国名 | スペイン | |||
英語 | Spain | |||
首都 | マドリード | |||
独立年 | - | |||
主要言語 | スペイン語 | |||
面積 (千Km2) | 506 | |||
人口 (百万人) | 46.5 | |||
通貨単位 | ユーロ | |||
宗教 | 約75%がカトリック教徒 | |||
主要産業 | 自動車、食料品、化学品、観光産業 | |||
サグラダ・ファミリア聖堂(Iglesia de la Sagrada Familia) V.カルモナが設計したネオ・ゴシック様式の聖堂を、1883年、 A.ガウディが新たに設計し直したスペイン、バルセロナの聖堂。 ゴシック様式を基礎として、ガウディ独特の生物に着想を得た有機的な形態や多彩なタイル装飾は 4本の完成した塔に最もよく示されている。 |
地理
国土の大部分は標高600~700mの高原で、北部にピレネー、
カンタブリア、南部にシエラ・ネバダ山脈が走る。
最高点はシエラ・ネバダのムラセン山(3482m)。
ドウロ、タホの二大河が中央部を横断、
北東部のエブロ川、南西部のグアダルキビール川流域には平野が開ける。
北西部は西岸気候、東岸・南岸は地中海式気候、内陸部は大陸性気候。
農業が主で、主要農産物はコムギ、オオムギ、オリーブ、オレンジ、ブドウ。
乾燥した土地が多く、灌漑が進んでいるが、生産性は低い。
ブドウ酒の産で知られ、羊(メリノー種)の飼育が盛ん。
鉱物資源はビルバオの鉄鉱床のほか石炭、銅、水銀、亜鉛、スズ、鉛、
マンガンなど多種あり、他のヨーロッパ諸国への原料提供国となっている。
バルセロナを中心に繊維・機械・化学・セメント・金属工業が行われ、
マドリードなどには軽工業、重工業が発達。
史跡、観光地が各地に多く、観光収入が重要な財源の一つ。
歴史
イベリア半島に居住していた種族を古代ギリシア人はイベロ人(Iberes)と呼んでいた。
イベロという名称はスペイン東部を流れるエブロ川(Iber)に由来している。
イベロ人は農耕民族であり、原住地のサハラ砂漠の乾燥化に伴い、紀元前4000年頃、
イベリア半島の南東部に移住してきたものと推定されている。
紀元前1200年頃、フェニキア人がイベリア半島沿岸部に植民都市を形成し、交易を行った。
彼らは、香水、シルク、陶器を運んできて、イベロ人からワインやオリーブ・オイルを
買い付けた。
紀元前700年頃、インド・ヨーロッパ語族のケルト人(Celts)が、ピレネー山脈を越えて
イベリア半島北西部に入植した。
その後、ケルト人と先住のイベロ人との混血(ケルト・イベロ人 Celtiberians)が進み、
現在のスペイン人の原型となったものとされている。
紀元前600年頃には、カルタゴ人やギリシア人が半島各地に入植して地中海文化が栄えた。
紀元前264年、カルタゴと新興国ローマとの地中海覇権をかけた対決がはじまる。
第2回ポ工二戦争(BC218~BC201)では、カルタゴの将軍ハンニバルが、
イベリア半島に建設されたカルタゴ・ノヴァを拠点にローマと戦った。
ポエ二戦争でローマがカルタゴに勝利すると、BC143年、ローマ軍はイベリア半島に侵攻した。
だがローマ軍は、ルシタニア地方を中心としたケルト人たちの激しい抵抗に遭う。
ケルト人たちはヴィリアトゥス王(Viriathus)のもとに結集し、度々ローマ軍を破った。(ルシタニア戦争)
その後の戦争は一進一退だったが、BC139年にローマはヴィリアトゥスの部下に賄賂を贈って、王を殺させた。
名将を失ったケルト軍をローマはたやすく破り、降伏させた。
BC133年以降、イベリア半島はヒスパニア(Hispania)と呼ばれ、ローマの属州として支配された。
ローマの支配下でメリダ、トレド、コルドバ、セビリアなどの都市が繁栄し、
寺院、円形劇場、水道橋などが次々と建設された。
後にローマの五賢帝として知られるトラヤヌス帝とハドリアヌス帝は、
イベリア半島のセビリアで誕生している。
また各地を結ぶ街道が整備され、イベリア半島のローマ化が進むとともに、
先住民たちの言葉は、ラテン語に置き換えられた。
