
アンナ(Anna Ioannovna) | (在位1730年~1740年) | |
イヴァン6世(Ivan VI) | (在位1740年~1741年) | |
エリザヴェータ(Elizabeth) | (在位1741年~1762年) | 七年戦争(1756年) |
ピョートル3世(Peter III) | (在位1762年~1762年) | |
エカチェリーナ2世(Catherine II) | (在位1762年~1796年) | ポーランド分割(1772年) |
パーヴェル1世(Paul I) | (在位1796年~1801年) | |
アレクサンドル1世(Alexander I) | (在位1801年~1825年) | ウィーン会議出席(1814年) |
ニコライ1世(Nicholas I) | (在位1825年~1855年) | クリミア戦争(1853年) |
アレクサンドル2世(Alexander II) | (在位1855年~1881年) | |
アレクサンドル3世(Alexander III) | (在位1881年~1894年) | |
ニコライ2世(Nicholas II) | (在位1894年~1917年) | ロシア革命により退位 |
ピョートル1世の死後は幼皇や女帝が続いた。
1756年の七年戦争では、ロシアのエリザヴェータはオーストリアのマリア・テレジア
とともにプロイセンのフリードリヒ2世と戦った。
女性君主によるプロイセン包囲網は、エリザヴェータが急死すると崩壊してしまった。
彼女の跡を継いだピョートル3世がブリードリヒ2世の信奉者であっために、
プロイセンと勝手に単独講和してしまったからである。
七年戦争(Seven Years' War 1756~1763年) プロイセンのフリードリヒ2世(大王)とオーストリアのマリア・テレジアとの間で、 シュレジエンの領有をめぐって始まった戦争。 フランス、ロシアがオーストリア側、イギリスがプロイセン側についた。 オーストリアはマリア・テレジアの息子ヨーゼフ (のちの2世) を父帝フランツ1世の死後、 神聖ローマ皇帝として認めるという約束だけを得、プロイセンのシュレジエン領有を 確認して戦争は終った。 この戦争の結果、プロイセンはヨーロッパ列強と認められた。 また海外植民地(インド・カナダ)で、イギリスがフランスを破り、 英国経済の世界的優位が確立した。 ロシアは、ヨーロッパ進出の足がかりとして参戦したが、中途でプロイセンと和議を結び、 戦線を離脱したため、領土的には得るものがなかった。 |
この政治的にも夫としても無能だったピョートル3世に愛想をつかし、夫を退けて即位したのが妻のエカチェリーナ2世である。
啓蒙専制君主として有名な彼女はフランスの文化を愛し、ヴォルテールと文通してフランスの哲学者・文学者ディドロを宮廷にまねいている。
またヤゲウォ朝が断絶して選挙王制となっていたポーランドに対し、1772年にロシア(エカチェリーナ2世)・
プロイセン(フリードリヒ2世)・オーストリア(マリア・テレジア・ヨーゼフ2世)によって第1回ポーランド分割が行われた。
1773年に起こったウラル・コサック中心のプガチョフの農民反乱以降は、貴族と連携して農奴制を強化した。
プガチョフの乱(Pugachev's Rebellion) エカチェリーナ2世統治下のロシアで、1773~1775年に起こった大農民反乱。 ドン・コサック(Don Cossack 農民武装集団)出身のプガチョフ(Pugachyov 1742~1775) が地主打倒・農奴解放を唱えて蜂起。各地に波及したが政府軍に敗れ、プガチョフは処刑された。 |
1775年にアメリカ独立戦争が起こると、エ力チェリーナ2世は1780年にスウェーデン・デンマーク・プロイセン・
ポルトガルなどが参加する武装中立同盟を提唱し、イギリスを孤立させ、間接的とはいえアメリカの独立を成功させた。
エ力チェリーナ2世は領土の拡大政策も行って、南では1783年にオスマン帝国と争ってクリム・ハン国を併合し、
クリミア半島にセヴァストリポリ要塞を建設した。(ロシア・トルコ戦争)
その後のフランス革命に対して、エカチェリーナ2世は政治的には無関心を貫いた。
しかもそのどさくさにまぎれて第2回ポーランド分割を行い、コシューシコらの抵抗を鎮圧して、
1795年の第3回ポーランド分割ではポーランド王国を消滅させた。
コシューシコ(Kosciuszko 1746~1817) ポーランドの愛国者。フランスに留学。アメリカ独立戦争に参加し、 ワシントンの副官として活躍した。 帰国後、ポーランドの分割に反対し、1794年、蜂起の指導者としてロシアに抵抗して失敗。 晩年はスイスに隠棲し、そこで没した。 |
