国名 トルコ共和国                       
英語 Republic of Turkey  
首都 アンカラ  
独立年 1923年  
民族 トルコ人  
その他 クルド人、クリミア・タタール人、アラブ人  
主要言語 トルコ語(公用語)  
面積 78万5347km2  
人口 7624万8000(2013推計)  
通貨単位 トルコ・リラ  
宗教 イスラム教(スンニ派、アレヴィー派)  
その他 ギリシア正教、アルメニア正教、ユダヤ教  
主要産業 農業、観光業、製造業      


カッパドキア (Cappadocia)

トルコのほぼ中央、アナトリア高原に位置するカッパドキア。
ここは奇岩群が有名で、これらは火山の噴火により、辺り一面に蓄積された溶岩層が長い年月をかけ侵食されてできたもの。

特に「妖精の煙突」「らくだの岩」などが観光スポットとして人気を集めている。
他にも歴史や起源が謎に包まれた「デリンク地下都市」や、初期キリスト教の貴重な遺産が見られる「ギョレメ野外博物館」など、見どころ満載となっている。

 

地理
トルコの東部は高い山岳地帯であり、北東部から南西にポントス山脈
が走り、アナトリア高原の南を西に走るタウルス山脈に続く。

東部山岳地帯よりティグリス川、ユーフラテス川が源を発し、
それぞれイラク、シリア国境を越えて南流している。

地中海側は温帯冬雨気候(地中海式気候)であるが、一般に夏は特に乾燥が激しい。
唯一の例外は黒海沿岸地方で、夏冬とも降雨があり、植生が豊かである。

国土の約 3分の2が農地で、うち約 3分の1が放牧地である。

コムギ、オオムギ、トウモロコシなどの穀物と、サトウダイコン、トマト、
ジャガイモ、ブドウなどを産し、ヒツジ、ウシ、ヤギなどの牧畜を行なう。

また鉱物資源としては、マグネサイト、石炭、クロム、大理石、銀などがある。




歴史
610年、ムハンマド(Muhammad 570~632年)が創始したイスラム教は、イスラム帝国に受け継がれ、
ムハンマドの死後70年間に、中央アジアから北アフリカに至る大帝国に発展していた。

イスラム帝国はジハード(Jihad 聖戦)を繰り返しながら勢力を拡大した。
ジハードとは、異教徒をイスラム教に改宗させるための戦いである。

イスラム軍は、征服した土地の異教徒に「コーランか剣か」の二者択一を迫った。
異教徒があくまでも改宗を拒否した場合は、生命の安全は保障されなかった。

こうして、短期間にしかもスムーズに征服が進んだのである。



ウマイヤ朝(Umayyad Caliphate 661~750年)までの時代は、勢力拡大のための国家体制であった。
8世紀初頭にウマイヤ朝は最大版図となり、アラブ帝国といわれるようになる。

だがウマイヤ朝では、被征服民である異民族が改宗しても、支配者であるアラブ人と同等の権利を得ることはできなかった。

750年、シリアのダマスクスがアッバース朝(Abbasid Caliphate 750~1258年)の侵攻により陥落し、ウマイヤ朝が滅亡した。
アッバース朝はウマイヤ朝時代の支配階層であったアラブ人の特権を廃止した。

改宗した異民族に課せられていたジズヤ(Jizya 人頭税)を異教徒のみとして、全てのイスラム教徒を平等に扱った。

751年、アッバース朝は、タラス河畔(現在のキルギス地方)の戦い(Battle of Talas)で、
玄宗皇帝時代の唐王朝の軍勢に勝利し、西域地方まで国境線を進めた。

だがその後は大規模な軍事行動は控え、もっぱらウマイヤ朝から受け継いだ広大な版図を維持することに努めた。


アッバース朝は、第5代カリフであるハールーン・アッラシード(Harun al-Rashid 在位786~809)の時代に最盛期を迎える。
首都バグダッドを中心に、帝国全土へ通じる交通路が整備され、人口は150万人を数え、唐の長安と並ぶ大都市かつ国際都市となった。

