| 国名 | インド共和国 | |
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| 英語 |
Republic of India
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| 首都 | ニューデリー(New Delhi) | |||
| 独立年 | 1947.8(イギリス) | |||
| 民族 | インド・アーリア族72%、トラヴィダ族25% | |||
| 主要言語 | ヒンディー語41%、ベンガル語8% | |||
| 面積 | 328万7590km2 | |||
| 人口 | 12億8193万5911人(2017推計) | |||
| 通貨単位 | インド・ルピー | |||
| 宗教 | ヒンドゥー教80%、イスラム教14%、 | |||
| 主要産業 | 茶、綿製品、鉄鋼、機械、化学 |

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地理
沿岸部やデカン高原は熱帯気候、ガンジス川流域は温帯気候、
パキスタンとの国境地帯は乾燥気候、山岳地帯は高山気候と
変化に富んだ気候を構成。
モンスーンの影響が強く、冬季(11−3月)は北東風が、
また夏季(5−9月)には南西風が卓越する。
この南西モンスーンの影響でインド洋に面した西海岸や
ヒマラヤ山脈には多量の雨がある。
ニューデリー 14℃(1月) 31℃(7月) 年降水量770mm
ムンバイ 25℃(1月) 28℃(7月) 年降水量2180mm
ヒマラヤ山脈、ヒンドスタン平原、インド半島の三大地域で構成される。
ヒマラヤ山脈はインド北部を東西に走る大山脈である。
長さ2400km、幅200−300kmにおよび、世界最高峰のチョモランマ
(エベレスト 標高8848m)、などの高峰が連なる。
ヒマラヤ山脈南部のヒンドスタン平原は、インダス・ガンジスの
二大水系に連なる大沖積平野である。
国土の約33%を占め、人口の約45%が居住するヒンドスタン平原は、
恵まれた肥沃な土壌にイネ、小麦、サトウキビ類の穀倉地帯を形成している。
インド半島は、インド中部に走るビンディヤ山脈以南、東西両ガーツ山脈に
囲まれたデカン高原を形成。
半島の大半を占めるデカン高原は、玄武岩の風化した肥沃な土壌で、
世界的な綿花の産地となっている。
石炭、鉄、マンガン、雲母、ボーキサイト、銅、クロムなどの地下資源に富む。
デカン高原は熱帯、ガンジス川流域は温帯、パキスタン国境地帯は乾燥気候、
と変化に富む気候を構成。
主要農産物は、米、小麦、サトウキビ、綿花、黄麻、タバコ、ラッカセイなど。
農業技術の後進性、農業者の貧困などの悪条件のため、農業の生産性は低い。
畜産は耕作用、乳用の牛、水牛が多い。

タージ・マハル(Taj Mahal)世界遺産
ムガル帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(Shah Jahan)が亡き妻のために、
22年の歳月(1653年完工)をかけて建てた霊廟。
敷地はヤムナ川(Yamuna River)南岸のアグラ(Agra)にあり、およそ南北 560m、
東西 300mの広さをもつ。
外壁はすべて白大理石張りで精細な象眼彫刻が施されており、インド・イスラム
墓廟建築の一つの頂点とされる。
歴史
インダス文明(Indus Valley Civilisation)
BC2500年からBC1500年まで、モヘンジョダロ(Mohenjo-daro)、ハラッパ―(Harappa)でインダス文明が栄えた。
これらはいずれも現在はパキスタン領になっている。
インド領にはアラビア海に面したロータル(Lothal)や最近(1990年代)発掘されたグジャラート(Gujarat)地方の
ドーラビーラ(Dholavira)遺跡などがあり、インダス文明の遺跡はインドとパキスタン両国にまたがる広範囲に及んでいる。
現在、南インドに居住しているドラヴィダ人(Dravidian)は、BC3500年地中海沿岸からインダス川流域に定住し、
インダス文明の担い手であったとされている。
アーリア人の侵入(Aryan Invasion)
BC1500年、黒海沿岸からやってきたアーリア人(Aryan)がインダス川流域に押し寄せ、先住民を支配下においた。
一部のドラヴィダ人はデカン高原に追いやられた。
アーリア人は部族単位に村落に住み、農耕と牧畜を行った。
