あおきこんよう | 青木昆陽(1698~1769) | 江戸時代中期の儒学者・蘭学者。ききんに備えてかんしょ(さつまいも)の栽培を広めた。 |
あくたがわりゅう | 芥川龍之介(1892~1927) | 大正・昭和時代初期を代表する小説家で、「羅生門」「鼻」などの作品を残した。時代の動きに不安を感じて35歳で自殺した。 |
あけちみつひで | 明智光秀(1528~1582) | はじめ越前の朝倉義景につかえ、のち将軍の足利義昭、さらに織田信長につかえた武将。本能寺の変で信長をたおしたが、秀吉に山崎の戦いで敗れ、敗走中に土民に殺された。 |
あさのながのり | 浅野長矩(1667~1701) | 江戸中期の播州赤穂藩主。内匠頭(たくみのかみ)元禄14年(1701)勅使接待役を務めた際に、江戸城殿中で吉良義央(きらよしなか)を傷つけ、即日切腹、城地を没収。 |
あさのながまさ | 浅野長政(1547~1611) | 安土桃山時代の武将。尾張の人。初め織田信長に仕え、のち豊臣秀吉の五奉行の一人。文禄の役に軍監。関ヶ原の戦には東軍に属した。 |
あしかがたかうじ | 足利尊氏(1305~1358) | 室町幕府初代将軍。(在位1338~1358)後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府をほろぼしたが、建武の新政に失望し、これをたおした。1338年、征夷大将軍になり室町幕府を開いた。 |
あしかがただよし | 足利直義(1306~1352) | 南北朝時代の武将。尊氏の弟。兄と共に建武政権に叛き、幕府を開いてその実権を握ったが、尊氏の執事高師直と争い、尊氏と不和を生じた。観応の擾乱で武家方の分裂をひき起こし関東に下ったが、鎌倉で毒殺された。 |
あしかがもちうじ | 足利持氏(1398~1439) | 室町前期の武将。鎌倉公方。満兼の子。上杉禅秀の乱を平定。のち将軍義教と対立、永享の乱を起こしたが、敗れて自刃。 |
あしかがよしあき | 足利義昭(1537~1597) | 室町幕府第15代将軍。(在位1568~1573)義晴の子。織田信長に擁立されて将軍となったが、のち不和を生じ、1573年(天正1)京都を追われる。諸国を流浪、豊臣秀吉に保護され、大坂に没。 |
あしかがよしあきら | 足利義詮(1330~1367) | 室町幕府第2代将軍。(在位1358~1367)尊氏の子。 |
あしかがよしのり | 足利義教(1394~1441) | 室町幕府第6代将軍。(在位1429~1441)義満の子。初め義円と称し、天台座主。兄義持の死後、還俗して将軍。専制政治を行い、1441年、嘉吉(かきつ)の乱で暗殺された。 |
あしかがよしひさ | 足利義尚(1465~1489) | 室町幕府第9代将軍。(在位1473~1489)義政の子。母は日野富子。 |
あしかがよしまさ | 足利義政(1436~1490) | 室町幕府第8代将軍。(在位1449~1473)芸能や美術に関心をもち、銀閣を建てた。義政の後継ぎ問題から、細川勝元と山名宗全が争い、応仁の乱がおこった。 |
あしかがよしみ | 足利義視(1439~1491) | 室町中期の武将。義教の子。僧となり義尋と称す。還俗して兄義政の嗣。義尚出生後廃され、東軍の細川勝元に擁せられて応仁の乱となったが、のち西軍に走る。 |
あしかがよしみつ | 足利義満(1358~1408) | 室町幕府第3代将軍。(在位1368~1394)花の御所(室町邸)や金閣を建てた。1392年に南北朝を合一、また明(中国)と日明貿易をさかんにした。 |
あなみこれちか | 阿南惟幾(1887~1945) | 陸軍大将。昭和20年4月、鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。大東亜戦争末期に降伏への賛否を巡り本土決戦への戦争継続を主張したが、昭和天皇の聖断によるポツダム宣言受諾が決定され、同年8月15日に割腹自決。 |
あのれんし | 阿野廉子(1311~59) | 後醍醐天皇の後宮。容姿端麗で和歌の才に優れ、聡敏であったといわれる。恒良親王、成良親王、義良親王(のち後村上天皇)の3親王の誕生をみ、これにより後宮に大きな勢力をなし、阿野氏の多くは南朝に参じた。 |
あべのせいめい | 安倍晴明(921~1005) | 平安中期の陰陽師(おんみょうじ)天文をみて物事を占う技術にたけ、朝廷のさまざまな役職を歴任した。その活躍ぶりは「今昔物語集」「宇治拾遺物語」に取り上げられている。 |
あべのなかまろ | 阿倍仲麻呂(701~770) | 遣唐留学生として唐に渡り、ときの皇帝に信頼され高官となった。日本に帰国できず、唐の都長安で亡くなった。 |
あべまさひろ | 阿部正弘(1819~1857) | 幕末の老中。備後福山藩主。ペリーの開国要求に際し、諸大名・幕臣に諮問し、幕政の転換をはかる。日米和親条約を結び、洋学所・海軍伝習所・講武所を創設。 |
あまくさしろう | 天草四郎時貞(1621~1638) | キリスト教信者となり、島原の乱の総大将におされて一揆軍をひきいた。17歳で戦死。島原の乱の後、踏み絵や寺請制度など、キリスト教徒への取締りがきびしくなった。 |
あまてらす | アマテラス | 天照大神。天界の最高神。イザナギの長女。スサノオの姉。太陽神にして皇室の祖神。伊勢神宮に主神として祀られる。 |
あめのうずめ | アメノウズメ | 古事記には、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、日本書紀には、天鈿女命と記される。宇受(ウズメ)は、かんざしを意味し、髪飾りをして神祭りをする女神とされている。また歌舞の始祖神とされ、鈿女神社(うずめじんじゃ 長野県)など多くの神社で祀られている。 |
あらいはくせき | 新井白石(1657~1725) | 江戸時代の代表的な朱子学者。著書に「西洋紀聞」「折りたく柴の記」など。6代将軍家宣、7代将軍家継につかえ「正徳の治」とよばれる政治を行った。 |
ありわらのなりひら | 在原業平(825~880) | 平安初期の六歌仙の一人。宮中に仕えて近衛中将になったが、藤原氏とは相いれず、政治的には不遇だった。「世の中に たえて桜の なかりせば」(古今和歌集) |
あんどうのぶまさ | 安藤信正(1819~1871) | 幕末の老中。陸奥磐城平藩主。対馬守。井伊直弼死後、政務を主導し幕政の中心となる。公武合体を図り、その外交が攘夷論者に憎まれ、文久2年(1862)1月に坂下門外で襲撃されて負傷。 |
あんとくてんのう | 安徳天皇(1178~1185) | 第81代天皇。(在位1180~1185)第80代高倉天皇の第1皇子。母は建礼門院平徳子。源平の戦に平宗盛に擁せられ、西国に赴く。平家一族と共に壇ノ浦に入水。 |
いいなおすけ | 井伊直弼(1815~1860) | 近江国の彦根藩主で、大老となり、日米修好通商条約を結んだ。安政の大獄で反対する者をきびしく処罰したが、水戸藩士らに桜田門外で暗殺された。 |
いけだみつまさ | 池田光政(1609~1682) | 江戸前期の備前岡山藩主。輝政の孫。通称新太郎。熊沢蕃山の登用、郷学閑谷しずたに学校の創設など、仁政理念に基づく藩政を展開。明君と称せられる。著「池田光政日記」。 |
いざなぎ | イザナギ | 古事記には、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、日本書紀には、伊弉諾尊と記される。イザナミとともに日本の国土を生み出した男神。最古の夫婦神のひとつで、多くの神々を生み出したことから夫婦和合、縁結びの神としても知られている。アマテラスやスサノオ等多くの神の父神であり、神武天皇の七代先祖とされている。 |
いざなみ | イザナミ | 古事記には、伊邪那美命(いざなみのみこと)、日本書紀には、伊弉冉尊と記される。イザナギの妻で、多くの神々を生み落としたことから、子宝や安産祈願の神として信仰されている。熊野神社(広島)などイザナミが祀られている神社では、祭神としてイザナギも一緒に祀られることも多い。 |
いしかわたくぼく | 石川啄木(1885~1912) | 明治時代後期の歌人・詩人。岩手県生まれ。歌集「一握の砂」「悲しき玩具」など生活に根ざした作品や、社会に関心を向けた作品を残した。 |
いしだみつなり | 石田三成(1560~1600) | 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉につかえ、政権の実務をにぎった。秀吉の死後、台頭してきた徳川家康と対立、関ヶ原の戦いで西軍を率いたが敗れた。 |
いしわらかんじ | 石原莞爾(1889~1949) | 陸軍中将。鶴岡生れ。満州事変の首謀者。日中戦争勃発当時の参謀本部作戦部長。世界最終戦論を唱え、東亜連盟を指導。 |
いずみしきぶ | 和泉式部(978~1048) | 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。恋愛遍歴が多く、道長から「浮かれ女」と評された。歌物語「和泉式部日記」「今ひとたびの 逢ふこともがな」(後拾遺集) |
いずものおくに | 出雲の阿国(16C~17C) | 安土桃山時代の女性で、出雲大社の巫女。踊りの名人。歌舞伎のもととなった歌舞伎踊りを始めた。 |
いたがきたいすけ | 板垣退助(1837~1919) | 土佐藩出身の政治家。明治政府に国会開設を要求し、自由民権運動の中心になった。日本最初の政党である自由党を結成した。 |
いちかわだん | 市川団十郎(1660~1704) | 歌舞伎俳優。屋号、成田屋。元禄時代に上方歌舞伎の坂田藤十郎とならび称された名優。荒事という豪快な演出を創始、江戸の歌舞伎を確立した。 |
いちかわふさえ | 市川房枝(1893~1981) | 婦人参政権の実現のために戦前から運動した。戦後は選挙運動にお金をかけない理想選挙によって、参議院議員に当選した。 |
いちききよなお | 一木清直(1892~1942) | 陸軍軍人。陸軍士官学校卒(28期)。 1942年5月、ミッドウェー島占領部隊の「一木支隊」支隊長(作戦中止)同年8月21日、ガダルカナル島の戦いのイル川渡河戦で督戦中に死亡。 |
いっきゅう | 一休(1394~1481) | きびしい禅の修行に生き、人々に教えを説いた。80歳を過ぎた頃、天皇の命令によって、大徳寺の住職になった。 |
いっぺん | 一遍(1239~1289) | 伊予国で豪族の子として生まれた。時宗をひらいて、踊り念仏を広めた。執着心をすてるように説き、遊行(ゆぎょう)上人とよばれた。 |
いとういっとうさい | 伊東一刀斎(1560~1628) | 江戸初期の剣客。鐘巻自斎に剣法を学び一刀流を創始。門弟に神子上(みこがみ)典膳(小野忠明)らがいる。 |
いとうひろふみ | 伊藤博文(1841~1909) | 長州藩出身の政治家。大日本帝国憲法の原案をつくり、初代の総理大臣になった。日本の朝鮮侵略をすすめるなかで、暗殺された。 |
いぬかいつよし | 犬養毅(1855~1932) | スペインのイエズス会士で、インドやインドネシアなどにキリスト教を広めた。満州事変後、総理大臣になったが、1932年の五・一五事件で暗殺された。 |
いのうえかおる | 井上馨(1835~1915) | 政治家。長州藩士。討幕運動に参加。維新後、政府の中心人物の一人となり、要職を歴任。外相として条約改正を試みるが挫折。財政・経済にも力をふるう。伊藤博文の盟友。晩年元老。 |
いのうただたか | 伊能忠敬(1745~1818) | 江戸時代の地理学者。下総国(千葉県)佐原の酒造家で、50歳から天文学・測量術を学んだ。日本全国を測量し、「大日本沿海輿地(よち)全図」を作った。 |
いはらさいかく | 井原西鶴(1642~1693) | 大阪の町人の家に生まれた、江戸前期の小説家。はじめは俳句作者として有名になった。「好色一代男」「日本永代蔵」「世間胸算用」など、町人の世界を生き生きとえがいた小説(浮世草子)を多く書いた。 |
いまがわよしもと | 今川義元(1519~1560) | 戦国時代の武将。氏親の子。駿河・遠江・三河地方に勢力を振るう。織田信長と戦って桶狭間(おけはざま)に討死。 |
いよ | 壹与(235~) | 邪馬台国の女王。女王卑弥呼の死後、男王が継いだが、国中が服従せず内乱が続いた。そこで卑弥呼の一族で 13歳になる壹与が擁立されて王となり、ようやく混乱が治まった。266年、倭の女王として西晋の武帝に使者を派遣した。 |
いわくらともみ | 岩倉具視(1825~1883) | 幕末・明治時代の公家出身の政治家で、大久保利通らとともに明治維新をおしすすめた。条約改正のための遣欧使節をつとめた。 |
いわさきやたろう | 岩崎弥太郎(1834~1885) | 明治初期の実業家。三菱財閥の創業者。土佐出身。抜擢されて藩の通商をつかさどるが、のち運輸業者として独立、三菱商会を起こし、三井と共に明治以降の財界を両分した。 |
うぃるそん | ウィルソン(1856~1924) | 第28代アメリカ大統領。世界平和を実現するため、14か条の平和原則を発表し、国際連盟をつくることを提案した。 |
うえすぎかげかつ | 上杉景勝(1555~1623) | 安土桃山時代の武将。長尾政景の子。上杉謙信の養子。謙信の死後、豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となり、会津120万石に封ぜらる。関ヶ原の戦に石田三成みつなりと結んだため、米沢30万石に移封。 |
うえすぎけんしん | 上杉謙信(1530~1578) | 越後国(新潟県)の戦国大名。信濃へせめてきた武田信玄と対立、川中島で5度も戦ったが勝負がつかなかった。 |