19世紀初頭は、世界がナポレオンとの戦いで明け暮れた時期であった。
アレクサンドル1世(在位1801~1825年)の時代、ナポレオン率いるフランス軍は、
ロシアに深く攻め込むが、焦土作戦をとったロシアの前に壊滅的打撃を受け、ナポレオン政権崩壊のきっかけを作る。
そのことから国際社会におけるロシアの地位は向上するが、一方でナポレオン軍を追ってパリ入城を果たしたロシア軍の
貴族将校たちは、直接ヨーロッパに触れたことで、ロシアの後進性を悟ることになる。
1825年12月、農奴制と専制政治の打倒を掲げて、貴族将校たちにより反乱(デカブリストの乱)が起きた。
そのさなかに即位したニコライ1世(在位1822~1855年)は、反政府的活動を弾圧し、
また検閲制度を強化するなど、専制政治の度合いをより強めていく。
対外的には「ヨーロッパの憲兵」を自任し、革命運動の鎮圧に熱意を注いだが、
彼の30年の治世がロシアの立ち遅れを決定的なものとしたという見方もできる。
1853年に始まったクリミア戦争(対トルコ戦争)では、トルコのほかイギリスやフランスも敵に回したことで、
苦戦を強いられ、1855年にセヴァストポリ要塞が陥落、ロシアは黒海の制海権を失った。
クリミア戦争のさなかに即位したアレクサンドル2世(在位1855~1881年)は、遅ればせながら改革に着手し、
1861年には農奴解放令を発布するが、この解放の制度が農民にとって過酷なものであったため、
かえって社会改革の運動は盛り上がりを見せることになる。
クリミア戦争(Crimean War) 1853年からクリミア半島で行われたオスマン帝国・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍と、 トルコ領内のギリシア正教徒保護を名目に南下政策を進めるロシアとの戦争。 1856年パリ条約が結ばれ、南下を阻まれたロシアは専制による社会矛盾が露呈。 ナイチンゲールの活躍が有名。 |
活動家たちは「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合言葉に農民を啓蒙し、過激な集団も登場する。
1881年、その過激派「ナロードニキ(人民の意思)」派によって、アレクサンドル2世は暗殺され、
政府主導による改革は頓挫した。
跡を継いだアレクサンドル3世(在位1881~1894年)は、再び専制護持の方針に立ち返るが、
経済発展においては積極政策をとり、政情不安を抱えたまま、ロシアの国力、軍事力は拡大する。
シベリア鉄道の建設が進められたのもこの時期である。
さらにニコライ2世(在位1894~1917年)の治世に入って、日清戦争後の極東進出へ積極的に乗り出し、日本との対立を招くことになる。
1904年、満州の権益をめぐる日露間の対立は、全面戦争へと発展するが、すでに国内における革命への機運は十分に高まっていた。
翌1905年1月、サンクトペテルブルグで血の日曜日事件が起き、5月には日本海海戦においてバルチック艦隊が全滅し、敗北が決定的となる。
こうしてロマノフ王朝は、崩壊への道を進み始めることになる。
血の日曜日事件(Bloody Sunday) 1905年1月22日、日曜日のペテルブルク、生活の窮状や戦争中止を訴える民衆のデモに 軍隊が発砲した事件。 死傷者は2千名にのぼり、民衆の不満は高まり、ロシア革命の発端となる。 |
1914年、サラエボ事件を発端として、第一次世界大戦が勃発すると、ロシアはセルビア支持を表明した。
オーストリア・ハンガリー帝国を支持するドイツは、帝政ロシアに宣戦布告し、
タンネンベルクの戦いでロシア軍に壊滅的な打撃を与え、ロシア領内に進撃した。
対ドイツ戦では、敗北が続き、ロシア国内では次第に不満が高まっていった。
1917年2月、首都ペトログラード(旧サンクトペテルブルク)で、パンと平和の要求を掲げた国際婦人デーの婦人労働者などのデモ行進に対し、軍隊が発砲した。
このため労働者や兵士らによるデモやストライキが各地に広がり、ニコライ2世は退位に追い込まれた。(二月革命)
これにより、約300年続いたロマノフ王朝は終焉を迎えた。
二月革命(February Revolution) 1917年3月12日(ロシア暦2月27日)ロシアの労働者・兵士らがツァーリの専制政治を打倒した革命。 これによりロマノフ王朝が倒れ、ケレンスキー首班の臨時政府が成立。 |
帝政は崩壊したが、第一次世界大戦は継続していたため、ケレンスキー(Kerensky)を首相とする戦争遂行のための臨時政府が設立された。