313年、ローマ帝国でキリスト教が公認されると、イベリア半島内にも
キリスト教が広まっていった。
375年、アジア系遊牧民族フン人(匈奴)の侵攻を受け、東ヨーロッパのゲルマニアに居住していた
ゲルマン人たちは、西方への移動を余儀なくされた。(ゲルマン人の大移動)
ゲルマン人たちは、ウシのひく車に家族や家財をのせ、家畜の群れを伴ってローマ領内に入って来た。
平和的に移動して来たゲルマン人に対して、ローマ帝国は入国を拒否した。
ゲルマン人たちは、生きるために戦いと略奪を行うしかなかった。
約百万人と推定されるゲルマン諸民族は、一斉に怒濤のようにローマ帝国になだれ込んできた。
国力が弱まっていたローマ帝国は、次々に押し寄せるゲルマン諸族によって蹂躙され、
395年、東西に分裂した。(その後、西ローマ帝国は、476年、ついに滅亡する)
ゲルマン民族の一派、西ゴート族は、さらに移動を続け、イベリア半島に到着。
418年、彼らは西ゴート王国を建国、560年にトレドを都に定めた。
西ゴート人たちは、イベリア半島に居住していたローマ人に感化され、キリスト教に改宗、
589年、西ゴート王国の国教をカトリックに定めた。
なお同時期にイベリア半島に移住したスエビ族は、409年、半島北東部にスエビ王国を建国、
585年に西ゴート王国に併合されるまで、150年ほど続いた。
一方、西ヨーロッパでは、サリ族(Salian Franks)の族長クロービスがゲルマン人の
フランク族を統一し、481年にメロヴィング朝フランク王国を建国した。
622年、ムハンマド(570~632年)が創始したイスラム教は、イスラム帝国に受け継がれ、
ムハンマドの死後70年間に、中央アジアから北アフリカに至る大帝国に発展していた。
711年、西ゴート王国では、王位をめぐる後継者争いから国内が混乱し、その隙に乗じて
北アフリカのイスラム帝国ウマイヤ朝が西ゴート王国に侵入した。
同年7月、イスラム軍は、グアダレーテ河畔の戦い(Battle of Guadalete)で西ゴート軍に勝利、
西ゴート王は戦死し、首都トレドは陥落、西ゴート王国は滅亡した。
西ゴート王国滅亡後、王族やキリスト教徒の一部が山岳地帯に逃げ込んでアストゥリアス王国
(Kingdom of Asturias)を建国した
このアストゥリアス王国は、やがてカスティリャ王国を経てスペイン王国に発展することになる。
イスラム支配下のイベリア半島は、シリアのダマスクスを首都とするウマイヤ朝によって統治
される属州となった。
住民のイスラム教への改宗は強制ではなく、税金を納めることでキリスト教の信仰が認められた。
その後、ウマイヤ朝は、ピレネー山脈をこえてフランク王国に侵入したが、カロリング家の
カール・マルテルに732年のトゥール・ポワティエの戦い(Battle of Tours)で撃退された。
750年、シリアのダマスクスがアッバース朝の侵攻により陥落し、ウマイヤ朝が滅亡した。
ウマイヤ朝の王族はイベリア半島に逃れ、コルドバを首都として新たに後ウマイヤ朝を開いた。
人口に占めるイスラム教徒の割合は大幅に増加したが、後ウマイヤ朝支配下のキリスト教徒は
迫害を受けることもなく、引き続き信仰の自由を保証された。
首都コルドバには、壮大なモスクや庭園が建設され、セビリア、グラナダなどの各都市では
高いレベルのイスラム文化が花開いた。
778年、フランク王国のカール大帝は、自らピレネー山脈の南へと進軍し、イスラム勢力の
討伐を図ったが撤退を余儀なくされた。
撤退後、イスラム勢力の侵入に備え、795年にスペイン辺境領を設置した。
徐々に辺境伯領は勢力範囲を広げ、801年にはバルセロナを辺境領に加えた。
このスペイン辺境領は、後にアラゴン王国となり、やがてカスティリャ王国と合併し、
スペイン王国に発展することになる。
1031年、栄華を誇った後ウマイヤ朝が、内紛によって滅亡すると、イベリア半島には
多数のイスラム小国が乱立するようになった。
イスラム諸国が内紛を起こして分裂すれば、それに乗じてキリスト教国の
勢力が拡大するのは当然の勢いであった。
北辺のキリスト教小国であったアストゥリアス王国は、周辺のイスラム諸国を
