国名 | スウェーデン王国 | |||
英語 | Kingdom of Sweden | |||
首都 | ストックホルム | |||
独立年 | - | |||
主要言語 | スウェーデン語 | |||
面積 (千Km2) | 450 | |||
人口 (百万人) | 9.7 | |||
通貨単位 | クローナ | |||
宗教 | 福音ルーテル派が多数 | |||
主要産業 | 機械工業(含:自動車)、 | |||
化学工業、林業 | ||||
ウプサラ大聖堂 (Uppsala)
ウプサラは、スウェーデン中東部、ウプサラ県の県都。 1164年以降、大司教座の所在地でもある。
ストックホルムの北約 65kmのフューリソン川河畔、森と平野に囲まれた静かな町。
市内には北ヨーロッパ最大のゴシック様式大聖堂、カルル・フォン・リンネ植物園、ビクトリア博物館などがある。
地理
北ヨーロッパ、スカンディナビア半島東部を占める立憲君主制国家。
国土の 8.5%をベーネル湖、ベッテル湖、メーラレン湖を
はじめとする 10万にも及ぶ湖水が占める。
北部ノールランド地方は森林地域で、南部イェーターランド地方は
低い丘陵性台地と沿岸低地からなる農業地帯。
積雪期間は最北部のカレスアンドで 10月~5月にわたるが、緯度のわりに気候は温和。
北部に住む少数のエスキモー系サーミ人、フィン人を除き、国民の大部分は
ゲルマン系(北方ゲルマン人)のスウェーデン人。
公用語はスウェーデン語で、少数民族はサーミ語、フィン語を使用。
産業は豊富に産出する鉄鉱石と石炭を利用する重工業を中心とするが、
軽機械の製造、伝統の農業、林業と合わせ、きわめて高度に発達している。
19世紀に始まった爆薬、安全マッチなどの化学工業も盛ん。
鉄鉱、森林、水資源の活用と国民の堅実な努力により、かつてアメリカに次ぐ
世界第2位の1人当り国民所得を維持した時期もあった。
1973年の石油危機以後は経済停滞を招いたものの、なお1人当りの国民総所得(GNI)は
EU加盟諸国中、比較的上位にあり、高度の生活水準を保つ福祉国家となっている。
中立と人道主義を掲げて国際外交上も特異な立場にたつとともに、国民は冷静で創意に満ち、
ノーベル(Alfred Nobel)をはじめ多くの科学者を世に送る文化国家でもある。
外交政策は非同盟、中立。1995年ヨーロッパ連合 EUに加盟。
歴史 | |
500年 | フィンランドのスヴェアランド地方(Svealand)に、スヴェア人の最初の国家が成立 |
862年 | スヴェア人の族長リューリク(Rurik)がロシア北西部にノブゴロド王国(Novgorod)を建国 |
882年 | スヴェア人のオレグ(Oleg)がキエフ公国(Kievan Rus)を建国 |
970年 | スヴェア人が、スウェーデン中部にスウェーデン王国を建国 |
1114年 | スウェーデン王による「十字軍」が始まり、フィンランドを支配下に |
1397年 | カルマル同盟(Kalmar Union)の結成。デンマーク連合王国の成立 |
1523年 | カルマル同盟とデンマーク連合王国を離脱。カルマル同盟は解消となる。スウェーデン王国 |
1630年 | プロテスタント支援を名目に三十年戦争に参戦 |
1648年 | ウェストファリア条約(Peace of Westphalia)でバルト海南岸のドイツの領土を獲得 |
1721年 | 北方戦争(The Northern War 1700~1721年)でロシアに敗北。バルト海沿岸の土地を失う |
1809年 | フィンランドをロシアに奪われる |
1815年 | デンマークからノルウェーを割譲される。スウェーデン・ノルウェー王国成立。 |
1905年 | ノルウェー独立。スウェーデン王国 |
1946年 | 国連加盟 |
1995年 | 欧州連合(EU)加盟 |
北欧史
スカンディナビア半島は、紀元前1万年頃まで氷床に覆われていた。
氷河期が終わり、最初の人類の痕跡は紀元前8000年頃とされている。
氷が溶けてスカンディナビアの海岸線が現れると、ドイツ北部の森林から
野生のトナカイが氷河に向かって北上し、それを追ってトナカイ漁師たちが
この地にやって来たのである。
サーミ人(Sami)は、スカンディナビア半島に最初に移住した民族である。
彼らの話す言語(サーミ語 Finno-Samic)から、原住地はウラル山脈と推定される。