彼らは、先住民ドラヴィダ人を支配するために、バラモン教(Brahmanism)という新しい宗教を持ち込んだ。
祭祀をつかさどるバラモンは、司祭者にとどまらず、農耕の指導者としてもその権威を高め、
統一をめざす抗争で実力を高めたクシャトリア(王侯・士族)とともに支配者階級を形成した。
一方、農耕や商工業に従事したヴァイシャ(一般庶民)と征服された先住民が大部分を占める
シュードラ(隷属民)が被支配者階級となった。
これが一般的にカースト制度として知られるインド特有の厳格な階級制度である。
このようなカースト制度は、現在では一般に職業集団となっている。
靴屋、洗濯屋、ホテルのボーイ、掃除人、門番など皆それぞれのカーストに属しており、
他のカーストの人との結婚や食事などを避ける傾向がある。
インド共和国憲法は、カースト制を否定しているが、3000年の伝統は今日も厳然として残っている。
このようなインド社会の新しい動きは、時代に対応する思想や宗教の出現を促した。
紀元前6世紀、北インドに登場したのが仏教である。仏教はヒマラヤ山麓にあるコーサラ国(Kosala)
の属国カピラ国の王子ゴータマ・シッダールタ(釈迦)によって開かれた。
彼はこの世は生・老・病・死などの苦しみと悩みに満ちており、いっさいは無常なものであるとして、
すべての欲望を捨て去り、無我の境地に入ることによって、この苦悩から脱すると説いた。
また、人間は社会的差別なく解脱できると説き、厳しいカースト制度を批判した。
仏教は宗教であると同時に思想・学問であった。
釈迦とほぼ同時代、マガダ国(Magadha)の王族のマハービーラ(Mahavira)は、ジャイナ教(Jainism)を創唱した。
不殺生(生きものを傷つけぬこと)の誓戒を遵守するなど徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる宗教である。
仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、国内に深く根を下ろして、およそ2500年に渡り
インド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなお信徒数こそわずかだが無視できない勢力を保っている。
マウリヤ朝(Maurya Empire BC317−BC180年)
BC1000年、アーリア人は、東方のガンジス川流域へ向かって移動・拡散し始めた。
ガンジス川流域は高温多湿に恵まれていたので、農業生産力も増大した。
これによって彼らの社会も変化し、やがて都市国家が形成された。
さらにそれらが連合して王国となり、前6世紀にはいくつかの王国が抗争をくり返すようになった。
その中でも、ガンジス川中流域のコーサラ国(Kosala)とマガタ国(Magadha)が有力となった。
その後、マガタ国がコーサラ国を破ってガンジス川中流域の大部分を支配した。
BC317年、チャンドラグプタ(Chandragupta 在位BC317−BC293年)がマガタ国を倒して北インド全体を統一し、
マウリヤ朝を開いた。首都はパータリプトラ(Pataliputra 現 バトナー)
BC326年、アレキサンダー大王がカイバル峠(Khyber Pass)を越えて西北インドに侵入してきた。
チャンドラグプタは、アレキサンダーのインド侵入を迎え撃ち、その後ギリシア人勢力をインダス川流域から
追い払っている。
マウリヤ朝の最盛期は3代目のアショーカ王(Ashoka the Great 在位BC268−BC232年)の時代で、
南端を除くインド全土を統一した。彼は仏教を厚く信仰し、仏教に基づく徳治政治を行った。
また、全国に石柱碑や磨崖碑(まがいひ・崖に刻んだ碑文)を作り、仏典結集(仏典の編纂)を行った。
この時代にスリランカにも仏教が伝わった。 マウリヤ朝はアショーカ王が死ぬと急速に衰えた。
北インドはギリシア人(バクトリア Bactria)やイラン人の侵入が相次いだが、1世紀にアフガニスタンに
クシャーナ朝(Kushan Empire 30−375年)がおこり西北インドに侵入した。
首都はプルシャプラ(Purushapura 現在のペシャワール)
クシャーナ朝はカニシカ王(Kanishka I 在位130−170年)の時が最盛期で、中央アジアからガンジス川流域を支配した。
カニシカ王も厚く仏教を信じ、仏教は大いに栄えた。
このころヘレニズム文化の影響を受けて仏像が作られるようになり、ガンダーラ美術と呼ばれる仏教美術が開花した。
また、従来の個人救済と異なって、万人の救済を目的とした大乗仏教がうまれた。