うきたひでいえ | 宇喜多秀家(1572~1655) | 安土桃山~江戸時代前期の武将備前(岡山県)の戦国大名。豊臣秀吉に仕え小田原征討や文禄・慶長の役に功をたて五大老の一人となる。関ケ原の戦いで敗れ、1606年八丈島に流され、在島約50年で死去。 |
うたがわひろしげ | 歌川広重(1797~1858) | 江戸時代の浮世絵師。西洋風の遠近法を取り入れ、風景画を数多く描いた。代表作に「東海道五十三次」があり、葛飾北斎とともに浮世絵の風景画を完成させた。 |
うちだひゃっけん | 内田百閒(1889~1971) | 小説家・随筆家。岡山県生れ。東大卒。夏目漱石の門下。夢幻的な心象を描き、また人生の諧謔と悲愁を綴る。作「冥途」「百鬼園随筆」「阿房列車」など。 |
うちむらかんぞう | 内村鑑三(1861~1930) | 明治・大正時代の代表的なキリスト教指導者。札幌農学校に学んだ。日露戦争に反対し、平和の大切さを訴えた。 |
うんけい | 運慶(~1223) | 鎌倉時代の代表的な仏像の彫刻家。奈良の東大寺南大門に、快慶とともに金剛力士像を作った。 |
えいさい | 栄西(1141~1215) | 宋で禅の道を学び、帰国して臨済宗(禅宗)をひらいた。お茶など、宋の文化を日本に伝えた。 |
えのもとたけあき | 榎本武揚(1836~1908) | 政治家。江戸生れの幕臣。長崎の海軍伝習所に学び、オランダに留学、帰国して海軍副総裁。戊辰戦争で、箱館五稜郭に拠って新政府軍に抗したが間もなく降伏。 |
おいちのかた | お市の方(1547~1583) | 織田信長の妹。織田信秀の5女。近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。 子に茶々(淀君)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。 |
おうじんてんのう | 応神天皇(201~310) | 第15代天皇。(在位270~310)第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の第4皇子。母は神功(じんぐう)皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。 |
おおいしよしお | 大石良雄(1659~1703) | 江戸中期、赤穂藩浅野家の家老。通称、内蔵助。兵学を山鹿素行に、漢学を伊藤仁斎に学んだとされる。主君長矩(ながのり)が刃傷のため切腹・改易の処分を受けるや、同志とともに仇を討つ。元禄16年2月4日切腹。 |
おおおかただすけ | 大岡忠相(1677~1751) | 江戸中期の町奉行。能登守のち越前守。将軍吉宗に用いられて享保の改革の実務を担当。大岡政談の主人公となる。寺社奉行時代の「大岡忠相日記」は、吉宗の頃の幕閣運営の実態を示す好史料。 |
おおくにぬし | オオクニヌシ | 大国主命。スサノオの子(日本書紀)6世の孫(古事記)。出雲大社の主神。因幡(いなば)の白兎の故事で知られる。出雲の地を根拠地としていたが、アマテラスの要請を受け入れて地上の支配を譲る。 |
おおくぼただたか | 大久保忠教(1560~1639) | 江戸初期の旗本。通称、彦左衛門。三河生れ。徳川家康に仕えて戦功をあげ、秀忠・家光にも仕え、奇行で知られる。のち「天下の御意見番」の人物像に脚色された。著「三河物語」。 |
おおくぼとしみち | 大久保利通(1830~1878) | 薩摩藩の下級武士の生まれ。明治政府の中心人物として新しい政策を行った。不平士族たちのうらみをかい、暗殺された。 |
おおくましげのぶ | 大隈重信(1838~1922) | 肥前藩出身の政治家。自由民権運動に参加し、立憲改進党を結成した。東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。 |
おおしおへいはち | 大塩平八郎(1793~1858) | 大阪町奉行所の与力で、陽明学者。天保の大飢饉に苦しむ人々を救うため、乱(大塩平八郎の乱)を起こしたが1日でしずめられた。 |
おおたどうかん | 太田道灌(1432~1486) | 室町中期の武将・歌人。上杉定正の臣。江戸城を築くなど築城・兵法に長じ、学問・文事を好んだ。定正に謀殺された。 |
おおとものやかもち | 大伴家持(718~785) | 歌人として有名な大伴旅人の子で、地方役人として各地をまわり、やがて都にもどった。万葉集に約480首の歌を残しており、万葉集の編集に関係したとされる。 |
おおにしたきじろう | 大西瀧治郎(1891~1945) | 海軍中将。海軍兵学校第40期生。神風特別攻撃隊の創始者の一人。終戦時に自決。 |
おおのやすまろ | 太安万侶(~723) | 奈良時代の官人。元明天皇の命令で稗田阿礼(ひえだのあれ)と日本最古の歴史書「古事記」を著す。 |
おおむらますじろう | 大村益次郎(1825~1869) | 陸軍の創立者。周防出身。緒方洪庵に蘭学・医学を学ぶ。長州藩の軍事指導者として長州征討・戊辰戦争に活躍。1869年(明治2)兵部大輔。フランス式軍制を採用し、近代軍隊の創出を進めたが、守旧派により暗殺。 |
おがたこうあん | 緒方洪庵(1810~1863) | 江戸後期の蘭医。備中の人。江戸に出て、坪井信道・宇田川榛斎に蘭学を学び、さらに長崎に遊学、大坂に医業を開き、緒方塾を設けた。種痘を施行。のち幕府に招かれ、奥医師兼西洋医学所頭取。 |
おがたこうりん | 尾形光琳(1658~1716) | 江戸中期の画家。初め狩野風の絵を学んだが、光悦・宗達の装飾画風に傾倒して、大胆で華麗な画風を展開。蒔絵や染織など工芸の分野にも卓抜な意匠(光琳模様)を提供した。作「紅白梅図屏風」など。 |
おきたそうじ | 沖田総司(1842~1868) | 幕末の武士、新選組一番隊組長及び撃剣師範。1864年(元治元年)6月5日の池田屋事件で奮戦の最中、喀血により戦線離脱したといわれる。 |
おざきゆきお | 尾崎行雄(1859~1954) | 明治~昭和時代の政治家で、第一次護憲運動や普通選挙運動の中心となった。第一次護憲運動や普通選挙運動の先頭に立ち「憲政の神様」とよばれた。 |
おざわじさぶろう | 小沢治三郎(1886~1966) | 海軍中将。海軍兵学校37期生。1944年(昭和19年)第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官としてマリアナ沖海戦で指揮。航空作戦にアウトレンジ戦法を採用するが、米側の直掩機やVT信管による迎撃などのために失敗に終わる。 |
おだのぶなが | 織田信長(1534~1582) | 尾張の戦国大名。15代将軍の足利義昭を追放し、室町幕府をたおした。安土城を築き、天下統一を目指したが、明智光秀に本能寺でたおされた。 |
おののいもこ | 小野妹子(7C初) | 飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、「日出いづるところの天子」という書き出しで有名な聖徳太子の国書を皇帝煬帝(ようだい)に渡した。翌年帰国。 |
おののこまち | 小野小町(9C) | 平安前期の六歌仙の一人。絶世の美女であったといわれ、後世に多くの伝説をのこした。「花の色は移りにけりないたづらに」(古今集) |
かいかてんのう | 開化天皇(BC212~BC98) | 第9代天皇。(在位BC158~BC98)第8代孝元天皇の第2皇子。 |
かきのもとのひと | 柿本人麻呂(7C後半) | 持統天皇、文武(もんむ)天皇につかえた宮廷歌人。 「和歌の租」として知られ、「万葉集」に約450首の歌を残している。 |
かすがのつぼね | 春日局(1579~1643) | 徳川家光の乳母。名は福。父は明智光秀の重臣斎藤利三。稲葉佐渡守正成の妻。稲葉正勝(のち小田原城主)らを生み離別、大奥に入る。家光を育て、その地位を堅固にし、大奥を統率。 |
かつかいしゅう | 勝海舟(1823~1899) | 江戸時代末期の幕臣。咸臨丸の艦長として日本人の力ではじめて太平洋を横断した。西郷隆盛と会見し、江戸城の無血開城を実現した。 |
かつしかほくさい | 葛飾北斎(1760~1849) | 江戸時代の浮世絵師。滝沢馬琴の小説のさし絵を描いて評判になった。36ヶ所から見た富士山を描いた「富嶽三十六景」やスケッチ集「北斎漫画」が有名。 |
かとうきよまさ | 加藤清正(1562~1611) | 安土桃山時代の武将。尾張の人。豊臣秀吉の臣。賤ヶ岳七本槍の一人。文禄の役に先鋒、慶長の役で蔚山(ウルサン)に籠城、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。 |
かのうえいとく | 狩野永徳(1543~1590) | 安土桃山時代の画家。織田信長や豊臣秀吉につかえて、狩野派の絵を大成した。「洛中洛外図屏風」・「唐獅子図屏風」などをえがいた。 |
かのうじごろう | 嘉納治五郎(1860~1938) | 柔道家・教育家。兵庫県の人。1882年(明治15)講道館を創設、柔道の発達に貢献。日本体育協会会長。IOC委員。東京高師校長。 |
かのうまさのぶ | 狩野正信(1434~1530) | 室町後期の画家。狩野派の始祖。俗人の水墨画家として初めて幕府の御用絵師にのぼり、足利義政・義尚に仕えた。水墨画を武家階級の好みに近づけることによって狩野派の画風の基を開いた。 |
かめやまてんのう | 亀山天皇(1249~1305) | 第90代天皇。(在位1259~1274)第88代後嵯峨天皇の皇子。蒙古襲来時の天皇。後宇多天皇に譲位後、1287年(弘安10)まで院政。 |
がもううじさと | 蒲生氏郷(1556~1595) | 安土桃山時代の武将。近江蒲生の人。織田信長・豊臣秀吉に仕え、会津92万石を領した。茶道・和歌もよくした。 |
かものちょうめい | 鴨長明(1155~1216) | 鎌倉時代の歌人・文人で宮廷に仕えていた。後に京都の山里に隠遁し、日本の三大随筆のひとつとされる「方丈記」を書いた。 |
かものまぶち | 賀茂真淵(1697~1769) | 江戸中期の国学者・歌人。古代和歌、特に万葉集の中に日本人の精神を求めた。本居宣長、加藤千蔭などのすぐれた弟子を育てた。著「万葉集考」 |
かやまえいざえもん | 香山栄左衛門(1821~1877) | 幕末期の幕臣。応接掛与力であった嘉永6年(1853年)6月、浦賀奉行と称してペリー艦隊との交渉にあたった。アメリカ側から高く評価されたと伝えられる。 |
かわぐちきよたけ | 川口清健(1892~1961) | 陸軍少将。ガダルカナル島の戦いにおいて一木支隊の全滅をうけ川口支隊が投入されたが、第2師団長・丸山政男中将と意見が対立し罷免された。 |
かわたけもくあみ | 河竹黙阿弥(1816~1893) | 江戸末期の歌舞伎脚本作者。5世鶴屋南北に師事。庶民の日常を扱った世話物を得意とし、盗賊を主人公に添えた一連の演目は「白浪物」として一つの分野を確立した。作「白浪五人男」など。 |
がんじん | 鑑真(688~763) | 中国の唐の高僧。苦難の船旅を克服し、6回目に盲目になりながらも来日し、律宗を伝える。 日本に仏教を広め、759年、奈良に唐招提寺を建てた。 |
かんむてんのう | 桓武天皇(737~806) | 第50代天皇。(在位781~806)794年、都を平城京から京都の平安京に移した。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷を平定した。 |
きしのぶすけ | 岸信介(1896~1987) | 政治家。山口県生れ。東大卒。満州国高官をへて、1941年東条内閣の商工相。A級戦犯容疑で逮捕。56~60年首相。60年新日米安保条約批准を強行して総辞職。鷹派として影響力をもった。 |
きたがわうたまろ | 喜多川歌麿(1753~1806) | 江戸中・後期の浮世絵師。美人画の分野で女性上半身・顔を画面いっぱいに作画する大首絵(おおくびえ)の様式を創案、浮世絵の黄金期をつくった。 |
きたざとしばさぶ | 北里柴三郎(1852~1931) | コッホの研究所で破傷風の治療法を発見した。伝染病研究所の所長となり、また、自分の力で北里研究所をつくり、研究を進めた。 |
きたばたけあきいえ | 北畠顕家(1318~1338) | 南北朝時代の公家。親房の長子。1333年(元弘3)陸奥守、のち鎮守府将軍を兼ね、義良親王を奉じて奥羽を鎮定。後醍醐天皇吉野落ちの翌年、親王を奉じて西上、各地に転戦、和泉石津で戦死。 |
きたばたけちかふさ | 北畠親房(1293~1354) | 南北朝時代の公家。鎌倉幕府滅亡後、義良親王を奉じて陸奥に赴く。1339年(延元4)「神皇正統記」を著述。吉野で後村上天皇をたすけて南朝の支柱となる。 |
きどたかよし | 木戸孝允(1833~1877) | 政治家。長州藩士。桂小五郎。長州藩の医者の子として生まれた。吉田松陰の松下村塾で学んだ。大久保利通らと協力して版籍奉還・廃藩置県に尽力、明治維新の基礎を固めた。 |
きのつらゆき | 紀貫之(~946) | 平安時代中期の歌人。「古今和歌集」を編さんした。 最初のかな文字日記として有名な「土佐日記」を著した。 |
きびのまきび | 吉備真備(695~775) | 奈良時代の官人・文人。717年(養老1)遣唐留学生として入唐、735年(天平7)帰国。「唐礼」「大衍暦経」などを持ち帰る。橘諸兄(もろえ)に重用されたが、のち九州に左遷。その間、遣唐副使として再び渡唐。 |
ぎょうき | 行基(668~749) | 百済からの渡来人の子孫で、奈良時代の僧。日本最初の大僧正。一般の人々に仏教を広めると共に社会事業につとめ、東大寺の大仏づくりにも協力した。 |
きょくていばきん | 曲亭馬琴(1767~1848) | 江戸後期の戯作者。黄表紙(通俗的な絵入りの読み物)作家として出発。のち読本(さし絵より文章を主とした長編小説)に転じ「南総里見八犬伝」を28年もかかって完成させた。 |