アラビアン・ナイト(Arabian Nights)は、この時代を舞台にした説話集である。
大臣の娘シェへラザードが王のために物語を千一夜続けるという体裁になっている。

繁栄を誇ったアッバース朝も、10世紀には、セルジュク朝(イラン)ファーティマ朝(エジプト)などの地方政権分立により弱体化、
1258年のモンゴル軍侵攻により滅亡した。





アッバース朝時代に、各地に分立していた地方政権は独自の発展を遂げた。

セルジュク朝(Seljuq dynasty 1038~1308年)は、3代目スルタンのマリク・シャー(Malik-Shah I 在位1072~1092年)の時代に、
アナトリア半島からメソポタミアまで支配地は最大領域に広がった。

1073年、マリク・シャーは、エルサレムを占領。
セルジュク朝支配下のエルサレムでは、異教徒を含む住民の安全は保障され、新しいモスクの建設が行われた。

1092年、マリク・シャーが亡くなると、セルジュク朝は内紛状態が継続し、1308年に滅亡した。


ファーティマ朝(Fatimid Islamic Caliphate 909~1171年)は、969年エジプトを征服、973年カイロに首都を置き、
シリア・アラビアにも版図を拡大し、地中海・北アフリカ貿易を独占した。

また、1098年にはセルジュク朝からエルサレムを奪取することに成功した。

だが翌年、第1回十字軍(1099年)との戦いで敗北、十字軍は、エルサレムを占領して
エルサレム王国(Kingdom of Jerusalem)を建国した。

その後、ファーティマ朝は、1171年アイユーブ朝の創始者サラディンに滅ぼされた。



アイユーブ朝(Ayyubid dynasty 1171~1250年)は、シリア地方のクルド人であるアイユーブ家出身の
宰相サラディン(Saladin 在位1171~1193)がファーティマ朝を倒してエジプトに建国。

その後、トリポリからイエメン・メソポタミアの大半を領有する帝国に発展し、
1187年、エルサレム王国軍を撃破してエルサレムを奪回した。

その後エルサレムは、1229年に第5回十字軍が一時奪回したものの、
1244年、再びアイユーブ朝に奪われ、以後20世紀までイスラムの支配下に置かれることになる。

1193年、サラディンが亡くなると、アイユーブ朝は一族の内紛によって衰退に向い、
1250年マムルーク朝に滅ぼされた。



マムルーク朝(Mamluk Sultanate 1250~1517年)は、奴隷出身のトルコ人アッドウッル
(Al-Durr 在位1250年)がアイユーブ朝を倒してカイロを首都に建国した。

これ以後、マムルーク朝は、260年に渡ってエジプト・シリアを支配していくことになる。

1291年、マムルーク軍は、エルサレム王国の拠点都市アッコン(Acre)を陥落させた。

これにより、200年続いたエルサレム王国は滅亡、キリスト教徒のエルサレム奪還を目指した
十字軍もまた事実上の終焉を迎えることになった。

その後、マムルーク朝統治下のカイロは、東西交易で大いに栄え、バクダッドにかわり
イスラム世界の中心となって繁栄した。

だが、1347年以降、ペストの疫病が流行し国家が衰弱、1517年オスマン帝国の侵入によりマムルーク朝は滅亡した。
マムルーク朝の滅亡とともに、イスラム世界の中心はカイロからからイスタンブールへと移ることになった。



一方、アッバース朝を倒したモンゴルは、チンギス・ハンの孫フラグ(Hulagu)が
イラン北西部のタブリーズ(Tabriz)にイルハン朝(Ilkhanate 1258~1353年)を建国。

第7代のカザン・ハン(Ghazan 在位1295~1304)の時代にイスラム教を国教とし、
領土を広げ全盛期を迎えたが、1335年以降は内紛で衰退、1353年に滅亡した。


