| 国名 | エジプト・アラブ共和国 | |
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| 英語 | Arab Republic of Egypt | |||
| 首都 | カイロ | |||
| 独立年 | 1922年(エジプト王国) | |||
| 民族 | アラブ人 | |||
| その他 | (他に少数のヌビア人、アルメニア人、ギリシア人) | |||
| 主要言語 | アラビア語 | |||
| 面積 | 99万6603km2 | |||
| 人口 | 8501万7000(2013推計) | |||
| 通貨単位 | エジプト・ポンド | |||
| 宗教 | イスラム教(スンニ派)、キリスト教(コプト派) | |||
| 主要産業 | 綿花、紡織、鉄鋼、肥料 |

地理
南北に貫流するナイル川渓谷とデルタ地帯以外は
国土の大部分(96%)が砂漠である。
ナイル川流域は豊富な流水量により肥沃で、就業人口の約 25%は農業に従事している。
ナイル川河口の東にスエズ運河があり、紅海と地中海を結ぶ。
上流には、アスワンハイダムによりできたナセル湖がある。
国土の大半は、降水量が少なく高温乾燥が激しい砂漠気候である。
北部の地中海沿岸は、冬季に降雨があり、温和な地中海性気候である。
農作物は、綿花が輸出額の多くを占め、ほかにコムギ、米、果実、野菜、豆など。
工業品は、紡織、食品、鉄鋼、肥料、製糖などが行なわれ、アフリカでは有数の工業水準にある。
住民の大部分は古くからの先住民や、イスラム教の侵入後相次いだ
アラブ人の移住者の混合からなる。公用語は方言化したアラビア語。
住民の約 80%はスンニ派のイスラム教徒で、ほかはキリスト教徒
とユダヤ教徒。キリスト教徒のほとんどはコプト派である。

歴史
メソポタミア文明
BC7000年、ティグリス・ユーフラテス川の流域、
メソポタミアの丘陵地帯に世界最古の文明が発祥し、
BC5000年にはシュメール人が灌漑農業の社会を形成した。
メソポタミアとは、現在のトルコ東部山中の水源から
シリア北部を通過して、イラク領内に入り、バスラ(Basra)
付近で合流してぺルシア湾に注ぎ込むティグリス川(Tigris)
と、ユーフラテス川(Euphrates)に挟まれた地域を指す。
バグダッド付近から北部はアッシリア(Assyria)、
南部はバビロニア(Babylonia)と呼ばれ、
バビロニア地方はさらに聖都ニップル(Nippur)から
北部はアッカド(Akkad)、南部はシュメール(Sumer)と呼ばれた。
人類最初の都市文明が開化したのは南部のシュメールで、BC3500年頃であった。
シュメール人は、楔形文字、太陰暦、60進法を発明しており、これらはシュメール文化と総称される。
それから約千年間シュメール・アッカドの地が文化の中心であったが、BC1757年、バビロニア王国(Babylonia)
のハンムラビ王(Hammurabi)がメソポタミアを統一して以来、バビロニア文化が当時の世界の頂点に立ち、
その影響は、東はイラン西部のエラム(Elam)、西は地中海沿岸地方からトルコ中央部の
アナトリア高原(Anatolian Plateau)にまで及んだ。
エジプト文明とその歴史
エジプトは、メソポタミアと同じように早くから国家形成が進んだ。
メソポタミアの農民が最初にナイル川流域に入ったのは、BC5500年頃であり、このとき肥沃な三日月地帯の
食料生産システムをエジプトに伝播させた。
エジプトのナイル渓谷は、肥沃な三日月地帯のティグリス、ユーフラテス渓谷と環境が似ており、ティグリス、
ユーフラテス渓谷で育った農作物はナイル渓谷でも良好に育った。
いくつかの地域に人口が集中して村ができ、都市が形成され、人々は、互いの結びつきを強めていった。
| 時代区分 | 王朝 | 存続期間 | 支配地域 | 象徴する文化・美術 |
| 初期王朝 | 第1王朝 | BC3100年-BC2890年 | 上下エジプト | 王権の象徴としての |
| 首都はメンフィス | ナルメル・パレット | |||
| 第2王朝 | BC2890年-BC2686年 | 上下エジプト | 神権政治と官僚制度の確立 | |
| 古王国 | 第3王朝 | BC2686年-BC2613年 | 下エジプト中心 | 初の石造建築: |