きらよしなか | 吉良義央(1641~1702) | 江戸中期の幕臣。高家として幕府の典礼・儀式を司る。通称、上野介。1701年(元禄14)勅使接待役浅野長矩(ながのり)に江戸城殿中で斬りつけられ、負傷し辞職。翌年長矩の遺臣大石良雄らに殺された。 |
きんめいてんのう | 欽明天皇(509~571) | 第29代天皇。(在位539~571)第26代継体天皇の第4皇子。552年、百済(くだら)の聖明王が使者を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来した。 |
くうかい | 空海(774~835) | 桓武天皇の命令で唐にわたり、新しい仏教の勉強をした。帰国後、高野山に金剛峰寺を建て真言宗を広めた。死後、弘法大師の称号が与えられた。 |
くぎょう | 公暁(1200~1219) | 源頼家の子。父の死後、鶴岡八幡宮別当。父の仇を報いると称して源実朝を八幡宮の社前に斬り、三浦義村を頼ったが殺された。 |
くさかげんずい | 久坂玄瑞(1840~1864) | 幕末の志士。長州藩士。吉田松陰の妹婿。兵学を松陰に、洋学を藩校に学ぶ。尊王攘夷を唱え、1864年(元治1)兵を率いて京都に入り、蛤御門の変に会津・薩摩などの兵と戦い負傷、自殺。 |
くしなだひめ | クシナダ姫 | 古事記には、櫛名田比売(くしなだひめ)、日本書紀には、奇稲田姫と記される。「童女」と記述されるように、まだ年端もいかぬ少女である。ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオに助けられ、スサノオの妻になる。 |
くすのきまさしげ | 楠木正成(~1336) | 河内国(大阪府)の豪族。後醍醐天皇に味方して、鎌倉幕府軍と戦った。後醍醐天皇に信頼され、建武の新政に加わった。 |
くにさだちゅうじ | 国定忠次(1810~1850) | 江戸後期の侠客。上州国定村生れ。本名、長岡忠次郎。博奕渡世で罪を重ね、磔刑(たっけい)。上州博徒の典型的人物として浪曲・新国劇・映画などに脚色される。国定忠治とも書く。 |
くらーく | クラーク(1826~1886) | アメリカのマサチューセッツ州生まれ。札幌農学校の初代教頭。北海道の開拓につくした。「少年よ大志をいだけ」ということばを残した。 |
くろさわあきら | 黒沢明(1910~1998) | 映画監督。東京生れ。「姿三四郎」でデビュー、「羅生門」で国際的な名声を得る。そのダイナミックな演出は外国映画にも大きな影響を与えた。作「七人の侍」「用心棒」「天国と地獄」「デルス=ウザーラ」など。 |
くろだせいき | 黒田清輝(1866~1924) | 明治・大正時代の洋画家。パリで洋画を学び、日本の近代洋画の基礎を築いた。「読書」「湖畔」「舞妓」などが代表作。 |
くろだながまさ | 黒田長政(1568~1623) | 安土桃山・江戸初期の武将。福岡藩主。黒田孝高(よしたか)の子。豊臣秀吉の朝鮮出兵に従い、のち関ヶ原の戦には徳川家康に味方し、筑前52万石に封。 |
くろだよしたか | 黒田孝高(1546~1604) | 安土桃山時代の武将。官兵衛と称。剃髪して如水と号。播磨の人。軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として調略や他大名との交渉など、幅広く活躍。竹中半兵衛とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」と並び称される。 |
けいこうてんのう | 景行天皇(BC13~130) | 第12代天皇。(在位71~130)第11代垂仁天皇の第3皇子。熊襲(くまそ)を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。 |
けいたいてんのう | 継体天皇(450~531) | 第26代天皇。(在位507~531)第15代応神天皇の4代孫の彦主人王(ひこうしのおおきみ)の第1王子。第15代応神天皇の5代の孫。 |
げんめいてんのう | 元明天皇(661~721) | 第43代天皇。(在位707~715)第38代天智天皇の第4皇女。唐の都長安にならい、平城京(奈良の都)をつくった。太安万侶(おおのやすまろ)らに命じて「古事記」(日本最古の歴史書)をつくらせた。 |
ごう | 江(1573~1626) | 安土桃山時代の女性。小督(おごう)崇源院(すうげんいん)浅井長政三女。1595年、後の第2代将軍徳川秀忠に嫁ぐ。千姫、家光、忠長など2男5女をもうけた。長姉の茶々は豊臣秀吉の側室。 |
こうごんてんのう | 光厳天皇(1313~1364) | 北朝1代天皇。(在位1331~1333)第93代後伏見天皇の皇子。元弘の乱後、鎌倉幕府の申入れをうけ即位。1336年(建武3)足利尊氏の奏請で弟の光明天皇を即位させ、院政を開始。のち出家。 |
こうだいいん | 高台院(~1624) | 豊臣秀吉の正室。尾張国の武将・杉原定利の次女。天正13年(1585年)秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。本名は、ねね。 |
こうとくしゅうすい | 幸徳秋水(1871~1911) | 明治時代の社会主義者。平民新聞を発行し、日露戦争に反対した。1910年の大逆事件の主犯とされ処刑された。 |
こうのもろなお | 高師直( ~1351) | 南北朝時代の武将。足利尊氏の執事。尊氏に従って南朝方と戦い軍功が多かったが、のちに尊氏の弟直義らと対立し、弟師泰とともに殺された。「仮名手本忠臣蔵」では浅野長矩を苦しめる吉良上野介に擬する。 |
こうべんほっしん | 公弁法親王(1669~1716) | 江戸時代の天台宗僧侶。第111代後西天皇の第6皇子。出家後、法親王となる。元禄15年(1702年)の赤穂事件では、5代将軍・徳川綱吉に赤穂浪士に切腹を命ずる決断を促したとする逸話が伝えられている。 |
こうみょうこうごう | 光明皇后(701~760) | 藤原不比等の娘で、第45代聖武天皇(在位724~749)の妃。天皇一族以外からはじめて皇后になった。仏教を深く信仰して、病人や貧しい人々のための悲田院や施薬院という施設をつくった。 |
こうみょうてんのう | 光明天皇(1321~1380) | 北朝2代天皇。(在位1336~1348)第93代後伏見天皇の皇子。後醍醐天皇が吉野に遷った後、足利尊氏が擁立。 |
こうめいてんのう | 孝明天皇(1831~1866) | 第121代天皇。(在位1846~1866)第120代仁孝天皇の第4皇子。攘夷と公武合体を支持し、皇妹和宮の降嫁を容認。慶応2年12月25日病死。毒殺説もある。 |
ごかめやまてんのう | 後亀山天皇(1350~1424) | 第99代天皇。(在位1383~1392)南朝4代天皇。第97代後村上天皇の第2皇子。1392年(元中9・明徳3)南北両朝合一により北朝の後小松天皇に譲位、帰京。 |
ごこまつてんのう | 後小松天皇(1377~1433) | 第100代天皇。北朝6代天皇。(在位1382~1412)北朝5代後円融天皇の第1皇子。1392年(明徳3)南北朝が合一。譲位後、院政。 |
ごさがてんのう | 後嵯峨天皇(1220~1272) | 第88代天皇。(在位1242~1246)土御門天皇の皇子。後深草天皇に譲位後、院政。 |
ごしらかわじょう | 後白河上皇(1127~1192) | (上皇在位1158~1169)(法皇在位1169~1192)保元の乱では勝利し、1158年、二条天皇に譲位、その後5天皇の代にわたって院政を行った。その間、平治の乱から鎌倉幕府の成立という激しい情勢の変化に対処した。 |
ごしらかわてんのう | 後白河天皇(1127~1192) | 第77代天皇。(在位1155~1158)第74代鳥羽天皇の第4皇子。即位の翌年、保元の乱が起こる。二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。 |
ごだいごてんのう | 後醍醐天皇(1288~1339) | 第96代天皇。(在位1318~1339)鎌倉幕府滅亡後、天皇中心の建武の新政を始めたが、武士の反抗にあい3年で滅んだ。足利尊氏と対立し、吉野に別の朝廷(南朝)を開いた。 |
こだまよしお | 児玉誉士夫(1911~1984) | 日本の右翼運動家。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」「フィクサー」と呼ばれた。一説にCIAエージェントであったといわれる。 |
ごとうしょうじろう | 後藤象二郎(1838~1897) | 政治家。土佐藩士。大政奉還運動を起こし、明治維新後、参議。征韓論政変で下野。板垣退助・副島種臣・江藤新平らと民撰議院設立を建白。自由党に参加。大同団結を提唱。のち逓相・農商務相。伯爵。 |
ごとうまたべえ | 後藤又兵衛(1560~1615) | 桃山時代の武将。名は基次。初め黒田孝高・同長政に仕えた。のち浪人し、大坂夏の陣に戦死。 |
ごとばじょうこう | 後鳥羽上皇(1180~1239) | (上皇在位1198~1221)1221年、承久の乱をおこし鎌倉幕府をたおそうとしたが敗れ、隠岐島(おきのしま)に流された。「新古今和歌集」を藤原定家らにつくらせた。 |
ごとばてんのう | 後鳥羽天皇(1180~1239) | 第82代天皇。(在位1183~1198)第80代高倉天皇の第4皇子。1198年(建久9)土御門天皇に譲位して院政。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流(承久の乱)され、その地で没す。 |
こにしゆきなが | 小西行長( ~1600) | 安土桃山時代の武将。堺の豪商立佐(りゅうさ)の子。豊臣氏の臣。摂津守。肥後半国24万石の領主。キリシタン教徒。文禄の役に先鋒。石田三成にくみして徳川家康と関ヶ原に戦い、敗れて刑死。 |
このえてんのう | 近衛天皇(1139~1155) | 第76代天皇。(在位1141~1155)第74代鳥羽天皇の第9皇子。鳥羽法皇が院政。 |
このえふみまろ | 近衛文麿(1891~1945) | 政治家。公爵。篤麿の子。東京生れ。京大卒。1933年貴族院議長。日中全面戦争期の首相。41年第3次組閣をしたが、東条陸相の対米主戦論に敗れて辞職。敗戦後、戦犯として拘引の直前に自殺。 |
このはなさくやひめ | 木花咲夜姫 | 古事記には、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と記される。別名として木花咲夜姫(このはなさくやひめ)と呼ばれる。日向に降臨したアマテラスの孫・ニニギノミコトに一目惚れされ、妻となった。美人薄命の象徴のような女神であり、子孫の天皇の寿命は、神々に比べて短くなってしまったのはこのためだと伝えられる。 |
こばやかわたかかげ | 小早川隆景(1533~1597) | 安土桃山時代の武将。毛利元就の第3子。安芸竹原・沼田の小早川家を継ぐ。毛利輝元を補佐し、秀吉と講和後、筑前・筑後・肥前などを領す。文禄の役に碧蹄館(へきていかん)で明軍を破った。 |
こばやかわひであき | 小早川秀秋(1582~1602) | 桃山時代の武将。金吾中納言。豊臣秀吉の妻北政所の兄木下家定の子。秀吉の養子、後に小早川隆景の養子。慶長の役に総大将。関ヶ原の戦に東軍に寝返り、西軍敗戦の因をなした。 |
こばやしいっさ | 小林一茶(1763~1827) | 江戸後期の俳人。信濃柏原の人。15歳で江戸へ出、俗語・方言を使いこなし、不幸な経歴からにじみ出た主観的・個性的な句で著名。晩年は郷里で逆境のうちに没。作「おらが春」「我春集」など。 |
こばやしたきじ | 小林多喜二(1903~1933) | 大正・昭和時代の小説家。「蟹工船」などプロレタリア文学の名作を残した。 官憲の拷問によって虐殺された。 |
こばやしへいはちろう | 小林平八郎(1660~1703) | 江戸時代前期の武士。上杉家の付人。吉良義央への播磨赤穂藩主浅野長矩の刃傷事件の後、謹慎するよう義央をいさめる。元禄15年12月15日赤穂四十七士の吉良邸討ち入りをむかえて討ち死。43歳没。 |
ごふかくさてんのう | 後深草天皇(1243~1304) | 第89代天皇。(在位1246~1259)第88代後嵯峨天皇の皇子。日記「後深草院宸記」。 |
こむらじゅたろう | 小村寿太郎(1855~1911) | 外務大臣として、日英同盟や日露戦争のポーツマス条約を結んだ。 関税自主権の回復に成功した。 |
ごようぜいてんのう | 後陽成天皇(1571~1617) | 第107代天皇。(在位1586~1611)第106代正親町(おおぎまち)天皇の皇子誠仁(さねひと)親王の第1王子。古文孝経・日本書紀神代巻などの古典を刊行。 |
これやすしんのう | 惟康親王(1264~1326) | 鎌倉幕府第7代将軍。(在位1266~1289)6代宗尊親王の子。将軍退任後、京都に還り出家。 |
こんどういさみ | 近藤勇(1834~1868) | 幕末の新撰組局長。天然理心流師範近藤周助の養子。武蔵の人。1863年(文久3)幕府の浪士隊に採用され、新撰組を結成、諸藩の倒幕志士を捕殺。のち戊辰戦争で政府軍と甲斐勝沼・下総流山に戦って敗れ、武蔵板橋で斬首。 |
さいおんじきんもち | 西園寺公望(1849~1940) | 明治~昭和時代前期の公家出身の政治家。パリ講和会議に日本代表として出席。政党政治の発展につくした。 |
さいごうたかもり | 西郷隆盛(1827~1877) | 薩摩藩出身で、討幕運動の中心となった。 明治政府の中心人物となるが、征韓論を主張し聞き入れられないと、政府を辞めて鹿児島に帰った。反政府の士族におされて西南戦争起こし、敗退した。 |
さいちょう | 最澄(767~822) | 桓武天皇の命令で唐にわたり、新しい仏教の勉強をした。帰国後、比叡山に延暦寺を建て天台宗を広めた。死後、伝教大師の称号が与えられた。 |
