あいづせんそう | 会津戦争 | 1868年(慶応4年)8月、新政府軍と、これに抵抗する奥羽越列藩同盟の中心となった会津藩との戦い。1か月後の9月、会津藩の降服・開城により終結。この間、白虎隊員が自刃した。→奥羽越列藩同盟。白虎隊。 |
あいづそうどう | 会津騒動 | 1638年 (寛永15) 会津藩に起きたお家騒動。藩主加藤明成と老臣堀主水の争いで、堀は殺害され、のち加藤家の領地没収の原因となった。 |
あいづはん | 会津藩 | 陸奥国、若松(福島県会津若松市)を本拠地とした藩。蒲生氏郷(がもううじさと)、上杉景勝などが入封。会津騒動ののち、3代将軍徳川家光の異母弟の保科正之が入封してからは、保科(松平)氏が9代にわたり藩主をつとめた。幕末には奥羽越列藩同盟の中心。戊辰戦争における白虎隊の悲劇で知られる。 |
あこうじけん | 赤穂事件 | 1701年(元禄14)3月14日、勅使馳走役の赤穂藩主浅野長矩が、江戸城松之廊下で指南役の吉良義央きらよしなかを斬りつけ、即日切腹・改易を命じられた事件と、翌年12月14日、47人の赤穂義士が吉良義央邸を襲撃して義央の首級をあげた事件との併称。演劇や文学作品に脚色。 |
あさまさんそう | 浅間山荘事件 | 1972年(昭和47)2月、5名の連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の保養所「浅間山荘」に、管理人夫人を人質に立てこもり、出動した警官隊と銃撃戦を展開、逮捕された事件。 |
あしおどうざん | 足尾銅山鉱毒事件 | 足尾銅山から流出した鉱毒の被害に関する一連の事件。渡良瀬川流域の農民を中心に、大規模な請願・反対運動が展開され、明治20年代から40年代にかけて大きな問題となった。衆議院議員田中正造は国での追及にあきたらず、職をして天皇へ直訴したが、解決されないまま運動は弾圧され、後退した。 |
あしかががっこう | 足利学校 | 中世の足利にあった高等教育機関。1532年(天文1)~1624年(寛永1)ごろが最盛期で「坂東(ばんどう)の大学」とも称せられ、儒書・仏書を講述。室町初期に栄え、一旦衰微。上杉憲実(のりざね)が儒書・領田を寄付し保護・統制。以後、戦国大名の保護を受けた。 |
あしがる | 足軽 | ふだんは雑役を務め、戦時には歩兵となる者。戦国時代(1467~1573年)には弓・槍(やり)・鉄砲などの部隊の兵士として活躍。足軽くよく走る兵の意。 |
あしはら | 葦原の中つ国 | 日本国の美称。「古事記」「日本書紀」の神代巻がその典拠で、天つ神が天上の高天原 (たかまがはら) より、あし (葦) の群生する地上の世界をさして、名づけたことに由来する。 |
あすか | 飛鳥・明日香 | 奈良盆地南部の一地方。畝傍うねび山および香具山付近以南の飛鳥川流域の小盆地。推古天皇以後百余年間にわたって断続的に宮殿が造営された。 |
あすかじだい | 飛鳥時代 | (592年~710年)奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした時代。592年推古天皇即位から、710年元明天皇の平城京(奈良)遷都まで。 |
あすかでら | 飛鳥寺 | 奈良県明日香村にあった寺。596年、蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院。現在は旧地に飛鳥大仏を本尊とする真言宗の安居院あんごいんがある。法興寺。 |
あすかぶんか | 飛鳥文化 | 6世紀末~7世紀前半に、飛鳥地方(奈良県)を中心に栄えた最初の仏教文化。多くの寺院や仏像がつくられた。中国、ギリシア、ペルシア、インドなどの影響をうけた国際的な文化。寺院・・・法隆寺、四天王寺、飛鳥寺。仏像・・・釈迦三尊像、百済観音像、弥勒菩薩像。工芸・・・玉虫厨子 |
あつたじんぐう | 熱田神宮 | 名古屋市熱田区にある神社。646年(大化2)創建。主祭神は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を神体とする熱田大神。他に五神を祭る。 |
あづちじょう | 安土城 | 安土に織田信長が築いた城。1576年(天正4)に着工。天守閣を中心とする本格的な近世の城の最初のもの。1582年(天正10)本能寺の変ののち焼失。 |
あづちももやま | 安土桃山時代 | (1573年~1603年)足利義昭が信長に追われ室町幕府が滅びた1573年から徳川家康が江戸幕府を開いた1603年まで。 |
あねがわ | 姉川の戦い | 1570年(元亀1)織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の連合軍とが、姉川の流域で争った合戦。織田勢が大勝し、浅井・朝倉両氏滅亡のきっかけとなった。 |
あへんせんそう | アヘン戦争 | 1840~1842年、イギリスと中国清(しん)との間に行われた戦争。中国の半植民地化の起点となった。アヘン戦争後、幕府は異国船打払令をゆるめた。 |
あまかすじけん | 甘粕事件 | 1923年(大正12)関東大震災の直後、憲兵大尉甘粕正彦らが、無政府主義者大杉栄・伊藤野枝夫妻と甥(おい)の橘宗一を、憲兵隊司令部で殺した事件。 |
あめのいわと | 天の岩戸 | 天照大神(あまてらすおおみかみ)が身を隠したという天の岩屋の堅固な戸。高天原(たかあまはら)の入り口にあったと伝えられる。 |
あめりか | アメリカの参戦 | 第一次世界大戦(1914~1918年)中、ドイツの潜水艦が中立国の船を攻撃したことなどから、中立を守っていたアメリカは、1917年(大正6)に連合国側について参戦。これによって、連合国側の勝利が決定的になった。 |
あんせい | 安政の大獄 | 1858~1859年大老井伊直弼が反対派に下した弾圧事件。将軍継嗣問題で井伊が紀州の徳川家茂を擁立、また勅許を得ずに安政五カ国条約に調印。これを一橋慶喜を推す一橋派が批判。これに対し井伊が同派の公卿・諸大名らを罰し、吉田松陰・橋本左内ら多数の尊王攘夷派人士を投獄・処刑。 |
あんせいごかこく | 安政五カ国条約 | 江戸幕府が、1858年(安政5)6月、米・蘭・露・英・仏の5カ国との間に結んだ修好通商条約の総称。箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港の開港を約した。 |
いけだやじけん | 池田屋事件 | 幕末、1864年(元治1)6月5日、長州・土佐・肥後各藩の尊攘派志士約20名が、京都三条小橋の旅宿池田屋に集まり謀議中、新撰組に襲撃され、宮部鼎蔵ていぞう・吉田稔麿としまろら多くの死傷者を出した事件。長州藩の憤激を呼び、蛤御門はまぐりごもんの変のきっかけとなる。池田屋騒動。 |
いこくせん | 異国船打払令 | 1825年(文政8)に発布された江戸幕府の外国船追放令。18世紀末から日本近海に来航する欧米の船舶が増し、1808年(文化5)のフェートン号事件につづき、24年イギリス捕鯨船員が上陸して紛争を起こしたことから、翌年幕府が、外国船の追放、上陸外国人の逮捕・射殺を命じた。42年(天保13)廃止。 |
いしいらんしんぐ | 石井ランシング協定 | 1917年(大正6)日本の特派大使石井菊次郎と米国の国務長官ランシングとの間で調印された協定。日本の中国における特殊権益の承認と、中国の領土保全・門戸開放・機均等などを決めた。 |
いしばしやま | 石橋山の戦い | 1180年(治承4)8月、相模国石橋山(神奈川県小田原市)で平氏の大庭景親(おおばかげちか)らが源頼朝の軍を破った戦い。この月17日伊豆の北条に挙兵した頼朝は、同国目代(もくだい 代官)山木兼隆(やまきかねたか)を討ち、平氏討滅の緒戦を飾ったが、従う兵はまだ少なかった。そのため頼朝は、水軍を通じて三浦半島に本拠を置き大きな勢力を有する三浦氏と合流しようとし、23日北条時政ら伊豆・相模の武士を率いて石橋山に300騎をもって布陣した。だが大庭景親らの圧倒的な兵力(3000余騎)の前に大敗、頼朝はようやく海路で安房(千葉県)にのがれた。 |
いしほうちょう | 石包丁 | (縄文後期~弥生時代)稲の穂をつみとるための石器。長さ15cmくらい。 |
いしやま | 石山本願寺 | 石山の地にあった浄土真宗の本山。1496年(明応5)蓮如の開創。1532年(天文1)孫の証如が本山とし、堅固な要塞に整え、70年(元亀1)以降の織田信長との合戦の拠点となったが、80年(天正8)開城の際の火災で廃滅。石山御堂。大坂御坊。 |
いせじんぐう | 伊勢神宮 | 三重県伊勢市にある皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称。垂仁天皇の26年(BC4年)創建。内宮は皇祖神である天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭り、神体は三種の神器の一、八咫鏡(やたのかがみ)。外宮の祭神は農業などをつかさどる豊受大神。白木造りで、20年ごとに遷宮を伴う改築がある。 |
いたづけいせき | 板付遺跡 | 福岡県にある、縄文後期~弥生時代初期の遺跡。日本最古の米づくりの遺跡で、石包丁やもみなどが出土した。1916年(大正5年)出土。 |
いちのたに | 一ノ谷の戦 | 1184年(寿永3)2月、一ノ谷(神戸市須磨区)で行われた源平の戦い。勢力挽回(ばんかい)を図る平氏は摂津(せっつ)福原に進出したが、源義経は鵯越(ひよどりごえ)の嶮(けん)を一ノ谷に攻め下り、平氏を海上に敗走させた。 |
いちばんやり | 一番槍 | (戦国時代 1467~1573年)戦場で一番先に攻撃を始めること。また、その人。戦場で最初に手柄・武功をたてること。また、その人。 |
いっき | 一揆 | (鎌倉~江戸時代)幕府や守護大名に対する地侍や農民たちの示威行動(室町時代の土一揆、江戸時代の百姓一揆など)や、信徒たちの示威行動(一向一揆や法華一揆など)など。 |
いっこういっき | 一向一揆 | (戦国時代 1467~1573年)真宗本願寺派の一向宗の僧侶や門徒が領地支配に反抗して起こした一揆。 |
いっこうしゅう | 一向宗 | 一途に阿弥陀仏を信ずるところから。阿弥陀仏の他力本願を信ずることによって往生成仏できるとし、称名念仏は仏恩報謝の行であるとする。親鸞(1173~1262)を開祖とし、浄土宗より出て一派をなし、本願寺派・大谷派などがある。 |
いっこくいち | 一国一城令 | 一つの国に城を一つだけ置くこと。1615年(元和1)江戸幕府が諸大名の軍事力を抑えるため、領内で居城以外の城を破却させたことによる。 |
いづもおほやしろ | 出雲大社 | 島根県出雲市大社町杵築東にある神社。主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。創建は神代と伝えられ、日本最古の神社の一。農業や縁結びの神として信仰される。本殿は国宝で大社造りの典型。いずもたいしゃ。 |
いわくら | 岩倉使節団 | 1871年(明治4)政府は、不平等条約の改正を外交の方針とし、その下交渉と欧米の事情を調べることを目的として、岩倉具視らを欧米使節団として派遣した。 |
いわじゅくいせき | 岩宿遺跡 | 1949年(昭和24)相沢忠洋が群馬県の関東ローム層から打製石器を発見した。日本にも旧石器(先土器)時代があったことがわかった。 |
いんせい | 院政 | 藤原氏と関係のなかった後三条天皇は、朝廷の力を強めようとした。次の白河天皇は、1086年(応徳3)に上皇となって院で政治を行った。→摂政・関白は無力に。 上皇・・・太上天皇の略で、退位後のよび名。法皇・・・出家した上皇。院政はその後、鳥羽上皇・後白河上皇と続き、藤原氏はおとろえた。 |
いんぱーる | インパール作戦 | 1944年(昭和19)3~7月、日本軍が北ビルマ(現ミャンマー)からインド北東部インパールに進攻を企図した作戦。無謀な計画のため日本軍は大敗、ガダルカナル以上の惨状を呈した。 |
うえのせんそう | 上野戦争 | 1868年(慶応4年)5月、上野の寛永寺を本拠とする彰義隊と新政府軍との戦い。→彰義隊。戊辰戦争。 |
うきよぶろ | 浮世風呂 | 滑稽本。詳しくは、諢話おどけばなし浮世風呂。式亭三馬作。4編9冊。1809~13年(文化6~10)刊。町人の社交場であった銭湯における会話を通じて、庶民生活の種々相を描く。 |
うげつものがたり | 雨月物語 | 読本よみほん。上田秋成作。5巻5冊。1768年(明和5)成稿、76年(安永5)刊。「白峰」以下日本・中国の古典から脱化した怪異小説9編から成る。 |
うこん | 右近 | (奈良~平安時代)右近衛府の略。律令制で、禁中の警固、行幸の警備などに当たった朝廷の常備軍の一つ。 |
うだいじん | 右大臣 | (奈良~平安時代)律令制で、太政官の官名。太政大臣、左大臣に次ぐ地位で、天皇を補佐して政務を統轄し、左大臣が空席または出仕不能の場合には、政務、儀式を総裁する職。 |
うらじおすとく | ウラジオストク | ロシア連邦、極東南東部の日本海に面した都市。1858年、清朝からロシアに譲渡。沿海州地方第一の貿易港であるが、冬季氷結する。シベリア鉄道の終点。(Vladivostok) |
えいにん | 永仁の徳政令 | 1297年(永仁5)御家人の生活苦を救うため徳政令を出し、売ったり質流れになったりした土地を、もとの持ち主の御家人にただで返させた。しかし、かえって経済が混乱し、幕府の信用も失われた。 |
えいらくつうほう | 永楽通宝 | 明でつくられた銅銭。日明貿易で輸入され、室町~江戸時代初期、標準的な貨幣として使われた。 |
えちごや | 越後屋 | 伊勢商人三井高利が経営した呉服店。本店は京都。江戸・大坂に店を置く。江戸店は1673年(延宝1)江戸本町に開店、83年(天和3)日本橋駿河町に移転。今の三越の前身。 |
えどじだい | 江戸時代 | (1603年~1867年)徳川家康が1600年(慶長5)関ヶ原の戦で勝利を占め、03年幕府を江戸に開いた頃から、1867年(慶応3)徳川慶喜の大政奉還に至るまで約260年間の称。徳川時代。 |
えどじょうむけつ | 江戸城無血開城 | 1868年(慶応4)4月11日、江戸城が新政府軍に無血で明け渡され、江戸幕府が滅んだ事件。新政府軍参謀西郷隆盛と幕臣勝海舟の会見によって武力攻撃は直前に回避され、徳川慶喜の助命と徳川家の存続を条件に開城が行われた。徳川家は徳川家達(いえさと)が相続し、駿河70万石へ移封、慶喜は水戸へ退隠。 |
えどばくふ | 江戸幕府のしくみ | 中央に老中・若年寄、寺社・町・勘定の三奉行、京都に京都所司代。全国を幕府領と大名領に分け、将軍と大名が土地と人民を支配。幕府領は、天領(直轄領)と旗本領をあわせ、全国の4分の1をしめた。大名は、徳川将軍家との関係から、親藩・譜代・外様の三つに区分。将軍直属の家臣として、旗本・御家人がいた。 |
えんりゃくじ | 延暦寺 | 比叡山にある天台宗の総本山。788年(延暦7)最澄建立。僧兵を擁して権威と実力を誇った。1571年(元亀2)織田信長の焼討ちにあったが、豊臣・徳川2氏の援助で復興。 |
おいばら | 追腹 | 家臣などが主君の跡を追って切腹すること。古くから行なわれたが、江戸幕府は1663年(寛文3)禁止した。 |
おううえつ | 奥羽越列藩同盟 | 戊辰戦争に際し新政府に対抗した東北・越後諸藩の同盟。1868年(慶応4年)5月、仙台藩を中心に奥羽25藩、ついで越後6藩が参加して盟約、連合して薩長軍を討つとした。新政府軍に敗退する中で瓦解。 |
おうえいのらん | 応永の乱 | 応永6年(1399)大内義弘が室町幕府に抗した反乱。足利義満の挑発によって堺に挙兵したが、戦い利なく討死。 |
おうじょう | 往生要集 | 仏書。源信の著。3巻または6巻。985年(寛和1)成る。経論中から往生の要文を抜粋し、念仏を勧めたもの。文学・芸術に大きな影響を与えた。 |
おうせいふっこ | 王政復古の大号令 | 1867年(慶応3)12月9日、天皇は王政復古の大号令(徳川慶喜の将軍辞職と、徳川家の領地没収)を発した。翌1868年、年号を明治、江戸を東京と改めて、天皇中心の新政府樹立をめざした。 |
おうにんのらん | 応仁の乱 | 1467年 (応仁1)守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)の対立に、将軍足利義政のあとつぎ問題などがからんで起こった11年間の大乱。 京都は焼け野原になり、幕府の権威はおとろえた。乱の後、戦乱は地方に広がり、約100年間の戦国時代に入った。 |
おおおく | 大奥 | 江戸城内にあった徳川将軍家の私的な生活の場で、将軍の子どもや正室、側室らが暮らしていた。3代将軍家光の乳母・春日局の時代に組織的に整備され、多いときには約3000人がいたとも言われる。 |
おおおみ | 大臣 | 大和政権の執政者。臣おみの姓かばねを持つ諸氏中の最も有力な者が任ぜられ、記紀伝承では武内宿祢たけのうちのすくねに始まり、その子孫の諸氏が世襲したという。645年大化改新の際に滅ぼされた蘇我蝦夷えみしが最後。 |
おおごしょ | 大御所 | (戦国~江戸時代)将軍の父の居所。また、その人の敬称。特に、徳川家康を指すことが多い。 |
おおさかのじん | 大阪の陣 | 江戸幕府がはじまってからも、大阪にいる豊臣秀頼に心を寄せる大名が多く、家康は徳川政権を確立させるため、豊臣氏をほろぼそうとした。 大阪冬の陣(1614年)、大阪夏の陣(1615年)の2回にわたって大阪城を攻め、豊臣氏をほろぼした。これによって徳川氏が完全に天下を平定し、戦乱の世は終わりをつげた。 |
おおしおへい | 大塩平八郎の乱 | 1837年(天保8)元幕府の役人で陽明学者の大塩平八郎が、同志の人々約300人とともに、ききんで苦しむ人々を救うよう幕府にせまる乱を大阪で起こした。乱は半日で鎮圧され、大塩は自殺したが、幕府や社会にあたえた影響はひじょうに大きかった。 |
おおつじけん | 大津事件 | 1891年(明治24)ロシア皇太子ニコライ2世が日本に来遊、5月11日大津市に行啓の時、沿道警戒中の巡査津田三蔵に斬りつけられ負傷した事件。 |
おおはらえ | 大祓 | 古来、6月と12月の晦日(つごもり)に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場に集めて、万民の罪や穢を祓った神事。現在も宮中を初め全国各神社で行われる。 |
おおむらじ | 大連 | 大和政権の執政者。連むらじの姓かばねを持つ諸氏中の最有力者が任ぜられ、ふつう世襲する。記紀伝承では物部・大伴両氏から出て大臣おおおみと共に執政したが、587年大連物部守屋が大臣蘇我馬子らに滅ぼされたのを最後とする。 |
おおめつけ | 大目付 | 江戸幕府の職名。老中の支配に属して諸務を監督し、諸大名の行動を監察し、怠慢を摘発。 |
おおやまこふん | 大山古墳 | 大阪府堺市にある、わが国最大の古墳(墓としての面積は世界最大)。5世紀ごろにつくられた代表的な前方後円墳で、仁徳天皇の墓といわれている。 |
おかっぴき | 岡っ引き | (江戸時代)町同心の手先として罪人の探索・捕縛にあたった。古くは軽犯罪者の罪を許し情報収集のため手先として使ったが、後には普通の私人を雇うのが一般となった。目明かし。 |
おきなわせん | 沖縄戦 | 二次大戦末期、沖縄本島およびその周辺で行われた日米の激戦。1945年(昭和20)4月の米軍上陸から約3か月にわたる軍民混在の激しい地上戦のなか、集団自決強制、日本軍による住民虐殺なども起こり、県民約10万人が犠牲となった。 |
おきなわへんかん | 沖縄返還密約 | 1971年(昭和46)調印の沖縄返還協定で、日本が米国に米資産買い取りなどのため3億2千万ドルを支払うことになったが、移転費1600万ドルが秘密裏に含まれていた。69年に佐藤栄作首相とニクソン大統領の間で「核抜き・本土並み」返還で合意した際、有事の際に核兵器を持ち込む別の密約があったことも明らかになっている。 |
おくのほそみち | 奥の細道 | 俳諧紀行。松尾芭蕉著。1冊。1694年(元禄7)素竜清書、1702年(元禄15)刊。1689年(元禄2)3月27日江戸深川を出発、門人曾良と共に奥州各地を行脚し、北陸の勝を探り、さらに美濃から伊勢路に入ろうとして9月6日大垣に筆を止める。 |
おけはざま | 桶狭間の戦い | 1560年(永禄3)織田信長の領内桶狭間に陣取った今川義元を、信長が奇襲して破った戦い。信長の天下統一の第一歩となった。 |
おとぎぞうし | 御伽草子 | 南北朝時代のころから多くの人々に親しまれた、文章と絵でつづった物語。「一寸法師」「浦島太郎」など。 |
おほなめさい | 大嘗祭 | 天皇が即位後初めて行う新嘗(にひなめ)祭。その年の新穀を天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)および天神地祇(ちぎ)に供え、自らも食する、一代一度の大祭。だいじゃうさい。 |
おほみたから | 百姓 | 古代は臣(おみ)連(むらじ)など数十種の姓 (かばね) をもつすべての人民をさし「おほみたから」と称された。大化改新以降は公民をさした。律令制下の土地公有制がくずれ、私有制が展開されるにつれて、百姓は農民を意味するようになった。ひゃくしょう。 |
おみ | 臣 | 古代(410年~684年)の姓かばねの一つ。大和政権時代に、連むらじと並ぶ有力豪族が称した。蘇我氏・葛城氏・阿部氏など奈良盆地周辺の有力氏族が多く、大和政権に服属し、天皇の側近として政務を行った。 |
おんみょう | 陰陽 | 古代中国の陰陽五行の思想に基づいた方術で、天文・暦数・卜筮・相地などを扱う。大宝令の規定によって、陰陽寮がおかれたが、次第に俗信化し、陰陽師は冠婚葬祭の吉凶や方角・相性などの占い、加持祈祷などを行うようになった。1873年(明治6)に禁止された。 |
かいえき | 改易 | (江戸時代)武士の所領や家禄・屋敷を没収すること。蟄居(ちっきょ 謹慎)より重く、切腹よりは軽い刑罰。 |
かいがいとこう | 海外渡航の禁止 | 幕府は、禁教を強めるとともに、貿易の統制をきびしくしていった。宣教師の密航や大名たちの経済力が強まることを警戒したもの。3代将軍徳川家光のときの1635年(寛永12)日本人の海外渡航と帰国を禁止した。 |
がいこくせん | 外国船の接近 | 18世紀後半、米・英・ロシアの船が、通商を求めてやってくるようになった。幕府は沿岸の警備を強め、1825年(文政8)に異国船打払令を出し、清・オランダ以外の外国船を撃退するように命じた。幕府は、外国船に備えるため、近藤重蔵に千島、間宮林蔵に樺太を探検させた。また、伊能忠敬は蝦夷地(北海道)を測量した。 |
かいじょうこう | 海上交通の発達 | 江戸時代、東北や裏日本の米を江戸や大阪に運ぶ必要から、東回り航路と西回り航路が開かれた。 江戸と大阪を結ぶ航路はとくに大切で、菱垣廻船や樽廻船などの定期船が行き来した。 |
かいしんのみこと | 改新の詔 | 646年(大化2)新政府の4つの政治方針。①公地公民・・・皇族や豪族の土地と人民をすべて朝廷(国)のものとした。②全国を国・郡・里に分け、国司・郡司・里長の役人をおいた。③班田収受の法・・・戸籍をつくり、6歳以上の人民に口分田をあたえた。男子は2反、女子はその3分の2。④租・庸・調などの新しい税をもうけた。 |
かいたいしんしょ | 解体新書 | 日本最初の西洋解剖書の訳本。本文4巻、解体図1巻。1774年(安永3)刊。「ターヘル‐アナトミア」を前野良沢・杉田玄白を中心に、中川淳庵・石川玄常・桂川甫周が協力して翻訳した書で、4年を費やし、改稿11回という。 |
かいづか | 貝塚 | 大むかしの人々が食べた貝のからなどが積もっているごみすて場。動物の骨、土器や石器なども出てくる。大森貝塚(東京都)・・・1877年(明治10)日本で最初にアメリカの動物学者モースが発見。そのほか鳥浜貝塚(福井県)、加曽利貝塚(千葉県)が有名。 |