これに対して、レーニン(Lenin 1870~1924)の指導の下、労働者や兵士たちによるボリシェヴィキ(共産党)が結成され、反戦デモが繰り返された。
1917年10月、レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起し、臨時政府官邸を襲撃、ケレンスキーはフランスへ亡命した。(十月革命)
ここに史上初めての社会主義革命が達成され、ロシア・ソビエト社会主義共和国が成立した。
十月革命(October Revolution) 1917年11月7日、レーニンらの指導するボリシェヴィキがペトログラードに武装蜂起し、 全国に波及、ケレンスキー臨時政府が倒れてソビエト政権を樹立した革命。 |
1918年3月、ドイツとの間で単独講和条約が結ばれ、ロシアは第一次世界大戦から離脱した。
ボリシェヴィキはロシア共産党と改称され、首都はペトログラードからモスクワに移され、政府はクレムリンに置かれた。
1922年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカース(グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン)の
各ソビエト社会主義共和国の全権代表団が集まり、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立が宣言された。
1924年にレーニンが死去すると、スターリン(Stalin 1878~1953)が実権を握った。
スターリンは、計画経済を推進し、国内の重工業化を達成した。
一方で独裁的な恐怖政治を敷き、自身の政策に反対する約70万人が処刑されたといわれる。(大粛清)
1939年9月、ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍のポーランド侵攻を機に、第二次世界大戦が勃発。
1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。
戦いは長期化したが、1942年11月、スターリングラード攻防戦でソ連が勝利、
ドイツ軍に占領されていた領土の大部分を回復した。
1945年4月、ソ連軍はベルリンを包囲、ヒトラーは自殺し、同年5月、ドイツは無条件降伏した。
だが独ソ戦で甚大な被害を受けたソ連は、自国の安全確保のため、周辺の東欧諸国を親ソ的な国に
することを望んだ。
戦後の東欧では、ソ連の圧力と工作によって社会主義政権が次々と成立。
社会主義の拡大を恐れるアメリカとの冷戦が始まった。
1947年のコミンフォルム(ソ連とヨーロッパ共産党の協議会)の結成をはじめとして、
ソ連が東欧を陣営に組み込み、西側に対抗した。
1953年、独裁者スターリンが死去。
後任のフルシチョフ(Khrushchev)は、1956年に「スターリン批判」を行い、彼の恐怖政治や
個人崇拝を批判した。
ソ連の方針転換に刺激され、東欧でも自由化の動きが出始めた。
だがソ連は軍事介入を行って、ハンガリーの反ソ運動と民主改革を鎮圧した。
皮肉にも、スターリン批判は、ソ連が東欧を恐怖で支配していることを知らしめることになった。
1962年、フルシチョフが、キューバにミサイル基地を建設しようとしたことをきっかけに、
キューバ危機が発生した。
核兵器によるアメリカ本土への攻撃を危惧したケネディ大統領は、基地の撤去を要求して
キューバの海上を封鎖した。
これにより、両大国が睨み合いとなった。
人類はこのとき、最も核戦争に近づいたといわれている。
結局、フルシチョフが譲歩して危機は回避され、米ソは平和共存路線を回復した。
1964年からブレジネフ(Brezhnev)の長期政権となった。
体制は安定していたが、経済は停滞。政治腐敗も進み、軍事費が財政を圧迫した。
1985年、ゴルバチョフ(Gorbachev)がソ連共産党書記長に就任すると、政治、経済、文化など
あらゆる面でのペレストロイカ(Perestroika 改革)の必要性を唱え、自由化、民主化を推進した。
1989年2月、アフガニスタンからの撤兵が完了し、同年12月、地中海のマルタ島で、アメリカの
ブッシュ大統領と会談し、長い間続いていた冷戦の終結宣言を行った。
一方で、ソ連のこれまでの秘密主義を廃止して、情報公開を進めるグラスノスチ(Glasnost)を進める。
これにより、共産党幹部のスキャンダルや汚職も暴露され、国民の反共産党感情を高める結果となった。
ゴルバチョフのこうした政策は、ポーランドなどの東欧諸国にも刺激を与え、従来の