| ジェセル王の階段ピラミッド | ||||
| (サッカラ) | ||||
| 第4王朝 | BC2613年-BC2494年 | ギザ周辺を含む | ギザの三大ピラミッドと | |
| 全土 | スフィンクス | |||
| 第5王朝 | BC2494年-BC2345年 | ナイル流域 | 太陽神ラー信仰の強化、 | |
| 太陽神殿の建設 | ||||
| 第6王朝 | BC2345年-BC2181年 | 上下エジプト | 墓の装飾美術、 | |
| ピラミッド・テキスト | ||||
| 第一中間期 | 第7王朝 | BC2181年-BC2173年 | 地方分裂状態 | 墓の簡素化 |
| 第8王朝 | BC2173年-BC2160年 | |||
| 第9王朝 | BC2160年-BC2122年 | |||
| 第10王朝 | BC2122年-BC2035年 | |||
| 中王国 | 第11王朝 | BC2035年-BC1985年 | 首都はテーベ | 岩窟墓と葬祭殿の融合 |
| (デイル・バハリ) | ||||
| 第12王朝 | BC1985年-BC1773年 | 再統一された | 文学・写本芸術の発展 | |
| エジプト全土 | (『シヌヘの物語』など) | |||
| 第二中間期 | 第13王朝 | BC1773年-BC1650年 | 再び分裂傾向 | 中王国様式の彫刻(写実的表現) |
| 第14王朝 | BC1710年-BC1650年 | 下エジプト | 庶民的陶器と簡素な埋葬文化 | |
| 第15王朝 | BC1650年-BC1530年 | ヒクソス支配 | ヒクソス文化の影響(馬・戦車) | |
| 下エジプト | ||||
| 第16王朝 | BC1650年-BC1580年 | 上エジプトの | 素朴な陶器・地方的装飾 | |
| 地方政権 | ||||
| 第17王朝 | BC1580年-BC1550年 | テーベ中心、 | 葬儀用マスク・武器の発展 | |
| ヒクソスと対立 | ||||
| 新王国 | 第18王朝 | BC1550年-BC1292年 | 首都はアマルナ 最大領土を支配 |
アマルナ美術 |
| (写実的かつ個性的)、 | ||||
| 神殿建築の拡張 | ||||
| 第19王朝 | BC1292年-BC1189年 | ナイル全域、 | 戦勝記念碑や神殿 | |
| シリアに遠征 | (アブ・シンベル)、 | |||
| レリーフ美術 | ||||
| 第20王朝 | BC1189年-BC1077年 | エジプト全土 | ラムセス3世神殿と戦闘レリーフ、 | |
| 王墓装飾の精緻化 | ||||
| 第三中間期 | 第21王朝 | BC1077年-BC943年 | テーベとタニスの二重政権 | 神殿芸術の復古的表現、葬祭用彫像 |
| 第22王朝 | BC943年-BC716年 | リビア人系、 | リビア風の彫刻、簡素な神殿装飾 | |
| デルタ地帯 | ||||
| 第23王朝 | BC837年-BC728年 | 上エジプト中心 | 地方分権化に伴う美術の多様化 | |
| 第24王朝 | BC732年-BC720年 | サイス地方 | 短命で遺構ほぼ無し | |
| 第25王朝 | BC747年-BC664年 | ヌビアからの支配 | ヌビア様式のピラミッドと | |
| 彫刻(クシュ文化) | ||||
| 末期王朝 | 第26王朝 | BC664年-BC525年 | 再統一後の全土 | サイス様式の復古美術 |
| (古王国様式の模倣) | ||||
| 第27王朝 | BC525年-BC404年 | アケメネス朝 | ペルシャ様式との融合 | |
| ペルシアの支配 | (碑文・王像) | |||
| 第28王朝 | BC404年-BC399年 | 下エジプト | 土着風の装飾とペルシャ影響 | |
| 第29王朝 | BC399年-BC380年 | 下エジプト | 装飾建築と王の彫像 | |
| 第30王朝 | BC380年-BC343年 | 下エジプト | ネクタネボの神殿建築(復古様式) | |
| 第31王朝 | BC343年-BC332年 | 再度ペルシア支配 | 再びペルシャ支配、芸術停滞 | |