次々と征服し、1035年、カスティリャ王国を建国する。
1085年、カスティリャ王国は、かつて西ゴート王国の首都であったトレドを奪回した。
その後1236年にコルドバを、1248年にはセビリアを陥落させたカスティリャ王国は、
イベリア半島内の最大勢力に発展した。
残るイスラム勢力は、ナスル朝グラナダ王国ただひとつとなった。
1469年、カスティリャ王国のイサベル王女と、アラゴン王国のフェルナンド王子の
婚姻により、スペイン王国が成立、イベリア半島は新しい時代を迎えた。
1482年2月、スペイン王フェルナンドは騎馬1万の大軍を率いてグラナダ王国に侵攻した。
戦いは一進一退を繰り広げ、10年に渡りグラナダは持ちこたえたが、1492年1月ついに陥落。
かつてイベリア半島に隆盛をきわめたイスラム教徒の国は、ここに完全に消滅した。
レコンキスタ(国土回復運動)完成後、スペイン王国は、ヨーロッパの西端という
地の利を活かし、大西洋航路を開いて、大航海時代の先陣を切ることになる。
スペイン女王イサベルの支援を受け、1492年、探検家コロンブスは、アメリカ大陸の
一部であるカリブ海のサンサルバドル島に上陸した。
だがコロンブスは、スペインに帰還後、インドに到着したと女王イサベルに報告した。
アメリカ大陸の先住民をインディオ(スペイン語でインド人)と称するのはその名残りである。
一方、女王イサベルの孫カルロス1世は、1519年、祖父であるハプスブルク家のマクシミリアン1世
の死去により、神聖ローマ帝国皇帝の地位を継承する。
これにより、スペイン王国は、オーストリア、ネーデルラント(オランダ、ベルギー)、ナポリ、ミラノ、
そしてアメリカ大陸を領有する、太陽の没することなき大帝国に成り上がった。
新大陸では、領土が拡大する一方、入植者が開発した5000を超える銀鉱山からは、莫大な銀が得られた。
だが当時のスペインは、オスマン帝国の侵攻に悩まされていた。
オスマン海軍は、地中海沿岸で海賊まがいの略奪行為を繰り返し、
多くのスペイン船の貨物が奪われ、船員が奴隷として連れ去られていた。
カルロス1世は、ベネチア共和国と同盟し、オスマン海軍に対抗しようとしたが、
1538年のプレヴェザの海戦(Battle of Preveza)で大敗してしまう。
カルロス1世は翌年に退位し、弟フェルディナントに神聖ローマ皇帝位を、
息子のフェリペ2世(Philip II)にスペイン王位を与えた。
1571年、スペイン王フェリペ2世率いる西欧連合艦隊は、強国オスマン帝国の艦隊を、
ギリシア西岸のレパントで激戦の末、破った。(レパントの海戦 Battle of Lepanto)
これにより、オスマン帝国の地中海制覇の野望は打ち砕かれた。
同時に、スペイン王国は、ヨーロッパ最強を誇る海軍国と認められた。
しかし、絶頂期にあったスペインは、ほどなくして衰退の道を歩みはじめることになる。
その大きな要因となったのが、フェリペ2世の宗教政策であった。
カトリックの盟主を自負し、反宗教改革を推し進めていたフェリペ2世は、
新大陸などの植民地からもたらされた富の多くを宮殿や教会建築に費やした。
そして、そのために生じた財力不足を、支配下のオランダへの重税で補おうとした。
その結果、オランダ市民の間に、スペインに対する不満が高まり、独立を求める戦争となった。
オランダがスペインから独立する戦争を始めると、オランダと同じ新教国である
イングランドがオランダを支援するようになった。
これに対してフェリペ2世は、1588年、当時、世界最強といわれた「無敵艦隊」(Spanish Armada)
を出撃させ、イングランドを制圧しようとした。
戦艦は百数十隻、兵士は2万3000人あまり、向かうところ敵なしの「無敵艦隊」であった。
一方、イングランド側は軍艦がわずか34隻、兵力も6000人ほどの戦力だった。
いよいよ、無敵艦隊とイングランド海軍は、英仏海峡で対峙した。(アルマダ戦争 Armada Wars)
これに先立ち、イングランド女王エリザベス1世は、もと海賊のドレーク(Francis Drake)に
イングランド艦隊を指揮させ、無敵艦隊を迎えうつことにした。