さいとうどうさん | 斎藤道三(1494~1556) | 室町末期の武将。長井新九郎、斎藤利政と称。もと山城の油商人で、美濃に往来し、守護土岐(とき)氏にとり入ったが、1552年(天文21)土岐氏を追放して美濃国を領し、織田信秀と結び、信長を女婿とする。子義竜と戦って敗死。 |
さいとうまこと | 斎藤実(1858~1936) | 軍人・政治家。海軍大将。岩手、水沢藩士の子。海相・朝鮮総督・首相・内大臣を歴任。二・二六事件で青年将校により殺害される。 |
さかいただきよ | 酒井忠清(1624~1681) | 江戸前期の上野(こうずけ)厩橋(うまやばし)藩主。大老となり、徳川家綱を補佐して威権を振るい、世に下馬将軍(げばしょうぐん)と称された。 |
さかたとう | 坂田藤十郎(1647~1709) | 歌舞伎俳優。初代は、和事師(わごとし)の祖。京都の人。作者に近松門左衛門を得、濡れ事の妙手。 |
さかのうえのたむら | 坂上田村麻呂(758~811) | 桓武天皇より征夷大将軍に任命され、東北地方を制圧した。現在の岩手県に胆沢(いさわ)城を築き、鎮守府をここに移した。 |
さかもとりょうま | 坂本竜馬(1835~1867) | 土佐藩の下級武士の出身。倒幕のために薩長同盟を成立させた。大政奉還の実現に力を尽くしたが、京都で幕府側の武士に暗殺された。 |
さくましょうざん | 佐久間象山(1811~1864) | 幕末の思想家・兵学者。信州松代藩士。蘭学・砲術に通じ、海防の急務を主張。1854年(安政1)吉田松陰の密航企画に連座し、幽閉。1864年(元治1)攘夷派の浪士に暗殺された。 |
ささきがんりゅう | 佐々木巌流( ~1612) | 江戸初期の剣客。通称、小次郎。越前の人とも毛利氏の臣ともいい、のち細川忠興に仕えた。燕返しの剣法を案出。船島(巌流島)で、宮本武蔵と闘って敗死。 |
さとうえいさく | 佐藤栄作(1901~1975) | 昭和時代の政治家。日韓基本条約の調印、小笠原諸島の返還、沖縄の祖国復帰を実現した。ノーベル平和賞を受賞。 |
さなだまさゆき | 真田昌幸(1547~1611) | 安土桃山時代の武将。信濃上田城主。武田信玄・織田信長・豊臣秀吉に歴仕。関ヶ原の戦に西軍にくみし、居城にあって徳川秀忠の軍の西上を阻止。戦後、所領を失い高野山麓の九度山に蟄居(ちっきょ) |
さなだゆきむら | 真田幸村(1567~1615) | 安土桃山時代の武将。真田昌幸の次子。名は信繁。幸村は俗伝。関ヶ原の戦の後、父と共に九度山に退去。冬の陣に大坂城に入って徳川氏の軍を悩まし、夏の陣に戦死。 |
ざびえる | ザビエル(1506~1552) | スペインのイエズス会士で、インドやインドネシアなどにキリスト教を広めた。1549年、鹿児島に上陸し日本にはじめてキリスト教を伝えた。 |
しーぼると | シーボルト(1796~1866) | ドイツ人でオランダ商館の医師として来日。長崎に鳴滝(なるたき)塾を開いて多くの弟子を教育した。シーボルト事件によって国外に追放された。 |
しずかごぜん | 静御前(12C末) | 源義経の愛妾。京都の白拍子。磯禅師(いそのぜんじ)の娘。容姿艶麗、歌舞をよくした。義経と吉野山に訣別、捕らえられて鎌倉に送られ、鶴岡八幡宮で義経恋慕の舞を舞った。能の「二人静」「船弁慶」などに多く脚色。 |
じっぺんしゃいっく | 十返舎一九(1765~1831) | 江戸時代後期の戯作者。1802年に初編を出した「東海道中膝栗毛」が大当りして一躍流行作家となり、以後21年間にわたって続編を書いた。 |
じとうてんのう | 持統天皇(645~702) | 第41代天皇。(在位690~697)第40代天武天皇の皇后で、天武天皇の死後、持統天皇となった。(在位690~697)藤原京をつくり、律令制度を整えた。 |
しばたかついえ | 柴田勝家(1522~1583) | 安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長に仕えて越前に封ぜられる。信長の没後、信孝と謀り豊臣秀吉を除こうとして兵を挙げたが賤ヶ岳の戦に敗れ、越前北ノ庄(今の福井市)城に夫人お市の方とともに自刃。 |
しぶさわえいいち | 渋沢栄一(1840~1931) | 実業家。埼玉県深谷市の豪農の子。初め幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営、製紙・紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業設立に関与、財界の大御所として活躍。引退後は社会事業・教育に尽力。 |
しまざきとうそん | 島崎藤村(1872~1943) | 詩集「若菜集」で日本の近代詩の第一人者となった。「破戒」を出版し、自然主義文学の先がけとなった。 |
しまさこん | 島左近(1540~1600) | 安土桃山時代の武将。大和国(奈良県)出身。石田三成の参謀。1592年(文禄1)朝鮮に出兵。関ケ原の戦いでは、先鋒として西軍の士気を鼓舞したが戦死。本名は、島清興(しまきよおき) |
しまづなりあきら | 島津斉彬(1809~1858) | 江戸末期の薩摩藩主。早くから開国の意見を抱き、殖産興業に力を入れ、藩営工場集成館を設立、洋式の造船・造兵・紡織などの業を興す。 |
しまづひさみつ | 島津久光(1817~1887) | 幕末・維新期の大名・政治家。薩摩藩主斉彬(なりあきら)の異母弟。兄の死後、藩主忠義の実父として藩政を掌握、公武の間に奔走・周旋し、維新後、左大臣に進んだが、欧化政策に反対、鹿児島に退隠。 |
しまづよしひろ | 島津義弘(1535~1619) | 安土桃山時代の武将。薩摩の人。兄義久とともに九州全土を統一。文禄の役・慶長の役で功をあげ、関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗退。帰国して隠居した。 |
しみずいちがく | 清水一学(1677~1703) | 江戸時代前期の武士。通称、一角。15歳のときから吉良義央に中小姓としてつかえる。元禄15年12月15日赤穂浪士討ち入りの際に討ち死。26歳没。 |
しゃくしゃいん | シャクシャイン(~1669) | 17世紀後半のアイヌの人々の総首長。シャクシャインの戦いで松前藩と戦ったが敗れ、多くの漁場をうばわれた。 |
じゅんとくてんのう | 順徳天皇(1197~1242) | 第84代天皇。(在位1210~1221)第82代後鳥羽天皇の皇子。承久の乱(1221年)に敗れ佐渡に配流。その地で没。 |
しょうとくたいし | 聖徳太子(574~622) | 推古天皇の摂政として、冠位十二階、十七条の憲法の制定などに関与し天皇中心の政治をめざした。 小野妹子らを遣隋使として中国の隋に派遣した。 仏教を厚く信仰し、法隆寺や四天王寺を建てた。 |
しょうむてんのう | 聖武天皇(701~756) | 第45代天皇。(在位724~749)第42代文武天皇の第1皇子。仏教を深く信仰し、国ごとに国分寺、国分尼寺を、都には東大寺と大仏をつくらせた。天平文化が栄え、東大寺正倉院に天皇の遺品がある。 |
しょうわてんのう | 昭和天皇(1901~1989) | 第124代天皇。(在位1926~1989)第123代大正天皇の第1皇子。名は裕仁(ひろひと)昭和恐慌・十五年戦争など、多難な治世を送る。1947年、日本国憲法により象徴天皇となる。天皇在位は史上最長。生物学に造詣が深かった。 |
じょめいてんのう | 舒明天皇(593~641) | 第34代天皇。(在位629~641)第30代敏達天皇皇子、押坂彦人大兄(おしさかひこひとのおおえ)皇子の子。名は田村皇子。蘇我蝦夷に擁立されて即位。遣唐使の派遣、百済宮の造営を行った。 |
しらかわじょうこう | 白河上皇(1053~1129) | 院政を行って藤原氏をおさえ、上皇に権力を集中させた。中級の貴族や武士を用いた。仏教を深く信じ、出家して法皇となった。法勝寺を建てた。(上皇在位1086~1129)(法皇在位1096~1129) |
しらかわてんのう | 白河天皇(1053~1129) | 第72代天皇。(在位1072~1086)第71代後三条天皇の第1皇子。1086年(応徳3)譲位、上皇となり、初めて院政を開き、第73代堀河・第74代鳥羽・第75代崇徳の3代43年にわたって実権をにぎった。1096年(永長1)出家して法皇となる。 |
じんぐうこうごう | 神功皇后(170~269) | 第14代仲哀天皇(在位192~200)の皇后。天皇とともに熊襲(くまそ)征服に向かい、天皇が香椎宮(かしいぐう)で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、応神天皇(第15代)を筑紫で出産、摂政70年にして没。 |
じんむてんのう | 神武天皇(BC711~BC585) | 初代天皇。(在位BC660~BC585)称号は神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)ニニギノミコトの曾孫。母は玉依姫(たまよりひめ)。日向を出、BC660年、大和の橿原宮(かしはらのみや)で即位。 |
しんらん | 親鸞(1173~1262) | 浄土宗の法然の弟子になって念仏を学び、浄土真宗をひらいた。幕府に弾圧されて越後(新潟県)に流されたが、死ぬまで人々の救いに力を尽くした。 |
すいこてんのう | 推古天皇(554~628) | 第33代天皇。(在位592~628)第29代欽明天皇の娘で、日本で最初の女帝。 推古天皇の時代は豪族の蘇我氏が強い力を持っていた。 |
すいぜいてんのう | 綏靖天皇(BC632~BC549) | 第2代天皇。(在位BC581~BC549)初代神武天皇の第3皇子。父帝の没後、異母兄の手研耳命(タキシミミノミコト)が皇位を望んで自分を除こうとしたので、手研耳命を誅殺して即位したと伝えられる。 |
すいにんてんのう | 垂仁天皇(BC69~70) | 第11代天皇。(在位BC29~70)第10代崇神(すじん)天皇の第3皇子。 |
すがわらのみちざね | 菅原道真(845~903) | 宇多天皇のもと右大臣になり、894年に遣唐使の廃止を提案し、認めさせた。 菅原家は代々学者の家で、菅原道真は学問の神様(天神様)としてまつられている。宇多天皇の死後、藤原時平の策略で大宰府に左遷された。 |
すぎたげんぱく | 杉田玄白(1733~1817) | 前野良沢らとともに、オランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を出版した。翻訳の苦労を「蘭学事始」に著した。 |
すさのお | スサノオ | 須佐之男命。イザナギの子。アマテラスの弟。凶暴で、天の岩戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国でヤマタノオロチを斬って天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を得、アマテラスに献じた。 |
すしゅんてんのう | 崇峻天皇(521~592) | 第32代天皇。(在位587~592)第29代欽明天皇の皇子。蘇我馬子の専横を憤り、これを倒そうとして、かえって馬子のために暗殺された。 |
すじんてんのう | 崇神天皇(BC148~BC30) | 第10代天皇。(在位BC97~BC30)第9代開化天皇の第2皇子。 |
すとくじょうこう | 崇徳上皇(1119~1164) | (上皇在位1141~1164)鳥羽上皇の崩御後、弟である後白河天皇に対して兵を挙げたが、敗れて讚岐国(香川県)に流された。(保元の乱) |
すとくてんのう | 崇徳天皇(1119~1164) | 第75代天皇。(在位1123~1141)第74代鳥羽天皇の第1皇子。1123年(保安4)父上皇より譲位させられ、新院と呼ばれる。保元の乱に敗れ、讃岐国に流され、同地で没す。 |
ぜあみ | 世阿弥(1363~1443) | 父観阿弥とともに、猿楽・田楽から発達した能を芸術にまで高めた。足利義満の保護を受け「花伝書」などを著した。 |
せいしょうなごん | 清少納言(966~1025) | 平安時代の女流作家、歌人。一条天皇の中宮・定子に仕え、随筆「枕草子」を書いた。 |
せいわてんのう | 清和天皇(850~880) | 第56代天皇。(在位858~876)第55代文徳天皇の第4皇子。幼少のため外祖父藤原良房が摂政となる。仏道に帰依し、879年(元慶3)出家。 |
せっしゅう | 雪舟(1420~1506) | 室町後期の禅僧・画家で、日本の水墨画を完成させた。明に渡って絵の勉強、日本各地を旅して自然の美しさを描いた。 |
せりざわかも | 芹沢鴨(1832~1863) | 幕末の水戸藩浪士、壬生浪士(新選組)の初代筆頭局長。新撰組は京都守護職会津藩に属したが、芹沢の行動は会津藩の忌むところとなり、その命を受けた近藤勇らによって殺された。 |
せんとうていふぎ | 宣統帝溥儀(1906~1967) | 清朝最後12代皇帝(在位1908~1912)辛亥革命で退位。満州事変後の1934年、日本に擁立されて満州国皇帝となり、康徳帝と称した。二次大戦後ソビエトに抑留され、東京裁判に証人として出廷。のち、中華人民共和国に保護された。 |
せんのりきゅう | 千利休(1522~1591) | 安土桃山時代の茶人で、茶道を大成した。豊臣秀吉につかえ、政治にも深くかかわったが、のち切腹させられた。 |
せんひめ | 千姫(1597~1666) | 徳川秀忠の長女。7歳で豊臣秀頼に嫁し、大坂落城後、姫路藩主本多忠政の子忠刻(ただとき)に再嫁、1626年(寛永3)忠刻の死後出家して天樹院と号した。 |