1299年、トルコ系遊牧民族オグズ族(Oghuz Turks)の首長であったオスマン1世(Osman I 在位1299~1326)が
東ローマ帝国の衰微に乗じて、アナトリア半島北西部にオスマン帝国(1299~1922年)を建国した。


オスマン帝国の第3代ムラト1世(Murad I 在位1362~1389)は、20年間に渡りバルカン各地に征服活動を続け、
1389年コソボの戦い(Battle of Kosovo)でセルビア連合軍に大勝、バルカン支配を決定的にした。


第7代メフメト2世(Mehmed Ⅱ 在位1444~1446、1451~1481)は、1453年コンスタンティノープルを攻略し、
東ローマ帝国を滅ぼした。

コンスタンティノープルの攻防におけるオスマン帝国は、10万の大軍勢に上ったのに対して、
東ローマ帝国は守備兵7000人だった。

すでにコンスタンティノープルは第4回十字軍(1202~1204)の略奪により荒廃しきっており、
参戦した兵士もほとんどは一般市民や聖職者などの義勇兵であった。

こうして西ローマ帝国に遅れること1000年あまり、古代から存続してきた東ローマ帝国は遂に滅亡した。

コンスタンティノープルは、イスタンブール(Istanbul イスラム教徒の町)と改称され、オスマン帝国の新たな首都となった。

さらにメフメト2世は、1459年のセルビアの征服をはじめ、ボスニア、ヘルツェゴビナを併合し、アルバニアを服属させた。
1475年にはモンゴル帝国の後裔クリミア・ハン国(Crimean Khanate)を服属させて黒海の制海権を獲得、帝国の基礎を再強化した。


第9代セリム1世(Selim I 在位1512~1520)は、1517年マムルーク朝を滅ぼしてシリア・エルサレム・エジプトを領有、
さらにメッカ・メディナを保護下に置いた。


第10代スレイマン1世(Suleiman Ⅰ 在位1520~1566)は、ヨーロッパへの攻勢を展開、
1526年モハーチの戦い(Battle of Mohacs)でハンガリー軍を撃破した。

この結果、ハンガリーの領土は、その後170年間、オスマン帝国の支配下となった。

さらに1529年、ウィーン包囲(Siege of Vienna)を敢行、これ以降ヨーロッパは、
絶えずオスマン帝国からの脅威にさらされるようになった。

1538年にはプレヴェザの海戦(Battle of Preveza イオニア海)でスペインを主力とするヨーロッパ連合軍を破り、
地中海の制海権を握った。

これにより、オスマン帝国は、アジア、ヨーロッパ、北アフリカ沿岸部にまたがる大版図を獲得した。



だがスレイマン1世の死後、オスマン帝国内で皇帝をめぐっての内紛がたびたび起きた。

その上で即位した皇帝も凡庸な者が多く、常に時の将軍などの実力者の神輿として担がれる者が多かった。
皇帝は飾りのような立場になり、ハーレムに引き篭もって国政を顧みなくなった。

また、スレイマン1世の時代に行なわれた多くの遠征で領土は拡大したが、それらを維持するために国家財政が苦しくなっていた。

帝国の弱体化が表面化したのがレパントの海戦(Battle of Lepanto)である。
スレイマン1世の死から5年後の1571年、レパント沖の海戦でオスマン艦隊はスペイン・ベネチア連合艦隊に大敗し、地中海の覇権を失った。


この海戦では、スペイン無敵艦隊の大砲の火力の強大さが大きく貢献した。

その重砲のスペイン無敵艦隊も、1588年には、射程が長く弾の再装填がしやすい軽砲を用いたイングランド海軍に撃破されるなど、
海上でも大砲の技術進歩が急速に進んだ。

このように戦争のたびに、新兵器(進歩した兵器)が現れ、それを駆使した側が勝利を収めるようになっていった。


1682年から1699年にかけてオーストリアとの戦争に敗北した後に、オスマン帝国の衰退が急激に進行した。
そのきっかけとなったのが、第2次ウィーン包囲(1683年)である。