かがのいっこう | 加賀の一向一揆 | 1488年(長享2)加賀国(石川県)の一向宗信者による一揆。、加賀国守護富樫政親を攻め、これを同国高尾城で自殺させた。この富樫氏の滅亡によって加賀国には守護大名がいなくなり、代わって一揆を指導した僧官や地侍、農民門徒の代表らの合議によって統治する「門徒持ち」の国となった。 |
かきつのらん | 嘉吉の乱 | 1441年(嘉吉1)赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、自らも領国播磨で、幕府の派遣した山名持豊(宗全)らに攻められて自刃した戦乱。 |
がくせい | 学制 | 政府は、近代国家の土台は教育にあると考え、1872年(明治5)に学制を発布し、全国に小学校をつくって義務教育の制度をとりいれた。(大学と私立学校)昌平坂学問所⇒東京大学。慶応義塾(福沢諭吉)東京専門学校(大隈重信)⇒のちの早稲田大学。同志社英学校(新島襄)など |
がくとしゅつじん | 学徒出陣 | 二次大戦末期の1943年(昭和18)以降、兵力不足を補うため、それまで26歳までの大学生に認められていた徴兵猶予を文科系学生については停止して、20歳以上の学生を入隊・出征させたこと。 |
がくもんのすすめ | 学問のすすめ | 学問論・国家論などを集録した、明治初期の代表的啓蒙。福沢諭吉著。1872~76年(明治5~9)刊。17編。国民平等・独立自尊を説き、封建思想を批判。巻頭の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」は有名。明治政府の学制にも影響を与えた。 |
かげろうにっき | 蜻蛉日記 | 右大将藤原道綱の母の自叙伝的な日記。3巻。954年(天暦8)から21年間の夫兼家とのはかない結婚生活を叙し、妻としての嫉妬・苦悩から芸術と母性愛とに目覚めてゆくあとをこまごまと描き出す。 |
かしはらじんぐう | 橿原神宮 | 奈良県橿原市にある神社。祭神は神武天皇・媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)。1889年(明治22)に創建。社地は、神武天皇が即位した畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)の跡地とされる。 |
かせいぶんか | 化政文化 | 元禄時代(1688~1707年)にさかえた町人文化は、11代将軍徳川家斉の時代(19世紀前半)に、江戸を中心として全盛期をむかえた。小説・・・十返舎一九(東海道中膝栗毛)俳諧・・・与謝蕪村、小林一茶。浮世絵・・・喜多川歌麿、葛飾北斎(富嶽三十六景)、安藤(歌川)広重(東海道五十三次) |
かぞく | 華族 | 1869年(明治2)、皇族の下、士族の上に置かれた族称。はじめ旧公卿・大名の家系の身分呼称に過ぎなかったが(旧華族)、84年華族令により維新の功臣のちには実業家にも適用され、公・侯・伯・子・男の爵位を授けられて、特権を伴う的身分となった。1947年現憲法施行により廃止。 |
かたながり | 刀狩り | 豊臣秀吉は、1588年(天正16)刀狩令を出して、農民から武器を取りあげた。農民の一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしたもの。 太閤検地と刀狩りによって、農民と武士の身分がはっきり区分された(兵農分離)。 |
がだるかなる | ガダルカナルの戦い | 1942年(昭和17)8月~1943年2月の間、日米両軍の間で行われたガダルカナル島争奪戦。日本軍は作戦上で失敗、物資不足、マラリアの感染に悩み、海上でもソロモン海戦に敗れ、基地航空隊も損耗大で、連合軍は総反攻の転機をつかんだ。日本軍は派遣部隊の3分の2、餓死者を含め約2万1000人を失った。 |
かつらりきゅう | 桂離宮 | 京都市西京区にある離宮。1620年(元和6)、八条宮智仁としひと親王の別荘として創められ、数次にわたって造築。1883年(明治16)以後、離宮。数寄屋造り書院と回遊式庭園で著名。 |
かなざわぶんこ | 金沢文庫 | 1275年(文永12)北条実時が金沢の称名寺しょうみょうじ境内に基礎を築いた文庫。和漢の貴重書を多数蒐集・保存した。足利学校と並んで中世教育史上の重要な存在で、学校としての活動もしたという。 |
かなてほん | 仮名手本忠臣蔵 | 浄瑠璃。並木千柳(宗輔)ほか合作の時代物。1748年(寛延1)竹本座初演。赤穂四十七士敵討の顛末を、時代を室町期にとり、高師直を塩谷判官の臣大星由良之助らが討つことに脚色したもの。「忠臣蔵」と略称。全11段より成る。義士劇中の代表作。後に歌舞伎化。 |
かばさんじけん | 加波山事件 | 自由民権運動の激化事件の一つ。1884年(明治17)河野躰ひろみら自由党急進派は政府要人の爆殺を計画したが発覚、追いつめられて茨城の加波山で蜂起したが、数日で鎮圧された。 |
かばね | 姓 | 古代豪族が政治的・社会的地位を示すために世襲した称号。臣おみ・連むらじ・造みやつこ・君きみなど数十種がある。はじめは私的な尊称であったが、大和政権の支配が強化されると共に政権が与奪するようになり、臣・連が最高の姓となった。 |
かまくらじだい | 鎌倉時代 | (1192年~1333年)源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉に幕府を開いた1192年から、鎌倉及び六波羅探題等の拠点が新田義貞・足利尊氏らによって陥落し幕府が崩壊した1333年まで。 |
かまくらしん | 鎌倉新仏教 | 浄土宗・・・法然。「南無阿弥陀仏」。浄土真宗(一向宗)・・・親鸞 時宗・・・一遍。踊り念仏。法華宗(日蓮宗)・・・日蓮。「南無妙法蓮華経」。臨済宗・・・栄西 曹洞宗・・・道元 |
かまくらばくふ | 鎌倉幕府のしくみ | 執権・・・将軍を助けて政治を行う。政所(まんどころ)・・・一般の政治・財政を行う。 侍所(さむらいどころ)・・・御家人の統率と軍事・警察にあたった。問注所・・・訴訟・裁判を処理する。 |
かまくらばくふ | 鎌倉幕府の滅亡 | 後醍醐天皇が幕府をたおす計画をすすめ、楠木正成・新田義貞らが天皇方について兵をあげた。幕府は有力御家人の足利尊氏をさしむけたが、尊氏は幕府にそむき、1333年(元弘3)鎌倉幕府はほろんだ。 |
かまくらぶんか | 鎌倉文化 | 武士の生活や気風を反映した、素ぼくで力強い武家文化が発達した。軍記物・・・琵琶法師が語り伝えた平家物語。随筆・・・方丈記(鴨長明)・徒然草(吉田兼好)和歌・・・新古今和歌集(藤原定家)・金槐和歌集(源実朝)。建築・・・東大寺南大門・円覚寺舎利殿。彫刻・・・金剛力士像(運慶・快慶) |
かみかぜ | 神風特攻隊 | 第二次大戦で、旧日本陸海軍が体当たり戦法のために、特別に編制した部隊。爆装して敵艦に体当たりした航空特攻と、特殊潜航艇や人間魚雷などの海上特攻とがあった。1944年(昭和19)10月、レイテ沖の米艦隊に突入したのが最初。終戦までに約 2400機が出撃し、2520人が戦死した。 |
かめいどじけん | 亀戸事件 | 1923年(大正12)9月、関東大震災の混乱のさなか、亀戸の労働組合員らが軍隊によって不法検束され、殺害された事件。 |
からふとちしま | 樺太千島交換条約 | 1875年(明治8)榎本武揚たけあきが特使となり調印したロシアとの国境画定条約。両国人雑居とされていた樺太をロシア領、千島列島のうち得撫ウルップ島以北の島々を日本領と規定。 |
からめて | 搦手 | 城の裏門側。敵の背面。城の裏門を攻める軍勢。転じて、相手の攻めやすい側面、すなわち弱点や注意の届かない部分。 |
かわなかじま | 川中島の戦い | 戦国末期、甲斐(山梨県)から信濃(長野県)に進出した武田信玄が、越後(新潟県)の上杉謙信と川中島(現・長野市)で5回にわたって争った。最も激戦だった1561(永禄4)年の4度目が有名。武田軍は「風林火山」、上杉軍は「毘(沙門天)」の旗を使った。 |
かんいじゅう | 冠位十二階 | 聖徳太子は、603年、冠位十二階を定め、役人にその位によって12に分けた冠位をあたえた。家がらに関係なく、才能や手がらのある人を朝廷の役人にとりたてようとした。 |
かんえいつうほう | 寛永通宝 | 江戸時代の代表的銭貨。表に「寛永通宝」の4字を記した銭。1636年(寛永13)~1860年(万延1)鋳造。近江坂本・仙台・長門等全国各地で造られ、銭質や大小軽重に差がある。青銅・真鍮・鉄の3種がある。1枚1文に当たる一文銭のほか四文銭も発行。 |
かんこくとう | 韓国統監府 | 1905年(明治38)の二次日韓協約に基づき、日本が京城(ソウル)に設置した朝鮮支配機関。1910年の韓国併合後、朝鮮総督府に引き継がれた。 |
かんこくへいごう | 韓国併合 | 日露戦争後、日本は韓国に統監府をおいた。初代統監伊藤博文が暗殺されたことがきっかけで、1910年(明治43)韓国を併合した。 |
かんこくへいごう | 韓国併合条約 | 日本が併合のため韓国に強要した条約。1910年(明治43)8月調印。韓国の統治権を完全かつ永久に日本に譲渡することなどを規定、以後韓国を改めて朝鮮と称し、朝鮮総督府を置いて支配した。 |
かんじょうぶぎ | 勘定奉行 | 江戸幕府の職名。老中の支配で、幕府直轄地の代官・郡代を監督し、収税、金銭の出納など幕府の財政および領内農民の行政・訴訟をつかさどる。寺社奉行・町奉行とともに三奉行の一つ。 |
かんじょちりし | 「漢書」地理志 | 中国の前漢の歴史書で、紀元前1世紀ごろ、日本(倭)は100余りのくにに分かれていたことが書かれている。 |
かんせい | 寛政の改革 | 1787年(天明7)田沼意次がしりぞけられると、吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中に。 質素倹約と文武を奨励。寛政異学の禁・・・朱子学以外を禁止。棄捐令・・・武士の借金を帳消し。囲い米の制・・・ききんに備え、領主に米を貯蔵させた。(結果)あまりに厳しく急だったので、反感を買い、6年間で失職させられた。 |
かんとうぐん | 関東軍 | 満州に駐屯していた日本陸軍部隊。日露戦争後、関東州と南満州鉄道の権益を保護するために設置された関東都督府を前身とし、1919年(大正8)独立。第二次大戦の末期に、ソ連軍の侵攻により壊滅。 |
かんとうだい | 関東大震災 | 1923年(大正12)9月1日午前11時58分、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(M7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。 |
かんぱく | 関白 | 天皇を助け政務をとり行う職。豊臣秀吉(1536~1598)を指す場合が多い。 |
かんはっしゅう | 関八州 | 江戸時代の関東八国の総称。相模(神奈川)・武蔵(東京・埼玉)・安房(千葉)・上総(千葉)・下総(千葉・茨城)・常陸(茨城)・上野(群馬)・下野(栃木)の八カ国。 |
ぎしわじんでん | 魏志倭人伝 | 3世紀の邪馬台国、および2~3世紀の倭人の風習などが記されている中国の文献。著者は西晋の陳寿(233~297)で、その成立は3世紀後半。倭国の地理的位置づけから書きはじめられ、邪馬台国への道程、倭人の生活風俗などが、かなり詳細に記述されており、史料的価値は高い。 |
きゅうかこく | 九ヵ国条約 | 1922年(大正11)のワシントン会議に出席した9か国、すなわち米・英・日本・仏・伊・ポルトガル・ベルギー・オランダ・中国で締結された条約。中国の関税自主権を拡大した。 |
きょういくきほん | 教育基本法 | 1947年(昭和22)教育勅語が廃止され、教育の機会均等・義務教育・男女共学などを内容とする教育基本法が制定された。義務教育が9年に増え、六・三・三・四制の学校制度となった。 |
きょういくち | 教育勅語 | 1890年(明治23)に出された国民道徳の基本方針。国民は天皇に心からつかえ、家庭では父母に孝行をつくさなければならないことを説いた。各学校に配られ、奉読した。 |
きょうとしゅご | 京都守護職 | 江戸幕府の職名。京都に駐在し、朝廷を護衛し、京都・近畿の治安維持に当たる。1862年(文久2)創設、松平容保かたもりが任じられた。67年(慶応3)廃止。 |
きょうほう | 享保の改革 | 1716年(享保1)(~1745)貨幣経済で幕府の財政悪化。吉宗は財政改革を行った。武断政治へのきりかえ・・・武芸と質素・倹約を奨励。目安箱の設置。 公事方御定書・・・裁判の公平をはかった。(結果)財政の再建に一時的に成果を上げたが、増税で民衆の不満は高まり、百姓一揆が増加した。 |
きょうほう | 享保の飢饉 | 1732年(享保17)イナゴなどによる害で近畿以西をおそった大飢饉。餓死は1万人以上と推定される。幕府は被害のない地方から救援米を送らせたので江戸でも米価が高騰、翌正月に江戸で最初の打ちこわしが起きた。 |
きりしたん | キリシタン大名 | キリスト教を保護し、信者となった大名。大友宗麟・大村純忠・有馬晴信など、九州に多かった。キリスト教を保護した理由・・・ヨーロッパ人との貿易による利益に着目した。 |
きりすときょう | キリスト教の禁止 | 徳川家康は、貿易の利益を重くみて、はじめはキリスト教を認めたため、宣教師が多く来日し、キリシタンも増大した。 オランダが、スペインやポルトガルが布教によって領土をうばうつもりであると告げ、幕府もキリシタンが団結して反抗するのをおそれた。そして、1612年(慶長17)家康は直轄地でのキリスト教の禁止を命じた。 |
きりすときょう | キリスト教の伝来 | 1549年(天文18)イエズス会のスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えた。ザビエルは鹿児島・山口・京都などで2年あまり布教を続けた。ザビエルの後も宣教師が来日し、各地の大名の保護を受けて布教につとめた。 |
きんいん | 金印 | 中国の歴史書「後漢書」に、57年、倭の奴国が使者を送ってきたので、中国(後漢)の皇帝が金印をさずけたことが書かれている。江戸時代に志賀島(福岡県)で発見され、「漢委奴国王」と刻まれている。 |
きんかくじ | 金閣寺 | 京都北山にある臨済宗の鹿苑寺の別称。1397年(応永4)足利義満が西園寺家の邸宅を譲り受け、別荘として造営した。 |
ぎんかくじ | 銀閣寺 | 京都市左京区にある臨済宗の慈照寺の別称。1482年(文明14)足利義政が山荘として造営に着手した東山殿を遺命により寺としたもの。勧請開山は夢窓疎石。89年(長享3)上棟の銀閣(観音殿)、東求堂とうぐどう、庭園が現存。 |
きんせい | 近世 | (1573年~1912年)歴史の時代区分の一つ。1573年織田政権による中央政権確立から、1912年大正天皇の即位まで。安土桃山時代(1573年~1603年)江戸時代(1603年~1867年)明治時代(1868年~1912年) |
きんちゅう | 禁中並公家諸法度 | 幕府は、朝廷が大名と組んで政治力をふるうことを警戒し、1615年(元和1)に禁中並公家諸法度を定め、天皇や公家の生活をこまかく制限した。 |
ぐかんしょう | 愚管抄 | 鎌倉初期の1220年(承久2)成立。日本最初の史論書。慈円の著。7巻。神武天皇から順徳天皇までの歴史を仏教的世界観で解釈し、日本の政治の変遷を道理の展開として説明。 |
くぎょう | 公卿 | 平安~江戸時代、公(太政大臣および左・右大臣)と卿(大・中納言、参議および三位以上の朝官)との併称。 |
くげ | 公家 | 平安~江戸時代、朝廷に仕える臣。とりわけ武家政権成立後は、武家、武家衆に対しては朝臣一般を公家、公家衆と呼んだ。 |
くだら | 百済 | 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4~7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。(~660) |
くなこく | 狗奴国 | 「魏志倭人伝」に記される漁業を主とする古代部族国家の一つ。邪馬台国の南にあって、卑弥呼とは不和であったという。九州の熊襲(くまそ)説など諸説がある。 |
くにのつかさ | 国司 | 古代から中世(646~1185年)の律令制のもと、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏。在地勢力である管内の郡司を統率して任じられた国の行政・財政・司法・軍事全般を行った。1185年守護の設置により国司は有名無実化した。 |
くにのみやつこ | 国造 | 古代(130~645年)の世襲の地方官。ほぼ一郡を領し、軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であった。大化の改新(645年)以降は主に祭祀を司る行政には無関係の世襲制の名誉職となった。 |
くにゆづり | 国譲り | 日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神勅を奉じて、大国主命(おおくにぬしのみこと)が国土を瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に献上し、隠退したこと。 |
くまそ | 熊襲 | 古代、九州南部に住み、勢力を張っていた種族。勇猛で大和朝廷に反抗したが、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に平定されたとされる。 |
くもんじょ | 公文所 | 鎌倉幕府の政務一般をつかさどった役所。1184年(元暦1)設置。 1185年(文治1) 政所(まんどころ)の設置に伴いその一部局となり、文書に関する事務だけをつかさどった。 |
くらやしき | 蔵屋敷 | 江戸時代、各藩が、年貢米その他の物産を売りさばくためにもうけた倉庫および取引所で、大阪に最も多かった。蔵元や掛屋が管理し、売りさばいた。 |
ぐんだい | 郡代・代官 | 江戸幕府の職名。幕府直轄地を支配し年貢収納その他民政をつかさどったもの。5万石あたり1名を任命。世襲、裁判権や武力行使権は無い。 |
ぐんぶのたいとう | 軍部の台頭 | 五・一五事件・・・1932年(昭和7)5月15日、海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺、政党政治が終わった。 二・二六事件・・・1936年(昭和11)2月26日、陸軍の青年将校らが首相官邸や警視庁などを襲い、政治家や財界人を殺傷、軍部の発言力が強まった。 |
けいあん | 慶安の御触書 | 1649年(慶安2)3代将軍徳川家光が、農民に生活の心構えを示した法令。32か条からなり、日常生活から農業生産のことまで、細かな注意が書かれている。 |
けいあんじけん | 慶安事件 | 1651年(慶安4)由井正雪・丸橋忠弥らが企てた倒幕の陰謀事件。江戸・駿府・京都・大坂に兵を挙げようとしたが発覚し、忠弥は捕らえられ、正雪は自刃。慶安の変。由井正雪の乱。 |
けいさつよびたい | 警察予備隊 | 朝鮮戦争の始まった1950年(昭和25)日本の警察力の増強を目的に、ポツダム政令によって設けられた機関。1952年(昭和27)保安隊に改編、1954年(昭和29)自衛隊となる。 |
けいちょう | 慶長遣欧使節 | 1610年(慶長15)仙台藩主伊達政宗が家臣の支倉常長はせくらつねながをローマ教皇庁に派遣した使節。日本を出発し、メキシコを経てイスパニアに至り国王フェリペ3世に謁見、さらにローマに至り教皇パウロ5世に拝謁した。支倉は1620年に帰国。 |
けいちょうのえき | 慶長の役 | 1596年(慶長1)明皇帝からの書に「爾なんじを封じて日本国王となす」とあるのを見て秀吉は激怒し、翌年再び朝鮮に兵を送ったが、遠征軍の士気揚がらず、98年秀吉の死を機に撤退。 |
けつぜいいっき | 血税一揆 | 1873年(明治6)西日本を中心に起こった明治初年の徴兵制反対の農民一揆。きっかけは徴兵に関する太政官告諭中の「血税」の語を、人民の生き血を絞り取ると誤解したことにあったが、基底には維新政府の強引な開化政策への反発があった。 |
けびいし | 検非違使 | 平安初期に設置された官の一。初め京都の犯罪・風俗の取り締まりなど警察業務を担当。のち訴訟・裁判をも扱い、強大な権力を持った。平安後期には諸国にも置かれたが、武士が勢力を持つようになって衰退した。 |
げん | 元 | 1206年(元久3)チンギス・ハンがモンゴル民族を統一し、モンゴル帝国を建国した。チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは、朝鮮の高麗をしたがえ、都を大都(北京)に移し、国号を元とした。 |
げんこう | 元寇 | 元のフビライハンが日本征服をたくらんで北九州にせめてきた、文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2度の戦い。執権・北条時宗の統率のもと、御家人たちがよく戦い、あらしのおかげもあって元軍をしりぞけた。元寇の後、3度目の襲来に対する備えもあり、幕府の財政が悪化、恩賞をもらえない武士の不満が高まった。 |
げんこうのへん | 元弘の変 | 1331年(元弘1年)後醍醐天皇が企てた打倒鎌倉幕府の計画。未然に露見し、天皇は隠岐(おき)に流された。この後、楠木正成らの反幕府軍が各地に蜂起し、足利尊氏、新田義貞らの有力な武将も幕府にそむき、鎌倉幕府は滅亡した。 |
げんじとへいし | 源氏と平氏 | 皇族出身の源氏と平氏が武士団の棟りょうになった。源氏は清和天皇(在位858~876)の子孫、平氏は桓武天皇(在位781~806)の子孫。 |
げんじのめつぼう | 源氏の滅亡 | 2代将軍・源頼家(1182~1204)が伊豆修善寺で暗殺され、3代将軍・源実朝(1192~1219)が鶴岡八幡宮で暗殺され、源氏は3代でほろんだ。 |
げんじものがたり | 源氏物語 | 1012年(寛弘9)紫式部が書いた長編小説。「光源氏」を主人公に、藤原氏全盛期の貴族社会を描写したもの。 |
けんずいし | 遣隋使 | 大和政権から隋へ派遣された使節。日本側の記録では推古天皇時代の607年・608年に小野妹子ら、614年に犬上御田鍬いぬかみのみたすきらと計3回だが、中国側の記録では600年にも派遣されている。 |
けんせいかい | 憲政会 | 1916年(大正5)加藤高明を総裁として立憲同志・中正・公友倶楽部の三派合同により結成された政党。二次護憲運動の中核となった。1927年(昭和2)政友本党と合流し、立憲民政党と改称。 |
けんとうし | 遣唐使 | 国際情勢や大陸文化を学ぶために、十数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節。大使・副使らふつう五、六百人が数隻の船に分乗して、2、3年がかりで往復した。630年犬上御田鍬いぬかみのみたすきが派遣されたのが最初。唐末の戦乱のため、894年(寛平6)菅原道真の提議により廃止。 |
げんぺい | 源平の争乱 | 平氏の貴族的な政治に反感をもつ人々が、平氏打倒の動きを強めた。1180年(治承4)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵。頼朝の弟の源義経らのはたらきにより、1185年(元暦2)壇の浦の戦いで平氏をほろぼした。 |
けんむしきもく | 建武式目 | 1336年(建武3)足利尊氏が幕政の参考のために諮問し、これに中原是円・同真恵らが答申する形式をとった法令。幕府の所在地に関する1項目と政道17条とから成る。 |