これらは中央アジアを経て、中国、朝鮮、日本に伝えられた。
グプタ朝(Gupta Empire 320−550年)
3世紀に入るとクシャーナ朝は衰え、北インドは分裂した。4世紀前半、チャンドラグプタ1世
(Chandragupta I 在位320−335年)がこれを統一してグプタ朝を開いた。
首都はパータリプトラ(Pataliputra 現 バトナー)
グプタ朝は、次のチャンドラグプタ2世(Chandragupta II 在位376−415年)の時が最盛期で、
この頃中国から法顕(337−422年)が訪れている。
仏教美術は頂点に達し、グプタ様式という純インド風の美術が完成した。
アジャンター石窟寺院(Ajanta Caves)の壁画はその代表例である。
インドの伝統的な宗教であるバラモン教は長期間にわたり、さまざまな民間信仰や仏教などと混交してきたが、
グプタ朝時代に庶民の生活に密着したヒンドゥー教へと発展していった。
ヒンドゥー教は八百万(やおよろず)の神々からなる多神教で、その主要な神はバラモン教から受け継いだ
創造神ブラフマー、維持神ビシュヌ、破壊神シヴァの三神である。
輪廻からの解脱を説く仏教は、思索的、学問的で民衆との結びつきが弱く、宇宙万物の輪廻を説くヒンドゥー教
の下に吸収され、体系化されていった。
かくして、ヒンドゥー教がインド社会最大の宗教となった。現在のインドの宗教分布は、ヒンドゥー教が
人口の80%を越える信者(10億人)をもち、カースト制度とともにインド社会全体に多大な影響を与えている。
グプタ朝はインド古典文化の黄金時代で、ヒンドゥー教の経典マハーバーラタやラーマーヤナも
この頃に作られた。医学や数学、暦の発達も著しく、10進法やゼロの概念はイスラム世界に伝えられ、
自然科学発展の基礎となった。
グプタ朝は、5世紀後半から中央アジアの遊牧民エフタル(Hephthalites)の侵入をうけ急速に衰退した。
グプタ朝の崩壊後、北インドは分裂し地方政権が成立した。
606年、ハルシャ・ヴァルダナ(Harsha Vardhana 在位606−647年)が北インドを統一し
ヴァルダナ朝(Vardhana 606−648年)を建国した。
ヴァルダナ朝の時代に、唐の玄奘(602−664年)が仏教を学びにナーランダー僧院(Nalanda)を訪れた。
ハルシャ・ヴァルダナの死後、国内は分裂し数世紀にわたって地方政権が乱立した。
やがてイスラム教徒の侵入が始まった。
イスラム教徒のインド侵入(Muslims Invasion)
7世紀ムハンマドによってアラビア半島で興ったイスラム教徒とその文化は、やがて西はイベリア半島から
東は中央アジアにまで伝播して、一つの大きな文明世界を創りあげていた。
10世紀後半、トルコ系イスラム王朝のガズナ朝(Ghaznavid Empire 955−1187年)がアフガニスタンに成立した。
第7代目スルタンのマフムード(Mahmud 在位997−1030年)は、ガンジス川流域に前後17回にわたって出兵した。
しかしマフムードはインドの財宝や富の略奪が目的で、北インドに留まることはなかった。
続いてゴール朝(Ghurid dynasty 1117−1215年)第6代目スルタンのムハンマド(Muhammad 1157−1202年)は、
1175年に北インド侵攻を開始、1202年にはベンガルまで進出した。
この過程で、ヒンドゥー教・仏教の寺院は破壊され、信者が迫害された。
その結果、民衆とは遊離していた仏教の僧侶たちはインドを離れ、ネパールなどに逃れた。
そのため仏教はインドに生まれた宗教であったが、インドでは衰退することとなり、むしろ世界宗教として
インド以外の地に広がっていくこととなる。
1206年、ゴール朝第7代目スルタン・ムハンマドの配下であった将軍アイバク(Aibak)は、ゴール朝を見限って
デリー(現 ニューデリー)に奴隷王朝(Slave Dynasty 1206−1290年)を建国した。
歴代君主の多くが奴隷やその子孫であったためこの名で呼ばれた。
その後、インドでは300年にわたってデリーを都とするイスラム王朝が興亡を繰り広げた。
この時代をデリー・スルタン朝という。この王朝には、奴隷王朝、ハルジー朝(Khalji)、トゥグルク朝(Tughluq)、
サイイド朝(Sayyid)、ロディー朝(Lodi)の5王朝がある。
ムガル帝国(Mughal Empire 1526−1858年)
1526年、モンゴルの血をひくバーブル(Babur)が北インドへ侵攻し、ロディー朝を倒してムガル帝国を建国した。