当時、オーストリアは三十年戦争の余波から、まだ国勢が低迷していた。

これをスレイマン1世以来150年振りのオーストリア攻略の機と考えたオスマン帝国の将軍ムスタファ・パシャ(Mustafa Pasha)は、
15万人の軍勢を率い、オーストリア領内に侵攻を開始した。

1683年8月初頭に、ウィーンに到着したオスマン軍は直ちにウィーンを包囲したが、堅固な城塞と籠城軍の抵抗の前に攻めあぐねた。
包囲が1ヶ月に及んだ9月12日、オーストリアが要請したポーランド、ドイツ諸侯の援軍7万は、到着したその日の夕刻に突撃を開始した。

オスマン軍は大混乱となって包囲陣は崩壊、かくして第2次ウィーン包囲は失敗に終わった。
その後16年に及ぶ戦争の末、オスマン帝国は、1699年にハンガリー南部のカルロヴィッツで講和条約(Treaty of Karlowitz)を締結、戦争を終結させた。

この結果、オーストリアにオスマン帝国領ハンガリーを割譲するなど、オスマン帝国は、建国以来初めてヨーロッパ諸国に領土を割譲することになった。
これ以降ヨーロッパに対するオスマン帝国の脅威は薄れ、東欧では再びヨーロッパ諸国が支配的となった。


18世紀になると、オスマン帝国の封じ込めを狙ったロシア帝国の南下政策が始まった。

1774年の露土戦争(Russo-Turkish Wars)で、アゾフ海(Sea of Azov)をロシアに奪われ、
1792年にはクリミア半島を奪われ、オスマン帝国は黒海の制海権を失った。

アゾフ海から黒海へ、さらに地中海方面へ南下を進めるというロシアの南下政策にオスマン帝国は押される一方であった。

19世紀に入ってバルカン半島でナショナリズムが高揚すると、1821年 ギリシア独立運動が勃発。
イギリス、フランス、ロシア3国の支援により、ギリシアは1832年独立を達成した。

1876年には、ロシア南下対抗策でオスマン帝国憲法(Midhat ミドハト憲法)が発布されたが、
その後の露土戦争(1878年)の敗北により執行停止した。

一方、1908年に30年間執行停止中だったオスマン帝国憲法の復活を企図する青年トルコ革命(Young Turk Revolution)が勃発した。

青年将校、学生、知識人を主体とした革命軍が武装蜂起すると、アブデュルハミト2世(Abdul Hamid II 在位1876~1909)は憲法復活と議会の再開を宣言、
オスマン帝国は立憲制になった。

この青年トルコ革命に乗じて、1908年ブルガリアが独立した。



1912年バルカン戦争(Balkan Wars)が勃発。
ロシアの指導でブルガリア・モンテネグロ・ギリシア・セルビアが結成した
バルカン同盟(Balkan League)にオスマン帝国は敗北。

1913年、オスマン帝国は、イスタンブールを除くヨーロッパ領すべてを失うことになった。


1914年に勃発した第一次世界大戦では、オスマン帝国は同盟国側として参戦。

しかし1918年の敗戦に伴ってその国土は連合軍に支配され、オスマン帝国の領土は分割の危機に晒された。
このような中でケマル・パシャ(Kemal Pasha)によるトルコ革命(Turkish War of Independence)が発生し、
アンカラに新政権を樹立すると、1922年に帝政の廃止を宣言。

第36代メフメト6世(Mehmed VI 在位1918~1922)は廃帝となってマルタに亡命し、ここに623年続いたオスマン帝国は滅亡した。

1923年10月、トルコ共和国が成立、ケマル・パシャが初代大統領になった。
ケマル・パシャは、アンカラに首都を移し、政教分離、ラテン文字の採用などの大改革を行い、近代化を推し進めた。