エリザベス女王の時代、イングランドでは海賊が大活躍していた。
女王は、イングランド人の海賊に、新大陸から銀を運ぶスペイン船をおそって銀をうばいとることを許可した。
そこで海賊のドレークは、奴隷貿易を独占していたスペインやポルトガルの船をおそって大損害をあたえた。
ドレークは、女王に認められて貴族となり、スペインの無敵艦隊を打ち破る軍の司令官に任命されたのである。
戦いは、狭いドーヴァー海峡(Strait of Dover)で開始され、そこでは火力を使った小回りのきくイングランド船
が有利に戦闘を進め、動きのにぶいスペインの巨大な軍艦は、次々に炎上し撃沈された。
さらに、無敵艦隊は、帰路、嵐にあって損害を受け、スペインに帰ったのは、わずか50隻ほどといわれる。
この敗戦以降、「太陽の沈まない国」スペインは、落日を見ることになった。
1609年、オランダとスペインは休戦協定を結び、オランダは事実上の独立を果たし、
1648年のウエストファリア条約(Peace of Westphalia)によって国際的な承認を得た。
1700年、スペイン王カルロス2世(Charles II)が病死して、跡取りがなくスペイン・ハプスブルグ家は断絶した。
するとフランス王ルイ14世は、自分の孫のフィリップがスペインのハプスブルク家の血すじを引いている
という理由でスペイン王にしようと考えた。
そうなると将来は、フランスとスペイン両国が合体するかもしれない。
フランスの勢力があまりにも大きくなりすぎるのを警戒したイングランドら3国は同盟を結び、
フィリップの王位継承に反対した。その結果、1701年、スペイン継承戦争が起こった。
スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1713年) スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対オーストリア、イングランド、オランダ間で行われた戦争。 1700年スペイン王カルロス2世の死により、スペイン・ハプスブルク家が断絶。 新王にルイ14世の孫フィリップ(フェリペ5世)が即位すると、イングランド・オーストリア・オランダは フランス・ブルボン家の拡張に反対して同盟し、フランス・スペインに宣戦布告した。 |
13年もの戦いの末、この戦争は1713年のユトレヒト条約(Treaty of Utrecht)でようやく終結。
この条約で、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にする事を列国に認めさせることができた。
ただし、将来にわたってフランスとスペインが合体しないという条件付きだった。
スペインは、ジブラルタル半島の一部をイギリスに、南ネーデルラント(現在のベルギー)、
ナポリ、ミラノをオーストリアに割譲することになった。
オランダやベルギーが分離したことで工業地帯を失い、英仏に国力で完全に後れを取り、
自国の領土も侵食されるばかりで、スペインはもはやヨーロッパの後進国に成り下がってしまった。
1759年に即位したカルロス3世は、スペインの近代化を図ろうとしたのだが、現実的には
工業化ではなく、農業振興の政策を採らざるを得なかった。
スペイン本国が停滞状態を続けるなか、ペルーやメキシコをはじめ、ほとんどの
植民地が独立を宣言。
そして1895年、スペイン植民地のキューバで独立運動が激化すると、キューバとの
砂糖貿易に多大の利害をもつアメリカはキューバの独立運動に介入する。
1898年2月、ハバナ湾で米軍艦船のメイン号の爆沈事件が起こると、アメリカは、
これがスペインによるものだとしてスペインに宣戦布告し、米西戦争が勃発。
戦争はカリブ海周辺で始まったが、サンティアゴの海戦(Battle of Santiago de Cuba)でスペインは大敗する。
戦後、スペインは、カリブ海のプエルトリコ、太平洋のフィリピンやグアム島を
アメリカに割譲し、キューバの支配権も失った。
1902年、キューバは、アメリカの保護国として独立した。
第一次世界大戦でスペインは中立政策をとったが、大戦中からの経済混乱が続き、