そうぎ | 宗祇(1421~1502) | 各地を旅して、連歌を芸術的なものにまで高めた。連歌は、和歌の上の句と下の句を分けて詠むもので、このころさかんに行われていた。 |
そがのいなめ | 蘇我稲目(506~570) | 飛鳥時代の豪族。第28代宣化・第29代欽明両朝の大臣(おおおみ)。物部尾輿(もののべのおこし)と対立して、仏教受容を主張、仏像を向原(むくはら)の家に安置して向原寺(後の豊浦とゆら寺)とした。 |
そがのいるか | 蘇我入鹿(611~645) | 飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷(えみし)の子。第35代皇極天皇の時代、国政を掌握し、山背大兄(やましろのおおえ)王を殺害し、天皇以上の力をもったが、中大兄皇子・中臣鎌足に滅ぼされた。 |
そがのうまこ | 蘇我馬子(551~626) | 飛鳥時代の豪族。蘇我稲目の子。第30代敏達(びだつ)天皇以下4代の大臣。推古天皇をたて、聖徳太子(厩戸王)と協力し仏法興隆に尽力。一方、仏教に反対する物部守屋を討滅、また、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺した。 |
そがのえみし | 蘇我蝦夷(586~645) | 飛鳥時代の豪族。蘇我馬子の子。第33代推古・第34代舒明・第35代皇極3代の大臣。自分の墓を陵と称し、子の入鹿に紫冠を授けて大臣に擬したといわれる。入鹿が討たれた時、自邸を焼いて自刃した。 |
だいごてんのう | 醍醐天皇(885~930) | 第60代天皇(在位897~930)第59代宇多天皇の第1皇子。藤原時平・菅原道真らの補佐の下に国を治め、後世延喜の治と称される。古今和歌集を勅撰。 |
たいしょうてんのう | 大正天皇(1879~1926) | 第123代天皇。(在位1912~1926)第122代明治天皇の第3皇子。名は嘉仁(よしひと)。1921年、疾患のため、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が摂政に就任。陵墓は多摩陵。漢詩をよくした。 |
たいらのきよもり | 平清盛(1118~1181) | 平安末期の武将。平忠盛の長子。平氏の総大将で、保元の乱・平治の乱に勝ち中央に進出した。 武士で最初の太政大臣になり「平氏でない者は人でない」といわれるほど権力をにぎった。 |
たいらのただまさ | 平忠正( ~1156) | 平安末期の武将。平正盛の子、平忠盛の弟。藤原頼長に近侍し、保元の乱で敗北、斬首された。 |
たいらのまさかど | 平将門(~940) | 平安中期の武将。桓武天皇の子孫で、関東に勢力を持った武将。939年(天慶2)地元の豪族の味方をえて朝廷に反乱をおこした(平将門の乱/承平・天慶の乱)。 |
たかくらてんのう | 高倉天皇(1161~1181) | 第80代天皇。(在位1168~1180)第77代後白河天皇の第7皇子。在位中は平清盛が執政。安徳天皇に譲位。 |
たかすぎしんさく | 高杉晋作(1839~1867) | 幕末の志士。長州藩士。久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧。攘夷論の急先鋒として奇兵隊を組織。四国艦隊下関砲撃事件では和議の交渉に当たる。1866年(慶応2)第2次長州征討の幕府軍を潰敗させた。 |
たかのちょうえい | 高野長英(1804~1850) | 江戸時代の蘭学者。シーボルトに学ぶ。渡辺崋山らとともに幕府の鎖国政策を批判して捕らえられた(蛮社の獄)。 |
たかはしこれきよ | 高橋是清(1854~1936) | 財政家・政治家。江戸生れ。日銀総裁・蔵相。原敬の暗殺後、首相・政友会総裁。一時引退するが、蔵相として復帰、金融恐慌・昭和恐慌の処理にあたる。二・二六事件で殺害。 |
たかみねじょうきち | 高峰譲吉(1854~1922) | 明治・大正時代の化学者。石川県生まれ。強心剤のアドレナリンや消化剤のタカジアスターゼをつくりだした。 |
たきれんたろう | 滝廉太郎(1879~1903) | 近代日本で最初の本格的な作曲家。24歳で亡くなった。「荒城の月」「花」などが代表作。 |
たけだかつより | 武田勝頼(1546~1582) | 戦国・安土時代の武将。信玄の子。父の没後家を嗣いだが、長篠の敗戦後は勢い振るわず、織田・徳川の軍に撃破され、天目山の麓で自刃。 |
たけだしんげん | 武田信玄(1521~1573) | 甲斐国(山梨県)の戦国大名。越後の上杉謙信とはげしく対立した。天下統一を目標と定め京都へ向かう途中、病没した。 |
たけなかはんべえ | 竹中半兵衛(1544~1579) | 戦国時代の武将。名は重治(しげはる)。美濃出身。秀吉に仕え、その中国経略に軍師として功績をたてたが、陣中に病死。 |
たけもとぎだゆう | 竹本義太夫(1651~1714) | 江戸初期の浄瑠璃太夫。義太夫節の開祖。摂津天王寺村の人。大坂道頓堀に竹本座を設けて操(あやつり)芝居を興行。近松門左衛門の作を語って操り人形浄瑠璃を大成した。 |
だてつなむね | 伊達綱宗(1640~1711) | 江戸時代前期、仙台藩の3代藩主。忠宗の5男。1658年(万治1)藩主となるも酒色におぼれて在任2年で隠居を命じられた。2歳の嫡子亀千代(伊達綱村)が跡を継ぎ、伊達騒動の起因となった。 |
だてまさむね | 伊達政宗(1567~1636) | 安土桃山・江戸初期の武将。伊達輝宗の子。独眼竜と称。父の跡を継ぎ覇を奥羽にとなえたが、1590年(天正18)豊臣秀吉に服属。のち関ヶ原の戦および大坂の陣に功をたて仙台62万石を領した。 |
だてむねかつ | 伊達宗勝(1621~1679) | 江戸時代前期の大名。伊達政宗の子。通称、伊達兵部(だてひょうぶ)1660年(万治3)陸奥一関藩(岩手県)3万石の藩主となる。幼少の仙台藩主伊達亀千代(伊達綱村)の後見役として原田甲斐と藩政を支配。1671年(寛文11)伊達騒動の責任をとわれ、土佐に流罪となる。 |
だてむねしげ | 伊達宗重(1615~1671) | 江戸時代前期の武士。通称、伊達安芸(だてあき)陸奥遠田郡(宮城県)涌谷領主。幼少の仙台藩主伊達亀千代(綱村)後見役の伊達宗勝(兵部)、家老原田甲斐の専横を幕府に訴え、1671年(寛文11)大老酒井忠清邸で対決した甲斐に刺殺された(伊達騒動) |
たなかかくえい | 田中角栄(1918~1993) | 昭和時代の政治家。「日本列島改造論」を発表し、経済の発展に取り組んだ。日中共同声明を発表し、中国との国交を回復した。 |
たなかしょうぞう | 田中正造(1841~1913) | 下野(しもつけ)国出身の政治家。足尾銅山鉱毒事件がおこると農民を助けるため天皇に直訴した。 |
たぬまおきつぐ | 田沼意次(1719~1788) | 10代将軍家治のときに老中となり、大商人の資本を利用し、幕府の財政の立て直しにつとめた。株仲間の公認、長崎貿易の拡大などを行った。 |
たわらやそうたつ | 俵屋宗達( ~1640) | 桃山・江戸初期の画家。やまと絵の技法・様式を消化して大胆な装飾化を加え、水墨画に新生面を開く。「風神雷神図」「蓮池水禽図」のほか、扇面画や金銀泥の料紙装飾などの作品を残す。 |
ちかまつもんざえ | 近松門左衛門(1653~1724) | 越前国の武士の家の生まれ。元禄文化を代表する人形浄瑠璃と歌舞伎の作者。義理人情に苦しむ人々の姿をえがき「曽根崎心中」などの名作を残した。 |
ちばしゅうさく | 千葉周作(1794~1855) | 幕末の剣客。北辰一刀流の開祖。陸奥栗原郡の人。中西派一刀流などを学び、江戸に玄武館を開いて名を挙げ、のち、水戸弘道館に出張教授をして水戸藩士となる。 |
ちゅうあいてんのう | 仲哀天皇(149~200) | 第14代天皇。(在位192~200)日本武尊(やまとたける)の第2王子。皇后は神功(じんぐう)皇后。熊襲(くまそ)征討の途中、筑前国の香椎宮(かしいぐう)で没したという。 |
ちゅうきょうてん | 仲恭天皇(1218~1234) | 第85代天皇。(在位1221~1221)第84代順徳天皇の第4皇子。承久3年(1221)4月即位。5月承久の乱が起こり、7月退位。在位70余日。 |
ちょうさくりん | 張作霖(1875~1928) | 中国の軍人・政治家。奉天派軍閥の総帥。遼寧の人。馬賊の出身。東三省を支配下に収め、1927年北京で大元帥。同年国民政府の北伐軍と戦って河南で大敗。28年奉天(今の瀋陽)に入ろうとして関東軍の陰謀による列車爆破で死亡。 |
つかはらぼくでん | 塚原卜伝(1489~1571) | 室町後期の剣客。常陸鹿島神宮の祠官の家に生まれ、神道流などを学ぶ。新当流を創始し、将軍足利義輝らに指南、後に下総国香取でもっぱら門弟を教えた。 |
つだうめこ | 津田梅子(1864~1929) | 8歳で日本初の女子留学生としてアメリカに渡った。女子英学塾(津田塾大学)を創立した。 |
つちみかどてんのう | 土御門天皇(1195~1231) | 第83代天皇。(在位1198~1210)第82代後鳥羽天皇の第1皇子。承久の乱後、自ら進んで土佐国に、のち阿波国に赴いた。 |
つぶらやえいじ | 円谷英二(1901~1970) | 映画監督・特撮監督。福島県生れ。スクリーン‐プロセス・ミニチュア撮影などの技法を駆使した戦争映画や怪獣映画を撮る。「ハワイ‐マレー沖海戦」「ゴジラ」「ウルトラマン」など。 |
てんじてんのう | 天智天皇(626~671) | 第38代天皇。(在位668~671)第34代舒明天皇の第2皇子。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、大化改新を断行。庚午年籍(こうごねんじゃく)を作り、近江令を制定して内政を整えた。 |
てんむてんのう | 天武天皇(~686) | 第40代天皇。(在位673~686)第38代天智(てんじ)天皇の弟で、もと大海人(おおあまの)皇子といった。天智天皇死後の皇位後継ぎ問題で、大友皇子に勝利、天武天皇となった(壬申の乱)。 |
どうきょう | 道鏡(~772) | 孝謙上皇に重く用いられた僧で、太政大臣禅師(法王)となり権力をふるう。皇位をうかがったが、和気清麻呂にはばまれ、下野に流された。 |
どうげん | 道元(1200~1253) | 宋より帰国し、曹洞宗をひらいた。禅宗は、武士を中心に受け入れられた。越前(福井県)に永平寺を建てた。 |
とうごうへいはち | 東郷平八郎(1847~1934) | 薩摩藩出身の明治の日本海軍の軍人。日露戦争の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破った。 |
とうじょうひでき | 東条英機(1884~1948) | 軍人・政治家。陸軍大将。東京生れ。関東軍参謀長・近衛内閣陸相を経て、1941年組閣、陸相・内相を兼ね、太平洋戦争を起こし、参謀総長・商工・軍需各相をも兼務。戦況の不利に伴い44年辞職。敗戦後、A級戦犯として絞首刑。 |
とうどうたかとら | 藤堂高虎(1556~1630) | 安土桃山・江戸前期の武将。近江の人。浅井長政・羽柴秀長らに仕え、秀吉に召され宇和島城主となり、文禄・慶長の役に従う。秀吉没後は徳川氏に属し、関ヶ原・大坂の戦功により伊勢・伊賀32万石に封。築城にすぐれる。 |
とおやまきんしろう | 遠山金四郎( ~1855) | 江戸後期の江戸町奉行。左衛門尉。名は景元。下情に通じ、名奉行をもって聞こえ、「遠山の金さん」として親しまれ、歌舞伎狂言や講釈などに脚色。 |
とくがわいえつな | 徳川家綱(1641~1680) | 江戸幕府第4代将軍。(在位1651~1680)家光の長子。保科正之・酒井忠勝・松平信綱らに補佐され、幕府の諸制度を整備。 |
とくがわいえのぶ | 徳川家宣(1662~1712) | 江戸幕府第6代将軍。(在位1709~1712)甲府藩主徳川綱重の長子。初名、綱豊。綱吉の養子。新井白石・間部詮房(まなべあきふさ)を登用して政治の刷新を志すが、在職3年で没する。 |
とくがわいえみつ | 徳川家光(1604~1651) | 江戸幕府第3代将軍。(在位1623~1651)参勤交代などを定め、支配のしくみを完成した。キリスト教を禁止して、鎖国を行った。 |
とくがわいえもち | 徳川家茂(1846~1866) | 江戸幕府第14代将軍(在位1858~1866)紀州藩主斉順(なりより)の長子。初名、慶福(よしとみ)。紀州藩主。のち将軍の位を継ぎ、公武合体のため和宮と結婚。大坂城で第2次長州征討の軍を統督中に病没。 |
とくがわいえやす | 徳川家康(1542~1616) | 江戸幕府初代将軍。(在位1603~1605)秀吉の死後、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍に勝って天下を支配した。1603年に征夷大将軍になって江戸幕府を開き、約270年間続く幕藩政治のもとをきずいた。 |
とくがわつなよし | 徳川綱吉(1646~1709) | 江戸幕府第5代将軍。(在位1680~1709)学問を好み朱子学を幕府の正式な学問とした。 「生類憐れみの令」を定めたり、貨幣の改悪をするなど、社会・経済を混乱させた。 |
とくがわなりあき | 徳川斉昭(1800~1860) | 幕末の水戸藩主。藩校弘道館を開設して文武を奨励、鋭意藩政を改革、幕政を補佐したが、将軍継嗣問題で一橋派に属し、井伊大老に忌まれて永蟄居。 |
とくがわひでただ | 徳川秀忠(1579~1632) | 江戸幕府第2代将軍。(在位1605~1623)家康の3男。家康が定めた諸法度に基づき、一門・譜代を含む39大名を改易するなど、大名・朝廷・寺社の統制を強化、幕府創業に尽力。 |
とくがわみつくに | 徳川光圀(1628~1700) | 徳川家康の孫で、水戸藩の2代藩主。儒学をさかんにして、水戸学のもとをきずいた。江戸に彰考館(しょうこうかん)を開き、「大日本史」の編さんを行った。 |