社会主義体制が軒並み崩壊し、民主化を実現する「東欧革命」に発展した。
1990年、バルト三国が独立を宣言するなど、日増しに東欧諸国の自立要求が強まっていった。
ゴルバチョフは、こうした流れを止めることができず、1991年12月、書記長を辞任。
1991年同月、ロシア共和国のエリツィン(Yeltsin)がリーダーシップをとり、
東欧11共和国で独立国家共同体(CIS)を結成した。
ここにソ連邦は崩壊し、ロシア革命以降続いたその歴史に幕を閉じた。
社会主義体制を放棄したロシアは、新たにロシア連邦として資本主義の道を歩むことになった。
冷戦が終結すると、欧州統合への動きが活発となった。
1993年、共通通貨の導入や、外交面での統合などを定めたマーストリヒト条約(Treaty of Maastricht)
が発効し、欧州連合(EU)が成立した。
以降、加盟国は増え続け、21世紀に入ると欧州連合は、東欧にも拡大し、
ロシアの勢力圏を脅かすようになった。
新たに生まれた欧州連合とロシアの対立関係は「新冷戦」と呼ばれている。
2014年、ウクライナで親EU派と親ロシア派との内戦が勃発し、ロシア軍が軍事介入した。
クリミア半島では、住民投票の結果、ロシアへの編入が決まる事態となった。
これは欧州連合とロシアの代理戦争ともいえ、政治的和解への道はまだ見えていない。
ロシア史 | ||
375年 | 西ゴート人、ドナウ川を渡り西進、ゲルマン民族大移動始まる | |
862年 | ノルマンのリューリク、ロシアにノブゴロド王国(862~1478年)を建国 | |
882年 | ノブゴロドのオレグ、キエフ公国(882~1240年)を建国 | |
988年 | キエフ公国のウラジミル1世(聖公)、ギリシア正教を国教とする | |
1240年 | モンゴル帝国のバトゥ、キエフを占領 | |
1243年 | バトゥ、キプチャク・ハン国(1243~1502年)を建国 | |
1263年 | ダニール公、モスクワ公国(1263~1325年)を建国 | |
1325年 | イヴァン1世、モスクワ大公となりモスクワ大公国(1325~1613年)成立 | |
1462年 | イヴァン3世(大帝)、モスクワ大公となる | |
1480年 | モスクワ大公国、キプチャク・ハン国の支配から独立 | |
1547年 | イヴァン4世(雷帝)、ツァーリの称号を正式採用 | |
1552年 | カザン・ハン国を併合 | |
1556年 | アストラハン・ハン国を併合 | |
1598年 | シビル・ハン国を併合 | |
1613年 | ロマノフ朝(1613~1917年)成立 | |
1632年 | ヤクーツクに要塞築く | |
1649年 | ロシアのアレクセイ1世、法令集「ウロジェーニェ」を確立 | |
1649年 | オホーツクに集落建設 | |
1649年 | ロシアのハバロフ、アムール川(黒竜江)探検開始(~1653) | |
1654年 | ネルチンスクに築城 | |
1670年 | ステンカ・ラージンの乱 | |
1676年 | オスマン帝国、ロシアと交戦(~1681。露土戦争) | |
1682年 | ピョートル1世(大帝)即位 | |
1684年 | 清、アムール川北岸のアルバジン城でロシアと衝突(チェルニゴフスキー) | |
1689年 | 清とネルチンスク条約締結。国境を定める | |
1697年 | ピョートル1世(大帝)、西欧視察旅行(~1698) | |
1699年 | オスマン帝国、オーストリア、ベネチア、ポーランドの 3国とカルロビッツ条約締結 | |
1700年 | 北方戦争始まる(~1721) | |
1707年 | この頃カムチャツカ領有公布 | |
1709年 | ポルタバの戦いでロシア大勝(北方戦争) | |
1710年 | オスマン帝国、プルト河畔でロシアを破る(~1711。北方戦争、露土戦争) | |
1712年 | ピョートル1世(大帝)、首都をモスクワからペテルブルグに移転(サンクトペテルブルグ) | |
1721年 | ニスタットの和約。北方戦争終結 | |
1721年 | ピョートル1世、国名をロシア帝国(1721~1917年)と定める | |
1727年 | 清とキャフタ(恰克図)条約締結 | |
1733年 | ポーランド継承戦争始まる(~1735) | |
1762年 | エカチェリーナ2世(大帝)即位 | |
1768年 | 露土戦争(~1774)。オスマン帝国衰勢に向かう | |
1772年 | 第一次ポーランド分割 | |
1773年 | プガチョフの反乱(~1775) | |
