国名 エジプト・アラブ共和国             
英語 Arab Republic of Egypt  
首都 カイロ  
独立年 1922年(エジプト王国)  
民族 アラブ人  
その他 (他に少数のヌビア人、アルメニア人、ギリシア人)  
主要言語 アラビア語  
面積 99万6603km2  
人口 8501万7000(2013推計)  
通貨単位 エジプト・ポンド  
宗教 イスラム教(スンニ派)、キリスト教(コプト派)  
主要産業 綿花、紡織、鉄鋼、肥料  





地理

南北に貫流するナイル川渓谷とデルタ地帯以外は
国土の大部分(96%)が砂漠である。

ナイル川流域は豊富な流水量により肥沃で、就業人口の約 25%は農業に従事している。

ナイル川河口の東にスエズ運河があり、紅海と地中海を結ぶ。
上流には、アスワンハイダムによりできたナセル湖がある。

国土の大半は、降水量が少なく高温乾燥が激しい砂漠気候である。
北部の地中海沿岸は、冬季に降雨があり、温和な地中海性気候である。

農作物は、綿花が輸出額の多くを占め、ほかにコムギ、米、果実、野菜、豆など。
工業品は、紡織、食品、鉄鋼、肥料、製糖などが行なわれ、アフリカでは有数の工業水準にある。

住民の大部分は古くからの先住民や、イスラム教の侵入後相次いだ
アラブ人の移住者の混合からなる。公用語は方言化したアラビア語。

住民の約 80%はスンニ派のイスラム教徒で、ほかはキリスト教徒
とユダヤ教徒。キリスト教徒のほとんどはコプト派である。



歴史

ナイル川によってもたらされた流域地帯の農耕文化は世界最古の文明の一つを生み、
以後幾多の王朝により、この文明は引き継がれていった。

BC3100年、上エジプトのティニス(Thinis)出身のメネス(Menes)により王朝時代が幕を開け、
その後古王国時代、中王国時代を経て、BC1650年新王国時代を迎え、諸国の優位に立ち、次いで末期王朝時代に入った。

このうち古王国時代(第3〜6王朝)は別名「ピラミッド時代」といわれるように王権が確立し、
王墓としてのピラミッドが盛んに建造された。

また中王国時代(第7〜11王朝)は、ファイユーム地方(Faiyum)の開拓により農業生産力が増大し、繁栄を取り戻した。

西アジアからの侵入民族を追放したあとの新王国時代(第12〜20王朝)は、西アジアやヌビア(Nubia 現スーダン)
に進出した時代で、特にトトメス3世(Thutmose III)やラムセス2世(Ramesses II)が名高い。

また宗教改革を断行したアメンホテプ4世(Amenhotep IV)やアマルナ美術(Tell el-Amarna)の系統をひく
豪華な出土品で有名なツタンカーメン王(Tutankhamun)もこの時代の王である。


しかし末期王朝時代(第21〜26王朝)に入ると新興諸国の勢力に押されて衰退し、BC525年にはアケメネス朝ペルシアに支配され、
その後アレクサンドロス3世、プトレマイオス朝、ローマの支配を経て、641年以後イスラム帝国下にくだった。

次いでオスマン帝国、ナポレオン1世のフランス、そして近代ヨーロッパ諸国の圧迫を受け、
1822年民族運動の反乱を鎮圧したイギリスの支配下に入った。

40年間に及ぶイギリス保護領を経たのち、1922年民族運動の高揚により、エジプト王国としてイギリスより名目的独立を得た。


1953年ガマル・アブドゥル・ナセルによるエジプト革命によって共和国を宣言、さらにナセルは、1875年以来
イギリス系の会社によって管理されていたスエズ運河をスエズ動乱後に国有化し、名実ともに完全独立を達成した。

1958年アラブ連合共和国となり、1971年にはエジプト・アラブ共和国と国名を変更。

1948年以後は中東戦争勃発によりイスラエルとの緊張が高まったが、1979年3月、キャンプ・デービッド合意に基づき
イスラエルと平和条約を締結。そのためアラブ世界で一時孤立したが、1989年アラブ首脳会談でアラブ社会に復帰した。

