国名 | イラン・イスラム共和国 | |||
英語 | Islamic Republic of Iran | |||
首都 | テヘラン | |||
独立年 | 1979年(イラン・イスラム共和国) | |||
民族 | ペルシア人 | |||
その他 | (他にアゼリ系トルコ人、クルド人、アラブ人等) | |||
主要言語 | ペルシア語、トルコ語、クルド語 | |||
面積 | 164万8200km2 | |||
人口 | 7677万9000(2013推計) | |||
通貨単位 | イラン・リヤル | |||
宗教 | イスラム教(国教 シーア派) | |||
その他 | (他にキリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教) | |||
主要産業 | 農業、遊牧、絨毯生産 |
地理
イランは、国土のほとんどがイラン高原上にあり「砂漠と高原の国」である。
温帯冬雨気候のカスピ海沿岸と、湿潤なペルシア湾岸地帯を除いて、夏が長く高温で、
極端に乾燥した大陸性気候を示し、北風が卓越する。
農業と遊牧と絨毯生産が伝統的な主産業であるが、1908年に南西部で石油が発見されて、
国の産業構造を変えた。
1953年以降、数次の経済開発計画を経て、工業化が進められている。
国民はペルシア人が約 35%を占めるが、トルコ系やアラブ系の混血民族である。
公用語はペルシア語であるが、アラビア語の単語、文章構造を取り入れ、アラビア文字を採用している。
イスラム教が国教。クルド人のほか、多種の少数民族が居住している。
歴史
BC1000年、インド・ヨーロッパ語族のイラン人がイラン高原に定住。
BC710年、イラン系メディア人がイラン高原にメディア王国(BC710〜BC550年)を建国。
BC550年、キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシア(BC550〜BC330年)を建国。
アケメネス朝は、新バビロニア、エジプト、小アジアのリディアを征服し、
オリエント世界を統一する大帝国となった。
BC330年、アレクサンドロスの遠征により、アケメネス朝は滅亡。
その後、イランはセレウコス朝シリア(BC312〜BC64年)の支配を受けた。
BC247年、イラン系遊牧民アルサケスが、セレウコス朝から独立してパルティア王国(BC247〜226年)を建国。
BC144年、パルティアは、セレウコス朝を攻めてイラン高原を制圧。
その後BC64年、セレウコス朝は、共和政ローマのポンペイウスに敗北し滅亡。
226年、パルティア王国は、ササン朝ペルシア(226年〜651年)に滅ぼされた。
ササン朝は、西アジアの広大な地域を領有し、ゾロアスター教を国教として神権に基づく専政政治が行われ、
独特の文化が栄えた。
その後ササン朝は、642年のニハーヴァンドの戦いでイスラム帝国(正統カリフ)に敗れ、651年に滅亡。
以後イランはイスラムの支配下におかれる一方で、イスラム教シーア派信仰が広まった。
1502年、サファヴィー朝(1502〜1736年)が興り、シーア派最大派閥である12イマーム派を国教とした。
サファヴィー朝は、アッバース1世(在位1588〜1629年)の時代に最盛期を迎えた。
中国、ヨーロッパを結ぶ交易網を築き、ペルシア絨毯、絹織物の交易を奨励、
首都エスファハンはイスラム文化圏の中心として繁栄した。
その後アフシャール朝(1736〜1796年)、ガージャール朝(1779〜1925年)と転変し、
1925年、パフラヴィー朝(1925〜1979年)が成立。
1941年即位したパーレビは1963年から土地改革、選挙法改正、識字運動などの「白色革命」を実施。
さらに1973年以後高度成長に力点を置く工業化政策を遂行。
しかしイスラム文化への回帰、政治的自由を求めるホメイニらの反国王運動が高まり、イラン革命に発展した。
1979年2月パフラヴィー朝は崩壊、ホメイニを首班とするイラン・イスラム共和国が成立。
ホメイニは、イスラム的価値観に立脚した政教一致の国家体制を樹立。
1980年、シャトル・アラブ川の領有をめぐりイラン・イラク戦争(1980〜1988年)が勃発。
イラク空軍の本格的な攻撃を契機に全面戦争となったが、1988年国連安保理の調停により停戦した。