けんむのしんせい | 建武の新政 | 1334年(建武1)後醍醐天皇は天皇中心の政治を復活させたが、公家を重んじ武士への恩賞も不公平で、宮殿の造営費を武士に負担させたりしたため、武士の不満が高まった。 足利尊氏が建武政府にそむいて兵をあげ、天皇は吉野にのがれた。尊氏は京都に別の天皇をたてた。これによって、新政はわずか3年で崩壊。 |
げんろくきんぎん | 元禄金銀 | 江戸幕府が、1695年(元禄8)改鋳した金銀貨で、元禄大判金・元禄小判金・元禄一分判金・元禄二朱判金・元禄丁銀・元禄豆板銀の総称。「元」字の極印がある。元字金・元字銀。 |
げんろくぶんか | 元禄文化 | 17世紀末~18世紀はじめの徳川綱吉の時代、上方(大阪・京都)を中心に明るく活気にみちた町人文化がさかえた。浮世草子・・・井原西鶴(日本永代蔵) 俳諧・・・松尾芭蕉(奥の細道)浮世絵・・・菱川師宣(見返美人図)浄瑠璃・・・近松門左衛門(曾根崎心中) |
こいしかわ | 小石川養生所 | 1722年(享保7)徳川吉宗が小石川薬園内に設置した窮民の療養施設。 |
ごいちごじけん | 五・一五事件 | 1932年(昭和7)5月15日、海軍の急進派青年将校がクーデターを起こそうとした事件。大川周明らの資金援助と陸軍士官候補生などの参加によって、首相官邸、政友本部、警視庁、内大臣牧野邸、日本銀行などを襲撃。犬養首相を射殺した。軍部はこれを利用して政党内閣制の廃止を迫り、軍部独裁への一歩を進めた。 |
こうあんのえき | 弘安の役 | 1281年(弘安4年)の2度目の蒙古襲来。この年、元のフビライは蒙古・高麗などの東路軍4万と旧南宋の江南軍10万をあわせて約14万の大軍で攻めた。初め東路軍が対馬、壱岐を侵し、のちに江南軍と合して博多湾に侵入したが、暴風雨と幕府軍の反撃によって敗退。1274年(文永11年)の来攻と合わせて、元寇または蒙古襲来ともいう。 |
こうかいどおうひ | 広開土王碑 | 高句麗の広開土王の功業、武勲を刻した石碑で中国吉林省集安にある。414年に建立。高さ6m余,幅約1.6mの石碑に1775字が刻まれている。日本の朝鮮進出および高句麗 など当時の朝鮮の様子を知るための重要な史料。 |
こうかじょうやく | 江華条約 | 江華島事件後、1876年(明治9)に日本が朝鮮の開国を求め、締結させた条約。日本の一方的な領事裁判権を定め、朝鮮の関税自主権を認めないなど、不平等なものであった。日朝修好条規。 |
こうかとうじけん | 江華島事件 | 韓国京畿道、漢江の河口にある小島。1875年(明治8)同島付近で示威演習を行なった日本軍艦「雲揚」が砲撃され、それを機として翌年朝鮮の開国を定めた日本との修好条規(江華島条約)が結ばれた。 |
こうぎ | 公儀 | 室町~江戸時代、政府・役所・朝廷・公家(こうか)・幕府などを指す語。また、その政治的な事柄など。 |
こうくり | 高句麗 | 古代朝鮮の国名。三国の一つ。中国東北地方の南東部から朝鮮北部にわたり、4~5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年頃より国内城(丸都城)、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。内部に壁画を描いた多くの古墳を残す。(~668) |
こうしょくいち | 好色一代男 | 浮世草子。井原西鶴作。8巻8冊。1682年(天和2)刊。浮世草子の最初で、好色本の始祖。主人公世之介1代の色欲生活に関する短い説話を連ね、大坂・江戸・京都などの女色・男色の種々相を活写。 |
こうしょくつい | 公職追放 | 重要な公職から特定の者を排除する処置。1946年(昭和21)1月に出されたGHQの覚に基づき、軍国主義者・国家主義者を国議員・報道機関・団体役職員などの公職から追放し、政治的活動も禁じた。1951年(昭和26)サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅。 |
こうじん | 後陣 | 先行する軍隊のうしろに備えた陣。後方の部隊。 |
ごうぞく | 豪族 | その地方に土着し、富と力をたくわえた者が支配者となり、やがて豪族となった。大和朝廷にしたがった豪族は、朝廷の役人として働いた。 |
こうたいおうひ | 好太王碑 | 朝鮮(高句麗)の好太王(広開土王)の業績を記した記念碑。4世紀末に、倭(大和朝廷)が朝鮮に出兵し、高句麗と戦ってやぶれたことが記されている。 |
こうちこうみん | 公地公民 | 土地と人民はすべて国家の所有とし、私有を認めないこと。大化の改新(645年)の際に打ち出され、以後律令制の原則となった。 |
こうぶがったい | 公武合体 | 幕末、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線。尊皇攘夷運動と対立。1860年(万延1)桜田門外の変後、幕府内では安藤信正ら、雄藩では薩摩藩など様々な勢力が主張した。 |
こうもん | 黄門 | 中納言の意。徳川光圀(中納言であったことから)の異称。 |
こおりのつかさ | 郡司 | 古代から中世(646~902年)の律令制のもと、中央から派遣された国司の下で郡を治めた地方官。郡の有力な豪族が任じられ郡の行政、税の取り立てなどを行った。902年班田収授制の崩壊により、郡司は有名無実化した。 |
ごかいどう | 五街道 | 江戸を起点に、五つの幹線道路(五街道)がととのえられた。→東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道街道ぞいに、宿場・一里塚がもうけられた。 |
ごかじょう | 五か条の御誓文 | 1868年(慶応4)新政府が天皇中心の体制を固めるために、天皇が神にちかう形で、五か条の御誓文を公布した。ひろく意見を聞いて政治を行い、外国から新しい知識を取り入れて国を発展させていこうというもの。 |
こきんわかしゅう | 古今和歌集 | 905年(延喜5)紀貫之らが編集した、わが国最初の勅撰和歌集。 |
こくがく | 国学 | 日本の古典を研究し、日本古来の考え方を究明する学問。江戸中期以降に発達した。 1798年(寛政10)本居宣長が「古事記伝」を書き、国学を大成した。幕末の尊皇攘夷論に影響をあたえた。 |
こくさいれんごう | 国際連合 | 第二次大戦後、国際平和と安全の維持のために設立された国際機構。1945年10月24日発足。本部はニューヨーク。総会・安全保障理事会・経済社会理事会・信託統治理事会・国際司法裁判所・事務局の6つの主要機関からなり、15の専門機関をもつ。日本は1956年(昭和31)に加盟。(United Nations) |
こくさいれんめい | 国際連盟 | 一次大戦後、国際間の協力によって国際平和を維持するため、米国大統領ウィルソンの提唱によって1920年(大正9)に設立された国際機関。本部をスイスのジュネーブに置いた。米国は当初から不参加、日本・ドイツ・イタリアの脱退、さらにソ連も除名されるなどして有名無実となり、1946年解散。(League of Nations) |
こくさいれんめい | 国際連盟脱退 | きっかけとなったリットン調査団報告は満州(当時)での日本の権益にも一定の理解を示したが、満州国を不承認としたことに日本は反発。1933年(昭和8)2月、日本だけ反対の42対1(棄権1)で報告書が採択され、日本代表は直後に議場を退出。翌月、連盟脱退を通告した。 |
こくせんや | 国性爺合戦 | 浄瑠璃。近松門左衛門作の時代物。明朝の遺臣鄭芝竜ていしりゅうの日本亡命中の子和藤内(国性爺)が、明国の回復を図ることを脚色する。「甘輝館の段」が最も有名。1715年(正徳5)11月初演、3年越し17カ月間続演。後に歌舞伎化。 |
こくたいめい | 国体明徴問題 | 1935年(昭和10)国会議員や軍部・右翼が美濃部達吉の天皇機関説を国体に反するとして攻撃した事件。政府は美濃部の著書3冊を発禁にし、国体明徴声明を出した。 |
こくふうぶんか | 国風文化 | 894年(寛平6)に遣唐使が停止されると、藤原氏らの貴族の生活から日本風の文化が発達した。寝殿造・・・貴族が住んだ日本風の屋敷。かな文学・・・竹取物語・源氏物語・枕草子・古今和歌集。大和絵・絵巻物 |
こくみんせいふ | 国民政府 | 1925年(大正14)中国国民党の指導下に広東(カントン)に成立した政府。1928年、北伐を終えた蒋介石が実権を握り、共産党を弾圧して独裁制を敷いた。日中戦争中は国共合作により抗日戦を戦ったが、戦後共産党との内戦に敗れ、1949年、台湾へ逃れた。国府。中華民国国民政府。 |
ごけにん | 御家人 | 江戸時代、将軍直属の家臣で、将軍に謁見する資格のない者。 |
ごけんうんどう | 護憲運動 | 憲政擁護の政治運動。1912年(大正1)末、3次桂内閣成立に反対して、憲政擁護を中心に展開、翌年2月内閣を総職させた(1次)。24年1月清浦内閣成立に反対して、護憲三派が総選挙に勝利し、6月護憲三派内閣を組織した(2次)。 |
ごさんねんのえき | 後三年の役 | 1083年(永保3年)出羽(秋田・山形県)の豪族清原氏の一族内の争い(~1087年)源頼義・義家親子が平定し、これによって源氏は関東に勢力を強めた。 |
こじ | 居士 | 学問や徳を備えていながら、公の職に就かない人。 |
ごしうんどう | 五・四運動 | 1919年(大正8)5月4日の北京の学生デモを発端として中国全土に及した反帝国主義運動。パリ講和議で日本の対華二十一箇条要求が承認されたことに反対し、政府にベルサイユ条約の調印拒否を約束させた。中国の新民主主義革命の出発点。 |
こじき | 古事記 | 太安万侶が、稗田阿礼が暗記していた神代から推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承をまとめたもの。712年(和銅5)に元明天皇に献上された。 |
ごしきづかこふん | 五色塚古墳 | 兵庫県にある、4世紀につくられた前方後円墳。まわりをふき石でかため、円筒埴輪がおかれている。 |
こしょう | 小姓 | 武家の職名。主君の側近く仕えて雑用をつかさどる武士。 |
ごせいばい | 御成敗式目 | 1232年(貞永1)3代執権・北条泰時が制定した、御家人に対して公平な裁判を行うための基準。51か条からなり、貞永式目ともよばれる。最初の武家法で、戦国時代の分国法や江戸時代の武家諸法度の手本となった。 |
ごぜんかいぎ | 御前会議 | 大本営と政府との合同会議である「大本営政府連絡会議」に、天皇が臨席すると「御前会議」と呼ばれた。1937年(昭和12年)大本営設置以来、終戦までの間に、御前会議は15回開催され、日独伊三国同盟締結、日米開戦、ポツダム宣言の受諾などが決定された。 |
こだい | 古代 | (250年~1192年)歴史の時代区分の一つ。3世紀中頃、前方後円墳成立期から、1192年武家政権(鎌倉幕府)の成立まで。古墳時代(250年~592年)飛鳥時代(592年~710年)奈良時代(710年~794年)平安時代(794年~1192年) |
こっかくき | 骨角器 | 旧石器~縄文時代、動物の骨や角でつくった、やじり・つり針・もりなど。 |
こっかそうどう | 国家総動員法 | 日中戦争(昭和12年~昭和20年)に際し、人的および物的資源を統制し運用する汎な権限を政府に与えた委任立法。1938年(昭和13)公布・施行。45年末に廃止。 |
こっきょうが | 国共合作 | 中国国民党と中国共産党が結んだ二度の協力関係。第一次は1924年から1927年までで、国民革命の推進に貢献。第二次は1937年(昭和12)の日中戦争の勃発から日本の敗戦後の1946年まで続いた。 |
ごづめ | 後詰 | 先陣の交替・補充のため、後ろに控えている軍勢。予備軍。援軍。 |
ごにんぐみ | 五人組 | (江戸時代)村は、だいたい数十戸からなっていたが、幕府や藩は、5戸ぐらいを1組とする五人組をつくらせ、年貢の納入や防犯、キリスト教の禁止などに共同責任をおわせた。 |
こふんじだい | 古墳時代 | (250年~592年)3世紀中頃、前方後円墳成立期から、592年推古天皇即位まで。北海道・沖縄を除く日本列島で壮大な古墳の多く造られた時期。階級社会が成立し、大和政権を中心とする政治権力が強化された時代。大和時代。 |
ごぼうのけいじ | 五榜の掲示 | 1868年(慶応4)五か条の御誓文と同時に、国民に対し国民の守るべきことを示した。徒党・強訴・キリスト教の禁止など、江戸幕府と変わらない政策を示した。 |
こまいぬ | 狛犬 | 神社や寺院の前に置かれる獅子に似た獣の像。高麗 (こま) から渡来した獣像といわれこの名がある。魔よけの効があるとされ、平安時代には清涼殿の御帳の前に、左に獅子像、右に狛犬が1対並べて置かれた。 |
こまきながくて | 小牧長久手の戦い | 1584年(天正12)尾張の小牧・長久手で、徳川家康が織田信雄(おだのぶかつ)を助けて羽柴秀吉と対戦した戦い。 |
こめそうどう | 米騒動 | 大戦中の好景気で物価が上がり、ロシア革命へのシベリア出兵を見こんで、商人が米を買しめ、はげしく米が値上がりした。 これに対し、1918年(大正7)富山県の漁村の主婦たちが米を求めて米屋をおそう事件が発生、全国に広がった。 各地で警官隊や軍隊と衝突する事態になり、寺内正毅内閣が責任をとって、辞職した。 |
ころもがわ | 衣川の戦い | 1189年(文治5)4月30日、陸奥国衣川で藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が源義経主従を殺害した戦い。泰衡は再三の源頼朝の圧力に屈して、500騎の兵をもって義経主従を襲った。武蔵坊弁慶らがわずか10数騎で防戦したが、ことごとく戦死。義経も自害して果てた。享年31。 |
こんごうぶじ | 金剛峯寺 | 和歌山県の高野こうや山上にある高野山真言宗の総本山。816年(弘仁7)空海の創立。 |
こんでんえいねん | 墾田永年私財法 | (奈良時代)743年(天平15)開こんした土地(墾田)は、永久に私有することを認めた。貴族や寺社が私有地(荘園)をふやし、公地公民制がくずれていった。 |
さいなんじけん | 済南事件 | 1928年(昭和3)国民革命軍が北伐を再開して済南に入ったのに対し、日本軍が在留邦人保護の名目で出兵し、済南を占領した事件。翌年、日本軍は撤退したが、中国の対日感情は極度に悪化した。 |
ざいばつ | 財閥の解体 | 1947年(昭和22)三井・三菱・住友・安田・富士の大財閥を解体し、小さな会社に分けた。また少数の大資本家による市場の独占を防ぐため、独占禁止法が制定された。 |
さいぱんとう | サイパン島の戦い | 太平洋戦争中の1944年(昭和19)6月15日、アメリカ軍が日本の委任統治領であったサイパン島に来攻し、7月6日に日本守備隊の残存兵力が「玉砕」攻撃を行なって壊滅するまでの離島戦闘。陥落の責任を問う形で、東条英機内閣は総職。以後アメリカ軍の日本本土への空襲を可能にすることになった。 |
さかしたもんがい | 坂下門外の変 | 井伊直弼の後をうけた老中安藤信正の公武合体の政策に反対して、水戸浪士ら6人が、1862年(文久2)1月15日、坂下門外で信正を襲撃した事変。信正は負傷、老中を辞職。 |
さがのらん | 佐賀の乱 | 1874年(明治7)2月、佐賀の不平士族が江藤新平・島義勇を指導者として蜂起した事件で、士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された。 |
さくらだもんがい | 桜田門外の変 | 1860年(万延1)3月3日の雪の朝、大老井伊直弼いいなおすけの安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸・薩摩の浪士ら18人が、桜田門外で直弼を暗殺した事件。 |
さくらだもんじ | 桜田門事件 | 1932年(昭和7)1月8日に起こった昭和天皇暗殺未遂事件。朝鮮人土木労働者李奉昌が、陸軍観兵式帰途の天皇の車に手榴(しゅりゅう)弾を投げたが、宮内大臣の馬車に軽微な損傷を与えただけで失敗に終わった。李は大逆罪で死刑。犬養毅首相は辞表を提出したが天皇に慰留され留任。 |
さこく | 鎖国 | 島原の乱で将軍家光は1639年(寛永16)ポルトガル船の来航を禁止、鎖国を完成。 1641年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移し。鎖国後は、オランダと中国の2国。鎖国により、江戸幕府の封建支配が確立、平和が続き、独自の文化が発達、海外への発展が停止し、近代化がおくれた。 |
さこん | 左近 | (奈良~平安時代)左近衛府の略。律令制で、右近衛府とともに禁中の警固、行幸の警備などに当たった朝廷の常備軍。 |
さだいじん | 左大臣 | (奈良~平安時代)律令制で、則闕(そっけつ、適任者がいない時は欠員とすること)の官である太政大臣に次ぐ太政官の最高の職。国政を総理する。右大臣の上席。 |
さつえいせんそう | 薩英戦争 | 1863年(文久3)7月、生麦なまむぎ事件の責任追及のため鹿児島湾に進入したイギリス艦隊と薩摩藩との間で行われた戦闘。同年10月和議が成立し同藩は責任を認め、以後双方は接近。 |
さっちょうどう | 薩長同盟 | 1866年(慶応2)、長州再征を前に、対立していた薩長両藩が幕府に対抗して協力することを約束した攻守同盟。坂本竜馬が仲介。薩長連合。薩長盟約。 |
さつまはん | 薩摩藩 | 鹿児島を本拠地とした外様藩。藩主は島津氏。11代藩主の島津斉彬(1809~1858)は開明派で、蒸気船の建造やガラス製造、反射炉の建設などを行った。幕末には長州とともに明治維新の実現を主導。明治新政府で活躍した西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆などを輩出。 |
さらえぼじけん | サラエボ事件 | バルカン半島は、民族や各国の対立から、いつ戦争が始まるかわからない緊張した状態となり、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。1914年(大正3)サラエボでセルビア人の青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺するという事件がおこった。 |
さんいちごじけん | 三・一五事件 | 1928年(昭和3)3月15日、田中義一内閣によって行われた、日本共産党員などの全国的検挙事件。一道三府二七県にわたり、1568名の共産党員やその支持者が検挙された。 |
さんかんせいばつ | 三韓征伐 | 第14代仲哀天皇の西暦200年、神功皇后(170~269)が朝鮮出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においた戦争。馬韓(百済)・辰韓(新羅)・弁韓(任那)の三韓を降伏させ、ついで高句麗も帰順させたとされる。 |
さんぎょうかく | 産業革命 | 第一次産業革命・・・19世紀末ごろから、製糸、紡績などの軽工業が発達。第二次産業革命・・・日露戦争前後、製鉄・機械・造船などの重工業が発達。 |
さんきんこうたい | 参勤交代 | 1635年 (寛永12)3代将軍徳川家光のとき、武家諸法度のなかに参勤交代の制度が定められた。全国の大名を1年おきに江戸と領地に住まわせ、その妻子を江戸に住まわせた。往復で大名行列が行われ、交通が発達し、文化が地方に広まった。 |
ざんごう | 塹壕 | 戦場で、歩兵が敵弾を避けるために作る防御施設。溝を掘り、前方に掘った土や土嚢(どのう)を積み上げたもの。 |
さんごくかん | 三国干渉 | 1895年(明治28)東アジアでの南下政策を考えていたロシアはフランス・ドイツをさそい、遼東半島を清に返すよう要求してきた(三国干渉)。日本は三国と争う国力がなく、やむをえず要求をうけいれた。 |
さんしゅのじんぎ | 三種の神器 | 歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いだという三つの宝物。八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)。 |
さんせいいっしん | 三世一身の法 | 開こんを奨励(しょうれい)するため、723年(養老7)新しく開こんした土地は本人・子・孫の3世まで所有を認めた。古い施設を利用して開こんした土地は、本人1代の私有を認めた。 |
さんと | 三都 | 江戸・・・「将軍のおひざもと」として発達。18世紀の中ごろの人口は100万人をこえていた(当時では世界最大)。大阪・・・「天下の台所」とよばれ、全国の大名が蔵屋敷をたて、全国の物資が集まる経済都市としてさかえた。京都・・・朝廷があり、古い歴史と文化、工芸(西陣織など)が発達していた。 |
さんとうし | 山東出兵 | 1927~1928年(昭和2~3)三次にわたって、田中義一内閣が在留邦人保護の名目で中国山東省に出兵した事件。国民革命軍の北伐阻止を真の目的とし、二次出兵のさいには済南事件を引き起こして中国の反日感情を増大させた。 |
さんふらんしすこ | サンフランシスコ講和条約 | 二次大戦を終結させるため、日本と連合国との間で結ばれた条約。1951年(昭和26)9月サンフランシスコで、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3か国を除く連合国48か国と日本とにより調印。米国による信託統治、海外領土の放棄などを規定。対日講和条約 |
じーえっちきゅー | GHQ総司令部 | 二次大戦後、連合国軍が日本占領中に設置した総司令部。マッカーサーを最高司令官とし、占領政策を日本政府に施行させた。1952年(昭和27)講和条約発効により廃止。(General Head Quarters) |
しーぼるとじけん | シーボルト事件 | ドイツの医学者・博物学者シーボルトは、1823年(文政6)オランダ商館の医員として長崎に着任、日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。28年帰国の際、荷物の中に国禁の地図等が発見され、翌年国外追放、多くの洋学者が処罰された。 |
しーめんすじけん | シーメンス事件 | ドイツのジーメンスの行なった日本海軍高官への贈賄事件。1914年(大正3)1月に暴露され議や民衆の憤激を呼び、同年3月、海軍長老を首相とする山本権兵衛内閣は職に追い込まれた。 |
じきさん | 直参 | 江戸幕府に直属した1万石以下の武士。将軍に謁見する資格のある旗本と資格のない御家人とに分かれる。 |
しきぶ | 式部 | (奈良~平安時代)式部省の略。律令制で、太政官八省の一つ。朝廷の礼式および文官の考課など人事一般を取り扱う。 |
しこくかんたい | 四国艦隊下関砲撃事件 | 1864年8月5日、英・米・仏・オランダの四国連合艦隊が下関海峡から長州藩を攻撃し、一部は上陸して藩兵と戦い、沿岸の砲台を全滅させた事件。前年長州藩が攘夷決行のため海峡航行中の米・仏・オランダの船舶を砲撃したことへの報復と、長州藩や幕府の攘夷主義を粉砕するのが目的であった。この事件は、長州藩内尊攘派が攘夷を捨てて開国に転ずる契機となった。 |
じしゃぶぎょう | 寺社奉行 | (江戸時代)寺社に関する人事・雑務・訴訟の事をつかさどった職。宗門、大名から任じられて兼任し、将軍に直属。定員4名が慣例で、老中・若年寄と同じく月番制。 |
じしゅう | 時宗 | 1274年(文永11)一遍が門下の僧尼を唐の善導にならって時衆と称したのに始まる。浄土三部経のうち、特に阿弥陀経を所依とし、平生へいぜいを臨終と心得て念仏することを旨とする。 |
しずがたけ | 賤ヶ岳の戦い | 1583年(天正11)賤ヶ岳で羽柴(豊臣)秀吉が柴田勝家を破った戦い。秀吉の全国制覇の基礎が築かれた。 |