1990年に勃発した湾岸戦争では多国籍軍に参加、以後、ホスニ・ムバラク大統領のもとアメリカ合衆国主導の
中東和平に協力して国際社会での存在感を高めた。

しかし国内ではイスラム過激派のテロリズムが多発、強権的な政権運営にも批判が高まり、2011年、前年にチュニジアでわき起こった
反独裁政権運動がエジプトにも及んで、30年にわたったムバラク政権は打倒された(アラブの春)。


  エジプト史
  BC5000年 ナイル川流域でエジプト人による農耕が始まる
  初期王朝時代(BC3100〜BC2686)第1〜2王朝
  BC3100年 メネス王がエジプトを統一。首都メンフィス(Memphis)
  古王国時代(BC2686〜BC2181)第3〜6王朝
  BC2550年 クフ王(Khufu)がギザ(El Giza)にピラミッドを建設
  中王国時代(BC2181〜BC1650)7〜11王朝
  新王国時代(BC1650〜BC1069)12〜20王朝
  BC1500年 ハトシェプスト女王(Hatshepsut)即位
  BC1400年 アメンホテプ4世が多神教をアトン一神教に改め、アマルナに遷都
  BC1350年 ツタンカーメン王、即位
  BC1279年 ラムセス2世、即位
  モーセ(Moses)に率いられてヘブライ人の出エジプトがおこる
  末期王朝時代(BC1069〜BC525)21〜26王朝
  アケメネス朝属州(BC525〜BC332)27〜31王朝
  BC332年 マケドニアのアレクサンドロス大王がエジプトを征服
  プトレマイオス朝(BC305〜BC30)
  BC305年 プトレマイオスがアレクサンドリアを首都と してプトレマイオス朝をおこす
  BC48年 シーザー、アレクサンドリアに上陸
  BC30年 クレオパトラ7世、オクタヴィアヌスの率いるローマ軍に敗れる
  ローマ帝国属州(BC30〜395)
  ビザンツ帝国属州(395〜641)
  イスラム属州(641〜969)ウマイヤ朝、アッバース朝
  ファーティマ朝(969〜1171)
  969年 ファーティマ朝がエジプトを支配し、カイロを新都とする
  アイユーブ朝(1171〜1250)
  1171年 サラディンがエジプトのイスラム教スンニ派王朝のアイユーブ朝を建てる
  1187年 サラディンが十字軍からイェルサレムを奪回
  マムルーク朝(1250〜1517)
  1250年 エジプトにイスラム教スンニー派王朝のマムルーク朝が成立する。首都はカイロ
  オスマン帝国属州(1517〜1882)
  1798年 ナポレオンのエジプト遠征
  1799年 ロゼッタ・ストーンの発見
  1831年 第一次エジプト・トルコ戦争が起きる(〜1833)
  1839年 第二次エジプト・トルコ戦争が起きる(〜1840)
  1869年 スエズ運河の完成
  1875年 イギリスがスエズ運河会社の株式をエジプトから買収する
  イギリス属州(1882〜1922)
  1882年 イギリス、エジプトを保護国化
  エジプト王国(1922〜1953)
  1922年 エジプトがイギリスから独立する
  1948年 第一次中東戦争起こる
  1952年 ナセルを中心とする自由将校団によるエジプト革命が起こる
  1953年 エジプト共和国(1953〜1958年)成立
  1956年 ナセルが大統領に就任。スエズ運河国有化を宣言。
  1956年 イスラエルとエジプトの間でスエズ戦争(第二次中東戦争)が起こる(〜1957)
  1958年 エジプトとシリアが合併し、アラブ連合共和国(1958〜1961年)成立
  1961年 シリアがアラブ連合共和国から分離
  1967年 第三次中東戦争。(シナイ半島をイスラエルに奪われる)
  1970年 ナセル、死去(後任にサダト大統領が就任)
  1971年 国名を、エジプト・アラブ共和国に改称
  1973年 イスラエルとエジプト・シリアの間で第四次中東戦争が起こる(第一次石油危機)
  1978年 キャンプ・デービット合意
  1978年 サダト大統領、ノーベル平和賞受賞
  1979年 イスラエル(ベギン)との間で歴史的なエジプト・イスラエル平和条約締結
  1979年 アラブ連盟から追放される
  1981年 サダト大統領暗殺される(後任にムバラク大統領が就任)
  1982年 シナイ半島がイスラエルから返還される
  1989年 アラブ連盟に復活
  1990年 イラクによるクウェート侵攻
  1991年 湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍に協力する
  1993年 PLOとイスラエルがパレスティナ暫定自治合意協定に調印
  1995年 パレスティナ拡大自治協定調印
  1995年 イスラエル首相ラビンがユダヤ教徒過激派により暗殺される
  1997年 カイロ博物館で観光バスが襲撃され、10人死亡
  1997年 ルクソール(Luxor)でイスラム原理主義者によるテロ事件発生。62名死亡
  1999年 ムバラク大統領4選(任期6年だから2005年までの予定)
  2010年 ジャスミン革命「アラブの春」
  2011年 ムバラク失脚