1774年 | オスマン帝国、ロシアとクチュクカイナルジ条約を締結。黒海沿岸を割譲 | |
1783年 | クリム・ハン国、ロシアに併合 | |
1792年 | オスマン帝国とヤシ条約を結び、クリミア半島を併合(露土戦争) | |
1792年 | (寛政4)ロシア使節ラクスマン、根室に来航、通商を要求。大黒屋光太夫帰国 | |
1793年 | 第一次対仏大同盟(~1797) | |
1793年 | 第二次ポーランド分割 | |
1795年 | 第3次ポーランド分割 | |
1804年 | 第3次対仏大同盟(~1805) | |
1804年 | (文化1)ロシア使節レザノフ、長崎に来航。翌年江戸幕府、通商要求を拒否 | |
1805年 | アウステルリッツの戦い (12月2日) | |
1807年 | ティルジット条約 (7月) | |
1812年 | ナポレオン1世、ロシア遠征 (6月24日) | |
1813年 | 諸国民解放戦争始まる(~1814) | |
1813年 | ライプチヒの戦い (10月16日) | |
1814年 | ウィーン会議始まる(~1815.6) (9月) | |
1825年 | デカブリストの乱 (12月) | |
1828年 | トルクマンチャイ条約。イランにおける治外法権獲得 (2月10日) | |
1847年 | ロシアのムラビヨフ、東シベリア総督となる | |
1853年 | クリミア戦争始まる(~1856) (10月4日) | |
1854年 | (安政1)日露和親条約(千島列島) (12月21日) | |
1855年 | アレクサンドル2世即位 (3月) | |
1856年 | クリミア戦争終結、パリ条約締結 (3月30日) | |
1858年 | 清、ロシアと愛琿条約締結 | |
1860年 | 清、ロシアにウスリー川以東を割譲(北京条約) | |
1861年 | 農奴解放令 | |
1863年 | ポーランド、一月蜂起 (1月22日) | |
1863年 | トルストイ「戦争と平和」(~1869) | |
1867年 | アメリカ、ロシアからアラスカ買収 | |
1868年 | ブハラ・ハン国(マンギト朝)を保護下に置く | |
1871年 | 清のイリ地方を占領(イリ条約 ) | |
1873年 | ヒバ・ハン国を保護下に置く | |
1873年 | ドイツ、オーストリア、ロシアによる三帝同盟結成 (10月) | |
1875年 | (明治8)日本と樺太・千島交換条約締結 (5月7日) | |
1875年 | ボスニアとヘルツェゴビナ、オスマン帝国に反乱(セルビア・トルコ戦争) (7月) | |
1876年 | コカンド・ハン(浩罕汗)国を併合 | |
1877年 | 露土戦争(~1878) (4月) | |
1878年 | サンステファノ条約締結。露土戦争終結 (3月3日) | |
1878年 | ベルリン会議。ロシアの南下政策挫折 (6月13日) | |
1880年 | ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」 | |
1881年 | 清にイリ地方返還(イリ条約) | |
1881年 | 人民の意志(党)(ナロードニキ)、ロシア皇帝アレクサンドル2世を暗殺 (3月13日) | |
1881年 | ドイツ、オーストリア、ロシアが新三帝同盟締結(~1887。三帝同盟) (6月) | |
1882年 | 清、ロシアとカシュガル界約締結 | |
1887年 | ドイツと再保障条約締結(~1890) (6月18日) | |
1891年 | (明治24)大津事件。ロシア皇太子負傷(ニコライ2世) (5月11日) | |
1891年 | 露仏同盟(1894.1.4完成) (8月) | |
1891年 | シベリア横断鉄道の建設始まる | |
1894年 | ニコライ2世即位(~1917) (11月1日) | |
1895年 | (明治28)ドイツ、フランスの三国干渉。日本、遼東半島還付(5.5) (4月23日) | |
1896年 | 清と東清鉄道敷設に関する対日本密約(日露戦争) | |
1898年 | ロシア社会民主労働党結成(ソ連共産党) | |
1898年 | 清から旅順、大連を租借 | |
1898年 | スタニスラフスキーら、モスクワ芸術座創設 (10月) | |
1899年 | アメリカ、列強に対し中国進出に関する門戸開放政策を宣言 (9月6日) | |
1902年 | 清、ロシア軍の満州撤兵に関する条約(満州還付条約)をロシアと締結 (4月) | |
1903年 | ロシア社会民主労働党、ボルシェビキとメンシェビキに分裂(ソ連共産党) | |