しせいせいど | 氏姓制度 | 古代大和朝廷の政治や社会のしくみ。氏・・・血縁で結ばれた豪族の一族。姓・・・家がらや朝廷での地位を表し、氏にあたえられた。 |
しぞく | 士族 | 明治維新後の族称の一つで、華族の下、平民の上。旧武士身分の平士以上で、法律上の特典は無かった。1947年(昭和22)廃止。 |
しぞくのはんらん | 士族の反乱 | 明治新政府は、薩摩・長州藩の出身者による藩閥政治だったため、政府に参加できなかった藩の士族の多くは不満をもった。また、四民平等政策や徴兵令などで特権を失ったため、不満はさらに高まった。各地の不平士族は、武力で政府に反抗したが、いずれも失敗した。・・・佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱 |
しちきょうおち | 七卿落ち | 1863年(文久3)8月18日、三条実美さねとみ・三条西季知すえとも・四条隆謌たかうた・東久世通禧みちとみ・壬生基修みぶもとなが・錦小路頼徳よりのり・沢宣嘉のぶよしの7人の公卿が討幕計画に敗れて官位を奪われ、京都を逃れて長州に落ち延びた事件。 |
しっけん | 執権 | 鎌倉幕府の政所(財政事務を管掌)の長官。将軍を補佐し政務を統轄した。第3代将軍源実朝のとき北条時政が就任し、以後、北条氏が世襲した。 |
じとう | 地頭 | 鎌倉・室町幕府の職名。1185年(文治1)源頼朝が、行家・義経を捕らえる名目で、勅許を得て各地の荘園・公領に置いた職。御家人が任命され、荘園・公領内の警察・刑事裁判権をもち、次第に在地領主として成長した。 |
しのうこうしょう | 士農工商 | 江戸時代初期に身分制度が整った。武士をいちばん上の身分とし、順に百姓(農民)、町人(職人・商人)とするもの。さらに低い身分の者もおかれた。 |
しべりあ | シベリア出兵 | 1918年(大正7)ロシア革命に干渉するため、日・米両国を中心に英国・フランスの各国がチェコスロバキア軍捕虜救援の名目でシベリアに軍隊を送った事件。米・英・仏が撤兵したのちも日本は駐留を続けたが、国内外の非難により1922年に撤兵。 |
しまばらのらん | 島原の乱 | 1637年(寛永14)九州の島原(長崎県)・天草(熊本県)地方の農民が、領主の圧政に対し反乱を起こした。16歳の天草四郎を頭(かしら)とし、原城にたてこもったが、翌年、幕府軍にしずめられた。 |
しみんびょうどう | 四民平等 | 士農工商を廃止し、士農工商は平等との原則にもとづいて、天皇の一族を皇族、公家・大名を華族、武士を士族、農工商を平民とした。 平民にも苗字(みょうじ)が許され、他の身分との結婚や住居移転、職業が自由になった。 |
しめなわ | 注連縄 | 神を祭る神聖な場所を他の場所と区別するために張る縄。また、新年の祝いなどのために家の入り口に張って悪気が家内に入らないようにしたもの。左捻(よ)りのわらに適当な間隔を置いて紙四手(かみしで)などを下げる。 |
しものせき | 下関条約 | 日清戦争に勝利した日本は、1895年(明治28)下関で講和条約を結んだ。①清は、朝鮮の独立を認め、朝鮮から手を引くこと。②清は、台湾・遼東半島などを日本にゆずる。③清は、賠償金2億両を日本に支払う。 |
しものせき | 下関戦争 | 1864年(元治1)8月、英・仏・米・蘭4か国連合艦隊が長州藩の下関砲台を攻撃した事件。前年の長州藩の攘夷決行の報復措置として行われた。 |
しもやまじけん | 下山事件 | 1949年(昭和24)行方不明になっていた国鉄総裁下山定則が常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見された事件。総裁が国鉄職員の大量整理案を発表し、労働組合が反対闘争を盛り上げていた最中のため、他殺か自殺かの議論を巻き起こし、労働運動に大きな打撃を与えた。事件は真相不明のまま捜査打ち切りとなった |
しゃかいうんどう | 社会運動の広がり | 1920年(大正9)日本で最初のメーデーが行われ、翌年、労働組合の全国組織である日本労働総同盟が結成された。1922年、日本農民組合が結成された。1922年、被差別部落の人々が全国水平社を結成した。平塚雷鳥や市川房枝らが、婦人解放運動に活やくした。 |
しゃんはいじへん | 上海事変 | 1932年(昭和7)1月、満州事変から世界の目をそらすため、日本の軍部が上海で起こした日中両軍の衝突事件。中国軍の頑強な抵抗にあい、5月に停戦協定締結。 |
しゅいんせん | 朱印船貿易 | 1592年(天正20)徳川家康は、海外渡航を許可する朱印状を発行し、貿易を保護した。九州の大名や角倉、茶屋、末吉などの京都・大阪の大商人が、東南アジアに朱印船を派遣した。 |
じゅうぐん | 従軍慰安婦 | 戦時中、将兵の慰安などを名目として、軍が監督する戦地の施設に送り込まれ、性的労働をさせられた女性。 |
じゅうぐん | 従軍慰安婦問題 | 日中戦争から太平洋戦争の間、その戦地において、日本軍の軍人が、その戦地の女性を慰安婦として働かせるため、慰安所に強制的に連行しておきながら、その責任を取ってこなかったとされる問題。総数は8万とも20万ともいわれる。1991年(平成3)に韓国人被害者が名乗り出てから問題が表面化した。 |
じゅうごねん | 15年戦争 | 満州事変から太平洋戦争(昭和6年~昭和20年)までの15年間、日本は戦争に明けくれ、日本は国際的に孤立した。不景気を打開するため、軍部が大陸進出をすすめ、財閥や政府も協力した。 |
じゅうななじょう | 十七条の憲法 | 聖徳太子は、604年、十七条の憲法をつくり、朝廷につかえる役人の心がまえを示した。和の尊重、仏教の重視などにより、天皇中心のしくみを整えようとした。 |
じゆうみんけん | 自由民権運動 | 英仏の民権思想が普及し、自由民権運動が高まった。政府の要職を薩摩・長州藩が独占(藩閥政治)1874年(明治7)土佐の板垣退助は民選議院設立の建白書を政府に提出。1881年藩閥政府に対する非難がはげしくなった。政府は、非難をかわすために、1881年、10年後に国会を開設することを約束した。 |
しゅご | 守護 | 鎌倉・室町幕府の職名。1185年(文治1)源頼朝が勅許を得て国々に設置し、大番おおばんの催促、謀叛人・殺害人の追捕などに当たらせたもの。もとは国司の公事、地頭の所務などに干渉することを禁じられていたが、権力拡張の結果、次第に任国を領国化していった。 |
しゅごだいみょう | 守護大名 | 室町時代、守護は、任地の土地や地頭などを支配して領主となり、守護大名に成長した。 |
しゅしがく | 朱子学 | 鎌倉時代に伝来した儒学の一派。林羅山が徳川家康に登用され、幕府の学問(官学)として保護された。身分秩序を重んじたので、封建体制を守るのに都合よかった。 |
じゅらくだい | 聚楽第 | 豊臣秀吉が京都に営んだ華麗壮大な邸宅。1587年(天正15)完成し、翌年後陽成天皇を招き、諸大名に秀吉への忠誠を誓わせた。のち、秀次に譲り、その死後破却。大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などはその遺構と伝える。 |
しょうえん | 荘園の広がり | 743年(天平15)に出された墾田永年私財法で、開こんした土地の私有が認められたので、有力な貴族や寺社は私有地(荘園)をふやした。地方の豪族たちは、有力な貴族や寺社に荘園を寄進して保護を受けた。 |
しょうぎたい | 彰義隊 | 1868年(慶応4年)2月、徳川慶喜の復権を目指し旧幕臣が結成した団体。最盛期は2000人ほど。上野寛永寺を根拠地として抗戦したが、5月、新政府軍の総攻撃(上野戦争)をうけ壊滅。一部は旧幕府の軍艦で逃亡、箱館戦争に参加。 |
じょうきゅう | 承久の乱 | 源氏の将軍がたえると、1221年(承久3)朝廷の勢力を回復しようとしていた後鳥羽上皇が兵をあげた。これに対して幕府側は、北条政子のよびかけで御家人の団結をかため、勝利をおさめた。乱の後、後鳥羽上皇は隠岐に流され、朝廷の勢力はおとろえた。幕府は京都に六波羅探題をおき、朝廷や西国武士を監視した。 |
しょうぎょう | 商業の発達 | 江戸時代、幕府や藩は、年貢米を貨幣にかえて商品を買い貨幣経済が発達。 商人が生まれ、武士や町人、農民までも貨幣なしには暮らせなくなった。 両替商・・・貨幣の交換、預金や貸しつけなどを行った。大商人の台頭・・・紀伊の紀国屋文左衛門、伊勢の三井高利など。株仲間・・・大商人や手工業業者の同業組合。 |
しょうぐん | 将軍 | 一軍を統率して出征する臨時の職。出征の方面によって鎮東将軍・征夷将軍・征夷大将軍などと呼んだが、のち源頼朝が征夷大将軍に任命されて以後もっぱら征夷大将軍(幕府の主宰者)の称となった。 |
しょうそういん | 正倉院 | 東大寺にあり、聖武天皇(在位724~749)の遺品などが保存されている倉庫。校倉造。 |
しょうちゅう | 正中の変 | 後醍醐天皇が北条高時を討って政権の回復を企てた政変。1324年(正中1)挙兵の計画がもれて日野資朝(すけとも)・俊基(としもと)は捕らえられ、失敗。天皇はその意のないことを釈明して事なきを得た。 |
しょうちょう | 正長の土一揆 | 1428年(正長1)徳政を要求して蜂起した最初の大規模な土一揆。大津の馬借ばしゃく、醍醐(現、京都市伏見区)の農民の蜂起が口火となり、畿内各地に波及、京都に乱入して土倉を襲い、借書を破いて徳政を要求。「日本開闢以来」といわれるほどに大規模であった。 |
じょうどしゅう | 浄土宗 | 仏教の一派。浄土三部経を所依とし、1175年(承安5)法然を開祖とする。自力教を排して、他力念仏によって極楽浄土に往生することを目的とする。 |
しょうなごん | 少納言 | (奈良~平安時代)律令制で、太政官の職員。外記(げき、内記が作る詔勅の草案を訂正し、奏文をつくり、また先例を考勘したり、恒例、臨時の儀式行事の奉行をした)を率いて太政官内の事務局を構成していた。 |
じょうへい | 承平天慶の乱 | 平将門と藤原純友の反乱。将門は東国で同族間の私闘を続け、939年(天慶2)常陸国府を襲撃して公然と朝廷に反抗するに至ったが敗死。純友は、939年(天慶2)海賊を率いて朝廷に反抗、941年(天慶4)に敗死。いずれも律令国家衰退を象徴した事件。 |
じょうもんじだい | 縄文時代 | (BC14000年~BC660年)縄文土器を指標とする時代。主に竪穴住居から成る集落を構成し、採集・漁労・狩猟の採取経済の段階にある。遺跡・遺物は千島から沖縄まで分布。 |
じょうもんどき | 縄文土器 | 縄目もようをつけたものが多く、厚手で黒かっ色。低温で焼かれたため、こわれやすい。北海道から九州まで広く分布。 |
しょうるい | 生類憐みの令 | 1687年(貞享4)徳川5代将軍綱吉の発布した生類愛護の触書の総称。捨て子・捨て病人の禁止から、牛・馬・犬・鳥・魚介類などの動物の虐待・殺生の禁止までに及んだ。違反者は厳罰に処せられたため、綱吉は犬公方いぬくぼうと呼ばれた。1709年(宝永6)廃止。 |
しょうわきょう | 昭和恐慌 | 1929年(昭和4)末以降の世界大恐慌の一環としての日本の恐慌。深刻な不景気、生活難、社会的緊張の増大をもたらした。32年以降景気回復に向かったが、農村疲弊はその後も継続。 |
しょくさん | 殖産興業 | 1870年(明治3)~1872年(明治5)国を富ませるために、官営工場をつくり、鉱山を開発したりした。富岡製糸場・・・官営もはん工場として、群馬県の富岡に製糸工場が建てられた。フランスの機械や技術を導入。士族の娘たちが女工として働いた。 |
しょしだい | 所司代 | 室町時代、侍所(さぶらいどころ、御家人の統制や軍事や裁判に当る機関)の所司(長官)の家人が代理として事務を取り扱ったもの。特に、京都所司代を指すことが多い。 |
しらかば | 白樺 | 文芸雑誌。武者小路実篤さねあつ・志賀直哉なおや・里見弴とん・有島武郎たけお・有島生馬・長与善郎らを同人とし、1910年(明治43)創刊、23年(大正12)廃刊。 |
しらぎ | 新羅 | 古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧しら国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽倻諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高句麗の王建に滅ぼされた。 |
しんごんしゅう | 真言宗 | 日本仏教の宗派の一。大日如来を教主とし、身口意(しんくい)三密の加持力で即身成仏(じょうぶつ)させるのを本旨とする。入唐した空海が密教を恵果に学び、806年(大同1)帰国して一宗を開いた。 |
しんじゅわん | 真珠湾攻撃 | 1941年(昭和16)12月7日(日本時間では8日)、米国オアフ島の真珠湾(パールハーバー)にある米国海軍の太平洋艦隊基地に対して、日本海軍が加えた奇襲攻撃。太平洋戦争のきっかけとなった。 |
じんしんのらん | 壬申の乱 | 天智天皇の死後、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と子の大友皇子の間で皇位をめぐる争いがおこった。672年(天武1)大海人皇子が大友皇子をやぶり、天武天皇となった。都を近江から飛鳥に移し、法典の編さんをすすめた。 |
しんせんぐみ | 新撰組 | 1863年(文久3)江戸幕府が芹沢鴨せりざわかも・近藤勇・土方ひじかた歳三など武芸にすぐれた浪士を集めて編制した警備隊。京都守護職に属し、尊王攘夷派らの鎮圧にあたった。 |
じんのうしょう | 神皇正統記 | 1339年(延元4)南朝の重臣だった北畠親房が、南朝の正統性を主張するために書いた歴史書。 |
じんむけいき | 神武景気 | 1954年(昭和29)12月から、1957年(昭和32)6月まで、31か月間続いた景気拡大期の呼び名の一。高度成長のさきがけをなした。神武天皇以来、例がないということからの名。三循環の拡張期に当たる。 |
じんむとうせい | 神武東征 | 高天原(たかあまはら)より降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曾孫、神倭伊波礼毘古尊(かむやまといわれひこのみこと)は、天下平定のため、日向(ひむか)から安芸、吉備などを経て、東の地へ向かい、地元勢力と戦いを交えながら大和を平定。紀元前660年、橿原宮で神武天皇として即位したと伝えられる。 |
しんよう | 瀋陽 | 中国遼寧(りょうねい)省の省都。東北地区の政治・経済・文化の中心地。重工業が盛ん。1625年(寛永2)から清(後金)の都。のち、盛京と改称。1644年(寛永22)からは奉天とよばれた。日露戦争会戦地。郊外の柳条湖は満州事変の勃発地。 |
すいぼくが | 水墨画 | 中国から伝わった墨(すみ)でえがく絵。雪舟(1420~1506)によって大成された。 |
すうみついん | 枢密院 | 明治憲法下で、重要な国務および皇室の大事に関し、天皇の諮詢しじゅんに応えることを任務とした合議機関。議長・副議長・顧問官で組織し、国務大臣および成年以上の親王も列し得た。1888年(明治21)設置。1947年廃止。 |
すけごうやく | 助郷役 | 江戸時代、参勤交代などで、街道の宿場の近くの村々が人足や馬を負担すること。助郷役は農民の重い負担となり、しばしば反対の一揆が起こった。 |
すみそにあん | スミソニアン体制 | 1971年(昭和46)12月、ワシントンのスミソニアン博物館で開催された10カ国財務相議での合意に基づく国際通貨体制。ニクソンショックを受けて、ドルの切下げなどを行い、固定相場制を維持しようとしたが、73年主要国が変動相場制に移行し、崩壊。(Smithsonian System) |
せいいたいしょう | 征夷大将軍 | ①平安初期、蝦夷えぞ征討のために派遣された将軍。797年(延暦16)坂上田村麻呂が任命されたのが初。②源頼朝以後、鎌倉・室町・江戸幕府にいたる武家政権の首長の称号。 |
せいかんろん | 征韓論政変 | 1873年(明治6)におきた西郷隆盛の朝鮮遣使への賛否をめぐる政変。西郷・板垣退助・江藤新平らは遣使を主張したが、倉具視・大久保利通・木戸孝允らは朝鮮との戦争につながるとして内治優先の立場からこれに反対。結局、前者の意見が敗れ、西郷らは下野し、政府は分裂。明治6年政変。 |
せいとう | 政党の結成 | 自由党・・・1881年(明治14)板垣退助らが結成。フランス流の急進的な自由主義を主張。立憲改進党・・・1882年(明治15)大隈重信らが結成。イギリス流のおだやかな議会政治を主張。 |
せいどうき | 青銅器 | 弥生時代に、鉄器とほぼ同時に大陸から伝わった。青銅器は、おもに祭りの道具として使われ、銅剣・銅ほこ・銅鏡・銅たくなどがつくられた。 |
せいとうないかく | 政党内閣の成立 | 1918年(大正7)寺内内閣が辞職後、おりからの民主主義の高まりもあり、立憲政友会の原敬が内閣を組織、本格的な政党内閣をつくった。 「平民宰相」とよばれ、国民から大きな期待がよせられたが、普通選挙の要求に反対し、社会運動を弾圧した。 |
せいとうは | 青鞜派 | 1911年(明治44)、平塚らいてうを中心に集まった女流文学者の一派。機関誌「青鞜」によって評論・文芸作品を発表、婦人の解放を叫び、新思想を紹介・鼓吹。 |
せいなんせんそう | 西南戦争 | 1877年(明治10)鹿児島の士族が西郷隆盛をかついで政府に反抗した。西郷は、近代的な政府軍に敗れ、自殺。武力による反抗はこれが最後となり、不平士族の反政府運動は言論を中心に行われるようになった。 |
せかいきょうこう | 世界恐慌 | 1929年(昭和4年)10月24日(暗黒の木曜日)ニューヨークのウォール街株価大暴落に端を発し、全資本主義国に波及した未曾有の大恐慌。1933年まで5年間に及ぶ。アメリカはニューディール、イギリスはブロック経済政策、日本・ドイツ・イタリアは準戦時体制をとり、第二次世界大戦の有力な原因となった。(World Crisis) |
せきがはら | 関ヶ原の戦い | 豊臣秀吉の死後、徳川家康の勢力がまし、豊臣方の石田三成は兵をあげてこれをほろぼそうとした。1600年(慶長5)全国の大名たちが豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)に分かれて関ヶ原(岐阜県)で戦った。「天下分け目の戦い」といわれ、家康が勝った。 |
せきしょ | 関所 | 通行人や荷物の検査あるいは防備などのため、交通上の要所や国境などに置かれた施設。古代(飛鳥~平安)では主に軍事上の防備のために置かれ、中世(室町~安土桃山)では幕府・大名・寺社などが、関銭徴収のために設けた。近世(江戸)では再び、幕府が江戸防衛を主眼として各地に設けた。 |
せっかんせいじ | 摂関政治 | 藤原鎌足(614~669)の子孫で律令政治の立て直しのなかで力をつけてきた藤原氏は、天皇が幼いときは摂政、成人すると関白になって政治の実権をにぎった。摂関政治は、11世紀後半の藤原道長(966~1027)・頼通(992~1074)親子の時代に最も栄えた。 |
せっしょう | 摂政 | 天皇が幼いときや女性のとき(女帝)などに、天皇に代わって政治を行うこと、およびその職名。 593年、聖徳太子が推古天皇の摂政となったように、元来は皇族が任じられるものであったが、9世紀半ばより藤原氏が独占するようになる。 |
ぜろせん | 零戦 | 第二次大戦中の旧日本海軍の主力戦闘機。最大時速518キロ、航続距離2220キロ。1万余機が生産された。零式艦上戦闘機。 |
せんかくれっとう | 尖閣諸島国有化 | 尖閣諸島は、沖縄県石垣島の北約170キロに位置し、魚釣島など5島と礁群からなる無人島。日中それぞれ領有権を主張している。政府は2002年(平成14)度から3島の賃借契約を地権者と結び年間2450万円を支払ってきた。野田政権が2012年(平成24)9月に20億5千万円で購入し、所有権を国に移した。 |
せんきょうし | 宣教師の国外追放 | はじめはキリスト教を保護していた豊臣秀吉は、九州平定のとき、長崎が教会領になっていることを知り、国内統一のさまたげになると考え、1587年(天正15)に宣教師の国外追放(バテレン追放令)を命じた。 |
ぜんくねんのえき | 前九年・後三年の役 | 前九年の役・・・1051年(永承6)陸奥(東北)の豪族安倍氏が反乱。後三年の役・・・1083年(永保3)出羽(秋田・山形県)の豪族清原氏の一族内の争い。いずれの乱も、源頼義・義家が平定し、これによって源氏は関東に勢力を強めた。 |
せんごく | 戦国大名 | (戦国~安土桃山時代 1467~1603年)守護大名の家臣などで、実力を強め主人をたおし(下剋上)、領国を統一して支配した大名たち。守護大名から戦国大名に変身していった者もある。おもな戦国大名・・・上杉謙信・武田信玄・北条早雲・今川義元・毛利元就など |
せんごくじだい | 戦国時代 | (1467年~1573年)1467年応仁の乱から、1573年室町幕府滅亡まで。 |
せんじたいせい | 戦時体制 | 国家総動員法・・・1938年(昭和13)国民や物資すべてを戦争に動員・強制できるようにした。大政翼賛会・・・1940年(昭和15)政党を解散して政府の方針に協力するようにした。 |
せんじん | 先陣 | (鎌倉~安土桃山時代)武家社会における戦時の陣営の一つ。本陣の前方に設けたことに由来し、進撃の最先端を意味した。別に先鋒(せんぽう)、前備(さきそなえ)とも称した。 |
せんそうちゅう | 戦争中の国民生活 | 学童疎開1944年(昭和19)~1945年(昭和20)・・・空襲がはげしくなると、大都市の小学生は集団で地方へ疎開した。学徒動員(昭和18~20年)・・・男子学生が戦場に動員され、中学生や女子学生も勤労動員された。配給制(昭和16~20年)・・・食糧や日用品が不足し、米・みそ・衣服などが配給制となった。 |
せんどきじだい | 先土器時代 | 今から約1万年前までの、おもに打製石器が使われていたので、この時代を旧石器時代という。土器を使ったあとが見られないので、先土器時代ともいわれる。 |
せんりゅう | 川柳・狂歌 | 川柳(江戸中期~)・・・俳句の形式で、世相や人情をこっけい、皮肉に表現したもの。狂歌(江戸中期~)・・・和歌の形式で、世相を風刺したもの。 |
そう | 惣 | (鎌倉~戦国時代)戦乱が続くと、農民たちは名主を中心にまとまっていき、惣とよばれる自治のしくみをつくった。産業の発達した近畿地方から各地に広まり、土一揆の母体となった。 |
そうとうしゅう | 曹洞宗 | 禅宗の一派。中国で洞山良价とうざんりょうかいと弟子の曹山本寂によって開かれ、日本では、1227年(嘉禄3)道元が入宋して如浄からこれを伝え受けた。只管打坐しかんたざを説く。永平寺・総持寺を大本山とする。 |
そうへい | 僧兵 | (鎌倉~戦国時代)大きな寺院では、僧が武装して寺や荘園を守った。延暦寺・東大寺・興福寺などの僧兵が、暴力で要求を通そうとした。これをおさえるために朝廷も武士をたよるようになった。 |
そかい | 租界 | 近代中国の各開港場にあった外国人居留地で中国政府もしくは個人から「永借」した土地。外国人はそこに居住し貿易を行うだけでなく一般行政権をも掌握するようになった。1845年の上海のイギリス租界が始りでのち日本ロシアなど8ヵ国が全国で 28ヵ所の租界を設置した。各国ごとの租界を専管租界といい、また上海、アモイには共同租界があった。中国の領土、主権を侵害したもので早くからその返還要求が民族運動のスローガンとなっていたが1943年に最終的に消滅した。 |
そがし | 蘇我氏 | 大臣として財政をつかさどり、大連の物部氏と対立して勝利した。蘇我馬子(551~626)・蝦夷(586~645)・入鹿(611~645)の3代が活躍した。 |