| プトレマイオス朝 | プトレマイオス朝 | BC332年-BC30年 | エジプト全土 | ギリシア・エジプト融合芸術 |
| (アレクサンドリアの大灯台、 | ||||
| 神殿装飾) |
BC3100年、ナイル上流のティニス(Thinis)出身のメネス(Menes)王が
下エジプト(ナイル下流のデルタ地域)を征服し、メンフィスを都とし、
エジプト第1王朝が発足した。
その後古王国時代、中王国時代を経て、BC1550年、新王国時代を迎え、
諸国の優位に立ち、次いで末期王朝時代に入った。
このうち古王国時代(第3-6王朝)は別名「ピラミッド時代」といわれ、
王権が確立し、王墓としてのピラミッドが盛んに建造された。
王は単なる統治者ではなく、神の化身(ホルス神の化身)とされ、
国家の土地と人民を支配する絶対的な存在であった。
また宰相をはじめとする高級官僚や神官が王を支えた。
彼らは王族や有力貴族で占められ、全国の行政や徴税、
ナイル川の治水などを管理した。
神殿や墓の壁面に刻まれる象形文字(ヒエログリフ)が整備され、
文学の揺籃期にあたる讃歌や祈祷文などが生まれた。
この象形文字を記録するのがパピルス紙で、ナイル川の流域に
大量に生える水草パピルスの茎を乾燥させて作られた。
このパピルス紙はメソポタミアの粘土板や石板よりはるかに薄くて軽く、
古代エジプト文明最大の発明ともいわれる。
なお、英語のペーパーはパピルスからきた言葉である。
中王国時代(第11-12王朝)は、古王国時代のような巨大ピラミッドは
造られなくなり、王墓の規模は小さくなった。
代わりにカイロの南西にあるファイユーム地方(Faiyum)の大規模な
治水・開墾事業など、国力の発展が図られた。
BC1650年、シリア・パレスチナ方面から馬と戦車を駆使する
遊牧異民族ヒクソス(Hyksos)が侵入し、第15王朝を建設、
エジプトの大部分を支配した。
BC1550年、テーベを中心とする勢力が、ヒクソスを放逐して
南北エジプトを再統一した。
その後の新王国時代(第18-20王朝)は、古代エジプト文明が最大級の
領土拡大と高度な文化的な繁栄を迎えた「黄金期」となった。
二輪戦車(チャリオット)などの軍事技術を取り入れ、
シリアやパレスチナなどのレバント地方(中東)や
南方のヌビア(Nubia 現スーダン)へと領土を広げた。
トトメス3世(Thutmose III)は「エジプトのナポレオン」とも呼ばれ、
この時代のエジプトは国際的な大国となった。
ピラミッドに代わり、権力誇示のためルクソール神殿や
カルナック神殿といった壮大な大神殿が建設された。
エジプト史上初の女性ファラオであるハトシェプスト(Hatshepsut)、
豪華な出土品で有名なツタンカーメン(Tutankhamun)など
個性豊かな王が誕生した。
アメンホテプ4世(Amenhotep IV)は、従来の多神教を廃止し、
太陽神アトンのみを信仰する一神教的な宗教改革を行い、
首都をアマルナへ遷都した。(アマルナ宗教改革)
しかし末期王朝時代(第26-31王朝)に入ると新興諸国の勢力に
押されて衰退し、BC525年にはアケメネス朝ペルシアに支配され、
その後アレクサンドロス3世、プトレマイオス朝、ローマの支配を経て、
641年以後イスラム帝国下にくだった。
次いでオスマン帝国、ナポレオン1世のフランス、
そして近代ヨーロッパ諸国の圧迫を受け、1822年民族運動の反乱を
鎮圧したイギリスの支配下に入った。
40年間に及ぶイギリス保護領を経たのち、1922年民族運動の高揚により、
エジプト王国としてイギリスより名目的独立を得た。
1953年ガマル・アブドゥル・ナセルによるエジプト革命によって
共和国を宣言、さらにナセルは、1875年以来イギリス系の会社によって
管理されていたスエズ運河をスエズ動乱後に国有化し、
名実ともに完全独立を達成した。
1958年アラブ連合共和国となり、1971年にはエジプト・アラブ共和国と
国名を変更。
1948年以後は中東戦争勃発によりイスラエルとの緊張が高まったが、
1979年3月、キャンプ・デービッド合意に基づき
イスラエルと平和条約を締結。そのためアラブ世界で一時孤立したが、
1989年アラブ首脳会談でアラブ社会に復帰した。
1990年に勃発した湾岸戦争では多国籍軍に参加、
以後、ホスニ・ムバラク大統領のもとアメリカ合衆国主導の