死傷者は約100万人以上といわれる。
1989年6月ホメイニが死去、代わってハメネイが最高指導者に就任した。
イラン史 | ||
BC1000年 | イラン高原にペルシア人、メディア人が定住 | |
BC710年 | イラン高原にメディア人がメディア王国を建国 | |
BC612年 | 新バビロニアとメディアの攻撃を受け、アッシリアが滅びる | |
BC550年 | アケメネス朝ペルシア(BC550〜BC330年)成立 | |
BC525年 | アケメネス朝ペルシアのカンビセス2世、エジプトを征服、オリエントの統一成る | |
BC522年 | アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が即位する | |
BC500年 | ペルシア戦争始まる | |
BC490年 | マラトンの戦いでアテネ軍がペルシア軍を破る | |
BC480年 | サラミスの海戦でテミストクレス率いるアテネ海軍がペルシア海軍を破る | |
BC479年 | プラタイアの戦いでアテネ・スパルタ連合軍がペルシア軍を破る | |
BC404年 | エジプト第28王朝成立、ペルシアより自立 | |
BC341年 | ペルシアのエジプト再征服 | |
BC333年 | イッソスの戦いでマケドニアのアレクサンドロス大王がペルシアのダレイオス3世を破る | |
BC330年 | アレクサンドロス大王の東方遠征により、アケメネス朝ペルシアが滅亡 | |
BC247年 | カスピ海周辺でセレウコス朝から独立したパルティア(BC247〜226年)が成立する | |
226年 | パルティア滅び、アルデシール1世がイランにササン朝ペルシア(226〜651年)を建国する | |
230年 | ゾロアスター教、ペルシアの国教となる | |
260年 | エデッサの戦いでローマのバレリアヌス、ペルシアに敗れ捕虜となる | |
280年 | ローマ、ペルシアと和す | |
296年 | ローマ、ペルシアと戦いメソポタミアを得る | |
359年 | ローマ、ペルシアと交戦 | |
363年 | ユリアヌス帝、ペルシア遠征中に戦死 | |
376年 | ローマ、ペルシアと和す。メソポタミアが再びペルシア領となる | |
399年 | ペルシア、キリスト教徒を迫害 | |
410年 | ササン朝ペルシア、キリスト教の信仰を一時承認 | |
531年 | ホスロー1世がササン朝ペルシアの王に即位する | |
540年 | ササン朝ペルシアのホスロー1世がアンティオキアを占領 | |
567年 | エフタル族の国家が、突厥とササン朝ペルシアの挟撃によって滅びる | |
622年 | ヘラクレイオス帝がペルシア遠征を開始する | |
642年 | ニハーヴァンドの戦いでイスラム軍がササン朝ペルシア軍を破る | |
651年 | ササン朝ペルシア滅亡。このころコーランが今の形にまとめられる | |
867年 | イランにサッファール朝(867〜1003年)興る | |
875年 | 中央アジアで、イラン系イスラム王朝であるサーマーン朝(875〜999年)が成立する | |
1256年 | フラグがイランにイル・ハン国(1256〜1353年)を建てる | |
1378年 | イランにカラ・コユンル朝(黒羊朝)(1378〜1467年)興る | |
1378年 | イランにアク・コユンル朝(白羊朝)(1378〜1478年)興る | |
1411年 | イランのカラ・コユンル朝(黒羊朝)がイラクのジャラーイル朝を滅ぼす | |
1469年 | イランのアク・コユンル朝(白羊朝)がカラ・コユンル朝を併合 | |
1502年 | イスマーイール1世がイランにサファヴィー朝(1502〜1736年)を建てる | |
1548年 | スレイマン1世イランに遠征、バン(東アナトリア)を征服 | |
1554年 | スレイマン1世、イランに遠征 | |
1559年 | スレイマン1世の王子バヤジトとセリムの王位継承戦争、バヤジトがイランへ亡命 | |
1724年 | オスマン帝国とロシアがイラン分割のイスタンブール条約締結。 | |
1736年 | イランでサファヴィー朝が倒れ、アフシャール朝(1736〜1796年)が成立する | |