1923年には軍事独裁政権が成立した。
一方で、貧困層が拡大し、労働運動や組織の力が強くなっていた。
1931年、独裁政権の背後には国王の支援ありとして、王政廃止を求める市民のクーデターが発生、
ブルボン家のアルフォンソ13世は国外脱出して共和政が成立した。
その後1936年、スペインでは、市民や労働者、農民の支持を受けた人民戦線内閣が生まれたが、
資本家や地主などのあと押しを受けた軍人のフランコ将軍(Franco)が反乱を起こした。(スペイン内戦)
スペインで内戦が始まると、ファシズム国家のイタリアやドイツは、フランコ将軍側を支持し、
ソ連が人民戦線側を支持して、激しい戦いが繰り返された。
このとき、英仏は、国内の意見が大きくわれたため、スペイン内戦に干渉しないことにした。
1939年、フランコ将軍ら反乱軍が勝利をおさめて、スペイン内戦は終了した。
ファシズムと民主勢力が戦ったスペイン内戦は、第二次世界大戦の前ぶれともいえる戦争だった。
スペイン内戦では、ファシズムに反対する人々が、人民戦線側を助けて義勇兵として戦っている。
アメリカからかけつけた文学者のヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は、義勇兵として戦った体験から、
小説「誰がために鐘は鳴る」を書き残している。
またナチスドイツの爆撃で、1654人が殺されたスペイン北部の小さな町の惨事を、スペイン生まれの
画家のピカソ(Pablo Picasso)は、怒りをこめて「ゲルニカ」(Guernica)に描いている。
第二次世界大戦が勃発するとスペインは中立を維持したが、大戦後の国際連合はスペインを排除したため、
スペインのフランコ政権は国際社会から孤立していった。
1975年にフランコが死去すると、フアン・カルロス1世が即位してブルボン家が復活した。
王政復活となったスペインは、新憲法を制定、立憲君主国家として民主化を進めることになった。
1986年のヨーロッパ共同体(EC)加盟以降は、経済発展が急速に進んだ。
また1992年に開催されたバルセロナ・オリンピックとセビリア万国博覧会を機に、
スペインは再び繁栄の道を歩みはじめた。
BC1200年 | フェニキア人がイベリア半島に植民都市を建設。 |
BC700年 | ケルト人がイベリア半島北西部に入植。 |
BC264年 | ポエニ戦争(BC264~BC146)はじまる |
BC133年 | ローマのイベリア半島(属州ヒスパニア)支配はじまる。 |
415年 | 西ゴート王国(415~711年)建国。首都トロサ(Tolosa) |
711年 | ウマイヤ朝(711~750年 イスラム王朝)建国。西ゴート王国滅亡。 |
718年 | 西ゴート人、北イベリアにアストゥリアス王国(718~910年)建国。レコンキスタ運動はじまる。 |
732年 | トゥール・ポワティエの戦いでフランクに敗北 |
750年 | ウマイヤ朝滅亡 |
750年 | アッバース朝(750~1258年 イスラム王朝)建国。 |
756年 | 後ウマイヤ朝(756~1031年 イスラム王朝)建国。 |
820年 | ナバラ王国(820~1512年)成立 |
910年 | アストゥリアス王国、レオン王国(910~1037年)と改称。 |
930年 | カスティリャ王国(930~1479年)建国。 |
1023年 | アッバード朝(1023~1091年 イスラム王朝)建国。首都セビーリャ |
1031年 | 内紛で後ウマイヤ朝滅亡。 |
1035年 | カスティリャ王国(1035~1479年)建国。 |
1035年 | アラゴン王国(1035~1479年)建国。 |
1037年 | レオン王国、カスティリャ王国に併合。 |
1056年 | ムラービト朝(1056~1130年 イスラム王朝)建国 |
1076年 | アラゴン王国、ナバラ王国と合併。 |
1091年 | アッバード朝滅亡。 |
1130年 | ムラービト朝滅亡。 |
1130年 | ムワッヒド朝(1130~1269年 イスラム王朝)建国 |
1143年 | ポルトガル王国、カスティリャ王国から独立。 |