寒冷のため、農業や牧畜は不可能であり、主として狩猟とトナカイの遊牧を生活手段とし、
紀元前2000年頃には、スカンディナビア半島北部地域に定住を完了した。
紀元前400年頃、先住民族サーミ人の次に、スカンディナビア半島に流入してきたのは、
ゲルマン系ノルマン人(Norman)である。
ノルマン人たちは、険しい内陸部ではなく、半島沿岸部に定住した。
先住民族のサーミ人たちは、ノルマン人の支配下となり、税金が強制された。
税金は、主としてトナカイやアザラシの毛皮などで支払われた。
ノルマン人たちは漁業で糊口をしのぎ、航海技術を発達させると、やがて交易活動に励むようになる。
交易品は、サーミ人から取り上げた毛皮、そして鯨油や干しダラなどの特産品だった。
行き先は、西ヨーロッパ、ロシア、果ては北アメリカまで遠征した。
彼らは商人として交易活動を主体としていたが、商談が決裂した場合などは、
海賊行為や略奪を行うこともあった。
やがて彼らはバイキング(Viking)と呼ばれるようになった。
当時の遠隔地交易は危険が多く「商人=戦士」でないと、務まらなかったのである。
こうして彼らのバイキング活動により、金品や奴隷、そしてキリスト教が半島にもたらされた。
一方、西ヨーロッパでは、375年、ゲルマン民族の大移動が始まり、
ゲルマン系デーン人(Danes)がユトランド半島に到来する。
このデーン人の侵入により、先住民族であったゲルマン系アングロ・サクソン人
(Anglo-Saxons)は、ドーバー海峡を越え、ブリテン島への移動を余儀なくされた。
さらにブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人により、先住民族であった
ケルト人が西方のアイルランドへ追いやられてしまうのである。
829年、アングロ・サクソン人たちはイングランド王国(Kingdom of England)を建国する。
イングランドとは「アングロ・サクソン人の土地」という意味である。
804年、デーン人は、ユトランド半島を中心にデンマーク王国を建国した。
800年代、北欧はバイキング時代を迎えていた。
デーン人もバイキングとして、主にフランク王国が支配する西ヨーロッパ地域一帯を侵略した。
カール大帝の死去により、王国が分裂し弱体化していた当時のフランク王国は、
バイキングたちの絶好のターゲットとされたのである。
やがて西フランク王シャルル3世(Charles III)は、やっかいなデーン人を手なづけるために、一策を案じた。
911年、デーン人の首長ロロ(Rollo)に対して、主従関係を結ぶことを条件に、セーヌ川の下流のノルマンディーに
領土を与えて定住を許したのである。(ノルマンディー公国の成立)
こうしてノルマンディー公ロロは、フランス内の諸侯となり、形式上、フランス国王の臣下となった。
ロロから6代目の子孫が、ノルマン朝(House of Normandy)を創始したウィリアム1世(William I)である。
1066年、ノルマンディー公国のウィリアム1世は、ブリテン島に侵攻。
歩兵中心のイングランド軍に対し、ノルマン軍は「ノルマン騎士」とよばれる騎士軍が主力部隊だった。
へイスティングスの戦い(Battle of Hastings)で勝利を収めると、ウィリアム1世は、
イングランド国王として即位し、ノルマン朝を開いた。(1066年)
この出来事は、のちにノルマン・コンクェスト(Norman Conquest ノルマン人の征服)と呼ばれている。
ウイリアム1世は、ノルマンディーも領地としたため、フランス国土のなかにイングランド領が生まれることになった。
872年、ノルマン人のハーラル1世(Harald Fairhair)がスカンディナビア半島西南部を統一、
ノルウェー王国を建国した。
この時期、ノルマン人は、積極的に北方へと進出しており、スコットランド周辺の島々に
いくつかの植民地を建設している。
860年には、ノルマン人のバイキングがアイスランドを発見しており、
これ以降アイスランドには、ノルマン人の移住者が続々と入植していった。
その後、985年には、グリーンランドが発見され、ここでもただちに入植がはじまっている。
970年には、スヴェア人(Svear)のエリク6世(Eric the Victorious)がスウェーデン中部の