1904年 | (明治37)日露戦争(~1905) (2月8日) | |
1904年 | シベリア横断鉄道開通 (7月21日) | |
1905年 | 血の日曜日事件。第一次革命始まる(ロシア革命) (1月22日) | |
1905年 | (明治38)ポーツマス条約(日露講和)調印。日比谷焼打ち事件起こる (9月5日) | |
1906年 | 国家基本法発布、第一回国会招集 (5月10日) | |
1906年 | ストルイピンの農業改革始まる | |
1907年 | (明治40)第一次日露協約調印 (7月30日) | |
1907年 | イラン、アフガニスタン、チベットに関する英露協商締結。(8月31日) | |
1907年 | 露仏同盟、英仏協商と合わせて三国協商成立 (8月31日) | |
1908年 | ブルガリア帝国独立宣言(ブルガリア史) (10月5日) | |
1908年 | オーストリア、ボスニア・ヘルツェゴビナを併合 (10月7日) | |
1911年 | ストルイピン首相暗殺 (9月14日) | |
1912年 | 第一次バルカン戦争 (10月8日) | |
1913年 | 第二次バルカン戦争 (6月29日) | |
1914年 | サラエボ事件。第一次世界大戦始まる(~1918) (6月28日) | |
1916年 | 連合国間でサイクス・ピコ協定締結 (5月9日) | |
1916年 | レーニン「帝国主義論」(帝国主義論) | |
1917年 | 二月革命。ニコライ2世退位(3.15) (3月13日) | |
1917年 | 十月革命。レーニン、ロシア・ソビエト社会主義共和国(1917~1991年)を樹立 (11月8日) | |
1918年 | ブレスト・リトフスク条約 (3月3日) | |
1918年 | (大正7)シベリア出兵 (8月12日) | |
1918年 | チェコスロバキア独立宣言。マサリク、初代大統領に就任(~1935) (10月18日) | |
1919年 | コミンテルン(第3インターナショナル)創立(~1943) (3月) | |
1919年 | サンジェルマン条約締結。オーストリア・ハンガリー帝国解体 (9月10日) | |
1920年 | (大正9)尼港事件 (5月25日) | |
1921年 | ソ連、新経済政策(ネップ)施行(~1928) (3月) | |
1922年 | スターリン、ソ連共産党書記長就任 (4月3日) | |
1922年 | ドイツとソ連、ラパロ条約調印 (4月16日) | |
1922年 | 15共和国によるソビエト社会主義共和国連邦(1922~1991年)成立 (12月30日) | |
1923年 | 孫文・ヨッフェ共同宣言発表 (1月26日) | |
1924年 | レーニン死去 (1月21日) | |
1925年 | (大正14)日ソ基本条約調印、国交回復 (1月20日) | |
1925年 | ソ連、一国社会主義路線決定 (12月18日) | |
1925年 | 映画「戦艦ポチョムキン」(エイゼンシュテイン) | |
1928年 | ソ連、第一次5ヵ年計画開始 | |
1934年 | ソ連、国際連盟加盟 (9月18日) | |
1935年 | 仏ソ相互援助条約調印 (5月2日) | |
1935年 | コミンテルン第7回大会(~.8)。反ファシズムの人民戦線テーゼ採択 (7月) | |
1936年 | ソ連、スターリン憲法制定(ソビエト憲法) | |
1937年 | 中ソ不可侵条約成立 (8月21日) | |
1938年 | (昭和13)張鼓峰事件 (7月11日) | |
1939年 | ドイツ、チェコスロバキアを解体(チェコスロバキア史) (3月15日) | |
1939年 | (昭和14)ノモンハン事件 (5月) | |
1939年 | 独ソ不可侵条約調印 (8月23日) | |
1939年 | ドイツ、ポーランド侵攻。英仏、ドイツに宣戦(9.3)。第二次大戦始まる(~1945)(9月1日) | |
1940年 | トロツキー、メキシコで暗殺 (8月20日) | |
1941年 | (昭和16)日ソ中立条約調印 (4月13日) | |
1941年 | ドイツ、ソ連を奇襲。独ソ戦始まる(~1945) (6月22日) | |
1943年 | テヘラン会議 (11月28日) | |
1944年 | ダンバートンオークス提案公表 (10月9日) | |
1945年 | ヤルタ会談(ヤルタ体制) (2月4日) | |
1945年 | ポツダム会談。ポツダム協定締結(.8.2) (7月17日) | |