首都はデリー。ムガルとは、モンゴルのことである。
ムガル帝国は、第3代皇帝アクバル(Akbar 在位1556−1605年)の時代に、アフガニスタンから北インドにかけての
広大な地域を支配した。彼はヒンドゥー教徒の娘と結婚し、イスラムとヒンドゥーの融和を図った。
この結果、社会は安定し、ヨーロッパ諸国との交易も活発に行われた。
インドに統一王朝が誕生したのはマウリヤ朝(アショーカ王)以来で、ムガル帝国は300年にわたってインドを支配した。
第5代皇帝のシャー・ジャハーン(Shah Jahan 在位1628−1658)の時代に帝国は最盛期を迎え、
支配領域はデカン高原方面に及んだ。首都のアグラ(Agra)には亡き妻ムムターズ・マハル(Mumtaz Mahal)の霊廟
タージ・マハル(Taj Mahal)を22年かけて建設した。
イギリスの植民地政策(British colonial policy)
ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブ(Aurangzeb 在位1658−1707年)は熱心なイスラム信徒であったため、
ヒンドゥー教徒のインド人を弾圧した。これ以降、ムガル政権とインド人との間に対立が生じた。
対立の混乱に乗じて、イギリスの植民地侵略が始まった。
ムガル帝国時代、アジアとの貿易を求めてヨーロッパの国々が、南インドを中心に進出し、貿易会社を設立していた。
ヨーロッパ諸国がインドを目指した主な目的は、貴重な香辛料や商品を直接手に入れられることであった。
胡椒、クローブ、シナモンなどの香辛料は、ヨーロッパ市場で非常に高価で取引されており、香辛料貿易は大きな
経済的利益を生むものだった。
また、インドは金や宝石、綿織物なども豊富に生産しており、ヨーロッパにとって魅力的な貿易相手でもあった。
17世紀に入ると、エリザベス1世の勅許を受けて設立されたイギリス東インド会社が、インドでの貿易活動を開始する。
同社は当初、貿易の独占権を持ち、香辛料や絹、茶などを輸入していたが、次第に軍事力を使ってインド国内での
支配を強化していった。
1757年以降、イギリス東インド会社はインド全土における覇権を確立した。この頃より、事実上イギリスによる
インドの植民地支配が始まったのである。

イギリスによるインドの植民地化は、インド社会に深刻な影響を及ぼした。まず、インドの伝統的な産業は
イギリスの安価な工業製品によって打撃を受け、特に綿織物産業は壊滅的な状況に陥った。さらに、インドの農業は
イギリスに有利な形で再編され、地主階級が強化される一方で、農民たちは重税に苦しむことになった
1857年、インドの資源がイギリスに搾取されることに反感を抱いたインド人が反乱を起こした。
反乱軍は、デリーを占領し、ムガル皇帝を擁立した。(セポイの反乱 Indian Rebellion of 1857)
反乱はインド各地に広がり、地主、農民、職人などが加わり、民族的な大反乱となった。しかし、反乱軍は、
具体的な政策を打ち出すことができず、指導者の間に分裂が生じ、本国から派遣されたイギリス軍により鎮圧された。
インド大反乱に衝撃を受けたイギリスはムガル皇帝を廃し、東インド会社を解散させ、本国政府が直接インドを
支配する体制をとった。1877年、ヴィクトリア女王がインド皇帝となり、イギリス領インド帝国が成立した。
その結果、インドの近代化は遅れ、言語の統一も進まなかった。
1914年、第一次世界大戦が勃発し、多くのインド人兵士がイギリス軍として戦場に送られた。
インド人たちは「イギリスのために戦えば独立の機会を得られるかもしれない」と考え、戦場へ向かった。
そして多くの戦死者を出しながら、インドはイギリスの勝利に貢献した。
たが、戦争が終わってもイギリスはインドを独立させることはなかった。
このことが、インドの人々の怒りをさらに高め、独立運動の勢いを加速させる要因となった。

ガンディーの主導による独立運動(Independence movement by Gandhi)
独立運動を主導したのは、当時弁護士であったマハトマ・ガンディー(Mohandas Gandhi 1869−1948)だった。
1919年4月、ガンディーは全国にボイコット(休業)を呼びかけ、断食など非暴力的な行動で抗議するように提唱した。
これが有名なガンディーの非暴力・不服従運動の始まりであった。
ガンディーの登場は、これまで知識人主導だった独立運動を、大衆運動に発展させ、全インドに広がっていった。
1941年、太平洋戦争が始まると、日本軍はシンガポール、ビルマを占領。さらにインドに迫ってくる中、