とくがわよしのぶ | 徳川慶喜(1837~1913) | 江戸幕府第15代将軍。(在位1867~1868)水戸藩主徳川斉昭の子。1867年、大政奉還を朝廷に申し出、約260年続いた江戸幕府は倒れた。 |
とくがわよしむね | 徳川吉宗(1684~1751) | 江戸幕府第8代将軍。(在位1716~1745)享保の改革を行った。公事方御定書(くじかたおさだめがき)を定め、目安箱をもうけた。米を中心に政策をすすめ、米将軍とよばれた。 |
とぐりいくこ | 戸栗郁子(1916~2006) | ロサンゼルス生まれ。カリフォルニア大卒。昭和16年日本放送協会入社。18年米軍向け放送「ゼロ・アワー」を担当。米兵に「東京ローズ」とよばれた。戦後、反逆罪で米市民権剥奪の判決をうけ禁固10年。1977年特赦。 |
とばじょうこう | 鳥羽上皇(1103~1156) | (上皇在位1129~1156)(法皇在位1142~1129)1129年に白河法皇が崩じると院政を開き、自らの子である第75代崇徳・第76代近衛・第77代後白河の3代28年にわたって実権をにぎった。 |
とばてんのう | 鳥羽天皇(1103~1156) | 第74代天皇。(在位1107~1123)第73代堀河天皇の第1皇子。1123年(保安4)崇徳天皇に譲位、1129年(大治4)白河法皇の崩御を受けて3代28年にわたり院政。崇徳上皇らを排斥。1142年に出家、法皇となる。 |
とよとみひでつぐ | 豊臣秀次(1568~1595) | 安土桃山時代の武将。三好一路の子。母は秀吉の姉。1591年(天正19)秀吉の養子、ついで関白。秀頼の出生後、秀吉と不和を生じ、高野山に追放のうえ自殺を命ぜられた。世に殺生関白という。 |
とよとみひでよし | 豊臣秀吉(1536~1598) | 戦国・安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。木下弥右衛門の子。幼名、日吉丸。初名、藤吉郎。貧しい足軽の子に生まれたが、信長につかえ、信長の死後、天下を統一した。刀狩や検地(太閤検地)によって農民を支配した。 |
とよとみひでより | 豊臣秀頼(1593~1615) | 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の子で、豊臣家の世継ぎとして育てられた。母は淀君。徳川幕府に臣従の姿勢を示さなかったため、大阪の陣でほろぼされた。 |
なおえかねつぐ | 直江兼続(1560~1619) | 安土桃山時代の武将。山城守。上杉景勝に仕え、名家宰として知られる。詩文をよくした。 |
なかとみのかまたり | 中臣鎌足(614~669) | もともと有力豪族の一つ。中大兄皇子を助けて大化の改新を行った。のちに藤原の姓をもらい、藤原氏の祖先となった。 |
なかのおおえの | 中大兄皇子(626~671) | 645年、蘇我氏を滅ぼして大化の改新を行い(645年)都を難波(大阪市)にうつした。 天智(てんじ)天皇となり、近江(滋賀県)に都を開き、近江令や庚午年籍をつくった。 |
なかはままんじろう | 中浜万次郎(1827~1898) | 幕末・明治の語学者。土佐国の漁夫の次男。1841年(天保12)出漁中に漂流、アメリカ船に救われ米国で教育を受け、51年(嘉永4)帰国。土佐藩、ついで幕府に仕え、翻訳・航海・測量・英語の教授に当たる。ジョン万次郎。 |
なぐもちゅういち | 南雲忠一(1887~1944) | 海軍大将。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。 |
なつめそうせき | 夏目漱石(1867~1916) | 明治・大正時代の代表的作家。東京都生まれ。「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などが代表作。 |
にじょうてんのう | 二条天皇(1143~1165) | 第78代天皇。(在位1158~1165)第77代後白河天皇の第1皇子。六条天皇に譲位。二条の皇居で没す。治世中、父上皇が院政。 |
にちれん | 日蓮(1222~1282) | ききんなどの災害から国と人々を救うのは法華経(日蓮宗)だけだという教えをひらいた。元寇を予言して有名になったが、他の宗派や幕府を非難したので、伊豆や佐渡に流された。 |
にったよしさだ | 新田義貞(1301~1338) | 上野(こうずけ)国(群馬県)の豪族で、鎌倉幕府の御家人だった。1333年に鎌倉幕府をせめほろぼし、建武の新政で重用されたが、足利尊氏に敗れた。 |
にとべいなぞう | 新渡戸稲造(1862~1933) | キリスト教信者で、国際連盟の事務局次長として世界平和につくした。「武士道」は世界の多くの人に読まれた。 |
ににぎのみこと | ニニギノミコト | 古事記には、邇邇芸命(ににぎのみこと)と記される。アマテラスの孫。天孫と称す。日本統治のために三種の神器を奉じて高天原から日向の国、高千穂峰に降臨した。木花之開耶姫 (このはなのさくやひめ) を娶り、彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと) を生む。神武天皇は曽孫にあたる。 |
にのみやそんとく | 二宮尊徳(1787~1856) | 江戸末期の篤農家。通称、金次郎。相模の人。徹底した実践主義で、神・儒・仏の思想をとった報徳教を創め、自ら陰徳・積善・節倹を力行し、殖産を説いた。 |
にんとくてんのう | 仁徳天皇(290~399) | 第16代天皇。(在位313~399)第15代応神天皇の第4皇子。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。 |
ぬかたのおおきみ | 額田王(7C後半) | 万葉集を代表する女流歌人。はじめ大海人(おおあまの)皇子(のちの天武天皇)の妃となり、のちに天智天皇の妃となった。 |
のうひめ | 濃姫(1535~) | 美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘。政略結婚で尾張国の織田信長に嫁いだ。信長の正室。帰蝶。 |
のぎまれすけ | 乃木希典(1849~1912) | 陸軍大将。長州藩士。日露戦争に第三軍司令官として旅順を攻略。後に学習院長。明治天皇の大葬当日、自邸で妻静子とともに殉死。 |
のぐちひでよ | 野口英世(1876~1928) | 明治~昭和時代の世界的な医学者。細菌学の研究に業績をあげた。アフリカで黄熱病の研究を行ったが、自分も感染して亡くなった。 |
はしばひでなが | 羽柴秀長(1541~1591) | 安土桃山時代の武将。秀吉の異父弟。秀吉に従って歴戦し、よくこれを補佐した。 |
はしもとさない | 橋本左内(1834~1859) | 幕末の志士。福井藩士。緒方洪庵らに蘭学・医学を学び、藩の洋学を振興。藩主松平慶永に認められて藩政革新に当たる。将軍継嗣問題で慶喜よしのぶ擁立に尽力、安政の大獄に連座し斬罪。 |
はせがわへいぞう | 長谷川平蔵(1745~1795) | 江戸中期の旗本。1790年(寛政2)老中松平定信の命で人足寄場を創設。火付盗賊改として犯罪人逮捕や裁判に敏腕を発揮。 |
はちすかまさかつ | 蜂須賀正勝(1526~1586) | 安土桃山時代の武将。幼名は小六。修理大夫。羽柴秀吉に従って武功を重ね、四国攻めなどに参加し、その信任が厚かった。もと盗賊の首領であったとするのは誤りで、尾張の土豪の出であったという。 |
はっとりまさなり | 服部正成(1542~1597) | 徳川家康に仕え遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた三河の武将。服部半蔵。伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。 |
はまぐちおさち | 浜口雄幸(1870~1931) | 政治家。高知県出身。東大卒。蔵相・内相を経て、民政党初代総裁として首相となり、金解禁、緊縮政策を断行、ロンドン海軍軍縮条約を結んだ。右翼に東京駅で狙撃され、それがもとで没。 |
はらだかい | 原田甲斐(1619~1671) | 江戸前期の仙台藩の家老。寛文事件(伊達騒動)の一方の当事者。1663年(寛文3)奉行職(家老)に就任。幕府大老酒井忠清の屋敷で被告として尋問された際に、原告の伊達安芸を切り殺し、自らも切り死にした。 |
はらたかし | 原敬(1856~1921) | 立憲政友会の政治家。岩手県出身。米騒動で退陣した寺内内閣にかわって内閣総理大臣になった(最初の本格的な政党内閣)。「平民宰相」とよばれたが、武士の子であった。 |
はりす | ハリス(1804~1878) | アメリカの外交官。日米和親条約にもとづき総領事として下田に着任。大老井伊直弼との間に日米修好通商条約を結んだ。 |
ばんずいいん | 幡随院長兵衛(~1650) | 江戸初期の侠客。浅草花川戸に住み、町奴の頭領。水野十郎左衛門を首領とする旗本奴と争い殺された。。桜田治助や河竹黙阿弥らによって歌舞伎・浄瑠璃などに脚色。 |
ひきよしかず | 比企能員( ~1203) | 鎌倉初期の御家人。娘若狭局(わかさのつぼね)は頼家に愛されて一幡(いちまん)を生む。北条時政・大江広元らとともに幕政に参与。のち頼家と謀って北条氏の討伐を企てたが事前に発覚し、殺された。 |
ひぐちいちよう | 樋口一葉(1872~1896) | 明治時代の女性の小説家。「たけくらべ」で有名になった。ほかに「にごりえ」・「十三夜」などの代表作があるが、25歳で亡くなった。 |
ひさあきらしんのう | 久明親王(1276~1328) | 鎌倉幕府第8代将軍。(在位1289~1308)第89代後深草天皇の皇子。 |
ひじかたとしぞう | 土方歳三(1835~1869) | 幕末の剣客。武蔵多摩の人。1863年(文久3)新撰組に入り、副長として京都市中の護衛に当たる。鳥羽伏見の戦に敗れた後、東下して新政府軍に抵抗、のち榎本武揚の軍に加わり、箱館五稜郭の戦で戦死。 |
ひしかわもろのぶ | 菱川師宣(1618~1694) | 江戸時代前期の浮世絵師。代表作に「見返り美人図」がある。 |
びだつてんのう | 敏達天皇(538~585) | 第30代天皇。(在位572~585)第29代欽明天皇の第2皇子。 |
ひのとみこ | 日野富子(1440~1496) | 室町幕府8代将軍足利義政の夫人。実子義尚を将軍継嗣に立てようとして応仁の乱の端緒をつくる。また関所を設けて課税し、米相場・賄賂・高利貸などで蓄財した。 |
ひみこ | 卑弥呼(170~248) | 邪馬台国の女王。「魏志倭人伝」によれば約30国が女王の統治下にあり、239年魏に使者を遣わして、明帝より親魏倭王の称号を与えられた。 |
ひらがげんない | 平賀源内(1726~1779) | 江戸時代中期の科学者、発明家、油絵画家。25歳のとき、長崎で医学やオランダ語を学んだ。寒暖計、摩擦起電器(エレキテル)などを制作した。 |
ひらつからいちょう | 平塚らいてう(1301~1338) | 女性を解放して自由にするための運動をした。「青鞜(せいとう)」という雑誌を作り「元始、女性は太陽であった」のことばを残した。 |
ふくざわゆきち | 福沢諭吉(1834~1901) | 中津藩出身の明治はじめの思想家。「学問のすすめ」などを書き、西洋の文化・考え方を日本に広めた。慶応義塾(のちの慶応大学)を開き、若者を教育した。 |
ふくしままさのり | 福島正則(1561~1624) | 安土桃山時代の武将。尾張の人。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。後に尾張清洲城主。関ヶ原の戦には徳川方に味方し、安芸・備後に50万石を与えられたが、広島城修築の罪を問われ、信濃川中島に移された。 |
ふじわらのかねいえ | 藤原兼家(929~990) | 平安中期の貴族。師輔(もろすけ)の子。兄兼通と関白を争い、花山天皇を欺いて退位させ、外孫一条天皇を即位させた。摂政太政大臣。 |
ふじわらのきよひら | 藤原清衡(1056~1128) | 平安後期、奥州の豪族。後三年の役で源義家の支援により清原家衡・武衡らを滅ぼし、陸奥と出羽の両国を得て、平泉を中心に一大勢力を形成し、奥州藤原氏の祖となった。平泉に中尊寺を建立。清原清衡。 |
ふじわらのすみとも | 藤原純友(~941) | 平安中期の地方豪族。伊予国(愛媛県)で役人をしていたが、瀬戸内海の海賊の首領となった。939年(天慶2)反乱をおこしたが、941年にほろぼされる(藤原純友の乱/承平・天慶の乱)。 |
ふじわらのただみち | 藤原忠通(1097~1164) | 平安末期の貴族。藤原忠実の子。摂政関白・太政大臣。父や弟の頼長と対立した。保元の乱後、出家した。詩歌にすぐれ、書法にも一家をなした。 |
ふじわらのていか | 藤原定家(1162~1241) | 鎌倉前期の歌人。後鳥羽上皇の命令で「新古今和歌集」を編さんした。「小倉百人一首」を選集した。 |
ふじわらのときひら | 藤原時平(871~909) | 平安前期の貴族。基経の長子。宇多・醍醐両天皇に仕え、累進して左大臣。天皇の信任厚い菅原道真を太宰府に左遷し、政界における藤原氏の地位を確立。「延喜格式」「三代実録」を撰。 |
ふじわらのひでひら | 藤原秀衡(1122~1187) | 平安末期の武将。奥州藤原氏の3代目。 父基衡の跡をつぎ、平泉を拠点に、奥州藤原氏の最盛期を築く。源頼朝と対立し、源義経を庇護。また宇治平等院を模して無量光院を建立。 |
ふじわらのふひと | 藤原不比等(659~720) | 奈良時代の貴族。藤原鎌足の次子。右大臣。光明皇后(聖武天皇の妃)の父。大宝律令(701年)・養老律令の制定に力をつくした。 |