そねざきしん | 曾根崎心中 | 浄瑠璃。近松門左衛門作の世話物。 1703年(元禄16)4月、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初とが曾根崎天神の森で情死した事件を脚色、翌月初演。世話浄瑠璃最初の作品。1953年宇野信夫の脚色・演出で歌舞伎化された。 |
それんのせいりつ | ソ連の成立 | ロシアでは、国民の皇帝への不満を背景に、1917年(大正6)レーニンの指導によるロシア革命がおき、ソビエト政府ができた。世界初の社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦が1922年(大正11)に成立した。 |
そろもんかいせん | ソロモン海戦 | 太平洋戦争中のガダルカナル作戦における海戦。1942年(昭和17)8月~11月3次にわたる。8月8日の第1次では日本は米・豪連合軍の重巡洋艦4隻を撃沈。8月24日の第2次では日本は空母竜驤(りゅうじょう)を失った。11月14日の第3次は消耗戦の様相を呈し、日本の輸送船団は打撃を受け、戦艦霧島などを失った。 |
そんのうじょうい | 尊王攘夷運動 | 社会不安がつづくなかで、開国した幕府や外国に対する不満が高まり、朝廷を尊ぶ考えをもつ尊王論と、外国を追いはらおうとする攘夷論が結びついた尊王攘夷論がおこってきた。尊王攘夷論は倒幕運動に発展し、薩摩藩と長州藩は、元土佐藩の坂本竜馬の仲立ちで薩長同盟を結び、倒幕の動きを強めた。 |
だいいちじしゃん | 第1次上海事変 | 1932年(昭和7年)1月上海で起こった日本・中国両軍の衝突事件。前年1931年の満州事変以来、中国本土進出の機会をねらっていた日本は、満州事変から世界の目をそらす意味もあり、1932年1月上海に起こった日本人僧侶暗殺事件を機に軍隊を上海に上陸させ、中国軍隊と衝突。労働者・市民も大ストライキを行って抵抗し、日本軍は苦戦した。アメリカ・イギリス両国の抗議もあり、国際情勢も不利であったため、5月に停戦協定が成立。日本軍は共同租界に守備兵を残して撤退し、一応戦闘は終わった。 |
だいいちじせかい | 第一次世界大戦 | 1914年(大正3)のサラエボ事件の後、オーストリアがセルビアに宣戦したのをきっかけに第一次世界大戦がおこり、ヨーロッパの国のほとんどが、連合国(協商国)と同盟国に分かれて戦った。戦車・毒ガス・飛行機・潜水艦などの新兵器が使われた。日本は、日英同盟を理由に、連合国がわについて参戦、中国のドイツ領などを占領した。 |
だいいちじちょう | 第1次長州征伐 | 蛤御門の変で、長州藩が皇居へ発砲したことを理由に幕府が長州藩へ出兵。これに対し長州藩は、蛤御門の変の責任者として家老3名を切腹させ、幕府に謝罪の意を示したため、幕府側の不戦勝に終わった。 |
だいおう | 大王 | 大和朝廷の支配者となった、最大の権力を持つ豪族。7世紀ごろから、天皇の称号が使われるようになった。 |
だいがくふんそう | 大学紛争 | 大学の運営・教育・研究のあり方について、大学当局と学生の主張が対立して起きる紛争。1969年(昭和44)東京大学安田講堂封鎖解除のため機動隊導入など、1960年代後半に頻発した。 |
たいかにじゅう | 対華二十一箇条要求 | 一次大戦中の1915年(大正4)日本が中国に受諾させた21か条の要求。山東省の旧ドイツ権益の継承、満鉄権益期限の99か年延長などを要求し受諾させたが、これに対し、中国国内では反日運動がまきおこった。 |
たいかのかいしん | 大化の改新 | 聖徳太子の死後、朝廷では蘇我氏が権勢をふるった。645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが、蘇我蝦夷・入鹿親子をたおして政治の実権をにぎった。唐にならい、はじめて年号を定め、大化とした。中大兄皇子は皇太子となって、天皇中心の国家をつくろうとした。 |
たいぎ | 大儀 | 経費のかかること。面倒なこと。重要なこと。 |
たいぎゃくじけん | 大逆事件 | 明治天皇暗殺計画の発覚に伴う弾圧事件。1910年(明治43)一部の主義者の天皇暗殺計画を理由に多くの主義者・無政府主義者が検挙され、26名が大逆罪で起訴、無関係者を含め24名が死刑を宣告され、翌年1月幸徳秋水・宮下太吉ら12名が処刑された。幸徳事件。 |
たいこうけんち | 太閤検地 | 1582年 (天正10)秀吉が、土地と農民を支配するために全国的に行った検地。これによって荘園制がなくなった。長さ・面積・量の単位を統一し、土地を収穫高(石高)で表し、耕作者を検地帳に登録した。 太閤・・・関白をやめたあとの尊称。 |
だいごふくりゅう | 五福竜丸事件 | 1954年(昭和29)ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験によって日本のマグロ延縄はえなわ漁船五福竜丸の乗組員が致死量に近い放射能を受けた事件。帰国後、乗組員の一人が死亡。原水爆禁止運動の発端となった。 |
たいしょう | 大正政変 | 1913年(大正2)憲政擁護運動で三次桂太郎内閣が倒された政変。 |
たいしょう | 大正デモクラシー | 第一次世界大戦後、民主主義の実現を求める大正デモクラシーがさかんになった。1916年(大正5)吉野作造は、天皇主権のもとで民主主義をめざす民本主義を主張した。 |
たいせいほうかん | 大政奉還 | 1867年(慶応3)10月14日、15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上(大政奉還)を申し出、朝廷はこれを受け入れた。265年間つづいた江戸幕府はほろび、鎌倉幕府から670年あまりにわたった武家政治も終わりをつげた。 |
たいせいよく | 大政翼賛会 | 1940年(昭和15)近衛文麿(このえふみまろ)らが中心となり、新体制運動推進のために結成した官製組織。全政党が解散し、これに加わった。同20年6月、国民義勇隊へ発展的解消。 |
たいせんけいき | 大戦景気 | 第一次世界大戦(1914~1918年)の間、日本は、連合国への軍需物資の供給やアジアへの輸出などで好景気になった。製鉄業・造船業の重工業のほか、商船不足から海運業も急速に発展、薬品などの化学工業もさかんになった。造船、海運業のにわかの発展にともなって、戦争成金があらわれた。 |
だいなごん | 大納言 | (奈良~平安時代)律令制で、太政官の次官。大臣と共に政事を議し、大臣不在の時は代行した。 |
だいにじしゃん | 第2次上海事変 | 1937年(昭和12年)8月13日上海で起こった日本・中国両軍の衝突事件。1937年(昭和12年)7月7日盧溝橋事件が勃発すると戦火は上海に拡大、8月13日日本海軍陸戦隊が中国軍の包囲攻撃を受けたため日本軍は大軍を増派してこれに対抗し11月上海を占領した。以後戦線は南京、武漢など中国全土に拡大していった。 |
だいにじせかい | 第二次世界大戦 | 1939年(昭和14)ドイツがポーランドを侵略し、イギリス・フランスが宣戦。世界は、枢軸国(日独伊など)と連合国(英仏米など)に分かれて戦った。 |
だいにじちょう | 第2次長州征伐 | 長州藩では、急進派の高杉晋作らが奇兵隊以下諸隊の軍事力を背景に打倒幕府の姿勢を示した。そのため、幕府は1866年4月、長州再征を行ったが、洋式の兵器を備えた長州軍を相手に苦戦し撤兵。以後、幕府の権威は急速に失われた。 |
だいにほん | 大日本帝国憲法 | 1889年(明治22)天皇が国民にあたえるという形(欽定憲法)で、大日本帝国憲法が発布された。君主権の強いプロシア(ドイツ)の憲法を手本につくられた。天皇主権で、国の統治権・陸海軍の統帥権など、強い権限をもった。国民の権利と自由は、法律の許す範囲で認められた。アジアで最初に立憲政治が実現した。 |
だいにほんし | 大日本史 | 江戸時代の歴史書。397巻。徳川光圀の命により、 1657年(明暦3)水戸藩が史局を設けて編纂に着手、 1906年(明治39)完成。神武天皇から後小松天皇までの歴史を漢文の紀伝体で記述。南朝を正統とし、幕末の勤王思想に大きな影響を与えた。 |
たいふ | 大夫 | (奈良~平安時代)律令制の職で坊(一集落)の長官。律令制で一位以下五位以上の称。転じて、五位の通称。 |
たいへいき | 太平記 | 1371年(建徳2)後醍醐天皇の倒幕計画以後の南北朝の対立についての軍記物語。40巻。作者は小島法師。 |
たいへいよう | 太平洋戦争 | 第二次世界大戦のうち、アジア・太平洋地域で行われた米英など連合国との戦争。1941年(昭和16)真珠湾攻撃によって始まり、初め日本優勢であったが、後半以降連合軍が優位に立った。1945年(昭和20)広島・長崎への原子爆弾投下とソ連の参戦によって日本がポツダム宣言を受諾、無条件降伏し終結した。大東亜戦争。 |
たいほうりつ | 大宝律令 | 701年(大宝1)文武天皇のときに完成した法典。「律」は今日の刑法、「令」は今日の行政法にあたる。藤原不比等らが、唐の律令を手本に編さんした。 |
だいほんえい | 大本営 | 明治以降、戦時または事変の際に、天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関。1893年(明治26)に定められ、のち常設の機関となって太平洋戦争の終末まで存続した。 |
たいらのまさか | 平将門の乱 | 平安中期の939年(天慶2年)関東で起こった反乱。一族争いで伯父を殺害した平将門は常陸(茨城)下野(栃木)上野(群馬)などの国府(地方行政府)を襲撃して朝廷に反抗するようになり、朝廷を模して文武百官を任命し自ら新皇と称したが、翌年平貞盛、藤原秀郷らに討たれた。承平天慶の乱。 |
だいれん | 大連 | 中国遼寧省南部の港湾都市。遼東半島の末端に近く、大連湾の南西岸。1898年(明治31)ロシアが租借してダルニーと命名、日露戦争後、日本の租借地。中華人民共和国成立後、旅順などを合わせて旅大市となる。1981年(昭和56)大連市と改称。外資進出による経済開発が著しい。 |
たいろう | 大老 | 江戸幕府で、将軍を補佐する最上位の職名。幕政全般を統轄する職。老中の上に非常の時に一人置かれた。 |
たかあまはら | 高天原 | 日本神話で、天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめ多くの神々が住んでいたとされる天上の世界。「根の国」「底つ国」に対する世界で、それらの中間に「葦原(あしはら)の中つ国」があるとされた。たかまがはら。 |
たかさご | 高砂 | 住吉の松と高砂の松が夫婦であるという伝説を素材とした能。世阿弥(1363~1443)作。天下泰平を祝う他、婚礼などの祝儀の席でよくうたわれる。 |
たかまつづか | 高松塚古墳 | 奈良県高市郡明日香村にある7世紀末か8世紀初めの円墳。男女の従者像や青竜・白虎・玄武・星座などの極彩色の壁画が1972年(昭和47)に発見された。国の特別史跡。 |
たけくらべ | たけくらべ | 樋口一葉作の短編小説。1895~96年(明治28~29)「文学界」に発表。吉原遊廓の裏手に住んだ作者の見聞に取材。吉原のお職大巻の妹、美登利が、竜華寺の信如少年に抱く淡い思慕を軸に、子供たちの世界を雅文調で流麗に描く。 |
たけしま | 竹島 | 島根県、隠岐島(おきのしま)の北西にある島。男島・女島と付近の礁からなる。二次大戦後、日韓がともに「固有の領土」と主張している。韓国名、独島(トクド)。 |
たけとり | 竹取物語 | 9世紀末~10世紀の初めごろに、かな文字で書かれた最初の物語。作者は不明。「かぐや姫」をめぐる伝説で、当時の貴族のようすがわかる。 |
だざいふ | 大宰府 | 九州の政治・外交・防衛をつかさどる役所。防人を管理し、663年(天智2)白村江の戦い後に水城がつくられた。 |
だじょうかん | 太政官 | (奈良~平安時代)律令制で、国政を総括する最高機関。政務審議部門として左大臣・右大臣・大納言、その事務局として少納言・外記・史生、行政執行・命令部門として弁官の3部門によって構成。 |
だじょうだいじん | 太政大臣 | (奈良~平安時代)律令制で、太政官の最高位にある官。職掌はなく、一種の名誉職。適任の人がなければ欠員とする制で、則闕そっけつの官ともいう。 |
たてあな | 竪穴住居 | 縄文~奈良時代にかけて人が住んでいた住居。地面を50cmほど掘り下げて床をつくり、柱を立てて草ぶきの屋根でおおったもの。4~8人くらいずつで住み、10数戸で集落をつくっていた。 |
だてそうどう | 伊達騒動 | 1671年(寛文11年)仙台藩に起こった御家騒動。1660年藩主・伊達綱宗が幕府から隠居を命ぜられ、亀千代(綱村)が二歳で家督を継ぎ、その後見役として藩政の実権を家老・伊達兵部、原田甲斐らが握ったが、保守派の重臣・伊達安芸らは、兵部らの失政を幕府に訴えた。1671年大老の裁きの席上、伊達安芸は原田甲斐に斬殺され、甲斐もその場で斬死、兵部は土佐藩にお預けとなった。 |
たまがわ | 玉川上水・箱根用水 | 玉川上水・・・17世紀半ば、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が、多摩川の水を江戸に引いた。箱根用水・・・17世紀後半、箱根の芦ノ湖の水を、富士山麓の深良村へトンネルで引いた。 |
たるかいせん | 樽廻船 | 江戸時代、大坂・江戸間の定期便船の一種。1673年(寛文13)酒樽を運送したのに始まり、幕末には菱垣廻船を圧倒した。たるぶね。 |
だんのうら | 壇ノ浦の戦い | 1185年(文治1)3月24日、長門壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将とし、激戦の後に平氏は全滅し、二位尼は安徳天皇を抱いて入水した。 |
ちあんいじほう | 治安維持法 | 国体の変革と私有財産制度の否認を目的とする結や行動を処罰するために定められた法律。1925年(大正14)制定、1941年(昭和16)全面的に改正。共産主義活動を抑圧するなど、思想弾圧の手段として濫用された。1945年廃止。 |
ちかてつさりん | 地下鉄サリン事件 | 1995年(平成7)3月20日、地下鉄日比谷線、千代田線、丸ノ内線の計5本の車内で、オウム真理教の幹部が猛毒のサリンを散布した事件。乗客や、ポリ袋を片付けた同駅の男性助役ら13人がを死亡し、6000人以上が重軽傷を負った。 |
ちそかいせい | 地租改正 | 1873年(明治6)富国強兵をすすめるため、財政の基礎をつくる必要があった。そこで地租改正にふみきり、地価(土地のねだん)を決め、地価の3%を地租(税)として現金で納めさせた。地租は収穫高に関係なく、政府の収入が安定、国家財政の基礎が固まった。 |
ちちぶじけん | 秩父事件 | 1884年(明治17)秩父地方の農民が困民党を組織し、自由党員とともに高利貸しへの返済延長や村民税の減税などを要求して蜂起した事件。武装した1万人近い農民が高利貸しを襲撃、郡役所・警察などを占領。軍隊の出動によって鎮圧された。 |
ちゅうぐう | 中宮 | 天皇の后(きさき)。律令制では皇后・皇太后(天皇の生母)・太皇太后(天皇の祖母)の居所をさし、転じてその総称となった。平安初期までは皇后の別称だったが、999年(長保1)一条天皇が藤原道長の娘彰子あきこを皇后とは別に中宮としてから、皇后以外の后の称となった。 |
ちゅうせい | 中世 | (1192年~1573年)歴史の時代区分の一つ。1192年武家政権(鎌倉幕府)の成立から、1573年室町幕府の滅亡まで。鎌倉時代(1192年~1333年)南北朝時代(1336~1392年)室町時代(1336年~1573年)戦国時代(1467年~1573年) |
ちゅうそんじ | 中尊寺金色堂 | 1124年(保安5)奥州藤原氏が平泉(岩手県)に建てた、阿弥陀堂建築物。 |
ちゅうなごん | 中納言 | (奈良~平安時代)律令制で、太政官の次官。大納言に次ぐもの。 |
ちょうさくりん | 張作霖爆殺事件 | 1928年(昭和3)張作霖が国民党軍の北伐に敗れて満州(中国東北部)にもどる途中、関東軍参謀河本大作らの工作によって奉天(現在の瀋陽)駅近くで列車を爆破され、死亡した事件。当時、日本国内では真相が隠されていたが、この事件で田中義一内閣は総職となった。 |
ちょうしゅう | 長州征伐 | (第一次)1864年(元治1)幕府は長州藩の攘夷即行の藩是、七卿落ちの擁護を怒り、蛤御門の変の問罪を名目として、征討軍を派遣した。たまたま長州では英・米・仏・蘭の連合艦隊が下関に来襲して藩内が危急に瀕したので、戦わずして恭順の意を表し、主謀者を処刑して謝罪した。 |
ちょうしゅう | 長州征伐 | (第二次)高杉晋作らの藩内強硬派は幕府の裁定を喜ばず、奇兵隊など諸隊を指揮して恭順党を一掃し、幕府に反抗したので、1866年(慶応2)幕府は再征したが、薩長連合・洋式軍隊のため連敗、勅命によって遂に軍を解いた。これにより幕府の権威は急速に失墜。 |
ちょうしゅうはん | 長州藩 | 長門、周防の2ヶ国(現在の山口県)を領有した外様藩。もとは戦国大名・毛利氏が、関ヶ原の戦いで西軍に加わり敗北、減封されて成立。幕末には尊王攘夷運動の拠点。第2次長州征伐に勝利し、薩摩藩とともに倒幕運動を進めた。明治政府で活躍した木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文などを輩出。 |
ちょうしゅん | 長春 | 中国吉林省の省都。松花江支流沿いにあり、鉄道が通り、交通の要地。自動車工業が盛ん。満州国時代は新京と称した。 |
ちょうせん | 朝鮮戦争 | 大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国との間の戦争。二次大戦後の米・ソの対立を背景として、1950年(昭和25)6月に南北朝鮮を分かつ北緯38度線付近で武力衝突し、それぞれ米軍を中心とする国連軍、中国義勇軍の支援のもとにほぼ朝鮮半島全域を戦場とした国際紛争。1953年7月、休戦協定が成立。朝鮮動乱。 |
ちょうせん | 朝鮮出兵 | 秀吉は、中国の明を征服しようと、朝鮮に案内を求めたが拒否された。1592年の文禄の役、1597年の慶長の役の2度にわたり出兵、苦戦したが、秀吉が病死したので兵を引きあげた。 |
ちょうへいせいど | 徴兵制度 | 1873年(明治6)に徴兵令を発布、20歳以上の男子は身分に関係なくすべて3年間の兵役につくことになった。近代的な軍隊制度が整った。 |
つうこうてがた | 通行手形 | 江戸時代、特定の場所の通行を許可する証として発行された書状。持参人の身元、旅行の目的(寺社参拝など)、関係諸官への便宜・保護要請、発行者の身分所在地などが記載されている。発行は、武士の場合は藩に申請し、庶民の場合は町役人または菩提寺に発行を申請した。 |
つうしゅう | 通州虐殺事件 | 1937年(昭和12)7月29日、日本の傀儡政権だった北京近郊の通州で起きた反乱事件。中国人部隊だった自治政府の保安隊が、日本軍通州守備隊や日本人居留民を襲撃し、日本人と朝鮮人200人以上を殺害した。日本国内で大々的に報道され、中国人への憎しみをあおり、戦争を拡大させる役割を果たした。 |
つきじしょう | 築地小劇場 | 1924年(大正13)土方与志(ひじかたよし)・小山内薫らが東京築地に創設した、日本最初の新劇専門劇場およびその劇団。翻訳劇・創作劇を実験的に上演した。劇団は1930年(昭和5)解散。劇場は1945年(昭和20)戦災で焼失。 |
つぼね | 局 | 江戸時代の女官の部屋。名の由来は壺のように間仕切りがあるため。転じてその住人である女官。 |
つれづれぐさ | 徒然草 | 鎌倉時代1330年(元徳2)の随筆。2巻。作者は兼好法師。「つれづれなるままに」と筆を起こす序段のほか、随想や見聞など243段より成る。名文の誉れ高く、枕草子と共に日本の随筆文学の双璧。 |
ていこくぎかい | 帝国議会 | 1890年(明治23)最初の衆議院議員の総選挙が行われ、帝国議会が開かれた。国民の選挙で選ばれた議員からなる衆議院と、皇族・華族の代表や天皇が任命した議員からなる貴族院の二院制。衆議院議員の選挙権は、満25歳以上の男子で、直接国税15円以上をおさめる者に限られた(国民の1%)。 |
ていこくしゅぎ | 帝国主義と国際対立 | 19世紀末から、帝国主義の政策をとる欧米先進国は、海外に原料と市場を求めて進出、軍事力を背景に植民地化を進め、英独仏露が対立。 ドイツは、1882年にオーストリア・イタリアと三国同盟を結び、海外進出に乗り出した。これに対抗して、露仏同盟、英仏協商に加え、1907年に英露協商が結ばれ、三国協商が成立した。 |
でじろ | 出城 | (戦国~安土桃山時代 1467~1603年)戦術的必要に応じて、中心となる城から離して設けた城。 |
てっき | 鉄器 | 木製農具をつくる工具として使われ、弥生時代後期には鉄の刃先をつけたくわやすきがつくられた。また、戦いのための武器にも使用され始めた。 |
てっぽう | 鉄砲の伝来 | 1543年(天文11)ポルトガル人の船が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた。 戦国大名の注目を集め、堺や近江などでさかんにつくられた。 鉄砲の影響・・・足軽の鉄砲隊による集団戦法にかわり、高い石垣や、鉄砲を打つ穴をあけた厚いかべの城がつくられるようになった。また、戦の勝敗が早く決まるようになり、天下統一が進んだ。 |
てらうけせいど | 寺受制度(宗門改め) | 江戸時代、すべての人を、檀家(だんか)としていずれかの寺に所属させ、宗門人別改帳に登録して、キリシタンでないことを証明させた。 |
てらこや | 寺子屋 | 江戸時代、農民や町民の子の教育施設。僧や浪人などが、読み・書き・そろばんなどを教えた。 |
てらだやじけん | 寺田屋事件 | 1862年(文久2)尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の宿屋寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件。寺田屋騒動。 |
てるあびぶじけん | テルアビブ事件 | 日本赤軍派によるテルアビブ国際空港での乱射事件。1972年(昭和47)5月30日午前5時フランス航空機でテルアビブ国際空港に到着直後、ソ連製自動小銃と手投げ弾で約300人の到着客に乱射、24人を殺害した。日本政府はイスラエルに派大使を派遣、佐藤首相の親を手渡して遺憾の意を伝えた。 |
てんしょうけん | 天正遣欧使節 | 1582年(天正10)九州のキリシタン大名、大村純忠・大友宗麟・有馬晴信の3名がローマ法王のもとに送った4人の少年使節。長崎を出港し、1585年(天正13)にローマ法王に謁見。1590年(天正18)活版印刷機などを携えて帰国し、豊臣秀吉に西洋音楽を披露した。 |
てんしんじょう | 天津条約 | ①アロー号事件の結果、1858年、英・仏・米・露4カ国と清との間に結ばれた条約。中国におけるキリスト教の信仰・布教の自由、港市の開放、国内旅行の自由などを定めた。 |
てんしんじょう | 天津条約 | ②1884年の朝鮮における甲申政変の翌年、全権大使伊藤博文が李鴻章と締結した日清間の条約。両国の朝鮮駐屯軍を撤退すること、以後朝鮮へ軍隊を派遣する必要ある時は両国互いに通知することなどを内容とする。 |
てんしんじょう | 天津条約 | ③ベトナムの宗主権をめぐって起こった清仏戦争の善後策として、1885年締結された条約。清はフランスのベトナム保護権を確認した。 |
てんそんこうりん | 天孫降臨 | 日本神話で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原(たかまがはら)から日向(ひゅうが)国の高千穂峰に天降(あまくだ)ったこと。 |