中東和平に協力して国際社会での存在感を高めた。

しかし国内ではイスラム過激派のテロリズムが多発、強権的な政権運営にも批判が高まり、2011年、前年にチュニジアでわき起こった
反独裁政権運動がエジプトにも及んで、30年にわたったムバラク政権は打倒された(アラブの春)
スエズ運河(Suez Canal)
エジプト北東部にあり、地中海と紅海を結ぶ全長約193キロの運河。
フランス人元外交官レセップスが事業を手掛け1869年に開通、アフリカを回らずに欧州とアジアを結ぶ世界の海上交通の要衝となった。
1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言すると、スエズ運河会社の大株主であった英仏はこれに反発し、
運河地帯に出兵、第2次中東戦争(スエズ動乱)に発展した。
その後、英仏は国際世論に屈して撤兵したため、エジプトはスエズ運河の主権を回復。この戦乱でスエズ運河は5ヵ月間閉鎖された。
スエズ運河庁によると、2020年の年間通航量は約1万9千隻で、1日平均約50隻が通過した。
| エジプト史 | ||
| BC5000年 | ナイル川流域でエジプト人による農耕が始まる | |
| 初期王朝時代(BC3100-BC2686)第1-2王朝 | ||
| BC3100年 | メネス王がエジプトを統一。首都メンフィス(Memphis) | |
| 古王国時代(BC2686-BC2181)第3-6王朝 | ||
| BC2550年 | クフ王(Khufu)がギザ(El Giza)にピラミッドを建設 | |
| 第1中間期 (BC2181-BC2035)第7-10王朝 | ||
| 中王国時代(BC2035-BC1773)第11-12王朝 | ||
| 第2中間期 (BC1773-BC1550)第13-17王朝 | ||
| 新王国時代(BC1550-BC1077)第18-20王朝 | ||
| BC1472年 | ハトシェプスト女王(Hatshepsut)即位 | |
| BC1400年 | アメンホテプ4世が多神教をアトン一神教に改め、アマルナに遷都 | |
| BC1350年 | ツタンカーメン王、即位 | |
| BC1279年 | ラムセス2世、即位 | |
| モーセ(Moses)に率いられてヘブライ人の出エジプトがおこる | ||
| 第3中間期 (BC1077-BC664)第21-25王朝 | ||
| 末期王朝時代(BC1069-BC332)第26-31王朝 | ||
| アケメネス朝属州(BC525-BC404)第27王朝 | ||
| アケメネス朝属州(BC343-BC332)第31王朝 | ||
| BC332年 | マケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトを征服 | |
| プトレマイオス朝(BC332-BC30) | ||
| BC305年 | プトレマイオスがアレクサンドリアを首都と してプトレマイオス朝をおこす | |
| BC48年 | シーザー、アレクサンドリアに上陸 | |
| BC30年 | クレオパトラ7世、オクタヴィアヌスの率いるローマ軍に敗れる | |
| ローマ帝国属州(BC30-395) | ||
| ビザンツ帝国属州(395-641) | ||
| イスラム属州(641-969)ウマイヤ朝、アッバース朝 | ||
| ファーティマ朝(969-1171) | ||
| 969年 | ファーティマ朝がエジプトを支配し、カイロを新都とする | |
| アイユーブ朝(1171-1250) | ||
| 1171年 | サラディンがエジプトのイスラム教スンニ派王朝のアイユーブ朝を建てる | |
| 1187年 | サラディンが十字軍からイェルサレムを奪回 | |
| マムルーク朝(1250-1517) | ||
| 1250年 | エジプトにイスラム教スンニー派王朝のマムルーク朝が成立する。首都はカイロ | |
| オスマン帝国属州(1517-1882) | ||
| 1798年 | ナポレオンのエジプト遠征 | |
| 1799年 | ロゼッタ・ストーンの発見 | |
| 1831年 | 第一次エジプト・トルコ戦争が起きる(-1833) | |
| 1839年 | 第二次エジプト・トルコ戦争が起きる(-1840) | |