1741年 | ブー・サイード家のアフマドがイランの勢力を駆逐してオマーンの政権を奪取 | |
1746年 | オスマン帝国とイラン和約 | |
1747年 | イランのナーディル・シャー暗殺される | |
1763年 | イランのブシェール港がイギリスの経済活動の拠点となる | |
1779年 | イランにガージャール朝(1779〜1925年)が成立する | |
1796年 | ガージャール朝がアフシャール朝、ザンド朝を滅ぼし、イランを統一 | |
1804年 | 第一次イラン・ロシア戦争始まる(〜1813) | |
1826年 | 第二次イラン・ロシア戦争(〜1828)。オスマン帝国がイエニチェリ軍団廃止 | |
1828年 | ガージャール朝イラン、ロシアに東アルメニア、コーカサスを割譲。ロシア・トルコ戦争(〜1829) | |
1857年 | イギリス・イラン講和条約締結 | |
1872年 | イギリス人ロイターにイランの鉄道敷設、鉱業利権を譲渡 | |
1891年 | イランでタバコ・ボイコット運動が行われる | |
1905年 | イラン立憲革命(〜1911) | |
1909年 | アングロ・ペルシアン石油会社成立。イランで国民軍、テヘラン占領 | |
1921年 | イランでレザー・シャーのクーデター。 | |
1925年 | レザー・ハーンがパフラヴィー朝(1925〜1979年)建国 | |
1935年 | ペルシアからイランと改称 | |
1937年 | イラン、トルコ、アフガニスタン、イラクがサーダバード条約(不可侵友好条約)締結(7月) | |
1941年 | イランでレザー・シャー退位、息子モハンマド・レザー・パーレビ継承(9月) | |
1951年 | モハンマド・モサデク、石油国有化 | |
1953年 | パフレヴィー2世のクーデターでモサデク失脚(白色革命) | |
1979年 | シーア派指導者ホメイニ師によるイラン革命が起き、イラン・イスラム共和国が成立する | |
1979年 | 第二次石油危機 | |
1980年 | イラン・イラク戦争が起こる(〜1988) | |
1988年 | イラン・イラク戦争が停戦する | |
1989年 | イラン、ホメイニ師没。ハメネイ師が後継者に | |
1997年 | イラン、ビルジャンドで大地震、改革派のハタミ、大統領に就任 |
アメリカ大使館人質事件 (Iran hostage crisis)
1979年11月4日、ホメイニによるイラン革命が起きた後、革命派の学生がテヘランのアメリカ大使館を占拠し、
外交職員52名を人質とした。
革命派の学生は、アメリカに亡命したパーレビ国王の引き渡しを要求したが、アメリカ側はそれを拒否し、
翌年救出を試みるが失敗に終わった。
1980年7月27日、パーレビ国王が死去。1981年1月20日、人質は444日ぶりに解放された。
イスカンダル
ペルシア王ダーラーブ(Darius I)は、マケドニア王の娘ナーヒード(Nahid)を王妃として迎えた。
かくて、この二つの国は血縁関係を結ぶことになった。
しかし、王妃には不快な口臭があったため、離縁されてマケドニアに帰された。
そのとき王妃ナーヒードは、妊娠していたが、父の宮殿でひそかに子供を生み、
イスカンダル(Iskandar)という名前をつけた。
王妃の口臭がイスカンダルス(iskandarus)という香草で完治したので、それにちなんだ名前であった。
ペルシア王ダーラーブは新しい妃を迎え、一子ダーラー(Darius III)をもうけた。
イスカンダルはギリシアの哲人アリストテレスを師として成長し、20歳にして父の跡を継いで王となった。
のちにペルシアに攻め入ったイスカンダルは異母弟ダーラー王の死を看取ることになった。
(フェルドウスィー「王の書」)
(Alexander before the Dead Body of Darius III, the Last King of Persia)
フェルドウスィー(Ferdowsi 934〜1025年)
ペルシア詩人。代表作は、ペルシア歴代の王や英雄を詠った叙事詩「シャー・ナーメ」(王の書)
アラブに征服されたペルシア民族の精神を高揚させるために作ったといわれる。