アメリカと中国は、イギリスに対し、インドに全面的に戦争に協力させるため、インドの独立を認めるよう迫った。
インドの独立問題が国際問題化したため、イギリスはインドに対し、戦争に協力することを条件に、戦後インドを
イギリス連邦内自治領として認めることを約束する。
だが、ガンディーらはイギリスへの全面的な非協力を訴え、これを拒否。そのためガンディーは投獄されてしまう。
果たして1944年、インパール作戦によって日本軍がインドに侵攻してきた。
ガンディーらも日本軍に期待を寄せていたが、1945年8月、日本の敗戦によって太平洋戦争は幕を閉じた。
イギリスは戦勝国となったが、日本やドイツとの戦いによって国力は衰退し、独立運動が根強く続くインドを
支配し続けることはもはや困難であった。1947年7月、イギリス議会は「インド独立法」を可決した。
インドの独立(Indian Independence)
1947年8月15日、ネルー(Nehru)がヒンドゥー教徒多数派地域を「インド連邦」として独立を宣言、
イギリス国王を元首とするイギリス連邦王国であるインド連邦が成立した。(1950年に共和国制に移行)
インドの長年の夢であった独立は達成されたが、インド連邦とイスラム教徒の多い東西パキスタンとの
二国家に分離しての独立であった。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立がこの分断を生んだのだ。
ヒンドゥー教徒にしろ、イスラム教徒にしろ、同じインド人であり、国を分け合おうなどとは、決して望んで
いなかったに違いない。
ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和、それはインド独立の父マハトマ・ガンディーの信念であった。
そのガンディーは、インド独立の翌年、同じヒンドゥー教徒の急進派の青年によって暗殺されてしまった。
独立を達成した両国は、カシミール問題やベンガルの独立をめぐって、3回にわたって激しい戦争
(印パ戦争)を行った。
東西パキスタンの不自然な分離と西パキスタンによる東パキスタン抑圧の問題から、1971年バングラデシュ
(ベンガル人の国の意)の独立が宣せられ、インド亜大陸は一種の分裂国家の様相を呈するにいたった。
イギリスの長きに渡った統治は、現在にいたるも、インド亜大陸の国々に深い傷痕を残しているのである。
| インド史 | ||
| BC2500年 | インダス川流域にインダス文明始まる | |
| BC1500年 | インド・アーリア人が北西インドのパンジャプ地方へ移住。 | |
| BC1000年 | インド・アーリア人がガンジス川流域へ定住 | |
| BC317年 | インド最初の統一国家であるマウリア朝(BC317−BC180年)が成立 | |
| BC268年 | マウリア朝でアショーカ王が即位 | |
| 30年 | イラン系のクシャーナ族がインド西北にクシャーナ朝(30−375年)を建国 | |
| 320年 | チャンドラグプタ1世が、北インドの統一王朝であるグプタ朝(320−550年)を創始 | |
| 376年 | チャンドラグプタ2世が即位し、グプタ朝が最盛期に入る | |
| 399年 | 法顕が仏典の収集のためにインドへ渡る(−412) | |
| 606年 | ハルシャ・ヴァルダナが北インドにヴァルダナ朝(606−647年)を建国 | |
| 629年 | 唐の僧である玄奘がインド旅行に出発する | |
| 671年 | 義浄がインド旅行に出発する | |
| 1206年 | アイバクがインドにイスラム王朝の奴隷王朝(1206−1290年)を建てる | |
| 1290年 | 奴隷王朝が倒れ、ハルジー朝(1290−1320年)が成立する | |
| 1320年 | ハルジー朝に代わってトゥグルク朝(1320−1414年)が成立する | |
| 1405年 | 明の宦官鄭和による7回にわたるインド洋方面への遠征が始まる(−1433) | |
| 1414年 | トゥグルク朝が滅び、サイイド朝(1414−1451年)が成立する | |
| 1451年 | サイイド朝が滅び、ローディー朝(1451−1526年)が成立する | |
| 1492年 | ジェノヴァ生まれのコロンブスが西インド諸島に到達する | |
| 1498年 | ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカット(現 コジコード)に到達する | |