てんだいしゅう | 天台宗 | 法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、805年(延暦24)最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち、山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。 |
てんのうきかん | 天皇機関説 | 明治憲法の解釈において、主権は国家にあり、天皇は法人である国家の最高機関であるとする学説。美濃部達吉らが唱えたが、国体に反する学説として非難され、1935年(昭和10)国体明徴問題を引き起こした。 |
でんぱたえいたい | 田畑永代売買禁止令 | 江戸幕府が 1643年(寛永20)に発布した田畑の永代売買を禁じた法令。農民所持の田畑の移動・集中を防止する目的で出されたが、質入れ・質流れによる実質的な土地移動は行われた。明治5年(1872)廃止。 |
てんぴょうじだい | 天平時代 | (710~794年)710年元明天皇の平城京(奈良)遷都から、794年桓武天皇の平安京(京都)遷都まで。聖武天皇の天平年間(729~749年)が最盛期。遣唐使が中国から伝えた文化の影響を受け、東大寺の正倉院、法隆寺の夢殿など貴族を中心とした仏教文化が栄えた。また749年(天平21)万葉集がまとめられた。 |
てんぽう | 天保の改革 | 1841年(天保12)~1843年、老中水野忠邦が、質素・倹約を奨励し改革。 株仲間の解散・・・米や諸物価を下げる。 人返し令・・・農民が都市に行くことを禁じ、田畑の荒廃をふせいだ。上知令・・・江戸・大阪周辺の大名領などを幕府の直轄領に。(結果)厳しすぎて猛反対にあい、2年余りで失脚した。 |
てんぽうつうほう | 天保通宝 | 1835年(天保6)以降鋳造した楕円形の銅銭。裏面には「当百」の文字を記す。1枚を100文(実際には80文)に通用したが、明治以後は8厘となり、明治24年(1891)廃止。 |
てんぽうのききん | 天保の飢饉 | 1833年(天保4)~1836年、長雨・洪水・冷害によって起こった全国的な飢饉。米価が暴騰し、餓死する者が多く、幕府の救済した者は前後70万余人に及び、また、一揆・打ちこわしが各地に発生して幕藩体制の衰退が進んだ。 |
てんめいのききん | 天明の飢饉 | 1782年(天明2)~1787年に起こった大飢饉。特に同3年浅間山噴火の影響でおきた冷害による奥羽地方の飢饉は多数の餓死者を出し、このため各地に一揆・打ちこわしが起き、幕府や諸藩の支配は危機に陥った。 |
てんりきょう | 天理教 | 教派神道の一つ。1838年(天保9)中山みきが創唱。親神おやがみの天理王命てんりおうのみことを祀り、欲など八つの悪い心を捨てて神にもたれ、「陽気ぐらし」の理想世界を建設することを教旨とする。本部は奈良県天理市にあり、親神が人間世界を創造した聖地とする。 |
とうかいどう | 東海道五十三次 | 江戸時代、江戸日本橋から京都三条大橋に至る間にあった53の宿駅。この街道筋の風物を描いた歌川(安藤)広重・葛飾北斎らの版画(1833年 天保4)は有名。 |
とうかいどう | 東海道中膝栗毛 | 滑稽本。十返舎一九作。初版本は初編から8編までに発端を加えて18冊。1802~09年(享和2~文化6)刊。発端のみ14年刊。弥次郎兵衛と喜多八が随所に失敗や滑稽を演じつつ東海道・京・大坂を旅する道中記。のち20年にわたり続編を出す。本称「道中膝栗毛」または「膝栗毛」 |
とうがくとう | 東学党の乱 | 1894年3月、李氏朝鮮の末期に起こった新興宗教「東学」の信徒を中心とした農民の反乱。鎮圧のため朝鮮政府は清国に派兵を要請、日本も出兵して乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。甲午(こうご)農民戦争。 |
とうきょう | 東京大空襲 | 1945年(昭和20)3月10日未明、米軍のB29爆撃機約300機による東京への大規模な空襲。死者約10万人、焼失家屋は27万戸に達し、下町一帯は焦土と化した。 |
とうきょうさい | 東京裁判 | 二次大戦後、ポツダム宣言に基づき、東京に置かれた極東国際軍事裁判所で、日本の主要な戦争犯罪人に対して行われた裁判。1946年(昭和21)~1948年まで審理が行われ、死亡・精神異常による免訴3名を除く被告25名全員が有罪とされ、うち東条英機ら7名は絞首刑。極東国際軍事裁判。 |
とうきょうろーず | 東京ローズ | 1943年(昭和18)3月から1945年(昭和20)8月まで太平洋戦線のアメリカ軍向けに放送された諜報番組「ゼロ・アワー」の女性アナウンサーに付けられたニックネーム。複数いた女性アナウンサーの中で、戸栗郁子が最も著名。ミッドウェー海戦の前後から沖縄戦にかけて、若い兵士に人気の的になった。 |
とうこいせき | 唐古遺跡 | 奈良県磯城(しき)郡田原本町の唐古池を中心とする弥生時代の遺跡。豊富な木製農具の出土によって稲作農耕の存在を実証した。近畿地方弥生土器の変遷を知る上でも重要。からこいせき。 |
とうごく | 東国 | 相模(神奈川)・武蔵(東京・埼玉)・安房(千葉)・上総(千葉)・下総(千葉・茨城)・常陸(茨城)・上野(群馬)・下野(栃木)の八カ国。関八州。 |
とうしょうぐう | 東照宮 | 徳川家康を祀った神社。別称、東照大権現。家康は1616年(元和2)に没し久能山に埋葬、翌年日光に改葬。 |
どうしん | 同心 | (江戸時代)町奉行に付属し、与力の下にあって庶務・警察の事をつかさどった下級の役人。 |
とうすいけん | 統帥権干犯問題 | 1930年(昭和5)浜口雄幸内閣のロンドン海軍軍縮条約調印をめぐる政治問題。海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものだとして、右翼や政友会は同内閣を攻撃した。 |
どうたく | 銅たく | 弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器。高さは、10cm~1m。面に狩り・もみつき・家などの絵が描かれているものがあるが、何に使われたものかよくわかっていない。 |
どぐう | 土偶 | 縄文時代につくられた20cmくらいの土の人形。家族の繁栄やえものがとれるように祈ったりするための、まじないに使われたと考えられている。女性の像が多い。 |
とさにっき | 土佐日記 | 日本で最初の仮名文日記。1巻。紀貫之作。土佐国守の任期が満ちて、934年(承平4)12月21日出発、翌年2月16日京の旧宅に入るまでの旅を、女性に仮託して仮名文で書いたもの。 |
とさはん | 土佐藩 | 高知県を本拠地とした外様藩。関ヶ原の戦い後、山内一豊が20万2600石で入封。以後山内氏が幕末まで16代にわたり藩主をつとめた。江戸初期の南学者・野中兼山、幕末から明治期に活躍した坂本竜馬、板垣退助、岩崎弥太郎などの人材を輩出している。 |
とざまだいみょう | 外様大名 | 江戸幕府で、徳川氏の家門またはその本来の家臣でなく、主として関ヶ原の戦後に臣従した諸大名。 |
どっじらいん | ドッジライン | 1949年(昭和24)日本経済の自立と安定とのために、GHQ経済顧問ジョセフ・ドッジによって立案・勧告され実施された財政金融引き締め政策。(Dodgeline) |
とばふしみの | 鳥羽・伏見の戦い | 1868年(慶応4年)1月、薩摩藩は、江戸市中を攪乱し旧幕府側を挑発。これに憤激した旧幕府側は、大坂城から京都に向かい攻撃したが、鳥羽と伏見(京都)で新政府軍(薩長)に敗退、徳川慶喜は江戸に敗走。戊辰戦争の発端となる。 |
とよあしはら | 豊葦原の水穂の国 | 日本国の美称。豊かな葦原にあるみずみずしい稲の穂が実っている国の意。 |
とらのもんじけん | 虎ノ門事件 | 1923年(大正12)無政府主義者の難大助が摂政宮裕仁(ひろひと)親王を、虎ノ門付近で狙撃した事件。山本権兵衛内閣は責任をとって総職した。 |
とりい | 鳥居 | 神社の神域を象徴する一種の門。2本の柱の上に笠木(かさぎ)を渡し、その下に貫(ぬき)を入れて柱を連結したもの。笠木の下に島木(しまぎ)のある明神鳥居の系統と、島木のない神明(しんめい)鳥居の系統に大別される。 |
どるしょっく | ドルショック | 1971年(昭和46)8月アメリカ大統領ニクソンによって発表された金・ドル交換停止などを内容とする新経済政策により世界経済が深刻な衝撃を受けた事件。ニクソンショック。 |
とろいせき | 登呂遺跡 | 静岡県にある弥生時代の代表的な遺跡。竪穴住居・高床式倉庫などの集落あとで、水田・あぜ道・水路・木製農具などが発見された。 |
ながおかきょう | 長岡京 | 桓武天皇の初めての都。784年(延暦3)平城京から移ったが、遷都を首唱した藤原種継が暗殺されたりしたため、794年平安京に移った。 |
ながしの | 長篠の戦い | 1575年(天正3)三河の長篠城を包囲した武田勝頼の軍と、織田信長・徳川家康の連合軍とが設楽原(しだらがはら)で行った戦い。鉄砲の使用により、連合軍が圧勝した。 |
ながたじけん | 永田事件 | 1935年(昭和10)8月、陸軍中佐相沢三郎が陸軍省軍務局長永田鉄山を刺殺した事件。陸軍省内部の皇道派と統制派の対立によるもので、翌年の二・二六事件の前触れとなった。 |
なぬし | 名主 | (奈良~室町時代)有力な農民は,、土地に自分の名前をつけ(名田)、その所有者となった(名主)。小農民を支配して豪族に成長する者もあった。 |
なまむぎじけん | 生麦事件 | 1862年(文久2)8月21日、島津久光の行列が生麦にさしかかった際、イギリス人4人が騎馬のままで行列に遭遇し、怒った従士が殺傷した事件。翌年イギリス軍艦の鹿児島砲撃(薩英戦争)の原因となったが、幕府は責任を負い、償金10万ポンドをイギリスに支払った。 |
ならじだい | 奈良時代 | (710年~794年)710年元明天皇の平城京(奈良)遷都から、794年桓武天皇の平安京(京都)遷都まで。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代八十余年間。 |
ならのだいぶつ | 奈良の大仏 | 東大寺大仏殿にある同寺の本尊。華厳経の教主毘盧舎那仏びるしゃなぶつの金銅坐像で、高さ14.85m。聖武天皇の発願により749年(天平1)鋳造完了。752年開眼供養。 |
なんきは | 南紀派 | 江戸時代後期に13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を将軍継嗣に推した一派。 |
なんきんじけん | 南京事件 | 日中戦争初期の1937年(昭和12)南京を占領した日本軍による、中国軍捕虜や一般市民に対する大規模な略奪・暴行・虐殺事件。 |
なんそうさとみ | 南総里見八犬伝 | 読本よみほん。曲亭馬琴作。全9輯106冊。室町時代、安房の武将里見義実の女むすめ伏姫ふせひめが八房やつぶさという犬の精に感じて生んだ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳の玉をもつ八犬士が、里見氏勃興に活躍する伝奇小説。1814~42年(文化11~天保13)刊。 |
なんばんぶんか | 南蛮文化 | (室町~江戸時代)南蛮貿易やキリスト教の布教を通じて伝えられたヨーロッパの文化。 活版印刷機で印刷した、ローマ字の書物(キリシタン版)、医学、天文学、航海術など。南蛮屏風。 |
なんぼくちょう | 南北朝時代 | (1336~1392年)京都の朝廷(北朝)と吉野の朝廷(南朝)がならびたった時代。 1392年、足利義満が南北朝を合一し、約60年間続いた南北朝時代は終わった。 |
にこうじけん | 尼港事件 | シベリア出兵中の1920年(大正9)ソ連のパルチザンが尼港で日本人捕虜などを殺害した事件。日本の世論は激高し、日本軍は事件解決まで北樺太(からふと)を保障占領した。 |
にじょうかわら | 二条河原の落書 | 1334年(建武1)建武の新政を批判した落書で、京都の二条河原にかかげられた。 |
にだたい | 荷駄隊 | (戦国~安土桃山時代 1467~1603年)戦のために必要な兵粮や弾薬、陣地設営道具などを運ぶための人夫・駄馬、及びそれを率いる部隊。 |
にちえいどうめい | 日英同盟 | ロシアは満州・朝鮮へ勢力をのばし、日本にとって大きな脅威となった。1902年(明治35)日本はイギリスと軍事同盟(日英同盟)を結んで、ロシアの進出にそなえた。 |
にちどくい | 日独伊防共協定 | 1937年(昭和12)共産主義に対する防衛を目的とし、ローマで調印された日本・ドイツ・イタリア三国の協定。前年の日独防共協定にイタリアが参加したもの。のち三国同盟に発展。 |
にちどくいさん | 日独伊三国軍事同盟 | 1940年(昭和15)日本・ドイツ・イタリアは、軍事同盟で結びつきを強め、日本とアメリカの対立が深まった。 |
にちべいあんぜん | 日米安全保障条約 | 1951年(昭和26)9月サンフランシスコ講和条約調印と同時に締結された日米間の条約。講和後も米軍が安全保障のため日本に駐留し、また日本が基地を提供することを定めた。1960年に改定、軍事行動に関して両国の事前協議制等を追加。1970年(昭和45)から自動延長安保条約。安保条約。 |
にちべいしゅうこう | 日米修好通商条約 | 1858年(安政5)大老の井伊直弼とアメリカ総領事ハリスが日米修好通商条約を結び、函館・神奈川・長崎・新潟・兵庫の5港を開いた(下田は閉鎖)。アメリカの治外法権を認め、日本に関税自主権のない不平等な条約だった。つづいて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同じような修好通商条約を結んだ。 |
にちべいわしん | 日米和親条約 | 1854年(安政1)ペリーが再び来航し、幕府に強く回答を求めた。幕府はやむなく日米和親条約を結び、下田(静岡県)・函館(北海道)を開港した。これによって、約200年間の鎖国が終わった。 |
にちまん | 日満議定所 | 1932年(昭和7)日本と満州国との間で結ばれた協定。満州国は領土内の日本の権益を尊重し、日本軍の駐留を認めることなどが規定された。国際連盟のリットン報告の公表に先立って行われた。 |
にちみんぼうえき | 日明貿易(勘合貿易) | 1404年(応永11)足利義満は、貿易による利益により、幕府財政を救おうとした。 倭寇の取りしまりを条件に、明と貿易をはじめ、国書に「日本国王臣源」と書き、明の属国の形式をとった。倭寇と区別するために、勘合符を用いた。 |
にちれんしゅう | 日蓮宗 | 日本仏教十三宗の一つ。1253年(建長5)日蓮を祖とする。法華経を所依とし、教義は教・機・時・国・序の五綱教判と本尊・題目・戒壇の三大秘法とを立て、即身成仏・立正安国を期す。 |
にちろせんそう | 日露戦争 | 満州と朝鮮をめぐる対立から、1904年(明治37)日露戦争がおきた。日本軍は旅順・奉天の戦いで勝利。 日本海海戦で、東郷平八郎ひきいる海軍がロシアのバルチック艦隊を破った。一部の国民は戦争に不安をもち、孝徳秋水や内村鑑三らが戦争に反対、与謝野晶子は出征した弟を心配する詩をよんで国民の心をとらえた。 |
にっかん | 日韓議定書 | 1904年(明治37)日露開戦から2週間後に韓国に強要した約定。三国からの韓国の保護を名分として韓国内での日本軍の行動の自由を獲得、韓国併合への一歩をなしたもの。 |
にっかんへいごう | 日韓併合 | 日露講和条約で韓国に対する優越権を認められると、韓国を保護国とし、伊藤博文を統監府の長官として派遣し、外交・軍事などを日本の手におさめ、1907年(明治40年)には政権もにぎった。これに対して、韓国民衆の抵抗が盛んになり、1909年(明治42年)伊藤は満州のハルビンで、朝鮮の独立運動家、安重根によって暗殺された。1910年(明治43年)日本はこれを機会に、武力を背景とし、韓国(大韓帝国)を日本の植民地とする条約を締結させた。内容は、韓国皇帝が統治権を日本の天皇に譲与するというものであった。日本から見れば、自国の安全保障上、朝鮮半島の安定化は必要であったが、韓国としては国が消滅する危機感をもった。独立運動も、その後止むことはなかった。 |
にっしんせんそう | 日清戦争 | 日本が朝鮮半島に進出し、朝鮮を属国とみなしていた清国と対立した。1894年(明治27)朝鮮で外国勢力の追放をめざす農民が、東学党という宗教団体と結んで兵をあげた(東学党の乱)。日本と清が出兵して対立を深めた。1894年、日清戦争がおこり、日本軍の連戦連勝ですすみ、清国が降伏、講和を申しいれた。 |
にっしんせんそう | 日清戦争前の外交 | 日清修好条規・・・1871年(明治4)日本と中国が対等の条約を結んだ。征韓論・・・西郷隆盛らが主張し、朝鮮を武力ででも開国させようとした。日朝修好条規・・・1876年(明治9)日本は朝鮮に不平等な条約(江華条約)をおしつけ、開国させた。 |
にっそちゅうりつ | 日ソ中立条約 | 1941年(昭和16)4月、日本とソ連との間で相互不可侵と相互中立を定めた条約。同年7月、日本は関特演(関東軍特種演習)と称してソ満国境に進軍し、この条約を無視。一方、有効期限内の同1945年、ソ連は廃棄を通告、対日参戦した。 |
にっちゅう | 日中共同声明 | 日本と中国との戦争状態を終結させ、国交を正常化したことを発表した声明。1972年(昭和47)調印。日本側は中華人民共和国を中国の唯一の政府と承認、中国側は戦争賠償請求権を放棄した。 |
にっちゅう | 日中戦争 | 1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけにして起こった日本と中国との間の戦争。はじめ日本政府は支那事変あるいは日支事変とよび、宣戦布告も行わなかったが、戦線は全中国に拡大、太平洋戦争に発展した。日華事変。 |
にっぽんえいたい | 日本永代蔵 | 浮世草子。井原西鶴作。6巻6冊。1688年(貞享5)刊。各巻5章、30話。町人たちの致富に対するたくましい意欲と盛衰の物語。町人物の初め。 |
にっぽんこく | 日本国憲法 | 1946年(昭和21)11月3日に日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行された。国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の三原則。天皇は、日本国や日本国民の象徴とされた。 |
ににろくじけん | 二・二六事件 | 1936年(昭和11)2月26日、陸軍の青年将校らが国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクーデター事件。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清らを殺害、永田町一帯を占拠。翌日戒厳令公布。29日に無血で鎮定。事件後、粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は著しく強化された。 |
にひなめさい | 新嘗祭 | 天皇が新穀を天神地祇(ちぎ)に供え、みずからもそれを食する祭儀。古くは陰暦11月の中の卯(う)の日、明治6年(1873)以降は11月23日と定めて祭日としたが、昭和23年(1948)からは「勤労感謝の日」となり、国民の祝日となっている。 |
にほんかい | 日本海海戦 | 1905年(明治38)5月27日から翌日にかけて行われた日露戦争中最大の海戦。日本海対馬(つしま)沖で、東郷平八郎司令長官の率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊に壊滅的打撃を与えた。 |
にほんしょき | 日本書紀 | 720年(養老4)に完成した、神代から持統天皇に至る天皇中心の国家成立史。舎人親王・太安万侶らが中心になって編さんした。 |
にほんせきぐん | 日本赤軍 | 共産主義者同盟赤軍派から分かれて海外で武装闘争を展開した新左翼系の組織。海外に根拠地を求めてレバノンに出国したメンバーらが1972年(昭和47)に結成。同年のテルアビブでの国際空港乱射事件をはじめ、1980年代にかけて中東・欧州・東南アジアで各国大使館への襲撃や航空機ハイジャックなどを繰り返した。 |
にほんまち | 日本町 | 室町~江戸時代初期、朱印船の活動にともなって、東南アジアに移住する日本人がふえ、日本町ができた。山田長政(~1630)は、シャム(タイ)のアユタヤの日本町の長となり、国王にも重く用いられた。 |
にほんれっとう | 日本列島のなりたち | 1万年以上前の日本列島は、大陸と陸続きだった。野尻湖(長野県)からナウマン象の化石。今から約1万年前に大陸から切り離され、現在の日本列島のようになった。 |
ねんぐ | 年貢 | 江戸時代、検地帳に登録された農民(本百姓)は、領主に年貢を納める義務があった。 年貢は米で納めるのが原則で、収穫高の4割前後(四公六民)、5割前後(五公五民)など、藩によって、年によってちがいがあった。 |
のうそんのしくみ | 農村のしくみと生活 | 江戸時代、農業技術の進歩・・・備中ぐわなどの農具の発達と、油かす、ほしかなどの肥料。農村のしくみ・・・有力な本百姓から名主(庄屋)、組頭、百姓代などの村役人を選ばせた。本百姓と水呑百姓・・・本百姓は地主・自作農で、年貢を納めた。水呑百姓は土地を持たない小作人で、検地帳には記載されなかった。 |
のうちかいかく | 農地改革 | 農地制度を改革すること。1945年(昭和20)GHQの指令で行われた農地制度改革をさす。不在地主の小作地全部と、在村地主の小作地のうち都府県で平均1町歩(約1ヘクタール)、北海道で4町歩を超える分を国が買い上げ、小作農民に売り渡した。この改革によって、小作地の80%(190万町歩余)が解放された。 |
のうみん | 農民の生活 | (鎌倉~室町時代)草や木の灰を肥料にし、牛や馬を耕作に使い、米と麦を作る二毛作がはじまった。農民は、荘園領主と地頭から年貢や労役を課せられ、二重支配に苦しんだ。地頭の横暴に対しては、団結して反抗することもあった。 |
のもんはんじけん | ノモンハン事件 | 1939年(昭和14)5~9月、中国東北部とモンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地ノモンハン(Nomonhan)で起こった、日本とモンゴル軍の衝突事件。ソ連軍の応援により日本軍は大敗し、対ソ開戦論は後退した。ハルハ河戦争。 |
のるまんとんごう | ノルマントン号事件 | 1886年(明治19)英国船ノルマントン号が和歌山県沖で難破した際、船長以下の英国人船員は避難し、日本人乗客25名が全員死亡した事件。治外法権下の英国領事裁判が船長を無罪としたため、不平等条約に対する日本国民の憤懣は高まった。 |
はいにちうんどう | 排日運動 | 三・一独立運動・・・1919年に、朝鮮で独立運動がおこったが、日本に鎮圧された。五・四運動・・・1919年に、中国で講和条約と21か条の要求に反対する運動がおきた。 |
はいはんちけん | 廃藩置県 | 版籍奉還の後も旧藩主と人民との間には、以前と同じような領主と領民の関係が続き、政府が直接支配ができなかった。そこで、1871年(明治4)藩を廃止して新しく府や県をおき、政府から府知事・県令が任命された。新政府のもとに全国が統一され、中央集権国家の土台ができた。 |
はかい | 破戒 | 長編小説。島崎藤村作。1906年(明治39)刊。被差別部落出身の小学校教師瀬川丑松うしまつが、父の戒めを破って自分の素姓を告白し、周囲の因襲と戦う苦悩を描く。日本自然主義文学の先駆。 |