ハトシェプスト(Hatshepsut)


ハトシェプストは今から3500年前、BC1503年に父トトメス1世の第一王女として生まれた。
 
ハトシェプストが生まれたのは、エジプト第18王朝が版図を拡大しつつある時代だった。

トトメス1世は、優秀な軍人でもあり、幾度となく遠征を行い、沢山の戦利品や捕虜を連れ戻った。
このような父王の姿は、そのままハトシェプストの人生の理想の姿となった。

父トトメス1世を敬愛して成長する少女ハトシェプストの夢は、父のように立派で勇ましい王となること。


しかし当時のエジプトで女性は王位につくことはできなかった。
ファラオは「ホルス神の息子」であり、男性でなくてはならなかったからである。


父トトメス1世は13年の治世のあと、BC1493年に没した。

王家の慣習に基づいて当時10歳のハトシェプストは、3歳年下の弟、
トトメス2世を婿として「王妃」となった。

彼女は、幼い王トトメス2世を励まし、母とともにエジプトの政治を支えた。
実際、トトメス2世の名でだされた指令のほとんどがハトシェプストの指令であった。



カルナック神殿の増築、対外遠征など病弱なトトメス2世の補助という形で
政治にはかなり関与していた。

だがトトメス2世と王妃ハトシェプストの間には、王女は一人いたが、王子はいなかった。
王が21歳で若死にしたあと側室の子トトメス3世が2歳で即位した。

しばらくは王妃ハトシェプストが後見人として幼い王を助けた。
彼女はこの時から「ファラオ」になるための準備をすすめていく。

最初のうちこそ伝統を踏襲し、義理の息子の代理として振るまったハトシェプストだが、
後見人の役割を超える支配力を見せるまでに、さほど時間はかからなかった。


7年後、ハトシェプストは王宮内の反対勢力を懐柔し、王として国政を掌握することを宣言、
遂にファラオの座に上り詰めた。ハトシェプスト31歳の時である。


古代エジプトでも屈指の繁栄を誇った第18王朝時代にあって、ハトシェプストはとりわけ壮大な建築事業に力を注いだ。

シナイ半島からナイル川上流域のヌビア地方まで、数々の神殿を修復し、新たに造営した。

偉大な神アメンを祭った広大なカルナック神殿には、花崗岩のオベリスク(記念碑)を4本建立した。
数あるオベリスクの中でも、屈指の壮麗さを誇るものだった。

ハトシェプストの治世は総じて穏健で、戦争を好まずに平和外交によってエジプトを繁栄させた。
しかし、それは同時にエジプトの国威の低下を招くことになった。

ハトシェプストがファラオに即位してから12年後、エジプトの植民地で叛乱が勃発した。

この時、長く辺境の地で軍隊生活をしていたトトメス3世が呼び戻され、共同統治宣言をし、
ハトシェプストの名で叛乱の鎮圧に乗り出した。

このことで軍隊の将校達の人気が一気にトトメス3世のところへ集り、トトメス3世を擁立する反対勢力が大きくなっていった。

BC1458年、トトメス3世はクーデターをおこし、王座に帰り咲いた。 

ハトシェプストは亡くなった。クーデターで殺されたのか、病死なのかはわからない。
トトメス3世は葬式はファラオにふさわしく行ったと伝えられる。

ハトシェプスト享年45歳であった。