スヴェアランド地方(Svealand)にスウェーデン王国を建国している。
スヴェア人は、ノルマン人と同じく古ノルド語を言語とするゲルマン民族である。
スヴェア人が、スウェーデンの地に入植した時期については、歴史的資料がなく定かではない。
だが7世紀に作成されたゲルマン叙事詩ベオウルフ(Beowulf)によれば、紀元500年には
スヴェアランド地方に、スウェーデンの最初の国家が建設されていたとされる。
ロシア原初年代記によれば、862年、スヴェア人の族長リューリク(Rurik)が、スヴェア人を率いて
バルト海を渡り、ロシア北西部にノブゴロド王国(Novgorod)を建国、これがロシアの起源と伝えられる。
その後、リューリクが亡くなり後継者となったオレグ(Oleg)が、882年にド二エプル川のキエフを占領、
キエフ公国(Kievan Rus)を建国したとされている。
スウェーデン王国は、その後12世紀に北方十字軍の名のもとにフィンランドに進出して併合している。
フィン人(Finns)は、フィンランドの先住民族である。
フィン人の発祥の地は、彼らの話す言語(フィン語 Finno-Ugric)から、
ウラル山脈の南部に広がる平原であると推定されている。
紀元前700年頃、フィン人はフィンランド西南部に移住を完了し、
狩猟と漁業に基づく部族的性格をもった社会を形成していた。
1114年、スウェーデン王エリック9世(Eric IX)は、十字軍の名のもとに
フィンランドに攻め入ると、フィン人の部族を次々と支配下に入れた。
スウェーデンはカトリックを信奉する国家であり、フィンランド侵攻は、
異教徒の制圧を大義名分としていた。しかし実際は勢力拡大が主目的であった。
これ以降フィン人はスウェーデン支配を約600年受けることになった。
一方、デンマーク王国はクヌート1世(Cnut the Great 在位1018~1035)が、
1016年にイングランドを征服し、デーン朝を成立させた。
1028年にはノルウェーも統一(在位1028~1035)した。
その結果、デンマークからノルウェー、イングランドにまたがる北海帝国が成立している。
しかし、クヌートの死後にイングランドではアングロ・サクソン系の国が復活し、
ノルウェーも12世紀末には独立を回復している。
ノルウェー王国は、13世紀後半にグリーンランドにまで支配を広げ最盛期を迎えた。
だが、ドイツのハンザ商人によってベルゲン(Bergen)地方がハンザ同盟(Hanseatic League)の拠点となり、
ノルウェー海の海産物はハンザ商人によって独占されるようになった。
バルト海やノルウェー海は、古くから交易の海だった。
木材や海産物、毛皮などが沿岸の港から積み出され、遠く西ヨーロッパへと運ばれていた。
だが北欧三国が握っていたこれらの交易の主導権は、新たに勃興したハンザ同盟に奪われてしまったのである。
このハンザ同盟に対抗するため、スウェーデンとノルウェーは1397年にデンマーク女王
マルグレーテ(Margaret I)のもとでカルマル同盟(Kalmar Union)を結成した。
北欧三国はデンマーク連合王国として同君連合となった。
1429年、デンマークはハンザ同盟を封じ込めるため、北海からバルト海へ抜ける海峡の通行に課税しようとした。
だがこのことから、ハンザ海軍との間で戦争状態になった。(ハンザ・デンマーク戦争)
この戦争はハンザ海軍が勝利し、無税で海峡航行権を得た。
デンマークは、この戦費を賄うためにノルウェー・スウェーデンに重税を課したため不満が高まった。
1523年、スウェーデンで農民が反乱を起こし、スウェーデン政府はこの機に乗じて
デンマークから独立したため、カルマル同盟は解消されてしまった。
1815年には、デンマーク・ノルウェーの連合も解消されることになる。
グリーンランドとアイスランドについては、連合を通じて獲得したデンマークが
引き続き領有することとなった。
その後、スウェーデンは、デンマークにかわり、バルト海の覇権を握るようになる。
スウェーデンが台頭するきっかけをつくったのは、1618年に発生した三十年戦争だった。
当時、北欧三国ではドイツで起こった宗教改革の影響でプロテスタントを信奉する者が増えていた。
三十年戦争は、カトリックとプロテスタントの対立をきっかけに始まった戦乱だったが、
スウェーデンは、プロテスタント支援を名目に参戦した。