ふじわらのみちなが | 藤原道長(966~1027) | 平安中期の貴族。藤原兼家の第5子。藤原氏による摂関政治の全盛時代をきずいた。 「この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることのなしと思えば」の歌が有名。 |
ふじわらのもとつね | 藤原基経(836~891) | 平安前期の貴族。長良の子。叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の摂政をへて、887年宇多天皇の即位とともに最初の関白の職につき、藤原氏の勢力をますますかためた。「文徳実録」を撰。 |
ふじわらのもとひら | 藤原基衡(~1157) | 平安末期の奥州の豪族。奥州藤原氏の2代目。 父清衡の跡をつぎ、平泉を中心に奥羽地方で30余年間も勢力をふるった。京都の文化を移入し、毛越寺(もうつじ)を建立。 |
ふじわらのやすひら | 藤原泰衡(1155 ~1189) | 平安末期の奥州の豪族。奥州藤原氏第4代目。父秀衡の遺命によって源義経を庇護したが、頼朝の圧迫を受けてこれを殺害、かえって頼朝から攻撃されて殺された。 |
ふじわらのよしふさ | 藤原良房(804~872) | 平安前期の貴族・政治家。9世紀中ごろ清和天皇のとき、人臣からはじめて摂政になった(摂関政治の源流)。 |
ふじわらのよりつぐ | 藤原頼嗣(1239~1256) | 鎌倉幕府第5代将軍。(在位1244~1252)1244年(寛元2)執権北条経時に迎えられたが、1952年(建長4)に追放されて帰京。九条頼嗣。 |
ふじわらのよりつね | 藤原頼経(1218~1256) | 鎌倉幕府第4代将軍。(在位1226~1244)藤原道家の子。2歳で鎌倉に迎えられ、のち将軍となったが、北条氏により職を子の頼嗣に譲らされた。九条頼経。 |
ふじわらのよりなが | 藤原頼長(1120~1156) | 平安後期の貴族。藤原忠実の次子。左大臣。学問を好む。父忠実の庇護を得て兄忠通と対立。鳥羽上皇の信任を失い、崇徳上皇によって勢力を挽回しようと保元の乱を起こしたが、敗死。 |
ふじわらのよりみち | 藤原頼通(992~1074) | 平安中期の貴族。藤原道長の子で、3代の天皇の摂政・関白になった。宇治(奈良県)に平等院鳳凰堂を建てた。 |
ふびらいはん | フビライ・ハン(1215~1294) | モンゴル民族を統一したチンギス・ハンの孫で、中国の元王朝の初代皇帝。2度にわたって、日本遠征を命じた。 |
へいせいてんのう | 平成天皇(1933~) | 第125代天皇。(在位1989~2019)(上皇在位2019~)第124代昭和天皇の第1皇子。名は明仁(あきひと)2019年(令和元年)5月1日、皇太子徳仁親王に譲位、上皇となる。魚類学者としても知られ、業績は各国で評価される。 |
ぺりー | ペリー(1794~1858) | アメリカの海軍軍人。東インド艦隊司令長官として浦賀に来航、開国をせまった。1854年、日米和親条約を結ぶことに成功した。 |
ほうしゅんいん | 芳春院(1547~1617) | 加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。豊臣秀吉の正室高台院(ねね、北政所)とは懇意の間柄だった。子供のいない秀吉夫妻のために、四女豪姫を養女にさせた。 |
ほうじょううじなお | 北条氏直(1562~1591) | 安土桃山時代の武将。氏政の子。豊臣秀吉に小田原城を包囲されて降伏。徳川家康の女婿であったことから助命、高野山に追放された。 |
ほうじょうさねとき | 北条実時(1224~1276) | 鎌倉中期の武将。金沢文庫の創立者。義時の孫。京都から下向した清原教隆に学び、篤学と典籍の蒐集とで著名。金沢実時とも。 |
ほうじょうそううん | 北条早雲(1432~1519) | 相模国(神奈川県)小田原を中心に勢力を持った戦国大名。1590年豊臣秀吉に滅ぼされるまで、5代100年にわたる関東支配のもとを築いた。 |
ほうじょうたかとき | 北条高時(1303~1333) | 鎌倉幕府第14代執権。(在位1316~1326)貞時の子。元弘の乱で、新田義貞らに攻められて鎌倉で自刃。 |
ほうじょうときまさ | 北条時政(1138~1215) | 鎌倉幕府初代執権。(在位1203~1205)北条政子の父。頼朝を助けて鎌倉幕府創設に力をかした。3代将軍実朝のとき執権となって幕府の実権をにぎった。 |
ほうじょうときむね | 北条時宗(1251~1284) | 鎌倉幕府第8代執権。(在位1268~1284)第5代執権時頼の子。1274年(文永11)元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築き、81年(弘安4)の再度の元寇もよく防御。円覚寺を建て、宋より無学祖元を招いて開山とする。 |
ほうじょうときより | 北条時頼(1227~1263) | 鎌倉幕府第5代執権。(在位1246~1256)北条時氏の次子。北条氏の独裁制(得宗専制)は彼の時代にほぼ確立。出家後、ひそかに諸国を遍歴して治政民情を視察したと伝える。鉢木(はちのき) |
ほうじょうまさこ | 北条政子(1157~1225) | 伊豆の武士北条時政の娘で、源頼朝と結婚した。頼朝の死後、政治の実権をにぎり尼将軍といわれた。承久の乱で後鳥羽上皇に勝利した。 |
ほうじょうやすとき | 北条泰時(1183~1242) | 鎌倉幕府第3代執権。(在位1224~1242)第2代執権義時の長子。承久の乱鎮圧の後、六波羅探題となり朝廷を監視。父の没後、執権となり、評定衆の設置、御成敗式目の制定など執権政治の確立に努めた。 |
ほうじょうよしとき | 北条義時(1163~1224) | 鎌倉幕府第2代執権。(在位1205~1224)初代執権時政の次子。実朝が暗殺された後は九条頼経を将軍に迎えて、政子と共に幕政を専断。承久の乱に勝って武家政権の優位を確立すると同時に執権政治の基礎を築いた。 |
ほしなまさゆき | 保科正之(1611~1672) | 江戸前期の会津藩主。徳川秀忠の四男。保科氏の養子。会津23万石に封じられ、将軍家綱を補佐。社倉を建て領民を保護。儒学を好み山崎闇斎を招き、また吉川惟足(これたる)の神道説を学び、その伝授を得た。 |
ほそかわかつもと | 細川勝元(1430~1473) | 室町時代の武将。3回にわたって管領となり、将軍足利義政の継嗣、畠山家の内紛にからんで応仁の乱を起こし、東軍の総大将として西軍の山名宗全と争った。竜安寺を創建。 |
ほそかわがらしあ | 細川ガラシヤ(1563~1600) | 細川忠興の妻。明智光秀の女むすめ。キリシタン信者。関ヶ原の戦で石田三成挙兵に際し、人質として大坂城に入るのを拒んで、家老に自らを討たせた。 |
ほそかわただおき | 細川忠興(1563~1645) | 安土桃山時代の武将。幽斎の子。織田信長に仕え、丹後宮津城主。妻ガラシヤの父明智光秀が信長を殺害した時、その招きに応ぜず、豊臣秀吉に従って軍功を積み、関ヶ原の戦には徳川氏に属して戦功あり、豊前・豊後40万石に封。 |
ほったまさとし | 堀田正俊(1634~1684) | 江戸前期の幕府大老。下総古河藩主。若年寄を経て老中となり、将軍綱吉の擁立に成功。稲葉正休(まさやす)に殿中で刺殺。 |
ほったまさよし | 堀田正睦(1810~1864) | 幕末の幕府老中。下総佐倉藩主。将軍家斉・家慶・家定3代に歴仕。アメリカ総領事ハリスと日米修好通商条約を締結。 |
ほりかわてんのう | 堀河天皇(1079~1107) | 第73代天皇。(在位1086~1107)第72代白河天皇の第2皇子。1086年(応徳3)父白河上皇が、初めて院政を開く。 |
ほりべやすべえ | 堀部安兵衛(1670~1703) | 赤穂義士の一人。名は武庸。もと中山氏。弥兵衛の養子。高田馬場の仇討で名高く、歌舞伎・講釈の人気者。 |
ほんあみこうえつ | 本阿弥光悦(1558~1637) | 安土桃山・江戸初期の芸術家。京都の町衆。家業の刀剣の鑑定・研磨をよくすると共に、書を尊朝法親王に学び、寛永三筆の一人。また、蒔絵(まきえ)意匠も考案し、楽焼にも秀で、茶道をたしなむ。 |
まえじまひそか | 前島密(1835~1919) | 近代郵便制度の創設者。越後生れ。幕臣の家を継ぐ。維新後、駅逓頭となり、「郵便」「切手」などの名称を定める。海運・鉄道・教育などにも活躍し、国字改良論者としても知られる。 |
まえだとしいえ | 前田利家(1538~1599) | 安土桃山時代の武将。加賀金沢藩の祖。尾張の出身。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉没後は五大老の一人として秀頼を補佐した。 |
まえのりょうたく | 前野良沢(1723~1803) | 江戸中期の蘭医。青木昆陽にオランダ語を学び、長崎に赴いて研究。杉田玄白らとともに死体解剖を実見、蘭書「ターヘル‐アナトミア」を共訳「解体新書」と名づけた。 |
まつおかようすけ | 松岡洋右(1880~1946) | 政治家。山口県生れ。外交官・満鉄副総裁ののち、政友会代議士。国際連盟脱退の際の首席全権。満鉄総裁を経て近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。第二次大戦後、A級戦犯として裁判中病没。 |
まつおばしょう | 松尾芭蕉(1644~1694) | 元禄時代の代表的な俳人。俳句を芸術に高めた。各地を旅しながら、紀行文「奥の細道」などすぐれた作品を残した。 |
まっかっさー | マッカーサー(1880~1981) | アメリカ合衆国の軍人。太平洋戦争で日本が敗れると、連合国軍最高司令長官として日本の占領政策をおしすすめた。 |
まつだいらさだのぶ | 松平定信(1758~1829) | 徳川吉宗の孫で、白河藩主。老中となり、寛政の改革を行った。寛政異学の禁、囲米の制、棄捐令(きえんれい)などを定めた。 |
まつだいらのぶつな | 松平信綱(1596~1662) | 江戸前期の幕府老中。川越藩主。伊豆守。世に知恵伊豆と称。将軍家光・家綱に仕え、島原の乱・慶安事件・明暦の大火などに善処。 |
まつだいらよしなが | 松平慶永(1828~1890) | 幕末の福井藩主。将軍継嗣問題および条約締結の件で大老井伊直弼と意見を異にし、隠居・閉門を命ぜられたが、後に赦免。明治政府の議定・民部卿・大蔵卿を歴任。 |
まみやりんぞう | 間宮林蔵(1775~1844) | 江戸後期の探検家、幕府隠密。伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北樺太を探検。1809年(文化6)、後の間宮海峡を発見。シーボルト事件を幕府に密告したとされる。著「東韃紀行」。 |
まるこぽーろ | マルコ・ポーロ(1254~1324) | イタリアのベネチアの商人の子で、元のフビライ・ハンにつかえた。「東方見聞録」で日本をジパングとして紹介した。 |
まるばしちゅうや | 丸橋忠弥( ~1651) | 江戸前期の浪人。宝蔵院流槍術の達人。出羽の人。江戸御茶の水に道場を開く。慶安事件に由井正雪の一味に加わり発覚、磔刑。歌舞伎・講談などに脚色。 |
まるやままさお | 丸山政男(1889~1957) | 陸軍中将。 ガダルカナル島の戦いにおいて、第1次総攻撃の失敗を受けて、ジャワ島守備に着いていた第2師団が第2次総攻撃に投入されたが、それも失敗に終わり、1943年2月の撤退まで泥沼の戦闘を継続した。 |
みかわぐんいち | 三川軍一(1888~1981) | 海軍中将。海兵38期・海大22期。1942年8月第八艦隊司令長官として第一次ソロモン海戦を指揮し、敵重巡洋艦部隊を壊滅(撃沈四隻、大破一隻)させる武功を挙げた。だがこの時、敵輸送船団撃滅を行わず帰還した。 |
みしまゆきお | 三島由紀夫(1925~1970) | 小説家・劇作家。東京生れ。東大卒。修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体が特徴。作「金閣寺」など。1970年(昭和45年)11月、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて東部方面総監を監禁。バルコニーで演説をした後、割腹自殺を遂げた。 |
みずのただくに | 水野忠邦(1794~1851) | 江戸時代後期の老中で、天保の改革を行った。ぜいたくを禁止しようと倹約令を出し、株仲間の解散や上知令(あげちれい)を命じたがうまくいかず、改革は失敗した。 |
みついたかとし | 三井高利(1622~1694) | 江戸の日本橋に越後屋呉服店を開き、さらに両替商もかね、幕府の御用商人になった。三井は財閥として日本の商業界をリードした。 |
みなもとのさねとも | 源実朝(1192~1219) | 鎌倉幕府第3代将軍。(在位1203~1219)兄の頼家の跡をついて3代将軍となったが、28歳のとき頼家の息子公暁に殺された。歌人で歌集に「金塊和歌集」がある。 |
みなもとのためとも | 源為朝(1139~1170) | 平安末期の武将。源為義の8男。豪勇で、強弓をもって名高い。九州に勢力を張り、鎮西八郎と称す。保元の乱には崇徳上皇方につき、敗れて伊豆大島に流罪。のち、工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。 |
みなもとのためよし | 源為義(1096~1156) | 平安末期の武将。源義親の子。検非違使となって六条判官と称される。保元の乱に崇徳上皇の白河殿を守ったが、敗れて斬られた。 |
みなもとののりより | 源範頼(~1193) | 平安末期の武将。義朝の6男。兄頼朝の挙兵を助け、弟義経と協力して義仲を討ち、平家を一谷・壇ノ浦に破った。のち頼朝に疑われ、伊豆修禅寺に流された。 |