| 1869年 | スエズ運河の完成 | |
| 1875年 | イギリスがスエズ運河会社の株式をエジプトから買収する | |
| イギリス属州(1882-1922) | ||
| 1882年 | イギリス、エジプトを保護国化 | |
| エジプト王国(1922-1953) | ||
| 1922年 | エジプトがイギリスから独立する | |
| 1948年 | 第一次中東戦争起こる | |
| 1952年 | ナセルを中心とする自由将校団によるエジプト革命が起こる | |
| 1953年 | エジプト共和国(1953-1958年)成立 | |
| 1956年 | ナセルが大統領に就任。スエズ運河国有化を宣言。 | |
| 1956年 | イスラエルとエジプトの間でスエズ戦争(第二次中東戦争)が起こる(-1957) | |
| 1958年 | エジプトとシリアが合併し、アラブ連合共和国(1958-1961年)成立 | |
| 1961年 | シリアがアラブ連合共和国から分離 | |
| 1967年 | 第三次中東戦争。(シナイ半島をイスラエルに奪われる) | |
| 1970年 | ナセル、死去(後任にサダト大統領が就任) | |
| 1971年 | 国名を、エジプト・アラブ共和国に改称 | |
| 1973年 | イスラエルとエジプト・シリアの間で第四次中東戦争が起こる(第一次石油危機) | |
| 1978年 | キャンプ・デービット合意 | |
| 1978年 | サダト大統領、ノーベル平和賞受賞 | |
| 1979年 | イスラエル(ベギン)との間で歴史的なエジプト・イスラエル平和条約締結 | |
| 1979年 | アラブ連盟から追放される | |
| 1981年 | サダト大統領暗殺される(後任にムバラク大統領が就任) | |
| 1982年 | シナイ半島がイスラエルから返還される | |
| 1989年 | アラブ連盟に復活 | |
| 1990年 | イラクによるクウェート侵攻 | |
| 1991年 | 湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍に協力する | |
| 1993年 | PLOとイスラエルがパレスティナ暫定自治合意協定に調印 | |
| 1995年 | パレスティナ拡大自治協定調印 | |
| 1995年 | イスラエル首相ラビンがユダヤ教徒過激派により暗殺される | |
| 1997年 | カイロ博物館で観光バスが襲撃され、10人死亡 | |
| 1997年 | ルクソール(Luxor)でイスラム原理主義者によるテロ事件発生。62名死亡 | |
| 1999年 | ムバラク大統領4選(任期6年だから2005年までの予定) | |
| 2010年 | ジャスミン革命「アラブの春」 | |
| 2011年 | ムバラク失脚 |

ハトシェプスト(Hatshepsut)
BC1500年の昔、古代エジプトの「新王国時代」は、長い異民族の支配から脱し、
固有の王朝をうちたてた時代として、特異な時代だったといわれる。
他民族との貿易も盛んであり、国内においては、銅山や石切り場の開発を
進めるなど、産業も盛んであった。
それをなしとげたのが、古代エジプト王朝で、唯一の女王といわれる、
ハトシェプスト(Hatshepsut 在位BC1472-BC1458)であった。
ハトシェプストは今から3500年前、BC1503年に父トトメス1世(Thutmose I)の第一王女として生まれた。
ハトシェプストが生まれたのは、エジプト第18王朝が版図を拡大しつつある時代だった。
トトメス1世は、優秀な軍人でもあり、幾度となく遠征を行い、沢山の戦利品や捕虜を連れ戻った。
このような父王の姿は、そのままハトシェプストの人生の理想の姿となった。
父トトメス1世を敬愛して成長する少女ハトシェプストの夢は、父のように立派で勇ましい王となること。
しかし当時のエジプトで女性は王位につくことはできなかった。
ファラオは「ホルス神の息子」であり、男性でなくてはならなかったからである。
父トトメス1世は13年の治世のあと、BC1493年に没した。
王家の慣習に基づいて当時10歳のハトシェプストは、3歳年下の弟、
トトメス2世を婿として「王妃」となった。