| 1510年 | ポルトガルがインドのゴアを占領する | |
| 1526年 | バーブルがローディー朝を倒し(パーニーパットの戦い)、インドにムガル帝国(1526−1858年)を建国 | |
| 1542年 | イエズス会のフランシスコ・ザビエルがインドのゴアを訪れる | |
| 1556年 | ムガル帝国でアクバルが皇帝に即位する(−1605) | |
| 1600年 | イギリスのエリザベス1世が東インド会社を設立する | |
| 1602年 | オランダで東インド会社が設立される | |
| 1604年 | フランスで東インド会社が設立される | |
| 1621年 | オランダの西インド会社が特許権を取得する | |
| 1623年 | イギリス、アンボイナ事件でオランダに敗北 | |
| 1628年 | ムガル帝国でシャー・ジャハーンが即位する | |
| 1632年 | ムガル帝国のシャー・ジャハーンがタージ・マハルの建設に着手する(−1653) | |
| 1648年 | ムガル帝国がアグラからデリーに遷都する | |
| 1658年 | ムガル帝国でアウラングゼーブが即位する | |
| 1664年 | コルベールによってフランスの東インド会社が再建される | |
| 1724年 | ニザーム王国がムガル帝国から独立する | |
| 1744年 | イギリス・フランス間の第一次カーナティック戦争が起こる(−1748) | |
| 1750年 | イギリス・フランス間の第二次カーナティック戦争が起こる(−1754) | |
| 1757年 | プラッシーの戦いでイギリスがフランス・ベンガル連合軍を破る(インドの植民地化) | |
| 1758年 | イギリス・フランス間の第三次カーナティック戦争が起こる(−1761) | |
| 1758年 | クライヴが初代ベンガル知事になる(−1760) | |
| 1767年 | イギリスと南インドのマイソール王国の間で第一次マイソール戦争が起きる(−1769) | |
| 1775年 | イギリスとマラーター同盟の間で第一次マラーター戦争が起きる(−1782) | |
| 1780年 | イギリスと南インドのマイソール王国の間で第二次マイソール戦争が起きる(−1784) | |
| 1790年 | イギリスと南インドのマイソール王国の間で第三次マイソール戦争が起きる(−1792) | |
| 1799年 | イギリスと南インドのマイソール王国の間で第四次マイソール戦争が起きる | |
| 1803年 | イギリスとマラーター同盟の間で第二次マラーター戦争が起きる(−1805) | |
| 1817年 | イギリスとマラーター同盟の間で第三次マラーター戦争が起きる(−1818) | |
| 1845年 | イギリスとシク教徒の間で第一次シク戦争が起こる(−1846) | |
| 1848年 | イギリスとシク教徒の間で第二次シク戦争が起こる(−1849) | |
| 1857年 | ムガル帝国でセポイの反乱が起きる(−1859) | |
| 1858年 | ムガル帝国が滅亡する | |
| 1877年 | イギリスがインド帝国(1877−1947年)を建国し、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼任する | |
| 1885年 | 第一回インド国民会議(ボンベイ)が開催される | |
| 1905年 | ベンガル分割令が出される | |
| 1906年 | インド国民会議でカルカッタ大会4綱領が採択される | |
| 1906年 | 全インド・ムスリム連盟が結成される | |
| 1911年 | ベンガル分割令撤回 | |
| 1919年 | 第一次非暴力・不服従運動(ガンディーが指導した反英抵抗運動) | |
| 1925年 | インド共産党結成 | |
| 1929年 | 第二次非暴力・不服従運動 | |
| 1930年 | 英印円卓会議開催(失敗) | |
| 1935年 | 改正インド統治法 | |
| 1937年 | インド連邦とビルマとの分離 | |
| 1947年 | 英国領より独立。インド連邦(1947−1950年)成立。初代首相ネルー | |
| 1947年 | 第一次インド・パキスタン戦争 | |
| 1948年 | ヒンドゥー教徒の青年によってガンディー暗殺 | |
| 1950年 | インド憲法発布。インド共和国成立 | |
| 1954年 | コロンボ会議(ネルー・周恩来会談)平和五原則発表 | |
