国名 | カンボジア王国 | ||||
英語 | Kingdom of Cambodia | ||||
首都 | プノンペン | ||||
独立年 | |||||
民族 | クメール人 | ||||
その他 | |||||
主要言語 | カンボジア語 | ||||
面積 | 18万1035km2 | ||||
人口 | 1520万6000(2013推計) | ||||
通貨単位 | リエル | ||||
宗教 | 仏教 | ||||
主要産業 | 農業(25.0%)工業(32.7%) | ||||
サービス業(42.3%) |
地理
カンボジアは、アンナン山脈などの低い山脈に囲まれて広がる
中央平野が国土の約 4分の3を占め、その東部寄りを北から南へメコン川が貫流する。
西部にはトンレサップ川によってメコン川と結ばれたトンレサップ湖が
横たわり、メコン川の洪水を制御する天然の調節池の役割を果たしている。
プノンペンはメコン川の河港都市で、トンレサップ川が合流し、
バサック川が分流する地点に位置する。
全土が熱帯季節風気候で、年中高温が続く。メコン川がもたらす肥沃な土壌に恵まれた
農業国で、イネを中心に、トウモロコシ、ワタ、タバコ、ゴム、コショウなどが栽培される。
メコン川、トンレサップ湖では漁業が盛ん。
世界遺産のアンコール遺跡が重要な観光収入となっている。
歴史
100年、メコン川流域に扶南(ふなん)国が興り、メコン・デルタ地帯を領域として繁栄したが、
7世紀にいたって衰退した。
802年成立したクメール王国(クメール朝)は大帝国を築いたが、1353年からシャム(タイ)
さらにベトナムによる侵略が始まった。
1431年、タイ・アユタヤ朝の侵攻で首都アンコールが陥落。その後も国内は混乱した。
1863年、フランスの保護国となる。1887年、フランス領インドシナに編入される。
1945年3月日本軍によるフランス植民地解体に伴い、シアヌーク国王が独立を宣言。
1953年完全独立を獲得。
1965年、隣国でベトナム戦争が勃発。北ベトナムは、南ベトナムの解放戦線を支援するため、
カンボジアの領内を通って物資を輸送した。
そこでアメリカは、カンボジアが北ベトナムを支援しているとみなし、カンボジアの軍人ロン・ノルを扇動し、
クーデターを起こさせた。
1970年、親米のロン・ノル将軍が実権を把握。
北京に亡命したシアヌークは、共産主義者ポル・ポトと組んで反ロン・ノル運動を展開、国内は内戦状態となった。
1975年、ポル・ポトがプノンペンを陥落させ実権を掌握。民主カンボジア政府(ポル・ポト政権)が成立した。
一方、シアヌークは王宮に幽閉されてしまった。
毛沢東の改革思想に傾倒するポル・ポトは、原始共産主義という思想に基づき、これまでの社会を真っ向から否定した。
ポル・ポトは内戦で荒廃した国を再建するため、都市の住民を農村に移住させ、ダム建設や米作りなどの重労働を課した。
だが人々はおかゆしか与えられず、飢餓や重労働で死亡した人数は、およそ300万人にのぼると言われる。
一方、資産家や知識人は排除され、次々と処刑された。
ポル・ポトは差別のない社会を目指していた。資本主義においては、個人が資産を築くことは自由であるが、
原始共産主義では、頭を使って富を築くのは自分勝手で堕落した人間の象徴として扱われたのである。
1979年、ポル・ポト政権の幹部だったヘン・サムリンがベトナムに助けを求め、
ベトナム軍がカンボジアに侵攻しプノンペンを攻略。ヘン・サムリン政権が成立。
1982年、ポル・ポト派の残党が巻き返しを図り、サムリン政権と内戦状態に入る。
1991年、パリで和平協定が調印され、9年に及ぶ内戦が終結。
1993年、ポル・ポト派抜きの制憲議会選挙を実施。
シアヌーク派が第一党となり、シアヌーク国王が即位しカンボジア王国が成立した。
100年 | メコン川下流域に扶南国成立(〜7世紀) | |
802年 | カンボジア、ジャヤバルマン2世即位。クメール朝興る(〜1431年) | |
1057年 | ビルマ・パガン朝、カンボジアを征服 | |
1057年 | ビルマ・パガン朝、アノーラター王、シュエダゴン・パゴダを創建 | |
1113年 | クメール朝、スーリヤバルマン2世即位。アンコール・ワットを建設 | |
1353年 | シャム(タイ)軍のアンコール攻略始まる | |
1431年 | 首都アンコール陥落。クメール朝の滅亡。 | |
1863年 | フランス、カンボジアを保護領とする | |
1887年 | フランス領インドシナ連邦成立(〜1945年) | |
1940年 | (昭和15) 日本軍、フランス領インドシナに進駐(9月23日)(北部仏印進駐) | |
1953年 | カンボジア王国として独立。元首シアヌーク | |
1967年 | 東南アジア諸国連合 ASEAN結成(8月8日) | |
1970年 | ロン・ノル親米派クーデター。シアヌーク国家元首を解任、共和制に移行。(3月18日) | |
1975年 | カンボジア民族統一戦線(クメール・ルージュ)がプノンペン占領。内戦終結(4月17日) | |
1976年 | 民主カンボジア政府(ポル・ポト政権)成立(4月13日) | |
1979年 | ベトナム軍、カンボジア侵攻。ヘン・サムリン政権、カンボジア人民共和国を樹立(1月11日) | |
1982年 | ポル・ポト派残党とサムリン政権との間で内戦が始まる(6月22日) | |
1991年 | パリ和平協定調印(10月23日) | |
1993年 | カンボジア総選挙(5月23日)カンボジア王国成立。元首シアヌーク |
アンコール・ワット(Angkor Wat)
クメールの微笑み(Smiling Stone Faces)
クメールの微笑みと呼ばれる人面像は、寺院の中に49体置かれている。
これらの像は、観音菩薩を模しているとされ、国中の人々に慈悲の心が届くように
顔は東西南北全ての面に彫られている。
石像は一枚岩ではなく、近くで見ると大きな砂岩を積み重ねて作られていることが良く分かる。
これらの砂岩は、数十キロ先から象によって運ばれてきたという。
タ・プローム(Ta Prohm)
タ・プロームは、かつてヒンドゥー教の僧侶たちが暮らしていた寺院跡である。
往時には、僧侶5000人、舞姫600人が住んでいたという。
ガジュマルの木による浸食が激しく、今にも崩壊してしまいそうな姿が印象的だ。
クメール王国は、最盛期にはインドシナ半島の大部分とマレー半島の一部
までを領土とした大帝国であった。
アンコール遺跡は、9世紀から600年間、カンボジアに君臨したクメール王国の栄華を極めた
建造物だったが、戦乱によって人々は離散し、廃墟と化してしまった。
相次ぐ大寺院の建設が国民の力を使い果たし、国力を衰えさせてしまい、
領土を守りきれなくなったのだろう。
巨大に成長したガジュマルに押しつぶされながらも、かろうじて体裁を保っている寺院や、
苔むした石像は、長い歴史における一国の興亡、一族の栄枯盛衰を如実に物語っている。
(住所:Angkor Thom Angkor Archeological Park, Krong Siem Reap, Cambodia)