1945年 | (昭和20)ソ連、日本に宣戦布告 (8月8日) | |
1945年 | 中ソ友好同盟条約調印 (8月14日) | |
1945年 | 国際連合設立 (10月24日) | |
1945年 | モスクワ協定成立 (12月27日) | |
1946年 | 第一回国連総会、安全保障理事会成立 (1月10日) | |
1947年 | 連合国と旧枢軸国、パリ条約調印 (2月10日) | |
1947年 | コミンフォルム結成(~1956) (9月) | |
1948年 | ソ連、ベルリン封鎖(~1949) (6月24日) | |
1949年 | ソ連・東欧 5ヵ国、経済相互援助会議(コメコン)設置 (1月) | |
1950年 | 中ソ友好同盟相互援助条約締結 (2月14日) | |
1953年 | ユーゴスラビア、新憲法制定。チトー大統領就任(~1980) (1月) | |
1953年 | スターリン死去 (3月5日) | |
1955年 | ソ連・東欧 7ヵ国、ワルシャワ条約調印 (5月14日) | |
1955年 | ジュネーブ四大国首脳会談 (7月18日) | |
1956年 | フルシチョフ、ソ連共産党第20回大会でスターリン批判 (2月14日) | |
1956年 | (昭和31)日ソ共同宣言(国交回復) (10月19日) | |
1956年 | ハンガリー動乱。ソ連、軍事介入 (10月23日) | |
1956年 | ハンガリー、ナジ首相失脚 (11月4日) | |
1957年 | ソ連、人工衛星スプートニク1号打ち上げ成功 (10月4日) | |
1960年 | フルシチョフ、在中国ソ連人専門家召還(中ソ対立) | |
1961年 | ソ連、ボストーク1号打ち上げ成功(ガガーリン) (4月12日) | |
1961年 | ベオグラードで非同盟諸国会議 (9月1日) | |
1963年 | 米英ソ、部分的核兵器実験禁止条約に調印 (8月5日) | |
1964年 | フルシチョフ解任。後任第一書記にブレジネフ(~1966)、首相にコスイギン(~1980) (10月14日) | |
1968年 | 核兵器不拡散条約調印 (7月1日) | |
1968年 | ソ連・東欧軍、チェコスロバキアに侵入(チェコ事件) (8月20日) | |
1969年 | 珍宝島事件(中ソ国境紛争) (3月2日) | |
1970年 | 西ドイツ・ソ連条約調印 (8月12日) | |
1972年 | 第一次戦略兵器制限取決め SALT I (5月26日) | |
1973年 | 米ソ、核戦争防止協定調印 (6月22日) | |
1975年 | アメリカのアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船がドッキング成功 (7月17日) | |
1978年 | ソ越友好協力条約調印 (11月3日) | |
1979年 | 中国、中ソ友好同盟相互援助条約破棄 (4月3日) | |
1979年 | 第二次戦略兵器制限取決め SALT II (6月18日) | |
1979年 | ソ連、アフガニスタンに軍事介入(アフガニスタン紛争) (12月24日) | |
1980年 | ポーランド、自主管理労働組合「連帯」結成。委員長にワレサ (9月22日) | |
1981年 | ポーランド、ヤルゼルスキ、戒厳令を施行(~1983。ポーランド史) (12月13日) | |
1982年 | ソ連、ブレジネフ書記長死去。後任にアンドロポフ(~1984) (11月10日) | |
1983年 | 大韓航空機撃墜事件 (9月1日) | |
1984年 | ソ連、アンドロポフ書記長死去。後任にチェルネンコ(~1985) (2月9日) | |
1985年 | ソ連、チェルネンコ書記長死去。後任にゴルバチョフ(1990大統領。ペレストロイカ) (3月10日) | |
1986年 | ソ連、チェルノブイリ原子力発電所事故 (4月26日) | |
1986年 | 米ソ首脳、レイキャビークで戦略兵器削減交渉 (10月11日) | |
1987年 | 米ソ、中距離核戦力全廃条約調印 (12月8日) | |
1988年 | アルメニア地震 (12月7日) | |
1989年 | ポーランド、連帯のマゾウィエツキが首相就任(~1990) (8月24日) | |
1989年 | ハンガリー、共和国宣言。新憲法下、共産主義を放棄(ハンガリー史) (10月23日) | |
1989年 | ベルリンの壁崩壊(ドイツ統一問題) (11月9日) | |
1989年 | チェコスロバキア、ビロード革命 (11月17日) | |