この戦争の結果、勝利したスウェーデンは、1648年のウェストファリア条約(Peace of Westphalia)
でバルト海南岸のドイツの領土を獲得した。
スウェーデンは、バルト海を手中に収め、大国への道を歩みはじめた。
かわりにドイツのハンザ同盟は衰退していくことになった。
絶頂期を迎えたスウェーデンは、ほどなくして衰退の時代を迎える。
バルト海交易への参画を熱望していたロシアは、スウェーデンを包囲するため、
ポーランド、デンマークと秘密裏に同盟を結んだのだ。
1700年、同盟諸国とスウェーデンの間で北方戦争(The Northern War 1700-1721年)がはじまった。
この戦争で、スウェーデンは敗北し、多くのバルト海沿岸の土地を失ってしまう。
1809年には、フィンランドをロシアに奪われ、大国の地位から転落してしまった。
フィンランドはその後、長くロシアの支配下にあったが、1917年のロシア革命を機に
フィンランド共和国として独立を達成した。
長らくデンマークの支配下にあったアイスランドは、第二次世界大戦中の1944年に独立を果たした。
1956年、サーミ人の待遇改善を目指す北欧三国のサーミ評議会が設置された。
サーミ人の居住する地域は、北欧三国の領土として分割され、長い間差別や迫害を
受けてきた地域であった。
各国政府は、サーミ人の人権保障実現に向けて積極的に取り組むようになり、
現在では、彼らの最古の先住民族としての立場が十分に尊重されるようになった。
デンマークは戦後、経済成長を遂げ、造船、機械工業を基礎とした先進的工業国となった。
また、コペンハーゲンをはじめ、美しい街並みや自然の景観にすぐれ、年間を通して
数多くの観光客が訪れる屈指の観光大国となっている。
ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北欧三国も、様々な歴史を歩んできたが、
戦後は、豊かな森林資源を背景にそれぞれ先進工業国に成長している。
また世界に冠たる社会保障制度をもつ福祉国家としても知られるようになった。
イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman)
生年月日 : 1915/08/29
出身地 : スウェーデン/ストックホルム
没年 : 1982/08/29
「カサブランカ」 (1942年)「誰が為に鐘は鳴る」 (1943年)「聖メリーの鐘」 (1945年)「汚名」 (1946年)。
戦後、ぞくぞくと登場したスターたちの中で、群をぬく存在だった。
アカデミー賞も三たび。「ガス燈」 (1944年)「追想」 (1956年)「オリエント急行殺人事件」 (1974年)。
老いても引退を考えることなく、死の直前までカメラの前に立っていた。
生前から、墓碑銘には「生の最後の日まで演技した」と記すことを決めていたというが、
まさしくその通りのみごとな生涯だった。
水車小屋 (Water Mill)
その昔、田園の小川のほとりはロマンチックな逢引の場所のひとつだった。
そこはまた穀物を粉にする水車小屋のある所でもあった。
水車小屋は、作業にかかる人員を大幅に削減できる施設であり、中世の領主たちは、
穀物を製粉する「粉挽き」と呼ばれる職業の者をやとって小屋を管理させていた。
水車小屋は略奪を防ぐために堅牢に作られ、銃や刀剣などの武器も装備されていた。
どこからともなく流れてくる水を用いて製粉を行う水車小屋は、どこか神秘的であり、
農民たちにとっては異界のような場所だったという。
ケルト神話に登場する水車小屋の妖精キルムーリス(Killmoulis)などは、
こうした印象を元に生み出されたものだと考えられる。
主食がパンであったヨーロッパにおいては、大量の製粉設備が必要であり、5世紀から
12世紀の中世において、ヨーロッパ全域に水車が利用され最盛期を迎えた。
18世紀初頭、蒸気機関の発明とともに、水車の数は激減することになる。
だが水車の牧歌的景観は田園風景によくなじむものとして、観光目的などで残されたり、
再建されたりしている。
写真は、スウェーデン南部の都市ルンド(Lund)の民族野外博物館に展示されている水車小屋。
博物館では、ヨーロッパ中世の水車や風車などの歴史遺産、文化が野外に展示紹介されている。
(住所:クルトゥーレン・オスタープ民族野外博物館 Kulturens Ostarp, Scania, Sweden)