はかいかつどう | 破壊活動防止法 | 暴力主義的破壊活動を行う団体に対する規制措置を定めるほか、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補い、公共の安全を確保することを目的とする法律。1952年(昭和27)施行。破防法。 |
はくおうじだい | 白鳳時代 | (645~710年)文化史上の時代区分。645年(大化1)大化の改新から、710年(和銅3)元明天皇の平城京(奈良)遷都まで。法隆寺金堂の壁画・薬師寺東塔など律令国家建設期の明るく力強い仏教文化が栄えた。 |
はくそんこう | 白村江の戦い | 663年(天智2)白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は、660年に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は完全に滅んだ。 |
ばくふ | 幕府 | (鎌倉~江戸時代)もと、将軍は軍旅の際に幕中で事を治めたことから、将軍の居所または陣営を指す。後に、武家政治の政庁、また、武家政権そのものを指すようになった。 |
はこだてせんそう | 箱館戦争 | 1868年(明治1年)12月、榎本武揚ら旧幕軍の一部は、箱館五稜郭を占拠し、事実上の独立政権を作り新政府に抵抗したが、翌年攻撃を受け、5月に降伏。戊辰戦争の最後の戦いとなった。五稜郭の戦い。 |
はしはか | 箸墓古墳 | (奈良県桜井市)全長約280mの前方後円墳。宮内庁が第7代孝霊天皇の皇女の墓として管理。巨大古墳の中で最も古く、様々な年代測定法で土器の年代が見直され、卑弥呼の没年と重なる3世紀中ごろに築かれた古墳とみる研究者も増えている。2013年(平成25)出土。 |
はたもと | 旗本 | 江戸時代、将軍直属の家臣のうち、石高が1万石未満の武士で将軍に謁見する資格のある者。 |
はちまんしん | 八幡神 | 八幡宮の祭神。第15代応神天皇を主座とし、左右に比売(ひめ)神、神功(じんぐう)皇后を配して三座で一体とする。古くは皇室の祖神、また源氏の氏神として信仰され、のち、武家の守護神となった。日本全国で、広く祀られている。八幡大菩薩。 |
はちろぐん | 八路軍 | 中国の抗日運動期に華北で活動した中国共産党軍。1937年8月の二次国共合作による抗日統一戦線によって編制され、抗日戦の主力となった。日中戦争後、新四軍と合体し人民解放軍と改称。 |
はにわ | 埴輪 | 古墳の上やまわりにならべられた素焼きの土器。筒(つつ)型や、人物・動物・家・船などの形をしたものがある。 |
はまぐりごもん | 蛤御門の変 | 1864年(元治1)7月、長州藩が形勢挽回のため京都に出兵、京都守護職松平容保かたもりの率いる諸藩の兵と宮門付近で戦って敗れた事件。禁門の変。 |
ばるちっく | バルチック艦隊 | バルト海に根拠地を置いた、ロシア帝国の主力艦隊。日露戦争のときに東洋に回航され、1905年(明治38)5月の日本海海戦で日本連合艦隊に撃滅された。(Baltic Fleet) |
はるぴんじけん | ハルビン事件 | 伊藤博文狙撃暗殺事件。韓国統監を任して枢密院議長の地位にあった伊藤博文は日韓併合についてロシアと交渉することになり1909年(明治42)10月26日、ロシアの特別列車でハルビンに到着。ロシア軍隊を閲兵するためホームのなかほどまで来たところを朝鮮人の民族主義者安重根にピストルで狙撃された。 |
ばんしゃのごく | 蛮社の獄 | 1839年(天保10)5月に起きた言論弾圧事件。1837年(天保8)日本人の漂流民を助けたアメリカの商船モリソン号が浦賀に来航した際、幕府は砲撃して追い返した。この幕府の態度を批判した渡辺崋山や高野長英らが罰せられた。 |
はんしんだい | 阪神大震災 | 1995年(平成7)1月17日早朝に発生。神戸・阪神地域や淡路島を中心に6434人が死亡、住家は約24万9千棟が全半壊した。「六甲アイランド」の3校があった神戸市東灘区は1470人が死亡、約1万9千棟が全半壊した。 |
はんせきほうかん | 版籍奉還 | 1869年(明治2)藩主の土地(版)と人民(籍)を天皇に返させ、旧藩主を知藩事に任命した。 薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前)の4藩主がまず行い、その他の藩主もつぎつぎにこれにならった。 |
はんでんしゅう | 班田収授法 | 701年(大宝1)~902年(延喜2)大宝律令にもとづき、国家から農民に田が貸し出される制度。戸籍に書かれた6歳以上の男女に与えられ、男子は2段たん、女子はその3分の2で、死後は国に返還する。9世紀になると、戸籍をいつわり、開墾による私有地が増えたため、廃止になった。 |
ぴーけーおー | PKO協力法 | 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律。1992年(平成4)制定。国際連合平和維持活動(PKO)および人道的な国際救援活動に協力するための実施体制等について定める。 |
ひがきかいせん | 菱垣廻船 | 江戸時代、江戸・大坂間の定期貨物船。積み荷が落ちないよう、左右の船べりにさくのように立てた垣立(かきたつ)をひし形に組んだのでこの名がある。江戸で用いる木綿・油・酒などの日用品や幕府・諸藩の荷物の運送に当たり、公の保護を受けていた。江戸末期には樽廻船に圧倒されて衰退。 |
ひがしにほんだい | 東日本大震災 | 2011年(平成23)3月11日午後2時46分、三陸沖の海底を震源とする東日本大震災が発生。最大震度7の強い揺れと国内観測史上最大の津波を伴い、死者・行方不明者はあわせて1万9千人以上、建物は全壊・半壊あわせて38万戸以上という甚大な被害となった。 |
ひがしほんがんじ | 東本願寺 | 京都市下京区烏丸通七条にある真宗大谷派の本山。1602年(慶長7)徳川家康の後援で教如きょうにょが西本願寺から分かれて創立。現在の堂宇は1895年(明治28)落成。大谷派本願寺。大谷本願寺。烏丸本願寺。 |
ひとつばしは | 一橋派 | 江戸時代後期に13代将軍徳川家定の後継を巡る安政の将軍継嗣問題において、紀州徳川家の徳川慶福(後の14代将軍徳川家茂)を将軍継嗣に推した一派。 |
ひびややきうち | 日比谷焼打事件 | 1905年(明治38)9月5日、頭山満・河野中らが主催した日比谷公園のポーツマス講和条約反対国民大に集まった民衆が、警察署・国民新聞・内相官邸などを焼き打ちした暴動事件。翌日戒厳令がしかれた。 |
ひめゆりぶたい | ひめゆり部隊 | 二次大戦末期の1945年(昭和20)米軍との沖縄戦で従軍看護要員として動員され、戦死した沖縄師範女子部と沖縄県立一高等女学校の生徒・職員のこと。両校の校章が白ゆりで、高等女学校の校友雑誌が「おとひめ」であったことから戦後につけられた名称。ひめゆり学徒隊。 |
ひゃくしょう | 百姓一揆・打ちこわし | (江戸時代)百姓一揆・・・農民が年貢の軽減や村役人の不正などをうったえて、集団で領主に反抗した。打ちこわし・・・都市部で、町人や農民が集団で米屋や大商人をおそい、家屋や家財を破壊した。 |
びゃっこたい | 白虎隊 | 1868年(慶応4)3月、戊辰戦争の際、会津藩が16、7歳の藩士子弟によって組織した少年決死隊。隊員数は300余名。8月、新政府軍との戦いに敗れて飯盛山まで後退したとき、若松城の方角に黒煙のあがるのを見て落城と思い誤り、生き残った20人が自刃した。 |
ひょうじょう | 評定衆 | 鎌倉・室町幕府の職名。1225年(嘉禄1)制定。鎌倉幕府では執権北条氏の指導下にあった政治と裁判の最高議決機関。室町幕府では次第に形骸化してその機能を失った。 |
ひょうじょうしょ | 評定所 | 江戸幕府最高の裁判所。老中および三奉行(寺社・町・勘定)が大目付・目付の立合いのもとで、重要な裁判・評議を行なった。 |
びょうどういん | 平等院鳳凰堂 | 1053年(永承8)藤原頼通が宇治に建てた阿弥陀堂。本尊の阿弥陀如来像は、仏師・定朝(じょうちょう)作の平安時代を代表する彫刻。 |
ひんきゅう | 貧窮問答歌 | 天平3年(731年)山上憶良(660~733)がつくった歌で、「万葉集」にある。律令制度下の、貧しく苦しい農民の生活をうたっている。 |
ふうしかでん | 風姿花伝 | 能楽書。1402年(応永9)世阿弥の最初の著書。能の修業・演出等に関する広範囲の内容を含む。年来稽古条々・物学ものまね条々・問答条々・神儀・奥義・花修・別紙口伝の7編から成る。花伝書。花伝。 |
ふぇーとんごう | フェートン号事件 | 1808年(文化5)8月、イギリス軍艦フェートン(Phaeton)号が長崎港に侵入した事件。ナポレオンの支配下に入ったオランダ船拿捕だほが目的で、港内を捜査し、薪水・糧食を強要したのち去った。長崎奉行松平康英は責を負って自刃。異国船打払令発布の一因となった。 |
ふがくさんじゅう | 富嶽三十六景 | 葛飾北斎画の浮世絵版画の揃物。富士山を主題とし、全46図。1831年(天保2)刊行開始。「凱風快晴」(通称「赤富士」)「神奈川沖浪裏」は特に著名。 |
ぶぎょう | 奉行 | 江戸時代、主君などの命を受けて(一般には、行政関係の執行を)指揮したり監督すること。また、その人。 |
ふくしまじけん | 福島事件 | 1882年(明治15)福島県の自由党員や農民が弾圧された事件。県議長河野中ら自由党員が、県令三島通庸(みしまみちつね)の県無視の施政に反対して対抗。津の農民が道路建設の夫役に反対して警官と衝突した際、河野らも検挙され、国事犯に問われた。 |
ふくしまだいいち | 福島一原子力発電所 | 2011年(平成23)の東日本大震災に伴う大津で冷却装置などを稼働させる電源が失われ、1~4号機に重大な損傷が発生し、周辺に放射性物質などが撒き散らされた。 |
ふくしょうぐん | 副将軍 | 徳川御三家の一角である水戸藩主の俗称。他の大名と異なり、参勤交代せずに常に江戸に留まる定府が義務付けられていたこと、将軍の補佐役としての色彩が強かったことなどからこのように呼ばれた。 |
ふくそうひん | 副葬品 | 玉・鏡・首かざり・武器など、古墳の埋葬者にそえておさめたもの。副葬品から、当時の人々の風俗や生活のようすがわかる。 |
ふくへい | 伏兵 | 敵の不意を襲うために待ち伏せしている軍勢。 |
ぶけしょはっと | 武家諸法度 | 1615年(元和1)大名を取りしまるために定めた。将軍の代替わりごとに発せられ、違反者はきびしく罰せられた。 |
ふじがわ | 富士川の戦い | 1180年(治承4)源頼朝の軍と、追討のため京都から下向した平維盛(たいらのこれもり)らの軍が、富士川を挟んで行った合戦。平氏軍は水鳥の羽音を敵の襲来と誤認して敗走したという。 |
ぶしだん | 武士団 | (10~11世紀)私有地を広げていった豪族や有力な名主は、自分の土地や財産を守るため、家来に武芸を習わせた。やがて、地方に住みついた貴族などと主従関係を結び、武士団を形成していった。 |
ふじのきこふん | 藤ノ木古墳 | 奈良県斑鳩にある6世紀後半につくられた円墳。玉、銅鏡、装身具など多くの副葬品が発見された。1985年(昭和60)出土。 |
ぶしのせいかつ | 武士の生活 | 武士はもともと農業を行う開発領主だったから、ふだんは農村の自分の領地に住み、農業を行っていた。板ぶきで簡素な武家造とよばれる館をかまえ、へい・堀・物見やぐらなどで敵にそなえた。館のまわりには、武士が直接経営する田畑があった。戦いにそなえて、つねに犬追物・笠がけ・やぶさめなどの武芸の訓練にはげんだ。 |
ふじわらきょう | 藤原京 | 持統天皇の694年(持統8)から文武天皇を経て元明天皇の710年(和銅3)に平城京へ移るまで、3代16年の都。奈良県橿原市高殿たかどのを中心とする大和三山に囲まれた地域を占める。 |
ふじわらのすみ | 藤原純友の乱 | 平安中期の941年(天慶4年)瀬戸内海で起こった反乱。伊予国(愛媛)の藤原純友が瀬戸内海各地で海賊行為を働き、淡路(兵庫)・讃岐(香川)・大宰府(福岡)などの国府(地方行政府)を襲撃して朝廷に反抗したが小野好古(よしふる)らによって鎮圧された。この反乱は中央政府の統制力喪失を示す事件であった。承平天慶の乱。 |
ふじんさん | 婦人参政権 | 1945年(昭和20)満20歳以上の男女が選挙権を得て、女性の参政権が実現した。翌年の衆議院議員総選挙で、39名の女性が当選した。 |
ふだいだいみょう | 譜代大名 | 江戸時代の大名の家格の一つ。関ヶ原の戦以前から徳川氏の家来筋であったもの、およびその家格に準ぜられたもの。 |
ふださし | 札差 | 江戸の商人で、大阪の蔵元・掛屋にあたるもの。旗本・御家人の米(俸禄米)を、手数料をもらって売りさばいた。また、米を担保に、旗本・御家人に金融を行った。 |
ふついん | 仏印進駐 | 太平洋戦争直前に日本が行なったフランス領インドシナ占領。1940年(昭和15)9月、日本軍は軍需資源(石油・ゴム)の獲得と?介石軍援助ルートの遮断とを目的に仏印北部に進駐。翌年7月には南部にも進駐し、アメリカ・イギリス・オランダとの対立を決定的にした。 |
ふつうせんきょ | 普通選挙 | 身分・性別・教育・信仰・財産・納税などを選挙権の制限的要件としない選挙。日本では1890年代末頃から普通選挙権獲得運動が組織され、一次大戦後の民主主義思想の普及と労働者・農民運動の激化とに支えられて、1925年(大正14)ようやく男子のそれが実現をみた。 |
ぶっきょう | 仏教伝来 | 552年(欽明13)朝鮮半島を経て伝来したとされる。聖徳太子が仏教隆盛に尽力し、歴代天皇が保護した。鎌倉時代以降、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗など多くの新宗派が生まれ、また中国から禅宗が伝えられて栄西の臨済宗、道元の曹洞宗などが興った。 |
ふどき | 風土記 | 713年(和銅6)天皇が諸国に命じて、その国の地名の由来、伝説、特産物などを記録させたもの。現存するのは、常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5つの風土記。 |
ふびょうどう | 不平等条約の改正 | 治外法権廃止・・・1894年(明治27)外務大臣陸奥宗光がイギリスとの交渉で成功させた。 関税自主権の回復・・・1911年(明治44)外務大臣小村寿太郎がアメリカとの交渉で成功させた。 |
ふみえ | 踏み絵 | 1629年 (寛永6)キリシタンを発見するため、キリストやマリアの像をふませた。 |
ふゆふにゅう | 不輸・不入の権 | 不輸の権・・・荘園の税を朝廷に納めなくてもよい権利。不入の権・・・荘園に国司が入るのをこばむことができる権利。大化の改新(645年)以降、公地公民制となったが、特権階級である有力貴族(藤原氏など)は、租税免除と税務調査のための国司立ち入りを拒否することが認められていた。 |
ぷらざごうい | プラザ合意 | 1985年(昭和60)ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5カ国財務相・中央銀行総裁議)における合意事項。アメリカの貿易赤字を縮小するため、各国の協調介入によるドル高是正と、日本など黒字国の内需拡大とを主な内容とする。(Plaza Accord) |
ぶんえいのえき | 文永の役 | 鎌倉時代1274年(文永11年)来攻した蒙古(元)との一度目の戦い。高麗を服属させた蒙古は文永3年以来6回にわたって日本の服属を求めたが、執権北条時宗を中心とする鎌倉幕府はこれを拒んだ。1274年10月、蒙古・高麗の連合軍(2万8千の軍兵と900艘の船艦)は対馬に上陸、さらに20日、博多湾に上陸して合戦し、いったん船に引きあげ、翌21日姿を消した。直接の原因は前夜の大風雨によるといわれる。1281年(弘安4年)の来攻と合わせて、元寇または蒙古襲来ともいう。 |
ぶんきゅう | 文久の改革 | 1862年(文久2)勅命により実施された幕政改革。島津久光が幕府の権威立て直しと雄藩連合による挙国一致体制を画策。徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職、松平容保を京都守護職に任用。また大名の参勤交代を3年に一度に改め、江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとした。 |
ぶんめいかいか | 文明開化 | 欧米の思想や制度をとりいれ国民生活が欧米風に変わった。太陽暦の採用、また七曜制がとりいれられた。電信・鉄道が開通、郵便事業もはじまり、町には人力車や馬車が走り、れんが造の建物やガス灯が建てられた。人々の間には、洋服、肉食が広まった。郵便制度・・・前島密の努力により、1871年、東京~大阪間で開始された。 |
ぶんろくのえき | 文禄の役 | 秀吉は明国経略の前提として朝鮮の服属を強要したが拒まれ、1592年(文禄1)加藤清正・小西行長を先鋒に兵15万余を朝鮮へ派遣。初めは連戦連勝し、碧蹄館に明の援軍を破るなどしたが、水軍は朝鮮提督李舜臣の軍に大敗、翌年明使沈惟敬しんいけいとの間に和を講じた。 |
へいあんきょう | 平安京 | 奈良時代の末期には、貴族や僧の争いがはげしくなり政治が乱れた。794年(延暦13)桓武天皇は京都の平安京に都を移し、天皇中心の政治を立て直そうとした。 |
へいあんじだい | 平安時代 | (794年~1192年)794年桓武天皇の平安京(京都)遷都から、1192年鎌倉幕府の成立まで約400年の間、政権の中心が平安京(京都)にあった時代。 |
へいじのらん | 平治の乱 | 1160年(平治1)12月に起こった内乱。平清盛と源義朝が対立し、義朝が破れた。義朝の子頼朝は、伊豆に流された。 |
へいじょうきょう | 平城京 | 710年(和銅3)元明天皇が唐の長安にならって、奈良盆地の北部に平城京をつくり、都を移した。 |
へいのうぶんり | 兵農分離 | 豊臣秀吉が検地(1582年)・刀狩(1588年)を通じて武士と農民・町人とを分け、身分的・階級的に固定した政策。 |
ぺりーのらいこう | ペリーの来航 | 1853年(嘉永6)アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4せきをひきいて浦賀(神奈川県)に来航。幕府に国書を提出して、日本の開国を強く求めたが、幕府は翌年に回答することを約束して、ひとまずペリーを帰らせた。 |
ぺるーにほん | ペルー大使館人質事件 | 1996年(平成8)12月17日、左翼ゲリラ(MRTA)の武装グループがリマの日本大使公邸を襲撃。大使や各国要人ら約600人を人質に占拠。ペルー政府はフジモリ大統領の発案で公邸下までトンネルを掘り、特殊部隊が公邸に突入。MRTAのメンバー14人全員を射殺、日本人24人を含む71人の人質が救出された。 |
べるさいゆ | ベルサイユ条約 | 1919年、フランスのパリで講和会議が開かれ、ベルサイユ条約が結ばれた。敗戦国ドイツは植民地の全部と本国の一部を失い、多額の賠償金を課せられた。アメリカ大統領ウィルソンが、民族自決、軍備縮小など14か条の原則をとなえた。日本は、中国でのドイツの権利を引きつぎ、南太平洋の島々の統治をまかされた。 |
ほうけんせいど | 封建制度 | (鎌倉~江戸時代)封建制度・・・土地の給与を通じて、御恩と奉公によって結ばれた主従関係。御恩・・・主人(将軍)が家来(御家人)の領地を認め、または領地を与えたりする。奉公・・・主人(将軍)の命令に従い、命をかけて戦う。 |
ほうげんのらん | 保元の乱 | 1156年(保元1年)天皇と上皇の対立が藤原氏の内部争いに結びつき、武士をまきこんだ内乱となり、天皇側が勝ち、上皇は讃岐に流された。天皇側に味方をした平清盛・源義朝は力をみとめられた。この内乱は、貴族の無力化と武士の実力を示した事件で、武士の中央進出を促した。 |
ほうこうじ | 方広寺 | 京都市東山区にある天台宗の寺。1586年(天正14)豊臣秀吉の発願によって着工。開山は古渓。6丈の木像大仏を安置した大仏殿があったが、焼失。秀頼が鋳造した梵鐘の銘に「国家安康」の文字があったことが、徳川家康によって大坂冬の陣の口実とされた。大仏殿。 |
ほうじょうき | 方丈記 | 鎌倉初期の随筆。鴨長明著。1巻。1212年(建暦2)成る。仏教的無常観を基調に種々実例を挙げて人生の無常を述べ、ついに隠遁して日野山の方丈の庵に閑居するさまを記す。 |
ほうじょうし | 北条氏の執権政治 | 北条氏は伊豆(静岡県)の豪族で、源頼朝を助け、源氏再興に力をつくした。頼朝の死後は、政治の実験をにぎった。源氏の将軍が3代でたえると、名ばかりの将軍を京都からむかえ、みずからは執権として政治を行った。 |
ほうしょぶね | 奉書船 | 朱印状のほかに、江戸幕府老中から長崎奉行にあてて出された奉書によって海外渡航を特許された船。1631年(寛永8)に始まり、33年からは奉書船以外の海外渡航は禁止された。 |
ほうりゅうじ | 法隆寺 | 607年聖徳太子が、奈良盆地の北西部の斑鳩の地に建てた、現存する世界最古の木造建築。金堂・五重塔・講堂などの建物がある。金堂の柱は中央がふくらみ、エンタシスというギリシアの建築様式が取り入れられている。 |
ぽーつます | ポーツマス条約 | 1905年(明治38)アメリカのルーズベルト大統領のなかだちにより、アメリカのポーツマスで日露戦争の講和条約が結ばれた。①日本が韓国を指導・保護することを認める。②樺太の南半分を日本にゆずる。③遼東半島の南部の租借権を日本にゆずる。④南満州鉄道の権利を日本にゆずる。 |
ほくめんのぶし | 北面の武士 | 院の御所の北面きたおもてにあって、院中を警護した武士。1095年(嘉保2)白河法皇の時に始まる。 |
ぼしんせんそう | 戊辰戦争 | 1868年(慶応4)1月から1869年(明治2)5月まで行われた新政府軍と旧幕府側との戦いの総称。鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊の戦)、会津戦争、箱館戦争などを含む。戊辰の役。 |
ぽつだむせんげん | ポツダム宣言 | 1945年(昭和20)7月、アメリカ・イギリス・中国(のちにソ連も参加)が日本に対して発した宣言。日本の無条件降伏などを要求し、日本は8月15日に受け入れを発表した。 |
ほろ | 母衣 | (鎌倉~戦国時代)鎧の背に付ける幅広の布。流れ矢を防ぎ、旗指物(差物)の一種としても用いられた。 |
ほんじん | 本陣 | ① 陣営で、総大将の居所の置かれている部分。本営。本備え。②江戸時代、宿駅で参勤交代の大名のほか、宮家・公卿・幕府役人・高僧など、主に貴人の休泊する大旅館。 |
ほんのうじのへん | 本能寺の変 | 1582年(天正10)明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲い、滅ぼした事件。羽柴秀吉の高松城攻撃を救援するため本能寺に止宿中であった信長を、先に増援を命じられて丹波亀山城にいた光秀が引き返して急襲し自害させた。 |
まきむく | 纒向石塚古墳 | (奈良県桜井市)奈良盆地東南部の三輪山西側に広がる東西約2キロ、南北約1.5キロの弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。前方後円墳が点在し、ほぼ東西に方位をそろえて並ぶ神殿のような建物跡も出土。西日本各地の土器が出土し、運河が縦横に走るなど都市機能を備えていたとされる。1937年(昭和12)出土。 |
まくらのそうし | 枕草子 | 1001年(長保3)清少納言が書いた随筆。宮中の生活や自然のようすを、するどい感覚で細やかに表現した。 |