1232年 | ナスル朝(イスラム王朝)建国。首都グラナダ |
1258年 | アッバース朝滅亡 |
1269年 | ムワッヒド朝滅亡 |
1282年 | アラゴン王国、シチリア島を領有(シチリアの晩鐘事件) |
1323年 | アラゴン王国、サルデーニャ島領有 |
1442年 | アラゴン王国、ナポリ王国を領有 |
1479年 | アラゴン王国、カスティリャ王国と連合し、スペイン王国成立 |
1492年 | グラナダが陥落し、ナスル朝滅亡。レコンキスタ完了 |
1492年 | コロンブス、アメリカ大陸到達 |
1516年 | ハプスブルグ家のカルロス1世(皇帝カール5世在位:1516~1556年)スペイン王即位 |
1555年 | アウクスブルクの宗教和議 |
1556年 | フェリペ2世(在位:1556~1598年)スペイン王即位 |
1568年 | オランダ独立戦争(1568~1609年) |
1571年 | レパントの海戦 |
1579年 | ネーデルラント北部7州、ユトレヒト同盟 |
1580年 | スペイン、ポルトガルを併合(~1640年) |
1588年 | スペイン無敵艦隊、イギリス艦隊に敗北 |
1598年 | フェリペ3世(在位:1598~1621年)スペイン王即位 |
1605年 | セルバンテス「ドン・キホーテ」執筆 |
1621年 | フェリペ4世(在位:1621~1665年)スペイン王即位 |
1640年 | ポルトガル王国復活 |
1648年 | ウェストファリア条約。スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)独立 |
1665年 | カルロス2世(在位:1665~1700年)スペイン王即位 |
1700年 | フェリペ5世(在位:1700~1746年)スペイン王即位。 スペイン・ブルボン家成立(~1931年) |
1701年 | スペイン継承戦争(~1713年) |
1713年 | ユトレヒト条約 |
1720年 | サルデーニャ王国成立 |
1733年 | ポーランド継承戦争(~1735年)。フランス・スペイン・サルデーニャVSオーストリア・ロシア。ナポリ、シチリア、スペイン領となる |
1740年 | オーストリア継承戦争(~1748年) |
1748年 | アーヘンの和約 |
1756年 | 7年戦争(~1763年) |
1769年 | コルシカ、フランス領となる。 |
1779年 | スペイン~イギリス戦争(~1783年) |
1783年 | ベルサイユ条約(英・仏・西)フランスに西インド諸島の一部を、スペインにフロリダ半島を割譲 |
1793年 | 第1回対仏同盟 |
1799年 | 第2回対仏同盟 |
1805年 | 第3回対仏同盟 |
1805年 | トラファルガーの戦い、アウステルリッツの戦い |
1808年 | スペイン反乱 |
1820年 | スペイン立憲革命 |
1859年 | イタリア統一戦争(~1860年) |
1861年 | イタリア王国成立 |
1873年 | スペイン共和国(第一共和政)(~1874年) |
1874年 | スペイン王国(王政復古)(~1931年) |
1898年 | アメリカ~スペイン戦争。スペイン、キューバ、フィリピン、グァムを失う |
1931年 | スペイン革命(共和国宣言)スペイン共和国(第二共和政)(~1939年) |
1936年 | スペイン内戦 |
1939年 | フランコ独裁(~1975年) |
1975年 | フランコ死去。カルロス1世、スペイン国王即位。スペイン王国(王政復古) |
1986年 | EC加盟 |
アルハンブラ宮殿 (Alhambra)
アルハンブラ宮殿は、グラナダ市南東の丘の上に位置する城塞・宮殿。
「閉ざされた楽園」と形容されるこの宮殿は、イスラム文化の集大成ともいわれ、
12~14世紀にかけて建造された。
13世紀にコルドバを追われたイスラム教徒たちは、1492年までここに留まった後、
キリスト教徒に屈して城を明け渡した。
ライオンの内庭と呼ばれている場所には、十二頭のライオンがとりまく噴水がある。