彼女は、幼い王トトメス2世を励まし、母とともにエジプトの政治を支えた。
実際、トトメス2世の名でだされた指令のほとんどがハトシェプストの指令であった。

カルナック神殿の増築、対外遠征など病弱なトトメス2世の補助という形で
政治にはかなり関与していた。
だがトトメス2世と王妃ハトシェプストの間には、王女は一人いたが、王子はいなかった。
王が21歳で若死にしたあと側室の子トトメス3世が2歳で即位した。
しばらくは王妃ハトシェプストが後見人として幼い王を助けた。
彼女はこの時から「ファラオ」になるための準備をすすめていく。
最初のうちこそ伝統を踏襲し、義理の息子の代理として振るまったハトシェプストだが、
後見人の役割を超える支配力を見せるまでに、さほど時間はかからなかった。
7年後、ハトシェプストは王宮内の反対勢力を懐柔し、王として国政を掌握することを宣言、
遂にファラオの座に上り詰めた。ハトシェプスト31歳の時である。
古代エジプトでも屈指の繁栄を誇った第18王朝時代にあって、ハトシェプストはとりわけ壮大な建築事業に力を注いだ。
シナイ半島からナイル川上流域のヌビア地方まで、数々の神殿を修復し、新たに造営した。
偉大な神アメンを祭った広大なカルナック神殿には、花崗岩のオベリスク(記念碑)を4本建立した。
数あるオベリスクの中でも、屈指の壮麗さを誇るものだった。
ハトシェプストの治世は総じて穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。
しかし、それは同時にエジプトの国威の低下を招くことになった。
ハトシェプストがファラオに即位してから12年後、エジプトの植民地で叛乱が勃発した。
この時、長く辺境の地で軍隊生活をしていたトトメス3世が呼び戻され、共同統治宣言をし、
ハトシェプストの名で叛乱の鎮圧に乗り出した。
このことで軍隊の将校達の人気が一気にトトメス3世のところへ集り、トトメス3世を擁立する勢力が大きくなっていった。
BC1458年、トトメス3世はクーデターをおこし、王座に帰り咲いた。
ハトシェプストは亡くなった。クーデターで殺されたのか、病死なのかはわからない。
トトメス3世は葬式はファラオにふさわしく行ったと伝えられる。
ハトシェプスト享年45歳であった。
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ハトシェプスト(Hatshepsut BC1503-BC1458)
古代エジプト第18王朝5代目のファラオ(在位BC1472-BC1458)
夫トトメス2世(ThutmoseⅡ 在位BC1493-BC1479)の没後、甥トトメス3世(在位BC1479-BC1472、BC1458-BC1425)
の摂政に任命され、やがてみずからファラオにつき、女王として先例のない権力を掌握、内治と経済復興に力を注ぎ、
臣下たちに献身的な奉仕を強いた。
また紅海を下ってプント(Punt 現ソマリア)との交易に力を入れ、カルナック神殿(Karnak temple)に
オベリスクを建造(1本は現存)。
ハトシェプストが統治した時期は、14年間で終わりを告げ、息子のトトメス3世に王位を奪われて失脚する。
対外遠征17回、エジプトのナポレオンとも言われるトトメス3世に比べて、彼女の統治した14年間は、平和そのものであった。

カルナック神殿 (Karnak Temple)
エジプト、ナイル川東岸テーベの北部カルナックにあるアモン(Amun)神を祀る神殿。
創建は第12王朝時代。
中王国時代には地方神であったが、テーベ(Thebes)が首都になると、アモン神は太陽神ラー(Ra)と合体、
国家最高神となった。
新王国時代にはハトシェプスト女王(Hatshepsut)、トトメス3世(ThutmoseⅢ)、セティ1世(Seti I)、
ラムセス2世(RamsesII)などが主な神殿を建立。
その後も建造が進み、プトレマイオス王朝(Ptolemaic dynasty)やローマ帝国時代の遺跡も残る
エジプト最大級の神殿となった。
またルクソール神殿(Luxor Temple)との間を結ぶ長さ約3kmの参道の両脇には、アモン神の象徴である
「羊頭のスフィンクス像」が並んでいる。
古代エジプト人はこの「スフィンクス参道(Sphinx Alley)」を往来して神殿に行き、礼拝したという。