| 1955年 | アジア・アフリカ会議(バンドン会議) | |
| 1959年 | ダライ・ラマ14世、インドに亡命 | |
| 1965年 | 第二次インド・パキスタン戦争 | |
| 1966年 | インディラ・ガンディー、インド首相に就任 | |
| 1971年 | 第三次インド・パキスタン戦争(東パキスタンがバングラデシュとして独立) | |
| 1974年 | インドの核保有 | |
| 1984年 | インディラ・ガンディー暗殺 | |
| 1984年 | ラジーブ・ガンディー、インド首相に就任 | |
| 1991年 | ラジーブ・ガンディー暗殺 | |
| 1998年 | インド人民党(BJP)を中心とする連立政権が成立 | |
| 2004年 | コングレス党を第一党とする連立政権が成立 | |
| 2009年 | コングレス党を第一党とする連立政権(第2次マンモハン・シン政権)が成立 | |
| 2014年 | インド人民党(BJP)政権が成立 |

カジュラホ(Khajuraho)世界遺産
カジュラホは、チャンデーラ朝(Chandelas 831−1315年)が築いた寺院都市。
最盛期の約100年間でヒンドゥー教とジャイナ教の寺院が85も建てられた。
現在は、およそ25の寺院が残っており、貴重な遺構が世界遺産に登録されている。
特筆すべきは寺院の外壁を埋め尽くすように歓喜の像が刻まれ、見るものを圧倒する。
どれも見事なまでに精巧で、芸術的にも完成度が高い。
人類の歓びは神々の歓び――その生命感あふれる小宇宙は、すさまじい煩悩肯定のなかに
救いのあることを、まざまざと見せつけている。
アクセスは、ニューデリーからの飛行機が毎日1便、所要約1時間30分。

ガンジス川(Ganges River)
ヒマラヤ山脈に源流があり、全長は2500km以上。インド北部を流れるガンジス川は、
ヒンドゥー教で「聖なる河」とされる。そのため多くのヒンドゥー教徒は、一生に一度は
ガンジス川で沐浴し、すべての罪が洗い流されることを夢見ている。
特に、聖地バラナシ(Varanasi)は、毎日多くの巡礼者が集まる。この町のガンジス川沿いには、
ガート(Ghats)と呼ばれる沐浴のための通路や階段が並び、早朝から熱心な信者が沐浴している。
夜はダシャーシュワメード(Dashashwamedh Ghat)というガートでプージャ(Puja)と呼ばれる
儀式が行われ、辺り一帯は幻想的な雰囲気に包まれる。

ジャイナ教徒(Jainas)
ジャイナ教は、人生を苦と考え、業(ごう)の束縛より脱し、
悟りに達するために禁欲・苦行を説いている。
とりわけ不殺生の戒めを厳守するため、修業者は虫を吸い込んだり、
踏んだりしないよう、口を布で覆い、裸足で歩く。
在家信者のほとんどは殺生の機会が少ない商人たちであった。
また仏教と同じく、カースト制(階級制度)を否定している。

カシミール問題(Kashmir Conflict)
1947年8月、インドとパキスタンが、イギリスから独立すると、
両国の国境付近にあるカシミール地方が問題となった。
カシミール地方は、カシミアヤギが生息する高原地帯で、
カシミアセーターなど高級毛織物の産地でもある。
この地方は、インド、パキスタンの二か国による共同統治を
目指すことになった。
だがカシミール地方の住民の77%は、イスラム教徒だった。
イスラム教徒の国として独立したパキスタンとしては、
カシミールが自国に加わるのが当然と考えた。
さらにパキスタンを流れるインダス川は、本流も支流も
すべて水源はカシミール地方にあった。
パキスタンにとって、カシミールが自国の領土にならないと
水源の確保が難しくなるという事情もあった。
1947年10月、パキスタンのイスラム教徒の軍がカシミールに侵攻。
対して、インドもヒンドゥー軍を派遣、第一次印パ戦争となった。
この戦争は、国連の調停で1949年に停戦となった。
1959年3月、チベット仏教の指導者ダライ・ラマがインドへ亡命。
ダライ・ラマをかくまったインドに対して、中国は激怒した。
1962年10月、中国とインドとの間で、中印戦争が勃発。
二か月間続いたこの戦争は、中国が圧勝。
中国は、インドが自国領と主張するカシミール地方の一部を占領した。
すると今度は、中国封じ込めのため、アメリカが介入し、
インドに軍事援助をはじめた。
敵国インドにアメリカが肩入れするのを見たパキスタンは、
インドの敵である中国と同盟を結んだ。
こうして四つ巴となったカシミールをめぐる紛争は、
その後も継続され、今もなおその戦火は絶えることがない。