みなもとのよしつね | 源義経(1159~1189) | 平安末期の武将。源義朝の9男。幼名は牛若。源頼朝の弟で、壇ノ浦の戦いで平氏をたおした。その後、頼朝と対立するようになり、頼朝の命令で奥州平泉で殺された。 |
みなもとのよしとも | 源義朝(1123~1160) | 平安末期の武将。源為義の長男。平清盛と対立した源氏の総大将。源頼朝・義経の父。保元の乱で平清盛とともに勝ったが、平治の乱で清盛に敗れた。 |
みなもとのよしなか | 源義仲(1154~1184) | 平安末期の武将。為義の孫。木曽義仲。1180年(治承4)以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を奉じて挙兵。平氏の大軍を破って入京し、84年(寿永3)征夷大将軍に任ぜられたが、源範頼・義経の軍と戦って敗れ、近江粟津で戦死。 |
みなもとのよりいえ | 源頼家(1182~1204) | 鎌倉幕府第2代将軍。(在位1202~1203)頼朝の長子。母は北条政子。北条氏に強請されて将軍職を弟実朝に譲り、舅比企能員(ひきよしかず)と結んで北条氏を除こうとしたが、北条時政らに殺害された。 |
みなもとのよりとも | 源頼朝(1147~1199) | 鎌倉幕府初代将軍。(在位1192~1199)平氏をたおし、1192年、征夷大将軍になって鎌倉幕府をひらいた。御家人制など武士による政治のしくみを整えた。 |
みやざきやすさだ | 宮崎安貞(1623~1697) | 江戸時代前期の農学者。諸国をまわって農業を視察した。「農業全書」は農業の知識を広めるのに役立った。 |
みやざわけんじ | 宮沢賢治(1896~1933) | 岩手県出身の詩人・童話作家。貧しい農民とともに生きながら、「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などの作品を残した。 |
みやもとむさし | 宮本武蔵(1584~1645) | 江戸初期の剣客。二天と号。播磨生れという。武道修業のため諸国を遍歴して二刀流を案出し、二天一流の祖。佐々木巌流との試合が名高い。晩年は熊本に住み、水墨画もよくした。著「五輪書」。 |
むつむねみつ | 陸奥宗光(1844~1897) | 外務大臣として、日清戦争直前に治外法権の廃止に成功した。日清戦争の講和条約である下関条約を結んだ。 |
むねたかしんのう | 宗尊親王(1242~1274) | 鎌倉幕府第6代将軍。(在位1252~1266)第88代後嵯峨天皇の皇子。謀反の疑いで京都に送還され、のち出家。和歌に通じ、「柳葉和歌集」などを残す。 |
むらさきしきぶ | 紫式部(970~1014) | 平安時代の女流歌人・文学者で、光源氏を主人公にした長編小説「源氏物語」を書いた。才能を認められて、一条天皇の中宮・彰子(あきこ)に仕えた。 |
めいじてんのう | 明治天皇(1852~1912) | 第122代天皇。(在位1867~1912)第121代孝明天皇の第2皇子。王政復古を実現し、五箇条の御誓文を発布、明治政府の中心として日本の近代化を進めた。1889年、大日本帝国憲法を発布した。 |
もうりてるもと | 毛利輝元(1553~1625) | 安土桃山時代の武将。元就の孫。隆元の子。初め足利義昭を奉じて織田信長に対抗したが、本能寺の変後、豊臣秀吉と和睦し、のちに五大老の一人。関ヶ原の戦には西軍の主将となり、周防・長門2国に減封された。 |
もうりもとなり | 毛利元就(1497~1571) | 安芸国(広島県)の地頭の家に生まれ、中国10カ国を支配する戦国大名となった。3男の隆景を小早川家に、2男の元春を吉川家に養子に入れ、安芸国の支配を固めた。 |
もーす | モース(1926~1989) | 明治政府に雇われたアメリカ人。 縄文時代の大森貝塚を発見。 |
もちひとおう | 以仁王(1151~1180) | 後白河天皇の第3皇子。1180年(治承4)源頼政と謀り、諸国の源氏を誘って平氏討伐を企てたが発覚し、園城寺に逃れ、奈良への途中、山城国の光明山鳥居前で戦死。 |
もとおりのりなが | 本居宣長(1730~1801) | 伊勢国(三重県)松阪の商家の生まれで、江戸時代を代表する国学者。万葉集の研究者であった賀茂真淵の弟子となり、「古事記伝」を著した。 |
もののべのもりや | 物部守屋(~587) | 第30代敏達(びだつ)・第31代用明天皇朝の大連(おおむらじ)。仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼く。用明天皇の没後、穴穂部(あなほべ)皇子を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために滅ぼされた。 |
もりおうがい | 森鴎外(1862~1922) | 明治・大正時代の代表的作家。軍医。石見国の医者の家の生まれ。「舞姫」「山椒大夫」「阿部一族」が代表作。 |
もりくにしんのう | 守邦親王(1301~1333) | 鎌倉幕府第9代将軍。(在位1308~1333)8代久明親王の子。幕府の滅亡により出家。 |
もりよししんのう | 護良親王(1308~1335) | 後醍醐天皇の皇子。討幕を計り還俗、奈良・吉野・高野に潜行。諸国に令旨(りょうじ)を発して建武新政を招来。征夷大将軍に任ぜられたが、のち足利尊氏のために鎌倉に幽閉、足利直義の臣、淵辺義博に殺された。 |
やおやおしち | 八百屋お七(1668~1683) | 江戸本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘。1682年(天和2)12月の大火で焼け出されて駒込の正仙寺に避難した際、寺小姓の生田庄之助と情を通じ、恋慕のあまり、火事になれば会えるものと放火。捕らえられて鈴ヶ森で火刑に処せられた。 |
やがみひめ | ヤガミヒメ | 古事記には、八上比売(やがみひめ)と記される。オオクニヌシの最初の妻。オオクニヌシの兄達である八十神が、皆の荷物をオオクニヌシに背負わせて、ヤガミヒメに求婚のため因幡の国へと向かう。その途中、負傷した挙げ句、八十神たちに騙されて、傷が痛んだ白兎にオオクニヌシは出会い、これを救う。救われた白兎は「あなたの求婚は成功するでしょう」という予言を残し、この予言は的中する。 |
やぎゅうじゅうべえ | 柳生十兵衛(1607~1650) | 江戸初期の剣客。宗矩の子。新陰流を修め、徳川家光の寵を受けた。のち大和国正木坂で弟子1万3000人に教え、柳生流と称。 |
やぎゅうむねのり | 柳生宗矩(1571~1646) | 江戸初期の剣客。新陰流の達人。宗厳の子。但馬守。関ヶ原の戦に徳川家康に従い、大和国柳生荘で2000石を知行、のち1万2500石に加増。著「兵法家伝書」。 |
やなぎさわよしやす | 柳沢吉保(1659~1714) | 江戸中期の大名。徳川綱吉の側用人(側近)となり、やがて老中格から大老格となって甲府15万石を領した。文治政策を推進したが、綱吉の失政の責任を一身に負わされ、綱吉死後は隠棲。 |
やなぎたくにお | 柳田国男(1875~1962) | 民俗学者。兵庫県生れ。東大卒。貴族院書記官長を経て朝日新聞に入社。民間にあって民俗学研究を主導。民間伝承の会・民俗学研究所を設立。「遠野物語」「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。 |
やまがたありとも | 山県有朋(1838~1922) | 軍人・政治家。長州藩士。陸軍大将・元帥。公爵。松下村塾に学び、奇兵隊軍監となる。維新後、徴兵令を制定するなど、近代陸軍を創設。のち内相・首相を歴任。 |
やまぐちよしこ | 山口淑子(1920~2014) | 歌手、女優、政治家。翊教女子中学卒。戦前の中華民国と満州国・日本・で、李香蘭の名で映画、歌などに活躍した。1969年、情報番組「3時のあなた」の司会者、1974年から参議院議員を務めた。 |
やましろのおおえ | 山背大兄王( ~643) | 聖徳太子の子。母は蘇我馬子の娘。皇位継承の有力候補だったが、蘇我蝦夷は王を退け、舒明天皇を立てた。643年蘇我入鹿の兵に攻められ、斑鳩(いかるが)寺で一族とともに自殺。 |
やまだながまさ | 山田長政(~1630) | 1611年ごろ、朱印船でシャム(タイ)に渡り、アユタヤの日本町で町の頭になった。シャムの国王につかえたが、王の死後、毒殺された。 |
やまとたける | ヤマトタケル | 日本武尊。景行天皇の皇子。熊襲(くまそ)を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣(くさなぎのつるぎ)によって野火の難を払い、走水(はしりみず)の海では妃弟橘媛(おとたちばなひめ)の犠牲によって海上の難を免れた。 |
やまなそうぜん | 山名宗全(1404~1473) | 室町中期の武将。名は持豊。守護大名として勢力をはり、8代将軍足利義政の跡つぎ問題で細川勝元と対抗し応仁の乱を起こした。西軍の総大将として戦ったが、乱の半ばで病死。 |
やまのうえのおくら | 山上憶良(660~733) | 奈良時代の貴族で、歌や学問にすぐれた人。「貧窮問答歌」で農民の貧しく苦しい生活をうたった。 |
やまのうちかずとよ | 山内一豊(1546~1605) | 安土桃山時代の武将。土佐藩祖。初め織田信長、後に豊臣秀吉に仕えた。秀吉没後、徳川家康に仕え、上杉征伐・関ヶ原の戦に功をたて、土佐に封。その妻は、夫の立身の基を作ったという逸話で知られる。 |
やまのうちようどう | 山内容堂(1827~1872) | 幕末の土佐藩主。藩政を改革。公武合体に尽力、後藤象二郎の建策を容れて将軍徳川慶喜に大政奉還を建白。維新後、議定。酒を好み、鯨海酔侯と自称。 |
やまもとかんすけ | 山本勘助( ~1561) | 戦国時代の武将・兵法家。三河の人。独眼で隻脚といわれ、「甲陽軍鑑」によると、軍略に長じ、武田信玄の参謀をつとめ、川中島の戦に戦死したという。 |
ゆいしょうせつ | 由井正雪(1605~1651) | 江戸初期の軍学者。慶安事件の首謀者。楠木流の軍学を学び、江戸で講じ、門人5000人。丸橋忠弥と結んで倒幕を計るが、事前に発覚し、自刃。事件の顛末は歌舞伎・講談などに脚色。 |
ゆうりゃくてんのう | 雄略天皇(418~479) | 第21代天皇。(在位456~479)第19代允恭(いんぎょう)天皇の第5皇子。対立する皇位継承候補を一掃して即位。 |
ゆかわひでき | 湯川秀樹(1907~1981) | 理論物理学者。中間子の理論を発表し、1949年、日本人として初めてノーベル賞(物理学賞)を受賞した。 |
ようぜいいん | 瑤泉院(1674~1714) | 江戸時代前期、播磨(兵庫県)赤穂藩主浅野長矩の妻。備後(広島県)三次(みよし)藩主浅野長治の長女。10歳で長矩と結婚。元禄14年(1701)長矩の切腹、お家断絶(赤穂事件)に際し、泰然と事にあたった。名は阿久里。 |
ようぜいてんのう | 陽成天皇(869~949) | 第57代天皇(在位876~884)第56代清和天皇の第1皇子。藤原基経により廃位。 |
ようめいてんのう | 用明天皇(547~587) | 第31代天皇。(在位585~587)第29代欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父。皇后は欽明天皇の第三皇女、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女。在位中は蘇我馬子と物部守屋が激しく対立。 |
よさのあきこ | 与謝野晶子(1878~1942) | 明治から大正時代に活躍した女性歌人。歌集「みだれ髪」を発行。日露戦争のとき、弟を思ってよんだ詩「君死にたまふことなかれ」は大きな反響をよんだ。 |
よさぶそん | 与謝蕪村(1716~1783) | 江戸中期の俳人・画家。幼時から絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野巴人(はじん)に俳諧を学び、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。著「新花つみ」「たまも集」など。 |
よしだけんこう | 吉田兼好(1283~1350 ) | 鎌倉時代末期~南北朝期の歌人で、若いころは朝廷に仕えていた。後に出家して40代に随筆「徒然草」を書いた。 |
よしだしげる | 吉田茂(1878~1967) | 太平洋戦争敗戦後に総理大臣になった。1951年、サンフランシスコ平和条約を結び、日本の独立を回復した。 |
よしだしょういん | 吉田松陰(1830~1859) | 佐久間象山に学び、松下村塾で多くの有能な人材を育てた。幕府の開国政策に反対し、安政の大獄によって処刑された。 |
よしのさくぞう | 吉野作造(1878~1933) | 大正デモクラシーをみちびいた政治学者・思想家。民本主義をとなえ、議会政治や普通選挙の実施を主張した。 |
よどぎみ | 淀君( ~1615) | 豊臣秀吉の側室の俗称。幼名、茶々。浅井長政の長女。母は信長の妹お市の方。柴田勝家滅亡後、山城の淀城に住み、秀頼を生む。秀吉没後は、秀頼を擁して大坂城に在り、その落城の際、城中に自刃。淀殿。 |
よないみつまさ | 米内光政(1880~1948) | 海軍大将。岩手県生れ。たびたび海相となる。1940年首相、半年で辞職。東条内閣の倒閣、太平洋戦争の終結に注力した。 |
ろくじょうてんのう | 六条天皇(1164~1176) | 第79代天皇。(在位1165~1168)第78代二条天皇の第2皇子。2歳で即位、高倉天皇に譲位。 |
わたなべかざん | 渡辺崋山(1793~1841) | 幕末の文人画家・洋学者。西洋画法を取り入れて独自の様式を完成。鋭い筆致で写実的な肖像画に優れた作品を遺す。幕府の攘夷策を責めた「慎機論」を著し、蛮社の獄に連座、郷国に蟄居中に自刃。 |