第二次世界大戦後、トルコ共和国は、北大西洋条約機構 NATOの重要な一国として、またヨーロッパ共同体 EC (現ヨーロッパ連合 EU)
の準加盟国として今日にいたっている。


トルコ史
BC667年 ギリシア人によりビザンティウム(イスタンブールの古名)建設
BC338年 ギリシアはマケドニアの支配下にいる
BC146年 ギリシアとマケドニアがローマの支配下にいる
330年 コンスタンティヌス帝、首都を ローマからコンスタンティノープルに遷都
360年 コンスタンティウス帝によりアヤ・ソフィア大聖堂建立
380年 ローマ帝国キリスト教を国教化
395年 ローマ帝国が東西に分裂
395年 コンスタンティノープルが東ローマ帝国の首都となる
674年 ウマイヤ朝によるコンスタンティノープル包囲。東ローマ帝国はシリア、エジプト、北アフリカを失う
1071年 東ローマ軍セルジュク軍に敗れる。(小アジア、マンジケルトの戦い Battle of Manzikert)
1096年 第一次十字軍遠征(1096~1099)。(東ローマ帝国のローマ教会への十字軍派遣要請による)
1204年 第四次十字軍遠征(1202~1204)。ベネチアの教唆によりコンスタンティノープルを占領、ラテン帝国樹立
1261年 東ローマ帝国がコンスタンティノープル奪回
1299年 オスマン1世がアナトリア西部にオスマン帝国を樹立
1394年 バヤジット1世の治世、オスマン君主によるスルタンの称号が確立した
1453年 メフメト2世、コンスタンティノープル包囲戦。東ローマ帝国滅亡
1459年  セルビア併合
1460年  ギリシア併合 
1464年  ワラキア併合 
1475年  クリミア・ハン国併合 
1478年 トプカプ宮殿完成
1516年 セリム1世、マムルーク朝よりシリアを獲得
1517年 セリム1世、マムルーク朝を征服。エジプトを併合
1526年 スレイマン1世、ハンガリー侵攻、ベオグラード占領
1521年 ロードス島を攻略。聖ヨハネ騎士団を粉砕
1529年 第一次ウィーン包囲
1534年 イラクへ侵攻、バクダッド陥落
1534年 イスタンブールにコーヒーが伝来
1538年 プレヴェザの海戦で、スペイン・ベネチア・ローマ教皇の連合軍を破る。地中海の制海権を掌握
1541年  ハンガリー併合。アルジェリア征服 
1557年 スレイマン・モスク完成
1565年  トリポリ併合 
1570年 セリム2世、ベネチアからキプロスを奪う
1571年 レパントの海戦でスペイン・べネチア・ローマ教皇の連合艦隊に敗れ、地中海の制海権を失う
1574年 チュニジアを征服。北アフリカを全て支配化に
1638年  ムラト4世、バグダット占領、イラク併合 
1669年  メフメト4世、ベネチアからクレタ島獲得 
1683年  第ニ次ウィーン包囲失敗 
1687年  第二次モハーチの戦い(Second Battle of Mohacs)。ハンガリーを失う
1696年  ムスタファ2世、ロシアにアゾフ海を奪われる 
1699年 カルロヴィッツ条約の締結。ハンガリー・トランシルヴァニア、スロベニア、
クロアチアをオーストリアに、ベネチアにダルマティアを割譲。帝国解体が始まる
1700年 コンスタンティノープル条約でロシアにアゾフ海を割譲
1717年  アフメト3世、オーストリアにベオグラードを奪われる 
1718年  バッサロヴィッツ条約(Treaty of Passarowitz)。セルビア、ワラキアなどを失う 
1830年 マフムト2世、ロンドン会議でギリシアの独立、セルビアの自治権などを承認
1853年 アブデュル・メズット1世、クリミア戦争勃発
1876年 アブデュル・ハミト2世、ミドハト憲法発布
1877年 露土戦争で敗北
1878年 サン・ステファノ条約。ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認、ブルガリアへの自治権の付与
1878年 ベルリン会議。オーストリアのボスニア、ヘルツェゴビナに対する行政権。イギリスのキプロス島領有
1881年 チュニジアをフランスに割譲
1882年 エジプトをイギリスに割譲
1889年 オリエント急行開通
1908年 青年トルコ党蜂起。アブデュル・ハミト2世は退位
1908年 オーストリア・ハンガリー帝国はボスニア・ヘルツェゴビナ併合
1908年 ブルガリアが完全独立を宣言
1908年 クレタ島、ギリシアに併合
1911年 メフメト5世、イタリア・トルコ戦争(Italo-Turkish War)。イタリアにロードス島、トリポリなどを割譲
1912年 第一次バルカン戦争
1914年 青年トルコ党が政権樹立
1914年 第一世界大戦。オスマン帝国、ドイツ、オーストリアに加担参戦
1914年 イギリスがキプロス島を併合。エジプトを保護領化
1918年 オスマン帝国敗北
1919年 ギリシア、イズミルに侵攻。連合軍イスタンブル占領。セーブル条約締結
1922年 ケマル・パシャの指揮下でギリシアに勝利。スルタン制廃止
1923年 ローザンヌ条約締結。トルコ共和国成立。オスマン帝国消滅。ケマル・パシャ初代大統領就任
1923年 首都アンカラに遷都。