昔は一時間ごとに別のライオンの口から水が出るようになっていたらしい。
イスラム教のモスクには噴水がつきものだが、この宮殿も優雅な噴水がいくつもある。
「水に浮かぶ宮殿」という別名もあるように、人々の水へのこだわりが感じられる。
(住所:Alhambra, Granada, Andalusia, Spain)
レコンキスタ(Reconquista)
レコンキスタとは、イベリア半島におけるキリスト教徒とイスラム教徒との戦いである。
711年のイスラム軍の侵攻から始まり、1492年までのグラナダ陥落まで約800年間続いた。
この過程でポルトガル・スペイン両国家が成立した。
711年にイベリア半島に進出したイスラム勢力は瞬く間に半島を制圧し、コルドバなどの都市では
高いレベルのイスラム文化が花開いた。
しかしキリスト教勢力がこれを徐々に押し戻し、1492年にはついにイスラム最後の砦である
グラナダ王国が陥落し、イベリア半島は再びキリスト教勢力のものとなった。
グラナダ陥落後、グラナダの街のモスクは破壊されカテドラル(大聖堂)が建設された。
しかしこのアルハンブラ宮殿が完全に破壊されることはなく、現在でもその優美な姿を見せている。
グエル公園 (Park Guell)
1900年、グエル伯爵が建築家ガウディにつくらせた分譲住宅。
しかしデザインが奇抜すぎて2軒しか売れなかった。
やむなくバルセロナ市に公園として寄付したところ、
一躍ファンタジーあふれるテーマパークとして人気急上昇。
公園内は、お菓子の家や波打つベンチ、石造りのヤシの木、
ゴルゴダの丘など、夢と遊び心満載の建造物がいっぱい。
十字架の建つゴルゴタの丘からは、地中海を背にした
同じくガウディ作のサグラダ・ファミリア聖堂の絶景が望める。
グエル公園で1番の人気スポットは、入口の階段にいる大トカゲ。
ギリシア神話をモチーフとした泉の守り神で、全長2.4メートル。
1984年、世界遺産に登録されたグエル公園は、市民の憩いの場とともに、バルセロナ市のシンボルとなり、
世界各地から数多くの客が訪れる観光スポットとなっている。
(グエル公園までのアクセス)
日本からマドリード(イベリア航空)まで14時間。
マドリードからバルセロナ市(イベリア航空)まで1時間30分。
市内からグエル公園まで車で15分
パソドブレ (Paso Doble)
スペイン起源のパソドブレは、マタドール(闘牛士)が入場するときに流れる楽曲です。
スペインの闘牛の歴史は古く、11世紀末に貴族の祝宴の席で行われた記録が残されています。
パソドブレの演奏は当初軍楽隊が担っていました。
闘牛の技術が確立されて民衆の間で人気が高まるとともに、専門の吹奏楽団が次々と結成されました。
18世紀末から19世紀にかけて、闘牛はスペイン最大の娯楽としてすっかり定着したのです。
1920年代、スペイン人たちによって、パソドブレは文化の中心だったパリに渡り流行しました。
そこで楽曲名だったパソドブレがダンスの名前として定着したのです。
そして当時パリを訪れた芸術家の多くが、カフェでパソドブレを楽しんでいました。
アメリカが生んだ偉大な作家「ヘミングウェイ」も、そのひとりでした。
エスパニア・カーニ (Espana Cani)
ヘミングウェイは、闘牛に魅せられて、何度となくスペインを訪れました。
彼が目にした闘牛という異色のスポーツは、文章化されて海外に広く紹介されるようになります。
彼は、小説「日はまた昇る」(1926年)や、エッセイ集「午後の死」(1932年)を書き上げました。
いずれもヘミングウェイの、闘牛への思い入れ具合が伝わる渾身作です。
パソドブレの流行はパリから世界中にほぼ同時期に広まりました。
第二次大戦後、イギリスのダンス教師協会が中心となって現在の様な踊り方が標準化されました。
闘牛をイメージしたこのダンスは、男性が闘牛士の役割を演じます。
一方女性は、時にはケープ、時にはカルメンを演じるなど、様々な役割で踊られることが多いのです。
他のラテンダンスの種目は女性が主役なのに対し、パソドブレは男性が主役として踊ります。
力強く勇ましい動きが特徴のダンスです。