1989年 | 米ソ首脳、マルタ会談で冷戦終結宣言 (12月2日) | |
1989年 | ルーマニア、チャウシェスク独裁体制崩壊 (12月25日) | |
1990年 | バルト3国相次ぎ独立宣言 | |
1990年 | ソ連、共産党一党支配体制放棄。市場経済移行計画採択。ゴルバチョフ、大統領に就任(~1991) (3月15日) | |
1990年 | ワレサ、ポーランド大統領就任(~1995) (12月22日) | |
1991年 | ソ連、ロシア共和国大統領にエリツィン (6月12日) | |
1991年 | クロアチア、スロベニア独立宣言 (6月25日) | |
1991年 | 経済相互援助会議(コメコン)解散 (6月28日) | |
1991年 | ワルシャワ条約機構解散 (7月1日) | |
1991年 | 米ソ、第一次戦略兵器削減条約 START I調印 (7月31日) | |
1991年 | ソ連、保守派による8月クーデター失敗 (8月19日) | |
1991年 | ソビエト社会主義共和国連邦解体。独立国家共同体(1991年~)成立 (12月21日) | |
1991年 | ロシア・ソビエト社会主義共和国が解体し、ロシア連邦(1991年~)成立(12月25日) | |
1992年 | ボスニア・ヘルツェゴビナ、独立宣言(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争) (3月27日) | |
1992年 | セルビア、モンテネグロが新ユーゴスラビア連邦結成 (4月27日) | |
1993年 | チェコスロバキア、チェコとスロバキアに分離 (1月1日) | |
1993年 | 米ロ、第二次戦略兵器削減条約 START II調印 (1月3日) | |
1994年 | ココム廃止 (3月31日) | |
1994年 | チェチェンに侵攻(チェチェン紛争) (12月11日) | |
1995年 | ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結(デートン和平合意) (11月21日) | |
1999年 | 北大西洋条約機構 NATO、ユーゴスラビアを空爆(コソボ紛争) (3月24日) | |
1999年 | チェチェン侵攻(チェチェン紛争) (9月23日) | |
2000年 | ロシア大統領にプーチン(~2008) (5月7日) | |
2002年 | 米ロ、戦略攻撃能力削減に関する条約調印 (5月24日) | |
2003年 | ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロに再編 (2月4日) | |
2006年 | モンテネグロ独立 (6月3日) | |
2008年 | コソボ独立宣言 (2月17日) | |
2014年 | クリミア危機(3月18日) | |
ユル・ブリンナー(Yul Brynner)
生年月日 : 1920/07/11
出身地 : ロシア/ウラジオストック
没年 : 1985/10/10
ロシア生まれのモンゴル人。そのエキゾチックな容貌が決定打となり、
1951年ブロードウェイ・ミュージカル「王様と私」で主役に抜擢された。
役作りのために剃った坊主頭と精悍なマスク、その強烈な存在感で、
ミュージカルは大ヒット、たちまちスターの座を獲得した。
1956年にはこの映画化で王様を演じ、アカデミー主演男優賞を受賞。
以後スキンヘッドはトレードマークとなった。
その後も西部劇「荒野の七人」スパイ映画「エスピオナージ」など
幅広いジャンルで、果敢な古きよきヒーロー像を演じつづけた。
ロシアのお土産
ロシア旅行のお土産といえば、いわずと知れたマトリョーシカ(Matryoshka)。
マトリョーシカとは、ロシアの 「こけし」 の事で、卵の様な形をしてて、
開けたらまた中に同じ 「こけし」 が出てくる。
次から次に出てくるのでロシアでは赤ちゃんが生まれる縁起物としても知られている。
このマトリョーシカ、中に入ってるのもみんな同じ顔のべっぴんさん。
開けても開けても出てくるマトリョーシカ、いったいいくつ出てくるのか…。
なんとびっくり10人!!
さすがに最後の一人は顔ありません 。。。 この小ささ恐るべし!
そのほか、おすすめは以下の通り。なんと全部マトリョーシカ関連のお土産だ。
マトリョーシカウォッカ | マトリョーシカジャム | マトリョーシカストラップ | |||||
マトリョーシカキーホルダー | マトリョーシカタンブラー | マトリョーシカトートバック |