イスタンブールの猫

イスタンブールは、トルコ北西部、ボスポラス海峡に臨む都市。

街角を歩くと、至る所で路地猫に遭遇する。

イスラム教では、猫は神聖な生き物とされている。
イスラム教の開祖、ムハンマドが大変な猫好きだったからだ。

こんなエピソードが伝わっている。

一匹の猫がムハンマドの着ている衣の袖の上で眠っていた。
だがこの時、礼拝の時間が近づいていた。

ムハンマドは猫の眠りを妨げたくなかった。
そこで猫を起こさないようナイフで自分の服の袖を切り取って、礼拝に向かった。

このため、イスタンブールでは、街ぐるみで路地猫を保護している。
猫を大切に扱い、彼らに食事を与えることは善行とされているのだ。


イスタンブールの最大の観光名所といえば、ハギア・ソフィア教会。

ユスティニアヌス帝が建てた、巨大なドームをもつビザンツ式の建築。
直径30mの円屋根は、ロードス島で造られた軽いレンガでできている。

アクセスは、ハギア・ソフィアホテル(Hagia Sophia Hotel)から徒歩5分。
ホテルの部屋の窓からもハギア・ソフィア教会が眺められる。









トプカプ宮殿(Topkapi Palace)    

イスタンブールの東端に位置するトプカプ宮殿は、
歴代スルタンの居城として15世紀に建造された。

約70万平方メートルという広大な敷地内に、モスクや
議会も置かれ、それ自体、ひとつの町となっていた。

とりわけスルタンの側室たちが居住するハーレムは、
王が無制限の堕落にふける場所として知られている。

ハーレムは、約300人の女性と、70人ほどの警備を
担当するスラブ人の宦官によって構成されていた。

女性たちの多くは、異教徒との戦争で捕虜になった者、
奴隷商人から購入された者などが、ハーレムに入った。

彼女たちは、読み書き、刺しゅう、踊り、楽器演奏など
を学び、スルタンの目通りを待った。

女性たちは、最初は大部屋で暮らすことになるが、王の妻
に昇格すると、召使を持ち、優雅な生活が保障された。

なお現在のトプカプ宮殿は、博物館として公開され、宝物庫
には宝飾品、衣装、美術史的に貴重な磁器や細密画などがある。

また、この宮殿のあるイスタンブール旧市街は、1985年に
世界遺産の文化遺産として登録されている。

(住所:Topkapi Palace, Sultanahmet, Fatih, Istanbul, Turkey)