まさむね | 正宗 | 鎌倉末期、相模国(神奈川県)鎌倉に住んでいた刀工、岡崎五郎正宗。また、その鍛えた刀。名刀の代表とされる。 |
まちびきゃく | 町飛脚 | 1663年(寛文3)民間営業として行われた町人の飛脚屋。江戸の定飛脚、大坂の三度飛脚など。 |
まちぶぎょう | 町奉行 | 武家の職名。江戸幕府では旗本から登用し、老中の支配下に、江戸・京都・大坂・駿府・奈良・堺・長崎などに置き、行政・司法・警察等をつかさどり、特に町政を管轄し訴訟を聴断した。単に町奉行といえば江戸町奉行(南北2名)を指す。 |
まつかわじけん | 松川事件 | 1949年(昭和24)東北本線松川駅付近で起こった列車転覆事件。国鉄および東芝松川工場の人員整理に反対する労組員・共産党員の犯行とされ、一審・二審は有罪となったが、のち裁判への疑問が高まるなか、被告の自白の虚構が判明。1963年(昭和38)最高裁で無罪が確定した。 |
まつごようし | 末期養子 | 近世の武家において嗣子のない当主が病気危篤に際して急に相続人を願い出ること。江戸初期、大名勢力削減のために禁止。しかし改易による牢人の発生は社会不安の因となり、1651年(慶安4)慶安事件を機に幕府は養父17歳以上50歳未満の制限つきで末期養子を認めた。 |
まつもとさりん | 松本サリン事件 | 1994年(平成6)6月27日長野県松本市北深志の住宅街で、オウム真理教の幹部らが猛毒のサリンをまき、8人が死亡、約600が重軽症を負った。教団関係の訴訟を担当していた長野地裁松本支部の裁判官官舎を狙ったとされる。 |
まりあなおき | マリアナ沖海戦 | 太平洋戦争末期の1944年(昭和19)6月19日から20日にかけて、西太平洋のマリアナ諸島沖で行われた、日米両海軍の空母機動部隊による戦闘。日本の連合艦隊は壊滅的な敗北を喫し、この地域の制空・制海権を確保した米軍は日本本土への空襲を激化させた。 |
まれーおき | マレー沖海戦 | 太平洋戦争開戦直後の1941年(昭和16)12月10日に、マレー半島東方沖で、日本の海軍航空部隊と英国海軍東洋艦隊の間で行われた戦闘。この戦いで英国の新型戦艦2隻が日本軍機の爆撃と雷撃を受けて撃沈。海戦における航空機の優位性が実証された。 |
まんしゅうこく | 満州国 | 満州事変により中国東北地方を占領した日本が、1932年、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)(宣統帝)を執政として建国した傀儡(かいらい)国家。首都は新京(今の長春)。1934年に溥儀の皇帝即位によって帝国となり、1945年、日本の二次大戦敗北とともに消滅。 |
まんしゅうじへん | 満州事変 | 1931年(昭和6)9月18日、奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まった、日本の中国東北部への侵略戦争。翌年満州国独立を宣言、さらに熱河省を占領、国民政府と塘沽(タンクー)停戦協定を締結して満州領有を既成事実化した。 |
まんどころ | 政所 | (鎌倉~安土桃山時代)財政事務を管掌する公卿・寺社・幕府の機関。 |
まんようしゅう | 万葉集 | 749年(天平21)大伴家持が編者といわれる日本最古の歌集。山上憶良・柿本人麻呂などの歌人のほか、天皇から農民にいたるまで、約4500首の歌がおさめられている。 |
みかたがはら | 三方ヶ原の戦い | 1571年(元亀3年)12月22日武田信玄が遠江(浜松)の三方ヶ原に徳川家康を破った戦い。1571年10月5万余の軍勢を率いて甲斐を出発した信玄は遠江に侵入、8千余の家康の軍を三方ヶ原に撃破し浜松城に迫ったが、信玄は浜松城攻略を行わなかった。この戦は家康が同盟軍の信長のため信玄を浜松城付近に釘づけにするため。あえて行ったものであった。 |
みたかじけん | 三鷹事件 | 1949年(昭和24)国鉄中央線三鷹駅構内で無人電車が暴走、脱線して死傷者を出した事件。人員整理に反対する国鉄労働組合などの計画的犯行として共産党員など組合員が起訴されたが、1955年(昭和30)に最高裁は非共産党員による単独犯行と判決を下した。 |
みだれがみ | みだれ髪 | 与謝野晶子の歌集。1901年(明治34)刊。奔放自由な歌風で本能の解放をめざし、大きな反響をよびおこした。「やは肌のあつき血潮に触れも見でさびしからずや道を説く君」 |
みっどうぇー | ミッドウェー海戦 | 1942年(昭和17)6月、中部太平洋のミドウェー海域で日本軍が大敗。以後、日本は苦戦を続けた。 |
みとはん | 水戸藩 | 常陸国、水戸(茨城県水戸市)を本拠地とした徳川親藩。尾張・紀伊と並ぶ御三家のひとつ。藩主は徳川家康の11男・頼房の入封以降、水戸徳川氏。歴代藩主では、「大日本史」の編纂を開始した徳川光圀(水戸黄門)、藩政改革を推進し弘文館を創設した徳川斉昭などが有名。 |
みなとがわ | 湊川の戦い | 1336年(建武3)九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫湊川で新田義貞・楠木正成らを破った戦い。正成は戦死。 |
みなみまんしゅう | 南満州鉄道 | 日露戦争でロシアから獲得した南満州の鉄道とその付属事業を経営する半官半民の国策。1906年(明治39)設立。満州国創立後は満州国有となった鉄道全部を経営、他の産業部門にも進出し、日本の中国侵略の拠点となった。1945年(昭和20)中国が接収。満鉄。 |
みまな | 任那 | 4~6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶かや諸国の日本での呼称。実際には同諸国のうちの金官国の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。 |
みんぽんしゅぎ | 民本主義 | 1916年(大正5)吉野作造が主唱した民主主義思想。主権在民を内包する民主主義とは区別し、政治の目的は民衆の利福にあり、政策の決定は民衆の意向に従うべきと主張した。その目標は政党内閣制と普通選挙とにあり、大正デモクラシーの指導理論となった。 |
むらじ | 連 | 古代(410年~684年)の姓かばねの一種。大和政権時代に、臣おみと並ぶ有力豪族が称した。大伴氏・物部氏・中臣氏など渡来系の有力氏族が多く、大和政権に服属し、軍事や祭祀など特定の職能を専管する地位にあった。 |
むろまちじだい | 室町時代 | (1336年~1573年)足利尊氏が建武式目を制定し、室町幕府を開いた1336年から足利将軍家15代義昭が織田信長に京都を追放され、足利幕府が滅亡した1573年まで。 |
むろまちぶんか | 室町文化 | 武家と公家の文化がとけあい、さらに禅宗の影響を受けた文化。民衆の文化も発達し、応仁の乱後は、都の文化が地方に広がった。 北山文化・・・足利義満が金閣を建て、能を大成した観阿弥・世阿弥を保護した。東山文化・・・足利義政は政治から身を引き、銀閣を建てて風流な生活を楽しんだ。書院造。茶の湯。生け花。 |
めいじ・たい | 明治・大正時代の文化 | 教育制度がととのい欧米の科学技術が普及。交通機関の発達・ラジオ放送開始など生活が近代化。北里柴三郎(破傷風)志賀潔(赤痢菌)野口英世(黄熱病)芥川龍之介「羅生門」小林多喜二「蟹工船」・志賀直哉(白樺派)夏目漱石「吾輩は猫である」森鴎外「舞姫」 |
めいじいしん | 明治維新 | 狭義には、江戸幕府が崩壊し天皇中心の新政府が成立する過程。慶応3年(1867)の大政奉還、王政復古の大号令などがその画期をなす。広義には、日本に近代国家を創出した一連の過程。明治政府が行なった廃藩置県・地租改正など様々な改革も含まれ、その始期と終期は諸説がある。 |
めいれきのたいか | 明暦の大火 | 1657年(明暦3)正月18~20日、江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払った大火事。焼失町数400町。死者10万人余。本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼せがきに焼いた振袖が空中に舞い上がったのが原因といわれ、俗に振袖火事と称した。災後、本所に回向えこう院を建てて死者の霊を祀った。 |
めーでーじけん | メーデー事件 | 1952年(昭和27)5月1日、サンフランシスコ講和条約発効直後のメーデーで、デモ隊の一部と警官隊が皇居前場で衝突、死者2名と多数の負傷者を出した事件。血のメーデー。 |
めつけ | 目付 | 江戸幕府の職名。若年寄に直属して直参旗本を監察。複数を任命して相互牽制させた。また、諸大名もこれを置いた。 |
もくせいのうぐ | 木製農具 | (弥生時代)鉄器は貴重品だったため、多くの人は木製のくわやすきで土地を耕し、木製のきねなどで脱穀した。田では、しずまないように田下駄を使用した。 |
もちひとおう | 以仁王の令旨 | (もちひとおうのりょうじ)以仁王(1151~1180)は、平安時代後期、後白河天皇の第3皇子であったが、平氏の圧力で親王(皇位継承権を持つ皇子)になれず不遇だった。1180年(治承4)源頼政の勧めで最勝親王と自称し、平氏追討の令旨を各地の源氏に発した。発覚したため頼政らと挙兵したが、山城国の光明山鳥居前で戦死。 |
もののべし | 物部氏 | 古代の大豪族。姓かばねは連むらじ。天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、族長は代々大連おおむらじに就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍と戦って敗死。 |
ものみ | 物見 | (戦国時代 1467~1573年)戦場において敵情を視察し、その動静を探索する斥候。 |
ももやまぶんか | 桃山文化 | 大名・大商人による雄大ではなやかな文化。南蛮文化の影響もあり、仏教の影響がうすれた。建築・・・安土城・大阪城・伏見城・姫路城、天守閣絵画・・・狩野永徳・狩野山楽らによる障壁画。茶道・・・千利休。芸能・・・出雲の阿国による歌舞伎踊り。 |
もりそんごう | モリソン号事件 | 1837年(天保8)浦賀にアメリカ船モリソン(Morrison)号が対日通商を求めて渡来したが、異国船打払令施行下の浦賀奉行により砲撃を受けて退去した事件。幕府の政策を批判する蘭学者に対する蛮社の獄の原因となった。 |
もんど | 主水 | (奈良~平安時代)主水司の略。律令制で宮内省に属し、飲料水や氷に関することなどを司る。 |
やさかじんじゃ | 八坂神社 | 京都府京都市東山区にある神社。斉明天皇の656年創建。主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。ほかに櫛稲田姫尊(くしなだひめのみこと)と八柱御子神(やはしらのみこがみ)などを祀る。祇園祭で知られ、地元では「祇園さん」とも呼ばれる。本殿、楼門などは国の重要文化財。 |
やすくにじんじゃ | 靖国神社 | 東京都千代田区にある神社。幕末および明治維新以後の国事に殉じた人々の霊を合祀(ごうし)する。1869年(明治2)東京招魂社として創建。1879年(明治12)現社名に改称。4月と10月に例大祭、7月にみたま祭りが行われる。 |
やはたせいてつ | 八幡製鉄所 | 日清戦争の賠償金の一部でつくられた官営工場。1901年(明治34)から操業をはじめた。原料の鉄鉱石を中国から輸入、石炭は筑豊炭田を開発してあてた。日本の製鉄業の中心として、重工業の発展をささえた。 |
やまざき | 山崎の戦い | 1582年(天正10)中国征討中の羽柴秀吉が本能寺の変を知って毛利氏と和議を結んで引き返し、山城の山崎で明智光秀を破った戦い。秀吉の全国制覇の緒戦となった。 |
やましろ | 山城の国一揆 | 1485年(文明17)山城(京都府)の地侍(じざむらい)らが、守護の畠山氏を追放した。地侍と農民が連合して、自治による政治を8年近く続けた。 |
やまたいこく | 邪馬台国 | 中国の歴史書「魏志倭人伝」に、3世紀ごろ、倭から30の国が中国に使者を送ってきていること、そのなかに卑弥呼という女王が治めている邪馬台国があって、30ほどのくにをしたがえていたことが書かれている。身分の差があり、どれい(生口・奴婢)がいて、租税のしくみや市場もあった。 |
やまたのおろち | 八岐大蛇 | 日本神話にみえる頭と尾が八つずつある巨大な蛇。出雲の簸川(ひのかわ)上流にいて、大酒を好み、毎年一人ずつ娘を食ったが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)がこれを退治して奇稲田姫(くしなだひめ)を救い、その尾を割いて草薙剣(くさなぎのつるぎ)を得たという。 |
やまたのおろち | ヤマタノオロチ | 日本書紀には、八岐大蛇(やまたのおろち)、古事記には、八俣遠呂智と記される。八つの頭と尾を持つ大蛇で、出雲を毎年訪れ、娘たちを食べていた。クシナダヒメの番になったところ、スサノオが現れ退治されてしまう。最後にオロチの尾から草薙剣(三種の神器の一つ)が出てくる。スサノオはその剣を高天原にいるアマテラスに献上した。 |
やまとせいけん | 大和朝廷(大和政権) | 畿内地方の古代政権。諸豪族が連合して君主を擁立し、5世紀までに東北地方以遠を除く日本本土の大半を統一。6世紀には世襲的王制が確立し、諸豪族は臣・連の姓によって階層的に秩序づけられ氏姓制度が成立。7世紀半ばの大化改新後、律令制の朝廷に変質。大和朝廷。 |
やよいじだい | 弥生時代 | (BC660年~250年)縄文時代の後、古墳時代の前の時代。その開始の指標を稲作の開始とする。水稲耕作や金属器の使用が始まり、銅剣・銅矛・銅鐸どうたくなどの青銅器と共に鉄器も用いられる。 |
やよいじだい | 弥生時代の社会 | 稲作が進むと、くらしが安定し、むらの人口は増えたが、たくわえの多い少ないによって貧富の差や身分の別があらわれた。むらには、農作業を指図する指導者(支配者)があらわれた。 |
やよいどき | 弥生土器 | 縄文土器よりうすく、赤かっ色をした土器。高温で焼かれたため、固い。もようがない、または簡単な幾何学的なもようがある。 |
ゆしませいどう | 湯島聖堂 | 東京都文京区湯島にある孔子その他の聖賢をまつった廟。1691年(元禄4)儒者、林鳳岡はやしほうこうの私塾を移転し、聖堂と称した。幕府の保護を受け、寛政の改革のとき直轄の昌平坂学問所となる。 |
ようろうりつり | 養老律令 | 718年(養老2年)藤原不比等(ふひと)が大宝律令を一部改修して編纂した律・令各10巻の法典。 |
よしのがりいせき | 吉野ケ里遺跡 | 佐賀県にある弥生時代の遺跡。この地域の小さなくにの中心だったと考えられている。周りを大きな堀で囲み、多くの竪穴住居・高床式倉庫や墓地がある。物見やぐらで見張りをした。1986年(昭和61年)出土。 |
よどごうはい | よど号ハイジャック事件 | 1970年(昭和45)に起きた航空機ハイジャック事件。模造拳銃や日本刀などで武装した赤軍派の活動家9人が、日本航空機を乗っ取り、乗員・乗客129人を人質に取って、北朝鮮へ向かうよう要求。福岡空港および韓国の金浦空港で乗客と客室乗務員を開放した後、平壌郊外の美林(ミリム)飛行場に着陸させ、亡命した。 |
よりあい | 寄合 | (鎌倉~戦国時代)惣(そう)では、農民たちが村の神社や寺などで寄合とよばれる会合を開き、村の運営について相談したり、惣の掟(おきて)を定めたりした。 |
よりき | 与力 | (江戸時代)町奉行に付属し、同心を指揮して上官の事務を分掌・補佐した職。 |
よりしろ | 依代 | 神霊が出現するときの媒体となるもの。神霊の寄りつくもの。正月の年神の依代としての門松などのような特定の枝葉や花・樹木・岩石、あるいは形代(かたしろ)・よりましなど、きわめて種類が多い。 |
よんかこく | 四か国条約 | 1921年(大正10)、ワシントン会議議において日米英仏の4か国により調印された条約。太平洋の島嶼(とうしょ)に対する権利の相互尊重と紛争の処理方法について約定。日英同盟は、この条約の発効とともに消滅。 |
らっくすまん | ラックスマン通商要求 | 1792年(寛政4年)ロシアの陸軍士官ラックスマンが、漂流民を送還する使節として根室に来航、国交を求め、翌年松前で幕府目付と交渉したが、成立せずに帰国した。 |
らばうる | ラバウル | パプアニューギニア東部、ニューブリテン島北東岸の港湾都市。ビスマーク諸島の中心都市。第二次大戦中に日本軍の海軍航空隊の基地があった。(Rabaul) |
らんがく | 蘭学 | オランダ語を通じて学ばれたヨーロッパの学問や文化。8代将軍徳川吉宗が、キリスト教に関係のない洋書の輸入を許可した。関孝和・・・数学(和算)杉田玄白・前野良沢・・・「解体新書」平賀源内・・・エレキテル。伊能忠敬・・・「大日本沿海輿地全図」 |
らんがくこと | 蘭学事始 | 1815年(文化12)杉田玄白83歳の時の手記。2巻。「解体新書」翻訳・刊行の苦心談を中心として日本の蘭学の初期における回想を記したもの。蘭東事始。和蘭事始。 |
りーまんしょっく | リーマンショック | 2008年(平成20)米国の大手投資銀行・証券リーマンブラザーズのサブプライムローン問題に端を発する経営破綻とその副次的な影響により世界の金融市場と経済が危機に直面した一連の出来事。米国および世界各地の市場が大きく下落。金融市場・経済が不安定化する契機となった。 |
りくるーとじけん | リクルート事件 | 情報関連企業のリクルートが、譲渡の形で政官財界要人に巨額の贈賄を行った大疑獄事件。1988年(昭和63)に発覚。1984年12月、子会社のリクルートコスモスの未公開株を譲渡し、公開(1986年10月)直後の値上がりにより受領者側が合計66億7000万円の利益を得たとされ、その額はロッキード事件の3倍にのぼる。 |
りっとんちょうさ | リットン調査団 | 1932年(昭和7)満州事変調査のため国際連盟より派遣された、リットンを団長とする紛争調査隊。満州国を日本の傀儡(かいらい)国家として否定する報告を作成した。 |
りつりょうせい | 律令制 | (奈良~平安時代)大宝律令・養老律令に規定された諸制度。また、それら律令の修正増補をも含む律令国家の諸制度。 |
りゅうじょうこ | 柳条湖事件 | 1931年(昭和6)9月18日、柳条湖で日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件。関東軍はこれを中国軍の行為として出兵し、満州事変の口火を切った。 |
りょうとうはん | 遼東半島 | 中国、遼寧(りょうねい)省南東部、渤海(ぼっかい)と黄海との間に突出する半島。中心都市は大連。1895年に下関条約で日本に割譲されたが、三国干渉で清国に還付。1905~1945年南端部が日本の租借地とされ、関東州とよばれた。 |
りょじゅん | 旅順 | 中国遼寧(りょうねい)省の大連市の西部地区。黄海に面する軍港。日清戦争後ロシアが租借して要塞を築き、日露戦争の激戦の舞台となる。戦後は日本の租借地となり、第二次大戦後ソ連の管理を経て、1955年中国に返還。 |
れいておき | レイテ沖海戦 | フィリピンのレイテ島争奪をめぐって1944年(昭和19)10月に行われた日米間の海戦。両国海軍がほとんど全力をあげて戦った空前の大海戦で、日本艦隊は突入作戦に失敗し、戦艦武蔵(大和・武蔵)をはじめ連合艦隊の主力を失い、以後戦闘艦艇としての連合艦艇はなくなった。フィリピン沖海戦。 |
れざのふ | レザノフ通商要求 | 1804年(文化1年)ロシア領アメリカ会社総支配人レザノフが、漂流民を送還する使節として漂流民を伴って長崎に入港。幕府に通商を要求したが、成立せずに帰国した。 |
れっどぱーじ | レッドパージ | 共産主義の思想・運動・政党に関係している者を公職や企業から追放すること。1950年(昭和25)GHQの指令により1万数千人が追放された。赤狩り。(Red Purge) |
れんが | 連歌 | 和歌の上の句と下の句を別の人が詠み、何人かで詠みつないでいくもの。宗祇(そうぎ 1421~1502)が芸術に高めた。 |
れんごうかんたい | 連合艦隊 | 2個以上の艦隊をもって編制した艦隊。旧日本海軍の主力であり、司令長官は天皇に直隷し、艦隊を統率した。 |
ろうじゅう | 老中 | 江戸幕府の職名。将軍に直属し、幕政をつかさどる最高職。定員は4~5名。月番で交替勤務。通常、3万石以上の譜代大名から任命。 |
ろくはらたんだい | 六波羅探題 | 1221年(承久3)鎌倉幕府が京都守護に代わって六波羅に置いた機関。また、その長の職名。朝廷の監視および尾張・加賀以西の諸国の政務・裁判を総轄するため、北・南に分かれて駐在。承久の乱後、北条氏一門から選任され、大事は鎌倉の指揮を受け、小事は専断した。 |
ろくめいかん | 鹿鳴館 | 1883年(明治16)外務卿の井上馨は、不平等条約改正を成功させるため、欧米をまねる欧化政策をとった。東京に社交場の鹿鳴館を建て、外国の外交官と舞踏会を開くなどした。 |
ろこうきょう | 盧溝橋事件 | 1937年(昭和12)7月7日、中国北京郊外の盧溝橋付近で日本と中国の軍隊が衝突した事件。日中戦争のきっかけとなった。中国では七七事変という。 |
ろっきーどじけん | ロッキード事件 | 米国ロッキード社の大型旅客機の日本売り込みに際し、多額の賄賂が政界に渡された疑獄事件。1976年(昭和51)の米国上院外交委員で発覚し、事件当時の首相であった田中角栄をはじめ政府高官や商・航空幹部らの逮捕・起訴に至り、大政治問題となった。1995年(平成7)2月、最高裁判決で有罪が確定。 |
ろんどんかいぐん | ロンドン海軍軍縮会議 | 1930年(昭和5)1月から4月までロンドンで開かれた、海軍軍備縮小に関する国際会議。補助艦艇保有制限を主目的として、英・米・日・仏・伊が参加。浜口内閣は海軍の反対を押し切って調印に踏み切り、統帥権干犯問題に発展した。 |
わかどしより | 若年寄 | 江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職で将軍に直属し、老中支配以外の諸役人、特に旗本・御家人を統轄。譜代大名中、小禄の者を任命。定員は3~5名。月番で交替勤務。 |
わがはいはねこ | 吾輩は猫である | 夏目漱石の小説。1905~06年(明治38~39)雑誌「ホトトギス」に発表。英語教師苦沙弥くしゃみ先生の飼猫を主人公として擬人体でかれ、諷刺的な滑稽の中に文明批評を織り込む。 |
わこう | 倭寇 | 南北朝時代のころから、朝鮮や中国の沿岸をあらしまわった武装商人団。前期・・・対馬、北九州の土豪、商人、漁民を中心に、朝鮮・高麗人も加わって活動。後期・・・大部分は中国人。 |
わしんとんかいぎ | ワシントン会議 | 1921年(大正10)11月から翌年2月にかけて、ワシントンで開かれた国際会議。アメリカ大統領ハーディングの提唱により、米・英・日本・仏・伊・ポルトガル・ベルギー・オランダ・中国が参加。海軍の主力艦を制限する五か国条約、中国に関する九か国条約、太平洋問題に関する四か国条約が成立し、日英同盟は廃棄された。 |
わどうかいちん | 和同開珎 | 708年(和銅1)につくられた日本最初の貨幣。武蔵国の秩父から銅がとどけられたことがきっかけで、年号を和銅に改めた。 |
わのごおう | 倭の五王 | 中国の文献に見える、5世紀に南朝の宋に朝貢した5人の倭国王。讃・珍・済・興・武で、仁徳・反正はんぜい・允恭いんぎょう・安康・雄略天皇に比定されるが、讃を応神または履中りちゅう、珍を仁徳にあてる説もある。 |
わのなのこくおう | 倭奴国王印 | 1784年(天明4)筑前国(福岡県)糟屋郡志賀島(現福岡市東区)から出土した金印。後漢の光武帝が57年、同地方にあった小国家の君主に与えたものと見られる。 |